神戸学校

神戸学校はフェリシモが主催する「神戸発 生活デザイン学校」です。

  • 内海 重典さん(演出家/宝塚歌劇団名誉理事)紫 ともさん(元宝塚スター)
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「宝塚に生きて半世紀 ~創造とチャレンジ精神~」



<第1部>

記念すべき神戸学校第1回目。「お客さまと同じ目線で話をしたい」と演壇から降りられて、お客さまと内海さんと同じテーブルに座ってお話が始まりました。


内海さん:
私が昭和14年から宝塚の仕事に携わって55~56年になります。私の宝塚での思い出と宝塚の歴史について、紫 ともさんの歌とともに紹介していきたいと思います。歌付きの講演会ということでどうぞお楽しみください。

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宝塚誕生と小林 一三先生

宝塚歌劇団の元祖「宝塚唱歌隊」は大正2年に誕生。その育ての親ともいえる小林 一三先生は慶応義塾大学を卒業後、有馬箕面電鉄(今の阪急宝塚線)に勤務されていました。当時、その路線は大阪から箕面、宝塚までしかつながっておらず、利用者を増やすために終点の宝塚にレクリエーション施設としてプールが作られました。しかしそのころは、法例で男女が一緒にプールで泳ぐことが禁止されていて、お客さまが来ない。集客のアイデアを探していたところ大阪三越で三越少年音楽隊ができて評判になっていた。早速、はやらないプールを客席にして少女たちの合唱隊を作りました。

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最初はなかなか少女が集まりませんでしたが、徐々によい評判が浸透して、生徒数も増え、小林先生が東京時代に知り合った作家や作曲家を講師として連れて来て、童話劇でもやってみようと『胡蝶の舞』や『桃太郎』などを演じるようになりました。そのころは、宝塚温泉のオマケとして舞台を見るのは無料でした。
この少女歌劇がだんだん評判となり、大正7年には東京公演をするまでに成長しました。宝塚以外では、帝劇や毎日ホール、神戸では聚楽館といった一流の劇場にしか出演しなかったのがかえって評判を呼ぶことになりました。
歌劇団ができて10年目、大正13年には日本初4000人収容の大劇場が完成しました。阪神間の山奥の田舎に立派な劇場を建てたということで、回りは非常に驚かれたようです。
このような立派な劇場では童話劇だけではだめだということで、パリで見たレビューを取り入れようと大正15年に岸田 辰弥氏をパリに留学させ、誕生したのが昭和2年の『モン・パリ』です。これが日本初のレビューであり、シャンソンです。

~モン・パリのテープ~

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私と宝塚

20歳のときに大阪少女歌劇(OSK)に脚本を投稿し、採用されたのがきっかけでこの世界に入り、昭和14年に宝塚に入団、編集部から始めました。「制作に来ないか」と白井 鐵造先生にお誘いを受け、初めからやりたいことだったので大変喜びました。2~3日して白井先生に呼ばれ「君は朝の出勤が遅いらしいね」と言われ「内海君は必要な人だ、と言われたから編集部の人と喧嘩してでも引き抜いたが、勤務態度の悪い人間は制作にも必要がない」と異動は中止になりました。「どこの部署にいても必要とされる人間にならなくてはいけないよ」と付け加えられました。
その後、制作に行くことができました。

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昭和16年『高原の秋』でデビューし、すぐに雪・月・花・星4組合同での大阪・北野劇場公演に私の企画『宝塚かぐや姫』が通り、脚本と演出を任せられました。誰がかぐや姫になるのか? と聞かれたとき私はその当時男役の大スターだった小夜 福子でやりたいと迷わず答えました。本人がOKならと言われ直接お願いすると「いいわよ」とあっさりOKしてくれたので大成功しました。
かぐや姫が天へ昇っていくシーンで歌った『さよなら皆様』が大ヒットし、いまだに歌劇終了後に毎日ながれています。

