神戸学校

神戸学校はフェリシモが主催する「神戸発 生活デザイン学校」です。

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「新しい歌を歌え」



<第1部>

小説家の鈴木 光司です。昔、TBSの金曜の番組でレギュラーをしていた時に、街頭で鈴木 光司の認知度テストをしたことがあって、渋谷・原宿では100%認知されてて、とげぬき地蔵では0%でした。現在は小説家で、自分に「文壇最強の子育てパパ」というキャッチフレーズをつけています。今では父親像というものが変わってきていますが、家の中で父親が子育てをするというと軟弱なイメージがあって、これはよくないと思います。なのであえて「最強」という勇ましい言葉を「子育て」に付けてアピールしていこうと思っています。今日は「文壇最強の子育てパパ」ができるまでをお話ししていこうと思います。

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大きな出会い

生まれは浜松で、小学生の時に大きな出会いがありました。4年生の時に宿題で宮沢 賢治の伝記を読むことになって、宮沢 賢治と自分がそっくりなのを発見しました。その当時クラスでいじめがあって、みにくい女の子がターゲットにされていました。いじめられている女の子を見ていると、その女の子の心が自分に流れて来て悲しくなってしまうんですが、いじめっ子はそんなこと思っていません。

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いじめについての考え方がほかの子と違うということを感じてとても怖かったんですが、伝記を読んで宮沢 賢治は自分と同じ考え方をしていると思って興味を持って賢治を読み、特に詩は暗記するくらい読んで、自分でも詩を書き始めました。5年生の時に転校生の女の子が来て、一目見て好きになってしまい、直感で自分の妻がここにいると思い込んでしまいました。これが僕の初恋で、アプローチしましたが片思いでした。

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小説を書くきっかけ

6年生の時に、日記を毎日1200字書いて出せる人は出しなさいと先生に言われて、でも毎日原稿用紙3枚書くのは大変なことですし、別に義務ではなかったので出したり出さなかったりしていました。ある時、親友と張り合って半年間一日も休まずに日記を書く競走をすることになりました。毎日書かざるを得なくなったけど、彼には負けたくないと、日常生活についてだと毎日1200字も書くことはないので、空想世界のことを日記に書くことにしました。この時に初めて小説を書いたということになります。ペンネームで書いて先生に提出したら、先生はペンネームで書いたその小説をホームルームで読み上げて、才能があると言ってくれました。これが作家になるきっかけだったと思います。この言葉がなければ今の自分はなかったと思います。先生のひとことに気をよくして、連載小説を書き始めました。こどもたちが巨大なイカダを作って海を漂流していく話で、15日まで書いたんですが、話がどこにいっていいのかわからなくなって、太平洋がインド洋になったり、終わり方がわからなくなって未完になってしまいました。 5年生の時の初恋の人は、アプローチをしてましたが、ことごとく振られました。それでもなるべく一緒にいたいと思い、ペアで学級委員をやれるように手配をしました。裏でシナリオを書くのがうまかったんです。

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中学生の時は普通の生徒でした。そのころは自分は理科系のエンジニアになるのかなと漠然と考えていて、小説家になるとは思っていませんでした。初恋の彼女と中3の時に同じクラスになって、また、学級委員をふたりでできるように手配しました。高校が別々になることがわかると、卒業後のクラス会の幹事役に僕と彼女がなるようにしました。 中学の時は柔道をしていましたが、高校に進んでバンドを結成し、浜松はヤマハの本拠地なので音楽のコンクールが盛んで、バンド活動にのめり込んでコンクールに出ていました。上位5位に入って妻恋フェスティバルでプロと共演させてもらったり、前座で学園祭に出させてもらったりして歌いまくっていました。こんな楽しいことは一生続けていたいと思って、プロになるつもりでした。

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作家になるんだ!

