神戸学校

神戸学校はフェリシモが主催する「神戸発 生活デザイン学校」です。

  • 浮島 智子さん(劇団「夢」サーカス主宰 )
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「神戸の子供達に愛と勇気と夢を ~プリマを捨てて注ぐ夢~」



<第1部>

バレエに会わせてくれたウルトラマン

まず、なぜ自分がいまここにいるのか、いままでの自分の生き方を話したいなと思います。まず第一に、なぜバレエを始めたかということですが、私はバレエが好きで始めたのではないんです。いまはウルトラマンに感謝の気持ちでいっぱいなんですけれども、ウルトラマンごっこが嫌いだったためにバレエを始めました。幼稚園に行っている時に、いまでも忘れない奥野君と稲本君というふたりがいて、ウルトラマンでは基地に女性隊員がひとりいるんですが、いつもなぜか私がその役に選ばれて、女の子とおままごとごっこをしていると「浮島! 稲本隊長が呼んでいるぞ!」という指令が出て、私は何をするかというと、滑り台の上に立つんです。下で稲本君が怪獣と戦うんですね。弱くて、すぐ負けそうになるんです。負けて倒れてくれたらいいんですけど、助けてくれーって滑り台をはい上がって来るんです。それを私が「隊長! 大丈夫ですか!」と手を差し伸べるというただそれだけなんです。それがもう嫌で嫌で、40度の原因不明の熱を出して入退院を繰り返すようになったんですが、なぜか親には、ウルトラマンごっこが嫌いで女の子と遊びたいのに遊べないからという、幼稚園に行きたくない理由を明かせませんでした。ある日、それだけ嫌いな幼稚園から帰ってこなかったんです。なぜかと言うとここの幼稚園は幼稚園が終わった後、バレエ教室をやっていて、私はバレエに興味はなかったんですけど、女の子だけの世界を見て、これだ! と思いまして、そこに迎えに来た母親に「何しているの?」って聞かれて「バレエ見ているの」と。母親は、私がとにかく幼稚園が嫌いなんだと思っていたので、このままではお友だちがひとりもできない、これはいいチャンスだからバレエ教室に入れようということでバレエ教室に入れてもらったんです。私はすごくうれしくって、バレエを習った次の日から午前中は家にいて、幼稚園の先生が「幼稚園に行きましょう」って迎えに来てくれるんですけど、電信柱にしがみついて髪を振り乱して「嫌だー」って言うんです。幼稚園が終わって皆が出てくる時に「おはよう!」って言いながら幼稚園に入っていって、幼稚園のバレエ教室に通いました。そういう姿を先生が見ていたので、卒園証書をあげましょうということになって、皆と一緒に卒園させてもらいました。

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将来の夢は?

ずーっとバレエをやっていたんですけれども、本当に将来バレリーナになりたいとか、舞台に立つ人間になりたいとか思ったことは一度もなかったんです。小学校6年生の時に卒業アルバムに将来の夢を書く欄があって、本当に悩みました。友だちが「浮島さんはバレリーナでしょう?」って言うんですけど、ただ好きでずーっとやってきただけで、バレリーナになりたいと思ったことはなかったんです。すごく悩みまして、その時書けなかったんです。次の日の朝、道に婦人警官が立っているのを見て「あ、これだ」と思って「婦人警官になりたい」って書いたんですが、いま卒業アルバムを見る度に「このころはバレリーナになりたいと思わなかったんだなあ」と思うんですけども、いつもそうなんですが、好きだからやっている、気がついたら結果が生まれていたという感じです。ものごころがついた3歳くらいから、自分のからだが一本の木のように感じていて、いつも目の前にチャンスが来ると考えずに必ずつかんでいるんです。周りの人からは、何でまたそんなことを、失敗したり後悔したりするんじゃないかと思われたことが多かったと思うんですが、自分自身では失敗したとか後悔したと思ったことが一度もないんです。だめでもともとといつも思ってて、やってみてだめなら本体の自分の木に戻ろう。そうすれば一本短い枝でも、すごく興味があって自分の幹に生えたのならば、だめだったとしてもケースとして自分が実際にやってどうだったかということを人に伝えられる、全部自分の勉強と思って3歳のときから好きなことをしてきました。15歳の高校受験の時に初めて親に反抗しました。その時はバレエが好きで好きでたまらなかったんです。だけど、自分の中では負けず嫌いな性格があって、学校の成績は平均点以上、クラスの10位以内に入るように勉強もがむしゃらにしました。好きなことをひとつやり遂げるには、親にバレエばっかりやっているから成績が悪いんじゃないと言われるのが嫌で、好きなことをやり遂げるなら人の10倍、みんながやることはやって当たり前。それができなかったら、いつでもやめなさいと言われるのが当たり前。だからがんばろう、とやってきました。そんな中、中学3年生の時に「高校受験しない」と宣言したんです。というのは学校に行きたくない、勉強したくないというんじゃなくて、イギリスのロイヤルバレエ団に入りたかったんです。

