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「わが愛の航海記」



<第1部>

今日は『旅』についてお話したいと思います。
人が生まれるということは「死へ向かって旅立つこと」を意味すると言えます。
人生を私なりにヒンズー教の言葉で4つの季節に分けると「春・学生期(がくしょうき」「夏・家住期(かじゅうき)」「秋・林住期(りんじゅうき)」そして人生の終わりを迎える「冬・遊行期(ゆうきょうき)」に分けることができると思います。つまり、学生期⇒家住期⇒林住期⇒遊行期を旅することが人生であると言えると思います。「遊行期」という「よい死に場所を求める修業をする旅をする」のが人生であると言えるのです。よい旅人の条件は、よい住まいを持っていることといえます。よい住まいを持たない放浪者はよい旅人であるとは言えません。
私の初めての旅、厳密に言えば、3歳のころ、上海から引き揚げてきた時が私にとっての最初の旅であるといえますが、記憶の中にはありません。敗戦後は今のようにたくさんの人が外国へ行く時代が来るなんて考えられなかったのです。私が25~6歳の時に渡航が自由化されるまでは、一部の人しか外国には行けなかったので、そのころに「外国人と恋をして、あろうことかこどもまで作ってしまった」というのは「とんでもないことをしでかした」と言われることなんでしょうね。
そのころ、私は『文藝春秋』に勤めていたのですが、結婚したらやめなければならないという時代だったんです。私は男性との関係はカクテル・パーティー型ではなく、仕事も大好きだったけれど「結婚したい女の子」で、好きな人と一生を分かち合いたいというタイプの人間で、世間ではいろいろ言われていますが、3人のこどもの父親は同じです。25歳を過ぎるとこどもを作るとやめなければならなかったので、私は「とりあえずは仕事だ! 会社にばれなければこどもがいないということと同じだ! そうだ隠し子を産もう! そうすれば会社をやめなくてもいい!」と考えて実行したんです。服装もオーバーブラウスをハリのある生地で作り、ハイヒールを履くと体が前かがみになってブラウスが前に垂れるので、腹帯をしてふくらんできたお腹が目立たないように工夫しました。だるそうにしたり重そうに歩かないでテキパキ歩く。土曜日は乗馬とかスキンダイビングの道具を持って「これから行くのよ!」と言って、妊娠を誰にも見破られないようにしました。

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8月が予定日だったんですが、7月に入った産み月になったら隠し切れないと考えて、急性腎炎になることを思いついて「2ヵ月安静にしなければいけない」と診断書を出して会社に休みをもらって、海辺の家を借りて過ごしました。毎日泳いで過ごしました。予定日近くに波乗りに失敗して岩にぶつかって陣痛が起こり女の子が産まれました。渚で産まれたので渚がいいということになって、父親がアメリカ人だったので『ナギサ・カレン』と名付けました。1週間してこどもを預けて出社しました。「病気だと言っていたわりには日焼けしているな?」と疑われることもありませんでした。こどもができれば仕事にも張りができて、いよいよいい編集者になれたように思います。「かわいいでしょ! これ私の隠し子なの!」と言って写真を見せても誰も信用しませんでした。
会社にばれなかったことに味をしめて、翌年もうひとり産むことにしました。妊娠を隠す手口はますます洗練されたのですが、産み月になる最後の2ヵ月をどうするか? 2年続けて急性腎臓と言うこともできないと考えて、浮かんだのが外国旅行することでした。編集長に外国に行くことを頼み込んで許可をもらいました。何とか安く出産する方法はないものかと調べていると、船の上で産むと出産費がかからないことがわかったので、海外見物を済ませてから帰国する船の上で産むことに決めました。調べると11月の末にマルセイユを出航して予定日の12月の末に日本に着くフランスの船がありました。 それまでの1ヵ月をどれだけ安上りに過ごせるかという方法を考えて世界地図を広げて、バイカル号でシベリアへ行きシベリア鉄道でハバロスク→飛行機でモスクワ→ヘルシンキ→マルセイユ→船→日本という方法を考えました。私の初めての海外旅行は、夜汽車を乗り継いでのヨーロッパの旅で、大きなお腹を抱えての貧乏旅行でした。ホテル代を浮かせるために夜汽車の中で寝たりしましたが、見るもの、聞くものが素晴らしく、感動的で「むしゃぶりつく」と表現できる旅でした。今、海外に行くことが簡単すぎて、海越え山越えようやくたどり着いたという、あのような感動を味わうことができないという意味では、今の若者はかわいそうだと思います。このシベリア鉄道の旅は、私のおすすめの旅です。