バンドに熱中していて高校の成績はひどいもので、卒業してからは両親が働いている電電公社の電報配達のアルバイトをしていました。電報の配達は、4~5通たまってから配達するので、待ち時間が1時間くらいある訳です。その待ち時間に本を読むようになりました。それまでバンド活動で文芸の世界から離れていたんですが、太宰 治の『人間失格』を読んで非常におもしろくって、芥川 龍之介、夏目 漱石などをどんどん読むようになりました。小説ってこんなにおもしろいものなのか! 俺はバンドじゃなく作家になるんだ! と、直感を得て、そのためには何をしたらいいのか考えました。困ったことに小説家になるルートは確立されていないのです。新人賞を取って作家になる人は年間100人くらいいますが、99パーセントはプロの作家にはなれません。あこがれの作家の経歴を調べると、大学の文学部を卒業している人が多いことを発見しました。そこで大学に行くことにして、次の年に上京して高田馬場の四畳半の部屋に下宿して、一年間受験勉強をしました。

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高田馬場は古本屋さんがいっぱいあるし、作家になるという目的意識がはっきりしていたので、受験勉強が楽しい、光り輝く浪人時代でした。翌年に大学の文学部に入り、大学は作家になるための職業訓練所として、多方面に渡って授業を受けました。卒業後に就職するという意識はありませんでした。自分の時代には作家になりたいとはっきり言えなかったし、就職しないでフリーターで終わるのも怖かったのですが、でもいいや! と、作家になるために自分を追い込みました。アルバイトは塾の先生やオートバイの宅配便、フリーライター、新宿のオカマバーで照明と音出し、シナリオセンターで小説を書いて朗読など、いろいろなことをしました。卒業後も劇団とシナリオセンターを続けて、アルバイトで生活費を稼いでいました。

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初恋の彼女との恋の顛末

初恋の彼女は千葉大学をストレートで入って、帰省した時に彼女を誘ってラブレターを書いて渡すと、「光司君とはいい友だちでいたいと思います」という返事が来ました。片思いのまま、彼女は大学院に進んで、僕がフリーターの道に入ったころには高校の歴史の先生になっていました。僕は、小5の時の直感を確かめないといけないと思って考えました。結婚はタイミングが必要だから、結婚願望が高まる26歳の目前で先生になった今がチャンスだ! と、短期決戦を開始しました。彼女にはその時すでに婚約者がいたのですが、2ヵ月かけて落としました。ほとんど脅迫、ストーカーまがいで猛攻撃して強引に首を縦に振らせました。でも彼女の両親にあいさつに行く時、僕はフリーターだから反対されると思っていたのですが、お父さんが「君みたいな奴は大好きだ、ビールでも飲もう」と、全く反対されずフリーターは小説を書くためにやっているのを認めてくれました。

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結婚をしたことが自分の生活にとてもよかったと思うのが、小説を書くというのは、自信がなくなる時があるのです。彼女が僕の生き方を認めてサポートするのを決めてくれたことによって、自信を得てワンランクアップしたことは確かだと思います。音楽なら、演奏すれば拍手かブーイングかがすぐわかりますが、小説はわかりません。まず妻に自分の小説を読んでもらうために、手書きだと字が下手で妻が読めないのでワープロを買いました。読んでみて、と見せると、最初から「キャー、光ちゃんの書いたものすごい!」と大絶賛してくれて自信ができました。

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子育てパパの日課

結婚して2年目に長女が生まれました。子育てをどちらがするかというと、妻は高校の先生、僕はフリーターですから、当然子育ては自分がすることになりました。以前は結婚したら男も手伝うのだという意識はなかったのですが、偶然そうなりました。生後4ヵ月で保育園に入ると、送り迎えもするようになりました。赤ちゃんは人間の本能そのままなところがあるので、赤ちゃんを見ることによって人間がよく見えるようになりました。このことによって、もうワンランクアップして、そろそろハードルが越えられるなという実感がありました。そのころの日常は、妻が7時に学校に出かけ、その後僕がこどもにミルクや離乳食などの食事をさせて、9時に保育園に布おむつを5~6組とお洋服を持って送るというものでした。熱があると預かってくれないから、こどもの顔にふれたときに熱いと、その日一日は仕事になりません。だから少々熱があっても、頭を冷やして保育園に連れて行きました。それからは自分の時間で、午前中は試作の時間にして、読むべき本を持って喫茶店に行って読んで、昼ごはんをテレビを見ながら食べて、午後1時から執筆をします。5時半にはどんなに小説にのめり込んでいても、保育園に迎えにいかなきゃいけない。

