神戸学校

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「コンピューターグラフィックスと映像について ~自由に想像・創造できる世界~」



<第1部>

福岡でのこども時代

僕の仕事はコンピューターグラフィックスという技術を使って映像を作る仕事なんですけれども、実はですね、本当はコンピューターを持って来て、実際にCGを作ろうかなあとか思ってたんですけれども、昨日の夕方ホテルでやってたら、コンピューターのハードディスクがクラッシュして立ちあがんなくなっちゃって、用意してたネタが使えなくなっちゃってですね、仕方ないから、いろいろなVTRを持って来ていますので。すいません。 皆さまが一般的にCGの作品にふれるというと、例えば今だったら『スターウォーズ』っていう映画がありますよね。あの中ではいろいろなシーンがコンピューターで作られているわけです。僕は最初からCGの仕事をしてるわけではなくて、学生のときはグラフィックデザイン、平面のデザインですね、そういう勉強をしていました。

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もっとさかのぼっちゃうと、こどもの時はどういうこどもだったかといいますと、家は福岡で、3人兄弟の僕がいちばん下なんですけども、いちばん上の兄っていうのがクラシックのバイオリニストでして、兄が小学生のころ、演奏したのを聞いた先生がびっくりして、家をつぶしてもいいから育てなさいと言われて、それからずっとクラシックをやってて、福岡にいたもんですから、レッスンで東京を往復するんですけれど、途中から両親が別居しちゃって、僕がいちばん下だったので、母に連れられて夜行列車で東京を往復したり、東京に住んだりしていました。こどもの時は、兄がいつもバイオリンの練習をしてるんですよ。バイオリンっていうのは非常に大きな音がして、家中がんがん流れているわけです。練習ですから、曲をきちんと弾くのではなくて、同じところを何度も弾くわけですけど、そういったときの兄のいらついている感じ、そういうのをずっと聞いてて、なおかつクラシックだったものですから、家自体がポップな文化をすべて捨てるような家庭で。暗い家だなあ、やだなあって、こども時代からずーっと思っていました。やっぱりこどもですから民放のアニメを見たいんですけど、許してもらえない。唯一お願いして許してもらったのが特撮ものの番組で、それが一週間の中のいちばんの楽しみでした。そういったことがその後の自分の中に残ってます。
ただ、おもしろかったのは、どういうわけかこども部屋に物心ついたときから大工道具が置いてあるんですよ。鉋(かんな)とか、鋸(のこぎり)とか、そういう道具がなぜか自分の部屋にそろっていて、いつも親父から自分で何か作れと言われてきました。誕生日のプレゼントというと、材木屋に材木を買いに行ったりするんですよね。貧乏ではないんだけれども、裕福な家庭じゃなくって、たとえば『プラモデルでも、高いのと安いのがあるわけです。高いのは、扉が開くんたけど、安いのは開かないんですよ。そうすると自分で扉を切ってね、開くようにしたりとか、そういうふうに自分で工夫して作ることに対して両親が道具を買ってくれたりとか、非常に協力してくれました。それは今になって思うと、ありがたかったかなーと思います。

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福岡の実家は高台にあって、自分の部屋からいつも夕日がばーっと見渡せるようになってて、こどもの時に部屋にいて、一日中変わって行く太陽と空の関係とかをずっと見てて、僕はコンピューターを使って何かやってるんですけど、その時体験した本当の自然が今の自分の中に刻まれています。 小学校のころは工作が非常にうまかったです。でも学校の授業がだめで、ものを覚えるっていうことに対して意欲が湧かなくて、作ったりすることが非常におもしろくって。6年生の時に『科学と理科』っていう本があって、それにおまけが付いているんですよ。ベルが付いていて、電気が流れると鳴るわけです。これで電話ができるなと思って、マイクとスピーカーのセットを作って、自分は電話だって喜んでたら、親が驚いて夏休みの宿題に出すといきなり文部大臣賞をもらって、家の中では「この子は勉強はできないけれどエジソンだ」って言われていました。

