神戸学校

神戸学校はフェリシモが主催する「神戸発 生活デザイン学校」です。

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「出会いが結んだ夢と未来 ~自分らしく美しく生きる~」



<第1部>

私は本名が秀香。浅草生まれの江戸っ子で、ご近所の禅祥寺のご住職が付けてくださったいい名前らしいんですが、実は大嫌いな名前だったんですよ。




コンプレックスいっぱいのこども時代

私は小学校6年生の時すでに身長が170cmあったんです。母が病気じゃないかと心配しまして、病院へ行って、手の平と足の指のレントゲンを撮りました。病気ではないけれど、まだこどもなので伸びるでしょうと、本当に暗い顔で帰って来たのを覚えています。小学校の時に学校へ行くのにお友だちをお迎えに行きますと「はーい、ちょっと待ってね。“ひっ、でかちゃん”がお迎えに来てるわよ」と言われるんです。もうひとつのニックネームが“東京タワー”。大体年代がわかるんですけど、私あと2年で50歳になるんです。

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“ひっ、でかちゃん”
“東京タワー”

いまはこんなふうにハイヒールも履けるようになりましたが、猫背で「なぜ私をこんなに大きく産んだの? お母さん!」と母を恨んでいる私でした。小さいときから近所の人がすごく心配して「大人になったら野球選手のお嫁さん?」とか「モデルさんになるの?」と将来を決めてくださるんです。背が高いのとほかにもうひとつ、私がまだおなかにいる時、黒い瞳の中に爪になる成分みたいなものができちゃったんですね。女の子ひとりだったものですから母は悩んだみたいです。小学校へ入った時から背も異常に高く、私が相手の目を見ながら話しますと目をそらされたり、ちょっと不快そうな顔をされたりする。それが自分の中でコンプレックスになり、暗い性格になるんです。人の前であまり話もしない、主張もしない。そんな小学校の低学年だったんですね。

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そんな時に先生が、いわゆる「差別をしてはいけない」ということを教えてくださったんです。小学校6年生の時に目の手術をしました。ちょっと初恋なんていうぐらいのおませな年ごろになっても、ゲゲゲの鬼太郎みたいに目が隠れるようなヘアースタイルにしたこともありました。女の子なんですね。とても怖かったんですが、もう見違えるように素晴らしいお姫さまになれると信じて手術を受けましたけれど、左目は今でもほとんど見えないんですよ。
女子大に通学する地下鉄の中でひどいことを言う人がいるんですよね。後ろから歩いてきて「デカイッ!」とか言われたりして「どうか私を見ないで!」というように地味になる。背が小さく見えるように猫背にして、自信のない、見るからに素敵じゃないことをずっとしていました。本当に人前に出るのが嫌で「何で私は何にも迷惑をかけてないのに、人って何て冷たいんだろう」って思うようになっていました。

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自分らしく生きるために19歳の決断
30歳の決断

銀座を歩いている時に「モデルにならないか?」とスカウトされました。自分の持って生まれた長身でとっても暗い思いをしている時に「背が高いことがいいことだ。顔もきれいだし、歩き方もいい」とスカウトされて、大反対だった母を説得しました。「私が、背が高く生まれたのは自分で望んだわけではない。できればその日一日を気分よく過ごしたい。私が少しでも自信が持てるように、きれいになるためにモデルをやってみたい」ということでモデルをやりました。モデルという仕事は世界各国、肌の色も国籍も関係なく活躍できるというところで誇りに思えました。背が高ければモデルさんになれると思っていたんですが、若くてムードとかお洋服が似合うというところまでいってなかったんですが、4年間、23歳までモデルの仕事をして結婚で辞めました。