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「途中でパンクしたらどうしよう? 早産で未熟児生んでヨーロッパで路頭に迷うことになったらどうしよう?」という不安が全然なかったわけではありませんが「ポジィティブシンキング!」と悪いことは考えないようにしていたら、イメージ通りマルセイユに着きました。気がついたら地中海の紺碧の海の上でした。すごくうれしくて大船に乗った気分というのはこういうことだと実感しました。船長の歓迎レセプションで、妊娠していることを告げると、船医さんがびっくりして「頼むから降りてほしい」と言われたんですが、降りるわけにはいかないので「飛行機が怖いから。予定日は1月の末です」と言って何とかごまかしました。
ヨーロッパから日本に向けての船旅は3~4日おきに西洋から東洋への移り変わりがわかるという素晴らしい旅でした。最初の寄港地はポートサイド(エジプト)で、私は下船して見物してまわったのですが「あのお腹の大きい日本人の女性がピラミッドによじ登ったり、ラクダに乗っている!」と他の乗客に告げ口されてアラビアでは下船させてもらえず『アラビアンナイト』を見損なってしまいました。次のインドに着くやいなや医者に止められる前にタラップを駆け降りました。「船に乗るまでは産まれて来るな!」とお腹のこどもに言い聞かせました。セイロン・シンガポール・香港と充分楽しんで、見たいものは皆見ました。もういつ産まれてもいいというより産まれてくれないと困るんです。香港から日本まで4日しかありません。明日日本に到着するというクリスマス・イブにパーティーがあって、私もサリーなんかで着飾って楽しんで、終わって部屋に帰ると陣痛が起こり、お酒を飲んで酔っぱらってしまっているお医者さんがオロオロしているのを叱咤激励しているうちに安産でこどもが生まれました。朝の6時、その日の夕方5時に神戸に着きました。
名前はノエルと船長が付けてくれました。横浜で入港しようとしたら、赤ん坊のことでもめました。区役所に出生届けを出しに行くと、神戸に行けと言われて、神戸に行くと、船長の印がないとか航海日誌の写しを出せとか書類不備で何度も受け付けてもらえず、結局1年かかりました。書類のちょっとした不備や、細かいことを言う日本の役所でさえ父親の名前を聞かなかったのに、マスコミや世間が私のことを『未婚の母』だと一斉に騒ぐことが理解できませんでした。

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ベトナムへの旅

こどもの父親とはスキンダイビングで知り合いました。世界でいちばんといわれるクストと一緒にしていた人ですが、陸に上がるとカッパ同然でした。彼はベトナムへ物資を運ぶ船の船長になりました。その船に私も乗せてもらってベトナムへ行きましたが、着いた途端に船長の仕事をクビになってしまいました。「私が何かして働くわ!」と言ったもののベトナムで何ができるだろうと考えて「そうだ! 従軍記者だ!」と思いプレス証を取りました。そのころ女性の従軍記者は私ひとりぐらいでした。髪の毛をヘルメットに押し込んでどこにでも行きました。私が女だとわかるとビックリはしたみたいですが、アメリカ人は男女の差別なく、女性だからと特別に保護はしてくれないけれど、仕事をするのに男性と同等に扱ってくれました。
これはさわやかな経験でした。生活を戦地でしたのですから、よく生きて帰って来たと思うんですが「必ず弾は私をよける!」と信じていました。ある時「爆撃機に乗りたい」と言ってみたら、偵察機に乗せてもらうことができました。爆弾を落とすと紅の炎が昇り、クモの子のように人間が逃げて行くのです。この時心から「戦争はいけないものだ」と思いました。