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サッカー少年が美大を目指した理由

ところが、その辺がちょっと屈折していて、兄はクラシックの勉強をしてて、物心ついた時から東京に行っちゃったし、家自体が文化的なにおいがする家で、何か自分はそういうのが非常に嫌いで反抗してて、小学校低学年は図画工作が得意だったんですけれども、後半からはサッカーを高校までずーっとやっていて、途中から体育会系になっちゃったんです。高校も、勉強系のクラスと、運動系のクラスに分かれていて、僕は運動をしっかりやるクラスに入っていて、全国大会に出たんですけど準決勝で負けちゃったんですね。それが11月ぐらいで、実は、サッカーの特待生で福岡の大学に入ることに決まっていたんですけれども、準決勝で負けた瞬間「これは違うな! やっぱりサッカーじゃいちばんになれないんだな!」って思って、じゃあ僕は何が得意なんだったっけなあ、って高校3年の時に初めて過去を振り返った時、昔から図画工作が得意だったよなあ、って急に思い出して、担任の先生のところに行って「僕は美大に行こうと思います」って言ったら、先生が腰抜かしちゃったんだけど、それが12月ごろでした。

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で、よくわかんないんですよ、美大を受けることがどういうことかっていうのが。デッサンがあるって言うんだけども、描くのも初めてだから、知り合いの先生のところに行って、デッサンを習うんですよ。で、どこを受けるんだというので東京芸大受けますって言うと、じゃあ知り合いの先生がいるから、その先生に習えと言われ、東京の先生に習いにいったんです。その先生が、初対面で「君はサッカーをやっていたそうだな。サッカーは勝負だよ」って言うんです。「受験も勝負だ。君にとって最低の大学はどこだ」って言うので「自分にとって最低のラインは自分の実家から通える九州産業大学のデザイン科です」って言うと「じゃあ最高はどこだ」と言うので「最高は東京芸大です」って言ったんです。「じゃあ、受験も勝負だ。その2校しか受けるな」ということで、他を受けさせてもらえなかったんです。で、そういうことをやっていて、当然高校3年生の12月からですから、落ちまくって2浪して九州産業大学のデザイン科に行ったんです。で、その時先生から、いちばんで卒業しろよって言われて、めでたく首席で卒業しました。

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絵筆からレーザー光線に持ち変えて

大学1年生の夏休みに、兄がニューヨークにいて、ニューヨークに遊びに行ったんです。そこでニューヨークの美術館巡りをしてて、近代美術館に行ったときに、ピカソの『ゲルニカ』に感動して、モネの『睡蓮』を見て涙が出てきて、絵を描いてもこれ以上の上手い絵が描けるわけがないから勝負あったなって思って、日本に帰って大学の先生のところに行って「絵はやめることにしました」と言いました。やっぱり、なるべく人のやってないことをやった方がいいと思うんですよ。 そんな悶々としている時に、たまたまレーザービームのショーをやっていたんですよ。プラネタリウムのドームにロックの音楽に合わせて、レーザー光線を使っていろいろなパターンを映し出すショーをやっていたんです。それを見た時また非常に感動して、テクノロジーを使った新しいことっておもしろいんだなあって思って、大学の先生のところに行って、これからはレーザー光線がおもしろそうですって言ったら、その先生が「じゃあ俺が買ってやる。レーザー光線がどこで買えるのか調べてこい」っておっしゃってくれたんです。それまでは僕は本屋に行っても美術系のところにばっかり行ってたのに、突然ラジオ技術の本のコーナーに通い出すようになって、京都にレーザー光線の発生装置を売っている会社があるってわかって、先生に言ったら「よし」って言って10万円くらいする機械を買ってくれました。それがうれしくて、うれしくて。