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ロイヤルバレエ団は普通の科目を主体に、自分のからだの筋肉の付き方、どの筋肉をどう使ったらどう動くかなどを授業の中で取り入れているんです。だから自分が将来このままバレエを続けていくのであれば、ただ勉強してクラブ活動して、おけいことしてバレエをやるよりも、自分の生活の一環としていまから筋肉の付き方、動かし方を学んでいきたいという気持ちで両親にロイヤルバレエ団に行かせてくださいと初めてお願いしたんです。そんなばかなこと言ってないで日本で高校行って大学行って、早くお嫁に行きなさいと言われたんです。願書を取りに行った時に初めて無言の抵抗を始めました。幸か不幸か急性盲腸炎になって、その日のうちに手術、入院していましたら、兄が近くの高校の願書を一方的に取って来てくれたんです。それが入試の一週間前で、抜糸前日に入試を受けました。保健室でひとりで受験を受けることになり、用紙を前に書き込もうかなとした時に、ひとりの男性が現れたんですね。私の目の前に座りまして「なぜ君は一週間前まで願書を取りに来なかったんだ」「なぜ君は一校だけしか受けないんだ」と、質問ばかりたくさんされました。私は正直に「学校に行きたくないんじゃないんです。勉強はしたいんです。でもいまは、その勉強プラス筋肉の動かし方使い方を勉強していきたい。勉強がしたくないからではなく、そういう勉強がしたいから、ロイヤルバレエ学校に願書を出したい」と訴えました。そういう話をずーっとしているうちに、ついにチャイムがなってしまいました。その方が「君、受験番号と名前ぐらい書きなさい」と言われまして、書いていると「君、もし高校に受からなかったらどうする?」と言うので「はい、とてもうれしいです。私の行き先はロイヤルバレエ学校です」と、自信を持って言ったんですよ。「お母さんの気持ちを考えたことがあるか? 君がこの学校に入らなかったら、いちばん悲しむのはお母さんだよ。お母さんに苦労をかけているとは思わないのか。とりあえず名前と受験番号を書いて帰りなさい。帰ったら、答案用紙に何も書かなかったとは言うな。がんばってきたと言いなさい」と言われまして、でも心の中では得意がっていたんです。この高校はもう落ちたから、ロイヤルバレエ学校に行こうと荷造りを始めてました。
次の日の合格発表の時に、もう落ちていると思っているからにこにこしていたら、なんと合格していました。それを見た瞬間にああ、合格してしまったと涙が出てきてしまいました。そしたら「浮島 智子さん校長室へお越しください」と校内放送が入ったんです。どうして? と真っ青になってとにかく校長室に行きましたら、入ってこられた方が昨日の方で、実は校長先生だったんです。「君は合格したよ」とひとこと言われて、私は「なぜですか」と訴えたら「君はこの高校で、一所懸命にいま勉強して欲しい。やりたいことを持っている君に感動した。どんなことでも応援してあげる。ただ、約束をして欲しい。赤点を取らず単位を落とさないこと。その約束が守れたら君はバレエを自由にやってよろしい」って言ってくださったんです。そして高校に入りまして猛勉強しました。16歳のときからプロ活動させていただいて、いろいろなところで踊らせてもらいました。