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子育てはていねいにしている訳ではなくて、雑にやってストレスを溜めないようにしていました。でも娘を見てもいい子に育っています。保育園の帰りがけに夕飯の材料を買って帰り、帰ってから夕飯の支度と洗濯、お風呂洗いの三つのことをやり、夕飯は曜日ごとにメニューを決めていました。布おむつは洗濯が大変でした。ウンチのついた布おむつの洗濯はストレスが溜まりました。7時半に妻が帰るころには全部終わってて、帰ってきた妻に「君、お風呂が先? 夕飯が先? 」と聞くのが私の役目でした。寝るのは9時~10時ごろです。保育園は昼寝をするので、こどもは土日も昼寝をします。それに添い寝して僕も同じように昼寝をします。10年間保育園を送り迎えする中でそういう習慣がついて、ふだんでも8~9時間寝て、昼寝を1時間しています。

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『リング』の誕生

長女が生まれてそんな生活を2年ぐらいしたころ、そろそろ小説で何とかなりそうだと思って、仕事を減らしていきました。妻もこどもを産んでから1年間は講師という立場にしましたので、収入が半減しました。僕の収入も3万円くらいになって、家計がピンチになりました。そんな時に、500枚のいい小説が書けそうだというインスピレーションがやって来ました。小説は、書き始めることは誰でもできますが、書き終えることができないのです。1989年の4~5月ごろからインスピレーションに従って小説を書き始めました。4人の男女が、同じ時間に全然違う場所で死んだらどうなるか? という話を構想を立てずに、アドリブで書いて、思ったとおり500枚になりました。書き始めて200枚くらいの時にタイトルを付けたいと思って英和辞典をめくっていたら「リング」という言葉が目につきました。リングは「輪」という意味の他に動詞で「呼び覚ます」という意味があります。それいいな、と思って『リング』というタイトルを付けました。妻はこれを読んで、「これは絶対おもしろい! これは売れるでしょう! 」と言ってくれました。角川書店の横溝 正史賞の賞金1千万円が魅力で、『リング』を7月31日に応募しました。その3ヵ月後、11月11日に角川から「お会いしたいんです」と電話があって、編集長にお会いしました。「リング」は最終候補の3本の内の1本に残り、最有力候補であると言われました。てっきり1千万円入ってくるつもりで、妻とふたりであれを買おうこれを買おうと欲しいものをリストアップしたりしました。その時にふたり目のこどもを作るのもいいねという話になりました。学校の先生は産前産後2ヵ月休みをくれるので、10月30日に産むと7・8月に夏休み、9・10月に産前休暇、11・12月に産後休暇をもらって冬休みに入るのでいちばん得だと考えました。長女はそのとおり10月29日に生まれました。次女もその日に生もうと考えました。