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専業主婦をしている時、お掃除をしても何をしてもだんなさまはあまり褒めてくれない。休日のない毎日毎日の連続、不満因子みたいなものがどんどんたまって、こどもを産んだときは23キロも太っていたんです。もう一度自分の夢を実現して、何か自分の中でもう少し打ち込めて、人に誇れたり褒められたりしたいと思ったんですね。普通は20代にモデルとして活躍して、30代になったら結婚して辞めるというのがモデルの世界なんですよね。それを再度始めた時は30歳だったんです。あまりフランス語がわからないまま渡仏し、オ-ディションを受けました。フランス人には私の年齢がわからないままパリで仕事を始めたんです。

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パリ時代に出会った人
学んだこと

ミック ジャガーの奥さんのマリー ホルズ、ジェリー ホールと私と3人でセクシーダイナマイト・トリオという感じで活躍していました。イッセイ ミヤケさんは日本人のモデルさんを全員使ったり、当時いろいろな演出に凝っていらして、日本人をうまく表現してくれた方ですね。イッセイさんは美意識というか、お洋服の着方はこうだとかいろいろなことを教えてくれて、イッセイさんを離れてもパリでがんばろう、やっていくわと思わせてくれた方です。イッセイさんとの出会いは、私にとっては素晴らしい思い出になっています。
サン ローランさんのお部屋を見る機会がありまして、きれいなものを作るということは、こんなふうに世俗から遠のいてやさしさをもたらしてくれるのかなって思わされました。白いうわっぱりを着てアトリエでサン ローランの特別なお部屋に通された時に「日本から来たの?」とやさしく聞かれました。

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この方はクロード モンタナといいまして、ちょうど私がパリに行っていました80年代から90年までの間の写真なんです。サン ローランの次にやって来るパリの素晴らしいデザイナーの担い手という新人のすごい人です。パリコレのショーが終わりますと、バイヤーやプレスで人気投票なんかをやるんです。すると毎年この方が一番になる。「私の一日」ということで、音楽が替わると私が出てくるというショーをしてくれたんですね。この方のおかげで私は10年モデルとしてパリに行き続けることができた、そんな大切な人です。

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東京コレクションの中で大谷 記久さんというデザイナーと出会いました。彼はニットが専門だったんですが、ボディコンシャスの派手で華やかなミニスカートの元気な女の子の雰囲気の作品を作る方です。世界的に評価されるにふさわしい色彩感覚のある方で、今でもお付き合いしています。やはりこれも出会いなんですが、パリのモデルさんも何人か出てるんですね。東京コレクションとなると一日に何百万という高いギャラのスーパーモデルさんが出ていたりして「私、歩けない」とかわがままを言う人もいるんですが、大谷さんは「靴を履かないで出てもいいよ」と言ったりしてとてもやさしいんです。そうしているうちに、東京をばかにしていたモデルの子も彼の人柄にだんだん引き寄せられるようになって、彼の仕事ではとっても素敵な自分自身を演出するようになっていくんです。
私がファッションプレゼンターになって、ニューヨークの雑誌『パワー オブ スタイル』に翻訳のナビゲーターのような仕事でずっと原稿を書かせていただいたんですが、そこでいろいろな女性の生き方を学びました。パリコレに出てますと『ヴォーグ』などの雑誌の表紙にとのお話が来るんですね。今のようにコンピューターで絵が直せるということを全然知らなかったので(目のことで今でも写真の大写しは苦手なんです)よくお断りしたんです。ニューヨークのカメラマンと、シャネルさんのアトリエに写真の仕事で一緒に行ったんですがチャイニ-ズデコ風のエレガンスな部屋でした。
シャネルという人は、20世紀の初めに彼女が考え出した「女性の洋服をカジュアルなものに」「男性の着ている物を女性の洋服の中に取り入れて着る」などと女性が社会進出して来る時の主張とかインスピレーションという物を洋服という形で表したすごい方で、女性が自分で働いてお金を稼ぐということを世界に初めて示した、いわゆるパイオニア的な人だったんです。
ポール ポアレという女性が1906年ぐらいにコルセットを取り外したんですね。画期的だったらしいんです。女性が男性の鑑賞物、愛玩物的な時代のお洋服というのは、コルセットとかてん足とか、いつも女性を窮屈に締め付けていたように思います。「女性だって自由にしたいのよ」「夢を持ちたいのよ」というところから、これは人間ということで平等ということなんですね。ダイアナ ブリーランド(エルシー)という人はココ シャネルと同時代の人でよく比較される人なんですが、普通の主婦の方で、だんなさまともとても仲がよくてお子さんもいらして普通に暮していたんですけど、ご主人の銀行が危なくなった時、30半ばで『ファイナル シモン』というファション誌の編集の仕事を始めたんです。40年連れ添っただんなさまに最期は看取られて……という家庭的な人だったんです。彼女の素晴らしいところはアイデアがとても豊富で「おしゃれをすることは大胆になること、下品になることを恐れないで、退屈になることを恐れて!」というようなことを言ってしまうような人だったんです。それまでのファションというのはパリコレクション(オートクチュール)。でもそれを着るのは人間であって、その人のライフスタイルが素晴らしければ、その人だって素晴らしいわけで、ファション誌をねこそぎ変えたというぐらいだといわれる人なんです。ライフ スタイルというものを初めて売り物として提案し、マーケティングという概念を生み出した女性でもあるんです。