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香港バレエ団に入る

19歳の夏、私がいたバレエ団に、イギリスのロイヤルバレエ学校のディレクターがたまたまおけいこを見に来て、ずーっと1時間見てくださったんです。終わった後に本場の英語で「香港」と言われたんですね。英語は学校で習っていましたが、本場の英語で言われるとわからなくて、きっと香港に招待してくれるんだと思って、「YES」とその場で返事をして家に帰り「私は香港に招待されたから香港に行ってきます」と言っても全然相手にしてくれなくて「くだらないこと言ってないで、ご飯食べて明日も早いんだからもう寝なさい」と言われてしまったんですが、自分は香港に行くと決めて練習していたある日、香港バレエ団のディレクターから、英語で書かれた契約書と飛行機のチケットが送られてきたんです。改めて両親に「一週間後に香港に旅立ちます」と言ったら大騒ぎになってしまって、なぜこんな大事なことを早く言わなかったんだと怒られて「ずーっと言っていたんだけど聞いてもらえなかったから、自分で密かに実はパスポートも取り、準備をしていました。この一週間で旅立ちます」と言ってから、友だちや親戚中の人がみんな集まって一週間後の旅立ちを祝ってくれたんですけれども、自分の中にもうひとりの冷静な自分がいて、集まってくれたみんなが「何かつらいことがあったら必ず帰って来るのよ。帰るところがあるんだから。家に帰ってくるのよ」と言われたんですが、飛行機のチケットを手にしながら冷静な自分が「飛行機に乗った瞬間から、私には帰るところがないんだ。もう一生日本に帰らないかもしれない。もしかしたら今日限り親や友だちの顔も見ないかもしれない。でも成功しない限り絶対帰ってこない」そういうふうに心の中で皆にお別れを言って飛行機に乗って、19歳から右も左もわからない海外へ出てひとりでがんばり始めました。香港バレエと言いましても、イギリス人、フランス人、アメリカ人とインターナショナルで、言葉は全部英語で、皆が集まって笑っているんだけど、何で笑っているのかわからないのが悔しくて、辞書とノートと鉛筆を買って、皆が笑ったら気づかれないようにメモして、トイレに行って辞書を引いて「ああ、これで笑っていたのか」という日々が続きました。言い出したらきりがないほど大変なことがたくさんありました。みんなから「日本に帰りなよ。日本に帰ったら、こんなつらい思いをしないのに」と言われることもたくさんありました。