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若い兵士と残豪で暮らしました。砲撃がやむと一緒に食事をしたりおしゃべりをすることもありました。アメリカの兵隊はじゃがいも畑やトウモロコシ畑しか知らないという田舎の若者が多かったんです。「兵役が終われば大学へ行きたい」「土木技師になって、ベトナムへもう一度来て自分たちが破壊した建物や橋を作りたい」とか話したりする、とてもいい人が多かったんですが、翌日にはその中の何人かが死んでいく。その時に生き残った者の悲哀を感じました。未来を摘み取られてしまった彼らの無念さを思うと、彼らに申し訳ないという思いが頭をよぎり自分の欲望にブレーキがかかるようになりました。 男は兵隊かゲリラのどちらかで村を出てしまっているので、ベトナムの村には、女とこどもの姿しかありませんでした。こどもたちは家事を実によくやっていました。ある時4~5歳のこどもが赤ん坊を抱きながら食事の用意をしている時に爆撃が始まりました。その子は火を消して、大事なものをひとまとめにして赤ん坊を連れて防空豪に入る。4つ5つのこどもが実に冷静に物事に対処する姿を見て、人間は生育環境でこんなにも違うものなのかということに驚きました。あまりにも日本のこどもたちは恵まれすぎていてかえって不幸ではないか。ベトナムのこどもたちは決してしあわせではない。その中間ぐらいの逆境にある時がしあわせだといえるのではないかと感じました。
昔は親がこどもに手をかけられなかったが、豊かな自然と逆境がこどもを育てたように思います。私生児で父親は外国人。でもベトナムのこどもに比べたらしあわせだとひとりでこどもを育てることに自信ができて急に勇気が出てきました。ベトナムから帰ったのは妊娠していたからでもありますが、こどもたちの父親と別れたからなんです。「こどもは自分で育てます」と啖呵を切って、3人目のこどもを日本で産んだのですが、日本では有能な編集者でもフリ-の道はなくて仕事がありませんでしたのでアメリカへ行く決心をしました。

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アメリカへの旅

ベトナムでかいま見た男女差のない扱いを求めてアメリカに行くことにしました。ノエルを母に預けてカレンだけを連れて行きました。1日5ドルぐらいしか使えない旅でした。メイン州でカレンを保育所に預けてアメリカを旅しました。アメリカ人の友人をたくさん持っていたので、友人の紹介でいろいろな人を訪ねて旅をしました。泊めてもらった人の家で料理をしてあげると、とても喜ばれました。言葉の違う国で役に立つのは仕事ではなく、生活者として学んだことだったように思います。料理教室を開いたり講演会をしてお礼をもらったりしながらアメリカ中をまわって1年間ぐらいたったところで生活の目途がついたので、こどもたちを呼び寄せて生活を始めました。
私が倒れたら即母子心中という生活でした。アメリカは養子制度が発達しているので、こどもたちにはその方がしあわせかもしれないと思い、その時のためにこどもへの遺書のつもりで書いた手紙が『渚と澪とカジへ』という私の処女作なんですが、小さな出版社で本になったんですが、ジャーナリストの千葉 敦子さんが、その本を見て「こんなに美しい日本語を始めて見ました」とアメリカに手紙をくれました。「ものを書くということはこんなに素晴らしいことか! 自分の本来の生きる場所で勝負してみよう」と1970年に日本に帰ってきました。
『淋しいアメリカ人』を書いて大宅 壮一ノンフィクション賞をもらったことで道が開けました。私が30歳のころです。育児は毎日毎日大変で、ござを抱えて公園に行き、目の端の方にこどもの姿を入れながら原稿を書きました。こどもたちは私が必死に働く姿を見て育っていたので聞き分けのいい、いい子に育ってくれていました。段々順調になってお金ができると、家政婦さんを雇い、こどもたちは甘やかされて嫌なこどもになっていきました。