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レーザー光線っていうのは、鏡を回転させたり振動させたりしてパターンを作るんです。最初はおふくろのコンパクトを壊してモーターを付けて回したり、金魚の酸素を送る機械に鏡を付けて振動させてレーザー光線を反射させて模様を作ったりしていました。そんなことをやってて、大学2年生の時に福岡の小さな画廊で展覧会をやったんですよ。展覧会って言っても、機械を置いて一日中ずっと待っているんです。お客さまが来ると「いらっしゃいませ。じゃあやります」って言って、ブーンってやるわけです。それが新聞に載ったんですよ。その時は本当にマニュアルで、スイッチを自分でカチャカチャ押してコントロールしていたんだけども、よくよく調べるとコンピューターがあるらしいって知ったんです。すぐ親に言ってNECのGP85を買ってもらったのはいいんだけど、学校に行ってもデザイン科ですから使い方を教えてくれないから、雑誌を読んでそこに鉄道模型をコントロールしようっていう記事があったので、それを応用してモーターのコントロールを始めました。 展覧会では、ちょっとかっこいいように作って「いらっしゃい」ってボタンひとつ押すと動き出すようにしたんですが、やっぱり疲れるなあって思ったんですよ。人が来るたびにスイッチ押さなきゃならないから。だったら記録した方がいいんじゃないかなと思って、その当時やっと一般用のビデオが出て来たんですが、たまたまそこの画廊のオーナーがビデオカメラを趣味で買っていたんです。そこでオーナーに借りてレーザーが写る様子を撮影したんですね。そこからおもしろいなあ、ビデオにはビデオの表現スタイルがあるなあ、と思って、その時にビデオアートっていうジャンルがあるのを聞いて僕もやろうと思ったのです。
テロップマシーンを使いました。白い部分に反応して色がついたりするので、まわりを全部黒くして、自分も真っ黒にして、お椀も黒くして、スプーンも真っ黒にして、ヨーグルトを入れて、ひたすら食べるんですよ。ヨーグルトの白に反応して、映像では真っ赤になったり真っ黄色になったりする作品を作ったら、スイスの国際ビデオアートコンクールに入っちゃったんです。それからはもう勘違いの連続ですよ。俺はもうビデオアーティストだ!って。

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テクノロジーからポップ路線へ

筑波大学大学院に入ってCGとかクローズアップ現代のタイトルなどテクノロジーを使う作品を作るようになりました。ところがテクノロジーってお金がかかるんです。つまり新しい機材やソフトを買わなきゃいけない。実はそれは今も続いている問題なんですけれども、現代美術の作家として作品を作っても、結局お金にならないんです。ある日、県立美術館の企画展で代表作家に選ばれてビデオアートの展覧会をやって、ところが終わった後にキューレーターから言われました。めんどうくさいし、もうこりごりだっていうわけですよ。大体ビデオアートするっていうぐらいなんだから、自分で機械とかモニターテレビを持ってない方がおかしいっていうんですよ。でもその展覧会に出してもらったお金っていうのが10万円くらいなんですよね。

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それでじゃあどうやって20~30万円もするテレビとか、何10万もするコンピューターを買えばいいんだよ!って思って、僕は頭に来て「じゃあもうやめた、方向転換だ、これからはポップ路線だ」って考えたのが、バンドでした。バンドは派手だからいいだろうって、バンドを作ったんです。それは変なバンドで、映像を使うバンドなんですよ。GIジョーのフィギュアにモーターをつけるんです。ライブのステージには人形のバンドが3人いて、僕たちは人形の後ろにいるんです。人形が音に反応して動いてガチャガチャやっている人形を後ろのプロジェクターで映し出すんです。それをやっていたら、いきなりYMOの細野 晴臣さんから電話がかかってきて、一緒に後楽園ホールでコンサートしたんです。それが大受けして、そうこうしているうちに坂本 龍一さんから電話がかかってきて、世界最大のTVのライブをして、ビデオになったり……。ところがまだその当時はテクノロジーが追いつかず、インタラクティブな表現ができなくて、途中挫折してライブ活動を辞めました。それからテレビとか映画の仕事をするようになって、現在に至るということです。

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CGアーティストとしての活動

(神戸ファッションミュージアムでの展覧会作品のビデオ上映)

CGはどういう順番で作られるかというと、大ざっぱに言うと、

1.モデリング(面と線で構成された形を作る作業。)

2.シェーリング(ガラスのコップとか、コップに水が入っているとかの質感を指定する。基本的にはそう見えているだけ。光り方、反射係数や屈折の状態を指定して、そういう数値を入れて行くとオブジェクトがあたかもガラスのように見える。他にテクスチャーマッピングっていう、カーペットの画像を貼り付けたりする。)