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でも、自分は何をしにここに来たんだ。好きなことをするためにここにいるのだから、つらいことはなにもない、それがつらいんだったらそれほどバレエが好きじゃないってことだと言い聞かせていました。香港返還になると言うニュースが入りまして、これから外国人組と中国人組のキャストを作ると言われました。くるみ割人形の舞台で、いまは亡くなったマーゴットフォンテーンとか、ヌレエフとか、バレエ界の著名な方が見に来てくれて、チケットも1枚5万円のチケットだったんですけれども、一週間で完売しました。私は外国人組の主役をさせてもらったんですけれども、急に中国人組を強化すると言われました。「香港返還だから、中国人組よりも外国人組がいい演技をされると困る。中国人組だけリハーサルをしましょう」という態勢が始まったんです。すごく悔しかったんですけれども、見ているだけなんですね。2時間3時間、けいこをずーっと座って見ているだけなんです。でも、初日をやるのは外国人組の私たちなんです。5時になるとみんなが帰るので、みんなが帰った後、自分が主役のところからその他大勢までの最初から最後までを5時間かけてけいこをして、自分は舞台に立つためにここにいるんだから、それがつらいと思ったら帰ればいい。でもそれは違う。そう自分に言い聞かせながらその状態が1ヵ月続きました。そしていよいよ本番の一週間前、ゲネプロと言って、本番のようにオーケストラ120名が入った状態で、お化粧をして衣装を着て舞台げいこをするんです。8回の舞台げいこのうち、4回が中国人組、4回が外国人組と言われて、いままで一回も舞台げいこをやらせてもらえなかったので、このゲネプロを通して人との位置を計らなければならないんですね。ひとりで勝手に踊っていいのなら簡単なんです。この大きな舞台を自由に踊れるんですが、周りに人がいたり、装置があったりするので、それを避けながら踊らなければならないわけです。与えられた最初で最後の4回のけいこに命を懸けようという思いで、準備万端で望んだんですが、中国人組のけいこが終わった後に「はい、もう一回やりましょう! 外国人組は明日!」と言われて、涙が出るくらい悔しかったんですけど、外国人組は客席に座って、中国人組のけいこを見て自分の立ち位置をメモして、楽屋に帰って涙をためて化粧を落としていました。
あと3回! と次の日待っていたら、中国人組がまたやり直しで、それが続いてあと本番当日まで1回だけになってしまったんです。5万円のチケットを買って世界のスターが見に来るんだからがんばろうと、この1回に命を懸けて朝6時からひとりでけいこをして準備を整えて、舞台の袖から一歩足を踏み出した瞬間「はい、中国人組やり直しします!」と言われて、何なんだ! と本当にショックでした。この時、さすがにオーケストラの指揮者が「智子、もう明日は舞台に立たない方がいい。これだけ中国人組を大事にするのなら、完全に中国人組がやればいいじゃないか」と言いました。ひとりで踊るのなら、舞台に出て一所懸命踊ればいいですけど、舞台はひとりでは立てません。照明ひとつ取っても、中国人組の立ち位置と私が少しずれただけでも、前の照明も後ろの照明も横の照明も変えなくてはならなくなるんです。そんな危険を冒して、しかもお金を払って楽しみにして見に来てくださるお客さまに対する責任を思うと、舞台に立てないと思って荷物を詰めて、バレエ団に「今日限りバレエ団を辞めます」と言うと、何でですか? と言われたので「実は約2ヵ月間、一回もけいこつけてもらえず、私はいい舞台にしようと努力をしてきましたが、舞台げいこすら一度もやらせてもらえない、オーケストラとも一度も合わせてもらえずに、私はどうやって明日の舞台に出たらいいんですか?」と言うと、ディレクターは「何を言っているんだ。智子は舞台に出た一歩から拍手が起こるじゃないか」と言われたんですね。そこで私はすごくショックを受けたんです。「じゃあ、舞台に立つだけで拍手が起こるんだったら、有名なモデルさんを立たせてください。私はモデルじゃありません。もしも、一度でも舞台の上で練習をさせてくれたら、私は責任を持って明日の舞台を努めさせていただきます。そうじゃなかったら見に来てくださるお客さまに失礼です」そしたら、舞台げいこができるようにオーケストラ等に手を回してくれたんですが、うまくいかなくて答えは「ノー」でした。