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そのころ『聡明な女は料理がうまい』がベストセラーになってまとまったお金が入りました。その使い道を考えた時に、今40歳。あまりにも激しく走り続けた。充電というか、そろそろ自分の人生を取り戻すために休暇が欲しい。こどもたちとも胸を合わせてしつけをやり直したいというふたつの目的のために1年間ぐらい休みたい。日本では仕事が追いかけて来る。「そうだ、外国へ行こう!」と思って、人に言うと「今、プロダクションを作ってがんばってこそビッグになれるんだ。外国に逃げてどうするんだ!」と反対されましたが、私はベトナム以来欲望を求める気持ちが少なくなってしまいました。どんなに財産があっても無くなる時は無くなる。本当に大切なのは自分自身がたくましくなってどんな時にも生きられる力を付けることが大切だ。そのための投資として1年間休暇を取ろうと考えました。
有名になるということはある意味では不気味なことで、自分と関わりのないところで『桐島 洋子』という虚名がふくれ上がってしまいます。ふくれすぎた風船のままの人生を送りたくないという思いで決心しました。
不安はありませんでした。アメリカに行くにあたって「片付けなければならない仕事があるので1ヵ月ホテルにこもって仕事をしている間に、自分たちの必要なものを詰めておきなさい」と言ってこどもたちにスーツケースを1個ずつ渡しました。アメリカに着いたらすぐ2日間ディズニーランドへ行きました。こどもたちが作り物の遊びに飽きた時「これからは自然の中で暮らしましょう」とニューヨークの近くのイーストパンプトンという大金持ちの避暑地の美しい街の別荘を冬の間安く借りて暮らしました。こどもたちにプールまでもある大邸宅に一度住まわせたかったし、森の中の一軒家とか大きな家の不便さも味合わせたかったのです。初めのうちは茫然としていましたが、何か自分たちで工夫して遊び始めるんです。こどもたちを解放してよかったと思いました。日本を出る時「学校はどうするんですか?」と会う人会う人に聞かれましたが、そのことはあまり心配していなかったんです。とりあえず学校には行かせなければいけないだろうと、公立の学校に面接に行って「プリンシパル(校長)だけ覚えて明日から学校へ行きなさい」と外国語の話せない子に、電話する小銭も持たせないで行かせました。昼に日本人から「学校から通訳をしてほしいと頼まれたんだけれど、どうしましょう」と電話があったんですが、学校に「それはやめてほしい。3ヵ月もすれば慣れると思います」と断りました。

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こどもたちが意気消沈して帰って来るだろうかと思っていたらルンルンで帰ってきて「日曜日がなければいいのに」と言いました。次の日から友だちが遊びに来て泊まるようになりました。ちゃんとしゃべっている。コミュニケートできているんです。アメリカに行った目的は英語を覚えさせるということのほかに、こどもたちの乱れた日本語を鍛え治すという目的もあったので、英語の方は学校にお任せして、家では日本語を使わせて「お母さま」と言わせたり「百人一首」を暗記させたりしました。「言霊」というものがある美しい日本語を覚えさせました。3ヵ月ぐらいした時に「おめでとう!お宅のノエルちゃんがちゃんとしたセンテンスで英語を話しました」と学校から電話がありました。帰ってきた娘は「宿題を忘れた言い訳をしたら、先生が喜んで、何度も言わされて、喜ばれた」と不思議がっていました。そうなればどんどん上達して、日本人がいちばん苦手とする「R」と「L」の発音もできるようになって、うまい具合にバイリンガルになっています。両方がうまい人はなかなか少ないのですが、彼らの人生にいいプレゼントができたと思っています。アメリカでの生活を『マザーグースと3匹の子豚たち』という文庫になっている本に書いていますので、今、子育てしている人は読んで見てください。お役に立つこともあると思います。
自然がいっぱいの葉山で育って、東京に引っ越してシティーギャルして、私は都会人だと思っていましたが「家住期」真っ最中に自然がいっぱいのイーストハンプトンに本家帰りをしました。50歳で子育てが終わったので東京に戻って、エンジンを切っても飛び続けることのできるグライダーのような生活をしています。今、60代の始め。これから「林住期」に向かって、カナダのバンクーバーに家を買いました。葉山と上海、その両方を持ち合わせている故里を見つけたというようなところです。
自然と文化、都会が入り交じった心安らぐ街ということでは神戸も懐かしい街のひとつです。バンクーバーを故里にして1年の3分の1ぐらいはいます。バンク-バ-にいらした時は寄ってください。リップサービスではなくお茶ぐらいごちそういたします。その後で庭の草むしりを頼まれることは覚悟していてください。

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Profile

桐島 洋子(きりしま ようこ)さん<作家>

桐島 洋子(きりしま ようこ)さん
<作家>
*プロフィールは、ご講演当時のものです。
1937年東京生まれ。幼児期を上海で過ごし敗戦直後に帰国。高校卒業後『文藝春秋』に9年間勤務の後フリ-のルポライタ-となり世界を巡遊。70年に処女作『渚と澪-ふ-てんママの手紙』(後に『風の置き手紙』と改題)で作家デビュ-。72年滞米記録『淋しいアメリカ人』で第3回大宅ノンフィクション賞を受賞。以後、マスコミに登場し、TVやコラムなど幅広く活躍。著書は『聡明な女は料理がうまい』『マザ-グ-スと3匹の子豚たち』『家族になるものこの指とまれ』『女ざかりからの出発』『女の午後の胸騒ぎ』『魔女のホウキに乗って』『林住期が始まる』『刻のしずく』ほか多数。

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