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戦争による大劇場閉鎖から終戦・再開まで

戦争により大劇場が閉鎖され、生徒16人、オーケストラ5人、衣装係ひとりで移動演劇隊をつくり、私が隊長に指名されて陸軍病院や、高射砲隊などを慰問して回りました。
つらいことも多かったのですが、白米のご飯やぜんざいなどそのころ口に入りにくい食事をいただいたり、恵まれたこともありました。
北陸から大阪へ帰る時のことです。大雪で電車が4時間ほど遅れて到着し、米原を8時ごろ出てこのまま大阪に着いても夜中で、阪急が動いていないので宝塚に帰れない。どうしたものか? と思案してましたら、米原で警戒警報が出たんです。コレになると、解除になるまで電車が動いたので大阪に着くまで解除になるなと祈りました。
寮住まいで宝塚に帰れない生徒5~6人を連れて、12時ごろ六甲の私の家まで連れて帰りました。皆、お昼の弁当からなにも食べていないので家内が、ひとつしかない七輪でまずご飯を炊き、それが終わったら、同じ七輪でみそ汁を作り、夜中の1時過ぎにようやく食事にありついたこともありました。
神戸の高射砲隊に慰問に行った翌日空襲がありました。また、淡路島の洲本に乙羽 信子をつれて公演に行ったとき、その夜B-29が神戸へ焼夷弾を落としました。理事長と神戸が燃えていると、対岸の神戸を眺めていました。明日生徒に話そうと、翌朝生徒を集めて「昨夜、神戸一帯が空襲にあった。今日帰ったら被害状況を明日歌劇団事務所へ報告してほしい」と言いました。すると乙羽 信子は「私の家はこの前の空襲でやられ、バラックなのでもうやられる心配はありません」と淡々と話しました。
翌日、生徒達が、全員無事だったと報告に来たのですが「心配ない」と行っていた乙羽 信子だけがまた被害を受けていたのです。なんと不運な子だと悲しくなりました。宝塚歌劇の現役の生徒は、けがもなく全体的には、幸運だったと言えます。

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やがて日本が降伏し戦争は終わりましたが、敗戦と同時に宝塚大劇場は米軍に接収され、関係者ですら中に入ることができなくなりました。
米軍の慰問公演を宝塚大劇場でやることになり、やるならば華やかにやろうと、一流のスターを集めて『春のをどり』をやりました。その公演は大変高い評価を受け、進駐軍の隊長の申請により昭和22年接収解除になり宝塚を再開することができました。
再開第1弾は『カルメン』『春のをどり-愛の夢』6月に私の『ミモザの花』で宝塚にフランス物が帰って来たと喜ばれました。
昭和26年ドルの持ち出しが禁止されていたときに、小林先生のご指示でミュージカルの勉強にニューヨークへ1ヵ月滞在しました。見るまではどんなに素晴らしいものだろう……と思っていましたが、宝塚は負けていないと実感しました。ただダンスや音楽の取り込み方やテクニックが違うなと感じました。

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小林 一三翁とご家族

小林 一三先生は宝塚歌劇をご覧になるとき、舞台は見ずにお客さまの顔ばかり見ていました。初日ではなく一週間ぐらいして来られ、お客さんの反応を見て批評をされたのです。「これは商売になるよ」とおっしゃったら褒め言葉で、傑作なのです。私たちは、先生がこられるまで一週間は作品の批評はしませんでした。
小林夫人は公私の区別をきちっとなさる方で、生徒へ差し入れのお菓子でも「どうぞ楽屋へお持ちください」と申し上げても「私は楽屋に出入りできないから」と預けていかれます。こちらが帰りの車の手配をしても「あれは会社の車だから」と阪急タクシーで帰られるようなお人でした。

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そのご子息の小林 米三社長も非常にきびしいがあたたかく素晴らしいお人柄でした。米三社長が劇場でご覧になる前に必ずキャラメルを買って入られます。終わって出て来られたときに「今日はたくさん残ったよ」と言われたら、大成功。食べる暇がないぐらい傑作だったということです。反対に「今日はキャラメルの箱が空っぽだよ」と言われたら、つまらないので舞台を見ずにキャラメルばかり食べていた、と言うことです。