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モナンという人は、この世のぜいたくを全部やったというぐらいの人なんですが、その人がぜいたくの限りを尽して何になったかといえば、82歳で島を買って、若い男にだまされて、お金も何もかもなくしてしまってひっそりと死んでいったことです。何がそうさせたのかというと、この人には自分だけしかなかった。自分のことだけしか考えられなかったのが原因のように思えました。
デイジー フェローという人は貴族の間で評判の高い画家に肖像画を描かせたんです。初めて自分の顔と向き合うんですね。その時に、愕然とするんです。「私がこんなだったなんて……」。そこで美術館という美術館へ行き、図書館で本を読み、博物館はわが家のようにして内面の勉強を積んで生まれ変ろうとしたわけです。整形手術もしたんです。そうして自分の顔と向き合うんですね。彼女が80歳ぐらいで最後の肖像画を描いてもらった時、今まで見た中でいちばん素敵な自分が描かれているように思えたそうです。
全部の資料を集めて、事実そのものを書いているんです、その翻訳をしながら決定的な部分があって、何よりも、その人のたたずまいが素敵だというふうな「生き方」を含めたところで知的な人が多かったように思いました。パワーを持って生きるというのは、最後の最後まで、何があるかわかりませんからね。何かがあった時にそれにどのように向かっていくかが大切で、いつもだれかを追い落としてというような感覚ではなく、自分がこうありたいと思うこと。コンプレックスがあっても、だれもそれを取り除いてはくれないのですから、コンプレックスを乗り越えて、自分で夢をつかんで行くことが大切だと思うんです。なくなってしまうものをいつまでもいつまでも追いかけるような生き方は、どこか自分を窮屈に締め付けてしまうんだなって、こういうことを勉強させられました。女性が「主張」を始めた20世紀、周りからあれこれ言われても最初に何かをやって来た人というのは男性に媚びない人だったようにも思いました。これから21世紀に向かって、女性がどうやって生きていけばいいのかなと考える時、20世紀のパワーのあった女性は男性に媚びるんじゃない、自分の力で社会進出するんだと、ちょっと強くなってしまったように思いました。主張が強すぎる。最近は女の人が変ってきました。私たちの母親世代はどこかで我慢をしていたと思います。