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そこで私は「今日限り退団します」と言うことで初日は中国人組がやることになったんですけれども、次の日に家を出ようとしたらフラッシュがばーっと光るんですね。何なんだろうと思って、ひとりの記者の方に「どうしたんですか?」と聞いたら「あなたは今日の本番の舞台ををすっぽかした、これは重大な事件だ、今日の新聞を見なかったのか?」と言われて、街に行って新聞を見たら、香港の新聞にも中国の新聞にも自分の顔が一面に出ているんですね。すっぽかしたと書かれているんです。違うのに! と思ったんですけど、やっぱり一般の方から見れば無責任だ、舞台をすっぽかしたと見られる、でも自分では絶対違うということを認めてもらいたいと心の中で葛藤がありました。そして150名の記者が集まり記者会見をすることになって、始めはぴりぴりした雰囲気でしたが「本当に申し訳ありませんでした。でも、私はプロの舞台人として舞台に立つことができますから、一回でいいからステージで自分の立ち位置や照明などの間接的な最低限のけいこをさせてくれたら、私は責任を持って舞台に出ます。それができなかったから、私は舞台人として、一芸術家として責任を持てないから舞台に立てなかった」とお話ししたら皆さんご理解いただいて、次の日の新聞はいっせいに「彼女はすっぽかしたのではない、彼女はかわいそうだ、応援してあげよう」という内容に変わりました。それからは戦いの日々が始まりました。それまではバレエは好きだから、気がついたらやっていたという感じだったんですけれども、バレエ団を辞めて明日から何をしよう、と考えて、香港の総領事館で明日からどうするの? と言われた時に「香港には日本人のこどもがたくさんいる。広東語がわからないけどバレエが習いたいという子もいる。私は英語も広東語もわかるようになってきた。この子たちに文化を教えてあげたい、この子たちのためにカルチャースクールを開きたい」と言って、香港とシンガポールに「トモコカルチャースクール」を開校しました。バレエ・モダンバレエ・太極拳・書道など12種類ぐらいの教室を開き、それまで一ダンサーだった私は、一会社経営者になりました。12月に舞台を辞めて4月には開校しました。その4ヵ月間というものは、場所を探して、講師を探して、資金を募ってと、走り回っていたんです。
それまでは舞台に立つ人間っていうのはある意味ワガママで、それは人に対してのワガママじゃなくて、自分に対してすごくワガママなんですね。自分はお店に飾る一商品であって、自分を磨いていかに光るか? 自分が舞台で輝くのを第一の基準としているので、練習で疲れたなと思ったら、お友だちとの付き合いをカットすることが多かったんですけど、そんな自分が一変して学校を経営する立場になって、ゼロから始めた学校で、どうしたらいいんだろう? ということばかりで、最初の一年はいままで生きてきた10年分より速いスピードで過ぎていきました。自分の問題なんか問題じゃなくなっちゃう、その時はまだ24~5歳で、40~50歳の方から「社長、これはどういうふうにしたらいいでしょうか?」と言われて、心の中ではどうしたらいいんだろう? と一所懸命考えて指示をしていくという日々で、こういう世界に始めて飛び込んだので、毎日ががむしゃらでした。

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アウンサン スーチーさんとの出会い

そんな忙しい中、アウンサン スーチーさんが自宅で軟禁状態になっているというニュースを聞き、本当にかわいそうだと思って「一女性として応援しています、がんばってください」とお手紙を書いたらなんと返事が来てしまったんです。「ビルマにお越しの際はぜひお立ち寄りください」と書いてありました。お越しの際はと言われたら行くしかないということで、香港の総領事に行って「ビルマに行きます」と言うと「いまは危険だから言っちゃ行けない」と言われたんですけれども「君は止めても行くだろう、じゃあ行きなさい。その代わり向こうに着いたらすぐ大使館に連絡を取りなさい」と言ってくれて、早速香港からバンコック経由でビルマに飛んだんですが、バンコックからビルマにいく飛行機の中で隣の男性が私の顔を何度も見るんですね。何だろうと思っていたら「あなたのような若い女性がひとりで何をしにビルマに行くのですか?」と言うので、私はうれしいものですから、にこにこしながら「アウンサン スーチーさんに会いに行くんです」と言うと「あなたそんなばかなことやめなさい。無理ですよ。いまはどんな状況だか知っているんですか」と言われたので「知っています。そういう状況を聞いてお手紙を書かせていただいたところ、お越しの際はと言われたのでビルマまで来ちゃったんです。その代わりちゃんとお手紙をいただいています」と言うと、その方が急ににこにこしだしたんです。

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その方が大使の秘書だったんです。実は大使が私の前の方の席に座っていらっしゃって、そのまま飛行機の中で紹介していただきました。ビルマに到着して、大使館の車を着けるから行きなさいと言ってくださったんですけれども「私はひとりで行動してみたいので」と断ってひとりで探して行ったんです。信じられなかったのは軟禁されているというと、囲いがあって出られない状態だと思っていたんですけれども、何の囲いもないんです。行くと男性が出て来たので「実は今日スーチーさんに会いに来ました」と言うと「聞いております、どうぞ」と中に入れてくださって、上からスーチーさんが降りて来てくださいました。「テープレコーダーを使ったりしますか?」と言われたので「いえ、私は一女性として単純に応援しています、それだけで来ました」と言うと急ににこやかになられて3時間半ほど2人でお話させていただきました。
ご主人やこどもさんの話や、私の仕事の話をしていると「私はしあわせです」とおっしゃるので、なぜですか? と聞いたら「だってそうでしょう、ただ私がこうしてこの家の中にいるだけで誰かがしあわせになれるんです。それだけでしあわせです」それを聞いて、もし私が彼女の、夫にもこどもにも会えない、電話も手紙もだめ、そんな立場だったら「しあわせです」と言い切れるだろうか。なんて自分は小さい人間だろうとショックを受けながら帰りました。彼女の苦しみに比べたら、自分の苦しみなんて、何百分の一だ。このときの出会いは一生忘れないと思います。