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EXPO'70万国博覧会開会式を演出

1970年大阪で行われた『日本万国博覧会』の構成、演出を手掛けました。開会式の模様はNHKの衛星中継により全米で放送される予定でした。1時間につき費用が1億円かかるというので、1分でも越えないよう念を押されていました。
カナディアン アカデミー(外国学校)のこどもを使って感動させようというアイデアがあり、天皇陛下(昭和天皇)に花束を渡すことにしました。外国ではよくあることですが、日本では一度もなく考えられないことでした。宮内庁に相談しますと、両陛下にはハプニング扱いにいたします、とお返事をいただきました。
当日本番が始まり、まず各国のパビリオンの代表が「こんにちは」と自国の言葉であいさつをします。ところがあいさつ以外のことを話す人がいたりして4分オーバー。佐藤首相(当時)があいさつのとき陛下に一礼した後、予定にないのに後ろの客席にも一礼され、さらに原稿にないことまで付け加えてあいさつされたのです。続く方々も同じことをされますのでまたここでオーバー。

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そして天皇・皇后両陛下に花束を渡すシーンになりました。エンディングで渡す予定が、こどもたちが出て来ない。
これは当日まで内緒にしてリハーサルをしましたので、カナディアンのこどもたちにはどなたが天皇陛下か皇太子殿下かわからなかった。ちゃんと渡せるかという心配はしていましたが、花束をもったこどもたちが出て来ないのでびっくりしました。23秒遅れで花束をもったこどもたちが走り出て来て、陛下に花束を差し出すとしっかりと受け取ってくださってとてもいいエンディングになり、大変好評をいただきました。
結局12分もオーバーして開会式が終了しました。
後で、こどもたちが出る瞬間になってカナディアンの先生が「このきれいな花束を欲しい」と言われ、担当の係が「この花束はあげられない」という英語が出て来ずに時間がかかったと聞きました。日本語でもわかったと思うが、結局本当のハプニングがあって大成功した、という例です。
そのころの宝塚は『ベルサイユのバラ』『風と共に去りぬ』が大ヒットしていて関係者でもチケットがとれないほどでした。
みなさまよくご存じの『愛あればこそ』が大ヒットしました。いまは歌劇によい曲がないと思います。作曲者の生命は10年ぐらいかと思えます。常に新しいことを考え、新しい曲を作らなければマンネリになって来ます。

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アイデアの引き出しをたくさんもって、
惜し気もなく空っぽにしよう!

今の若い人は、マンネリというかアイデアに乏しい。アイデアがないと一流にはなれない。ひとりではよい考えが浮かばなくても、皆で話し合えば素晴らしいものができる。私も演出の助手についた時、先生に「何かアイデアがないか?」と聞かれたらいつでも答えられるようアイデアの引き出しをいっぱいにしてました。例えば「科学方程式をダンスにしたい」と申し上げると「ほお、どんなのになるかやってみなさい」とか。
こんなこと言って誰かにアイデアを取られないか、そんな考えではだめです。惜し気なくアイデアを出し尽くして空っぽにする。出し尽くしたら、また引き出しを埋めること。それが私の信念です。舞台やテレビでスモークをよく使いますが、これを考えたのは私です。こどもにアイスクリームを買って帰り、残っていたドライアイスを水にいれたら、雲がかかったような煙が出ました。これはおもしろいと思ったのがきっかけで、宝塚の効果係と相談して世界で初めてスモークを舞台に使用しました。今や世界中のショーで利用されています。
マイクロフォンのコードを外したのも私が初めてです。マイクスタンドがあると、直立不動でマイクから離れられないので、動きが欲しいと、スタンドとマイクを離しました。すると、新聞の批評に「コードが目障りだ」と書かれ、それならと、ナショナルがコードレスを考えてくれました。
演出でも何でもアイデアがあれば素晴らしい展開があります。 神戸の復興もアイデアが大事です。こんなことを言ってくだらないと言われないか? と恐れないでください。
どうすればアイデアが生きてくるかを考え、それを実現、成功させることが、復興につながると私は思います。

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~『さよなら皆様』のテープが流れる中終了~

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Profile

内海 重典(うつみ しげのり)さん<演出家/宝塚歌劇団名誉理事>

講 師/内海 重典(うつみ しげのり)さん
<演出家/宝塚歌劇団名誉理事>
*お肩書きは、ご講演当時のものです。


歌 唱/紫 とも(むらさき とも)さん
<元宝塚スター>
*お肩書きは、ご講演当時のものです。

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