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挫折の後に

2月2日の横溝賞の発表の日はドキドキものでしたが、見事に落選して、恐怖のどん底に落ちました。大きな挫折となりましたが、次の小説を書くことが打開策だと気持ちを切り替えて、違うジャンルの小説『楽園』という小説を書き始めました。『楽園』という小説は1万年の時を越えたラブストーリーで、締め切りが4月29日で、2月2日のその日にすぐ書き始めて新潮社に送りました。日本ファンタジーノベル大賞候補5本のうちの1本になり、優秀賞に選ばれて250万円の賞金を手に入れました。この作家デビューとほぼ同じくして10月30日次女が産まれました。ふたり目が産まれても、保育園の送り迎えは変わりません。このデビュー作の『楽園』は2万部売れました。『リング』は2年間お蔵入りしていて、生原稿のままだったのが1991年やっと出版されましたが、初版で7,000部しか売れませんでした。1991年から1992年に『光射す海』という書き下ろし小説を書いて、これも7,000部しか売れませんでした。1年間かけて書いたものの収入が約100万円でした。これでは職業としては成り立ちません。ところが、有力な出版社の編集者が来て、うちから本を出してくれと言ってくれて1993年から『らせん』を書いていました。1994年から1995年の春ごろ、担当の編集者と銀座の文壇バーに行った時、大家の先生が2~3人いたのに、次の店に行こうと僕が立ち上がると、ほとんどの編集者が僕についてきたので、人間が動く、これはいけると思いました。その半年後に『らせん』を出版したら売れ出して、『ループ』も売れまして、『リング』『らせん』『ループ』は、あらゆるメディアで売れて映画化され、ビデオやアニメ、舞台にもなりました。台湾では『リング』が『タイタニック』を抜いて1位になりました。『リング』を書いて落選したのが、今思うとよかったのだと思います。ショックの挫折から心を入れ替えて次の作品にトライして、狭いジャンルに捕らわれずに書くようになったからです。それに、もし横溝 正史賞を取っていたら、1,000万円の賞金と印税しか入りません。2次使用料は主催者側に行ってしまうんです。映画化されてもお金は入って来ないんです。2次使用料はすごいんですよ。紙一重で切り抜けた、きわどいところでした。

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未来は明るい

僕はひとつ挫折があっても根がポジティブなのか、いい方向にもって行くようにしました。いろいろな事件が起こって「世も末ですね」で締めくくるとどうしようもないと思います。昔よりも今の方がいい時代だと思います。これからは新しいものよりもっと価値のあるものを見いだして行くべきだと思います。科学は人間を幸福にしたのか? とよく言われますが、僕はしあわせにしたと思います。医学の発達によって死者が減ったとか、いい面もあると思います。変な事件があると、動機のはっきりしない殺人が増えていると報道し、悪い所へスポットを当てて捜査が行われているような気がします。マスコミは、世の中がどんどん悪くなっていくように言いますが、よくなっている点もたくさんあります。奴隷制度があった時代よりもない時代の方がいいし、婦人参政権のある時代の方がない時代よりいい時代だと思います。解決しても解決してもいろいろな問題が提起され、それでも解決して来たのが人間です。解決しようとする気持ちがあれば、世の中はよくなると思います。こどもたちに、世の中は悪くなってゆくと思わせたらシラケてしまうと思います。上の世代が「未来は良くなるから、君たちはちゃんとしなきゃいけないよ」とこどもたちに明るい未来を見せてあげて伝えなければならないと思います。昔より現在がよくて、未来はもっといい、その根拠は何もないですが、信じればいい。みなさんの未来は明るい、と言う言葉で締めくくります。

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神戸へのメッセージ

『らせん』が売れて、最初のサイン会が神戸だったんです。地震直後の秋だったと思います。僕の本は大阪や神戸でよく売れているようで、神戸のみなさんに感謝しています。神戸は港を連想します。僕は海や船が大好きなので、親しみが増します。

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Profile

鈴木 光司 (すずき こうじ)さん<作家>

鈴木 光司 (すずき こうじ)さん
<作家>
*プロフィールは、ご講演当時のものです。
1957年浜松生まれ。高校時代はロック少年。大学時代から演劇の世界に進み、シナリオセンターと劇団未来劇場に所属。1998年劇団を旗揚げ、シナリオ執筆、演出を手掛ける。1990年日本ファンタジーノベル大賞を受賞した『楽園』で作家デビュー。同年『リング』が第10回横溝正史賞の最終候補に。他の著書に『光射す海』『生と死の幻想』『らせん』『仄暗い水の底から』『ループ』などがある。1998年『リング』『らせん』が映画化された。

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