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香港からニューヨークへ

学校には生徒800名とスタッフ40~50名が在籍していましたが、香港返還になり、中国政府から通達が来て、返還後は、すべてのバレエの教え方を上海式に変えるということになり、イギリス人やアメリカ人のバレエ学校があって、みんなで話し合いをしたのですが、みんな学校を受け渡し、中国に差し上げ、自分の国に帰ったり新しい生活を始めたりしていました。そんな中、私はがんばっていたのですが、返還の一年前に生徒のご両親から呼び出されました。「先生から教えていただいてとても感謝しています。でも、僕たちは一年ぐらいで他の国へ転勤していきます。僕たちにとってはいいことですけれど、一生をかけてやっていらっしゃる先生にとっては、返還と同時に学校を取られたらどうするんですか。お願いですからもう一度自分の人生を歩んでください」そこで私は「よし、そこまで言ってくださるんなら、もう一度ダンサーとして舞台に立とう」と、9年間住んだ香港をたたんでニューヨークに行きました。いざニューヨークに一歩足を踏み入れた時、観光ビザなので仕事ができないので舞台に立つことができません。そんな中、どうしても舞台に立って欲しいというお話しがあって、ゲストとしていろんな舞台に立たせてもらいました。でも、お金をいただけない、プロとして活躍できない。初めの一年間は「何のために自分はここにいるんだろう? 舞台に立つ為だ。人に感動を与えられたら、それが自分にとってとてもしあわせなのだから、舞台に立たせてもらえるだけでしあわせだ、どんなにつらくても、成功するまでは日本に帰らない、いまここで帰ったら負け犬と同じだ」そう思ってがんばって来ました。ある日、友人のバレエ団のけいこを受けさせてもらえることになって、行った時にたまたま隣でオーディションをしていたんです。そのオーディションの休憩の時にディレクターがけいこ場に入って来て、けいこが終わるまでけいこ場にいたんです。終わってからディレクターから「バレエ団に入らないか?」と言われまして「オーディションはもういい、彼女がバレエ団に入るから」と。それから、私はその時まで知らなかったんですが、アメリカで西洋のものをするためにビザを取るのは不可能に近いんです。

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歌舞伎バレエのような、日本のストーリーをする場合は、その舞台の期間のビザは簡単に取れるのですが、なぜ小さくて手足の短い日本人が主役としてバレエ団に入るのかを理解してもらわないといけないんです。そこで専用の弁護士さんをつけてくれて、私のいままでの経歴等の資料を国に提出してようやく2ヵ月後にバレエ団に入ることができました。入ったその日から全幕物の舞台をやらせてもらいました。10日間で3つの作品の主役のバレエをフル回転で踊って、バレエ団からは私に家も与えていただき、本当にありがたい恵まれた環境でバレエをやらせてもらっていました。そんな中、阪神淡路大震災をニューヨークのテレビ画面で知りました。「大変だろうな、何か自分にできないかな」とすぐに思ったんですが、何もできなくてもやもやとした気持ちで過ごしていました。その夏、たまたま母親の具合が悪くなったので初めて日本に帰ることになり、その時に友人である南部さんから「神戸に来ない?」と言われ行ってみると、震災の爪痕を見て取れるのは空き地が多いということぐらいでしたが、大変だったんだろうなと思いました。東京に戻り、ニューヨークに帰る前日に南部さんから「TVに出るから見てくれる?」と電話がありました。ちょうどハーバーサーカスを建てる時で「神戸を立て直すために俺がやらなきゃ誰がやる!」という姿が映っていたのです。友人として14~5年付き合ってきたんですけれど、前からすごい人だとは思っていましたが、ここまで他人のために行動をする人がこの世の中にいたことがうれしくなりました。
ニューヨークに帰ってから「ロメオとジュリエット」の舞台があって、終わって楽屋に帰ると廊下にはよくファンの方たちがいらっしゃるんですが、その時に60歳代の老夫婦が手をつないで涙を流して立っていました。話を聞くと、これはとてもアメリカらしいのですが、ふたりは離婚することになって、最後に思い出としてロマンチックに「ロメオとジュリエット」の舞台を見ようということになって観に来られたそうなんです。舞台の舞踏会のシーンでロメオとジュリエットが会う場面で「僕たちもそうだったじゃないか、一目ぼれして駆け落ち同然で結婚したんじゃないか、なのにいまはお互いの粗ばかりを探して悪口を言い合ってばかりだ。もう一度、あの時の素直な気持ちでもう一度やり直そう、もしそれがだめなら今度は悪口を言うんじゃなくて、お互い笑顔で別れようと決めました。本当にありがとう」と言いながら、その間ふたりでギューっと手を握り合っているんですね。それを聞いて体の血が引いて行く思いがしました。そして自分の役目は終わったなと思いました。