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お互い一緒に暮らしていて、まして仕事を持っている場合「手が空いた方がやればいいじゃない。何で女だからって子育ても家のこともやって、仕事もやらなくちゃいけないの!」と言うことがどこかで本音としてはあります。ありますが、だからといって男性を敵に回してしまうことはないと思うんです。私たちは「正義感」というものをすごく大事にしているんですが「善」と「悪」ふたつだけの世界というのはないんですよね。ただ自分の尺度、物差の中で「これはあなたこうだからだめ」「あの方はこうだからだめなのよ」「学校はこうでなくっちゃだめなのよ」と学校でも社会の尺度みたいなものをこどもたちに植えつけて「社会ではこうなのだ」「世間ではこうなのだ」…… と。そうではなくて、もっと「たおやかに」考えて生きる。これから21世紀に向けて男性と戦うんじゃなくて、お互いに高め合っていく「共存」が大切なんですね。女性はこれからの生き方としては、主張してもいいけど、どこかで折り合いを付ける。「滑らか」と言うか「たおやか」と言うか……。 柳はヒューッとしていると、どんな嵐が来ても揺れはするんですが、折れないんです。私の夫は食べたものを片づけにも行かない人なんです。飲んだら飲んだまま、それに100褒めないと喜ばない大変な人だったんです。
私もモデルをしながら、子育てしながら、家事もしながらパリにも行ったりしてガンガン私がしなけりゃとがんばり続けていました。ですが、家事をしていても褒められたことはなくて、彼には「もう少し家の中をきれいにしたら?『モデルをしていて外できれいな服を着ているのに家は?』『お台所は?』なんて言われたりしたら気持ち悪いでしょ君」なんて言われて……。それを私、ずっと我慢していたらショーの帰りに帰宅拒否症というのになったんです。そのときに私は、これは私のことを言わないとだめなんだと思ったんです。「おまえの管理が悪いから」と主人が言って怒った時に、今まで我慢に我慢を重ねて来ていますから「もう、信じられない! 私、別れたい!」と言いました。すると主人は「どうしてちょっと怒ったぐらいでそうなるんだ!」というふうに話が違う方に行ってしまうんですね。
ギリギリまで我慢して爆発させるんじゃなくて、家庭のだんらんなんかをしている時に「あなた。私はこう思ってるんだけれど、あなたはどう思っているの?」というように歩み寄って行く。コミュニケーションをちゃんとしなければ「自分が自分らしく生きる」ということができにくいということに気がついて、そうしている今日このごろです。最後にもうひとつ、女性が家庭を持って、こどもを育てながら仕事をするという時に、私の場合は、一見華やかに見える仕事なものですから、娘が思春期のころに「ママは私より仕事のほうが好きなんだわ!」とか「私はこどもができたら家にいて普通の奥さんするわ!」とよく言われて悩みました。仕事を持っている先輩なんかに相談すると「いつかわかる時が来るからがんばって!」とアドバイスをいただきました。自分が仕事を持っていたおかげだと思うんですが、育児にのめり込んでしまう母親にはならないで、かなり冷静に「彼女もひとりの人格のある人間」という感覚で育てることができたように思います。娘は今21歳になるんですが、モデルをしているんですよ。休みの日には、ふたりで食事に行ったり、プリクラを一緒に写したり「ママ、こんなお仕事してるんだから、もっと若い子の求めているものを知らなくっちゃ」なんて助言もしてくれるようになっています。自分が自信を持ってその仕事に打ち込むということが大切なように思います。
娘とは友だちのような感じでこれからもやっていきたいと思いますし、自分自身は「たおやか」な感性を持って、歳をとるごとに、人を受け入れることのできる人間になりたいと思っています。

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Profile

秀香(HIDEKA)さん<ファションプレゼンター>

秀香(HIDEKA)さん
<ファションプレゼンター>
*プロフィールは、ご講演当時のものです。
東京、浅草生まれ。19歳の時にスカウトされモデルを始める。23歳で結婚、引退。その後出産、子育てに専念。引退から7年後、30歳で再びモデルとして、カムバック。以来、パリコレをはじめとする数々のショーに出演。世界のトップモデルとして活躍する。 1991年2月にモデル業を休業。現在はファッションプレゼンターとしてテレビドラマに出演、トークショー、講演会、TVコマーシャルなど幅広い分野で活躍中。

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