3.ライティング(どこに太陽があってどこにスポットライトがあるのかを決める。)

4.アニメーション(物の動きをある時間軸で指定する。)

5.レンダリング(①~④はプログラムで、⑤によってコンピューターが動画になる。)

6.合成(実写とCGとの合成。絵を重ね合わせる。)

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「人体Ⅱ」っていうNHKスペシャルのメーキングビデオがありますから、それを見てください。
(ビデオ上映)
僕はこの番組のCG監督をしたんですけど、思い出すだけで辛い仕事で。6本のシリーズだったんですけども、できあがったのは6本目の放送の朝10時なんですよ。2日前から編集をずっとやっていて、徹夜なんです。で、さすがに2日目になると、2~3日徹夜でやっているから作業が進まないんですよね。夜の8時からオンエアなんだけども、終わらないんですよ。アシスタントの子たちに座るな。座ると寝ちゃうから、立とう、と言って全員立ってやったんです。この番組は作るのに2年ぐらいかかったんですけども、やっと終わったっていう時に、そのスタジオにはNHKの人はひとりもいませんでしたね。NHKの人がひとりもいないスタジオで、打ち上げの乾杯をして「おつかれさまでした、もう二度とやらないよ!」って言っていたんですけどね、今でもうパート3なんです。 音楽に関することを言いますと、コンサートで映像を使うのですけど、YMOコンサートのビデオを見てもらいます。

(ビデオ上映)
YMOのコンサートは、スクリーンの大きさが、横85m、高さ25mです。日本中からプロジェクターを集めて、スクリーンはベルギーかドイツ製の特注で空輸して運んで来ました。このときも、坂本さんから電話がかかってきたのが1ヵ月前で、やってよと言われ、打ち合わせをしたのはイタリアのホテルで1回きりでした。さすがにこの時は大変で、本番の時に駅で気持ち悪くなりました。僕たちはドームの真ん中にある映像のブースにいるんですけど、スクリーンまで50m離れてるんです。それを繋いでいる100mのケーブルのチェックが大変でしたね。いろいろなところに中継点があるんです。すべてのスクリーンに対してのコントロールボタンが自分の手元にあるんですけど、中継点から僕のコントロールボックスに映像が来ているかどうかよくわからなくて、ちゃんと絵が出るか心配で、出なかったら相当恥かいちゃうから、その時のドキドキした感じは今でもよく覚えていますね。でもよかったのは、夜中にチェックでスタンドにひとりで座って映像流してもらったんですよ。僕が作った絵が夜中にどーんと流れるんです。その時はああー、やってよかったなーと思いましたよ。

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神戸へのメッセージ

僕はずーっと福岡で育ったので、港と街が近い感じが似ていますね。ただ、神戸とは海の向きが逆ですから違和感があるんですが、海と平地と山とのバランスがよくて自然が豊かなのが非常に好きですね。地震の時ロサンゼルスにいて、日本で地震だって聞いて、非常にびっくりしました。

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Profile

原田 大三郎(はらだ だいざぶろう)さん<コンピュータグラフィックアーティスト>

原田 大三郎(はらだ だいざぶろう)さん
<コンピュータグラフィックアーティスト>
*プロフィールは、ご講演当時のものです。
1956年福岡生まれ。日本を代表するCGアーティストの一人。筑波大学大学院芸術学部卒業後、ビデオアートと呼ばれる現代美術の作家としてスタートしたが、彼の映像表現はビデオアート界にとどまるだけでなく、コマーシャルの世界でも注目される。1989年にNHKで放送された『事故の博物館』ではビデオアートの表現方法を一般放送の中に盛り込み、テレビ番組として各界から絶賛され、80年代のビデオアート作品の最高傑作と呼ばれている。また1983年、「再生YMOコンサート」の映像監督として参加し、横85m縦25mという巨大なスクリーンにプロジェクターを使ってCGを中心とした映像を映し出し、10万人の観客を動員。同年、NHKの「人体Ⅱー脳と心」のCG監督を担当、世界各国で数々の賞を受賞。現代の日本においてCGなどの新しい映像表現を志す若者達のカリスマ的存在となっている。

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