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帰って来てよかった

日本に帰って、神戸で何かさせてもらいたい。私はいままでの人生において後悔したことは一度もないんですね。でもいま、神戸に行かなかったら絶対後悔すると思いました。そこで退団届を出したんですが、バレエ団は大騒ぎになりました。当たり前で、弁護士さんもつけてくれて、私が入るまでにいろいろやってくださったわけですから。どこかに引き抜かれたんだと言われて、本当に大変でした。そうじゃなくて、日本人として何かをいま、させてもらいたいのだと言って13年ぶりに日本に帰って来ました。日本に帰ってから、ちょうどルミナリエがあったので、ルミナリエで無料で踊らせてもらいました。市民の方が「よかった」と涙を流して喜んでくれました。その姿を見て「このために帰って来たんだ、よかった」と思いました。
今度はこどもたちのバレエを作ろうと思い、3歳から小学校3年生ぐらいのこどもたちのためのバレエを作り、12月19日に大人のバレエ、24日にこどものバレエをすることになりました。震災でからだを悪くして入院をしていた6歳の女の子にその話をすると、とても元気に話をするんですね。23日のこどものバレエを見せてやりたいとご両親がお医者さんに外出許可を申し出たのですが、今年いっぱいの命で、とても無理だと言われたんですね。それにハーバーサーカスの前の無料の広場はとても寒いので、とてもそんな状態ではいけないと言われたのですが、ご両親が相談して「クリスマスイブだから、この子にプレゼントしてあげたい。この子の最後のクリスマスプレゼントにバレエを見せてあげたい」

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と、いまでも覚えていますがご両親はその子を毛布にくるんで連れて来てくれたんです。それを見終わって病院に戻ってから、早く元気になってバレエがやりたいといって2月8日まで生きてくれたんです。お母さんから「ありがとうございました」と言われた時、ああ、帰って来てよかった、私はこのために帰って来たんだと思いました。

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震災孤児に夢を

今度は神戸でミュージカルをやろうと、まず東京に走りました。小椋先生にこういうミュージカルがやりたいと相談に行って小椋先生に作っていただいたんですが、震災孤児のこどもたちに会いに行ったりして施設を回っていて、招待してあげたい人がいっぱいいたんですが、当初私の力では700枚しか招待に当てられなかったんですね。これは招待席を作るしかないと思いまして、右も左もわからない、名刺も持っていない私が、この会社いけそうだなと思う会社にコンコンとノックして内容を説明して、一枚3500円のチケットを100枚買ってくださいと言って、買ってくださったら、100枚のチケットを渡してから、もうひとつお願いがあるんですけど、このチケットを私にくださいと厚かましいお願いをしました。すると「なぜですか?」と言われて「このチケットで、100人のこどもたちが招待できるんです。震災孤児たちにこの夏思い出ができる。このこどもたちにプレゼントしてあげて欲しいんです。ご両親がいるこどもたちは、夏休みにどこかに連れて行ってもらえる、思い出ができる。でも震災孤児のこどもたちはもう一生そんなことはないんです。こどもたちの夏休みの思い出を作ってあげたいんです。」と言うとわかってくださって、そのうちに3500席の招待席ができて、たくさんのこどもたちを招待することができました。

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震災の傷を負ったこどもたち

私がたくさんの震災孤児と話をする中で、中学二年生の男の子なんですけれど、最初は話すのも大変でした。会いに行って話をしても、俺が殺したんじゃなかったら、誰が殺したんだと逆に問われるんですね。どうしてかというと、震災の時彼の家が潰れたんですが、ご両親が柱の下敷きになってしまったんですね。彼が助けようとしても重たくて上がらないんですね。後ろから火が迫って来てしまって、お父さまが、おばあさんに「頼むから連れて出て行ってくれ」と頼んで、泣き叫び嫌がる男の子の手を持って、おばあさまがありったけの力で外に連れ出して、そのあとに家が全焼してしまったんですけど、その男の子は、ご両親が泣き叫んで亡くなっていく声を耳に聞いてしまったんですね。その声を聞いてその男の子は、おれが殺したんだ、俺さえ1ミリでも5ミリでも柱を動かせていたら命が助かったんだ、自ら両親を見殺しにしたんだと。でもそれは話していったらその子だけじゃないんですね。男の子も女の子も6歳ぐらいから高校生、何百人と触れ合えば触れ合うほど、そんな思いを持っているこどもたちに出会うんです。

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こどもたちのためにできること

いま私がやるべきことは何か、この子たちを施設からまず出すこと、私ができることは無料で教えてあげること。じゃあ教えてあげよう、と開いたのが今回の劇団「夢」サーカスです。施設のこどもだけじゃなくて、一般のこどもたちもオーディションで全国公募しまして、施設のこどもたちはオーディションなしですけれども、初めはオーディションで受かったこどもたちの、何でこの子たちがいるの? という目に見えない線がありました。そんな中、私は親を立ち入り禁止にしました。なぜかというと、親がいるこどもたちが親にジュースをもらったり、汗をふいてもらったりしている姿をみると、親がいないこどものどこかに傷が残ってしまうと思ったからです。そうやっているうちに、しあわせいっぱいに育っている家庭のこどもが、施設のこどもをかばってあげるようになったんですね。そういう心のふれあいが出てきたんです。私は神戸へ震災を機に帰ってきたんですけれども、いまはもっと大きな意味で、例えばいまのこどもたちのキレてしまうとか、心の触れ合いが少なくなっているのが嫌なので、いまはできればなるべくいろいろなこどもに入ってもらって、一緒に作る喜びを分かち合っていきたいと考えています。

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神戸へのメッセージ

何が財産かといったら、お金でも地位でも名誉でもなく、人だと思います。私も神戸に帰ってきてそれを日々実感しているので、人が何か困ったことがあったら、言葉をかけてあげるように、本当に大切にしてほしいと思います。

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Profile

浮島 智子(うきしま ともこ)さん<劇団「夢」サーカス主宰>

浮島 智子(うきしま ともこ)さん
<劇団「夢」サーカス主宰>
*プロフィールは、ご講演当時のものです。
1963年東京生まれ。劇団「夢」サーカス主宰。元バレリーナ。3歳でバレエを始める。昭和59年六本木のスタジオ一番街(小川 亜矢子主宰)で踊っているところをスカウトされ、香港バレエ団に入団。同バレエ団のプリマドンナとして4年半活躍。退団後、渡米し、オハイオ州バレエ団で再びプリマに。1996年一時帰国の際神戸を訪れ、阪神淡路大震災で精神的打撃を受けた人々に芸術を通して夢と希望を与えることを決意。慰留するバレエ団の首脳を「いま行かなくては一生悔いが残る」と説得し、退団後帰国。被災地を中心に、一般からの公募で選んだ人々を中心にミュージカルやバレエの催しものをプロデュースするかたわら、自らこどもたちの演技指導を行い、被災者が演ずること、そして観ることを通じてその心をいやす活動をしている。継続的に心の復興と文化創造に取り組むべく1998年神戸初のオリジナル劇団、『劇団「夢」サーカス』設立。「神戸をブロードウェイに」という夢を持ち、精力的に活動を行っている。

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その他のゲスト

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