神戸学校

神戸学校はフェリシモが主催する「神戸発 生活デザイン学校」です。

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「忘れてはイケナイ物語~戦争童話集~」



<第1部>

僕自身はいつも緊張して生きてるわけなんですけど、その基本のところには55年前に受けた空襲っが根っこのところにあると思うんです。

昭和13年、このころまでの神戸は世界でいちばん美しい町でした。
少年時代の思い出の街・神戸
その街の魅力、人災、天災、変革……。

司会の方が「昔の神戸は」というようなことをおっしゃいました。本当にきれいだった神戸っていうのは昭和13年の4月の初めくらいまで。昭和13年の4月20日、僕が小学校2年生の時の国語の時間、当時は「よみかた」と言ってましたけど、かちかち山の教科書を読んでいるときに避難命令がおりて、僕は灘区の石屋川のそばの成徳小学校にいたんだけど、そこから表へ出たら神戸の東西を走る道っていうのが全部川になってて、いまのJRの高架が、堤防みたいに高くなってて、そこで遮られているから、その上を通って家へ帰った覚えがあります。(阪神大水害のこと)
このころまでの神戸は、世界でいちばん美しい街と言われていました。当時の人口もすでに数百万近くあり、京都より上、横浜と並んでいる、そういう街、大都市でした。しかも重工業都市で、またヨーロッパ航路の拠点でもありました。で、この神戸ってのは山がすぐそばにあって海がある。僕が住んでるところから15分もあれば山へ行っちゃう。20分足らずでもって西国街道を超えていくと酒蔵があって、酒蔵の向こう側は本当に白砂青松のきれいな海だったんです。自分が泳いでいて、影が日に照らされて、海の底に影になって映ってるくらいに水が澄んでいました。
神戸というのは山と海に恵まれていて、「帯のように狭い」って言われていたけれどもそれだけじゃなくて、六甲山に降り注いだ雨が花崗岩質の山の中に入って、それが山のふもとで泉となって吹き出るもんですから、いたるところに泉があって、池がありました。昭和13年あたりだと、中国との戦争も始まってましたけれども、外国人がたくさんいました。僕の住んでいる灘区の方からちょっと西の方に行くと、三宮、元町があって、元町の向こうから神戸駅があって、楠公(なんこう)さんがあって、楠公さんから向こうに行くと福原という場所があって、その福原というのは、ここにいらっしゃる方は僕より年上の方でもあまりもう経験はないと思うけれども、島原・吉原・福原っていう日本の三原(さんばら)って言って、それに数えられる日本の有名な遊郭だったわけですね。
その遊郭の隣が新開地で、これはまぁ大変な劇場街で、浅草の6区に並べ称せられるような劇場が大変多かったですね。

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そういう歓楽街もあれば、元町っていう非常にしゃれた店の多いところもあって。三宮を降りるとすぐ「そごう」っていうデパートがあって、元町に「大丸」っていうのが当時いちばん新しくてしゃれたものを置いてあるってことになっていましたけれども。元町のすずらん通りというのは後で道路が拡張されましたけど、もうちょっと狭くてごちゃごちゃしていて、ちょうどいい商店街で、後で数えてみるとその中に6件の古本屋さんがあったんですね。本屋さんもずいぶんありました。古本屋がたくさんある盛り場というのは大変結構なんです。なおかつ隣には、イギリス直輸入の洋服屋さんがあるとか、帽子屋さんがあるとか。それから「トアロード」ってところに行けば「ハイウェイ」というレストランがあって、ここはおそらく当時の日本ではいちばんレベルの高いレストランだったと思いますが……。つまり神戸でもって、陸にあがってそれまで船のコックさんをやっていた方がレストランをそこでもって営む、これは当然これまで日本になかった。せいぜい東京なんかだと豚カツがどうしたの、カレーライスがどうしたのって言っているけども、神戸の場合にはマルセイユならマルセイユから直輸入のような技術でもって洋食を作っている店が比較的たくさんあったんですね。
僕は当時六甲道駅の山側の永手町に住んでいまして、そこにも「ビーファイブ」っていうレストランがあって、いまから考えるとちゃんとした洋食を出していましたね。こっちへ行くと大変結構なハイカラな街があり、またさらに向こうに行けば僕たちは足を踏み入れる事はできなかったけれども歓楽街があって、で、また東の方に行くと甲子園球場があるわけでしょ。で、上へ上がれば宝塚がある。宝塚っていうのは、ディズニーランドみたいなもんですね。おばあさんは清荒神に行っておじいさんとお父さんはあそこらへんの料理屋でもって遊んで、お姉さんとお母さんは宝塚の少女歌劇を見て、こどもたちは動物園へ行くっていう……。それから遊園地があって……。誰もが楽しめるような場所があるかと思えば、西宮球場もあるし甲子園球場もある。甲子園球場の隣には日本でいちばん立派なプールもありました。なおかつ自然に恵まれているわけで、ドライブウェイもあれば、神戸は歴史のない街だからなんでもかんでも初めて、初めてっていうのを威張る所ですが、ゴルフ場でも日本で初めてだとか、ドライブウェイでも日本で初めてだとか、あとはマッチとかなんだかんだいろいろ威張っていますが、(現在「マッチ棒」は兵庫県を代表する産品であり、姫路市周辺で日本の生産量の80パーセントが生産されている。兵庫県のマッチ生産が盛んになった背景として、原材料の輸入、製品の輸出に便利な神戸港が近くにあったことと、乾燥工程の多かったマッチの製造に瀬戸内の気候が適していたことがあげられる。)なにしろ神戸っていうのは実にこどもにとっても楽に生きられるし、大人にとってもややハイカラ趣味を満足することができるし、大阪の商人の街とか京都みたいに伝統の古い街だとかそういう街と違って、神戸には自由なのびのびとした雰囲気があることはありました。
それが、昭和13年に「阪神大水害」があって、これは、谷崎 潤一郎の小説『細雪』にも出てきますけれども。はっきり覚えていますが、なにしろ大変な洪水でした。住吉近辺は一面砂っ原になっちゃったんですね。あそこんところでゴロゴロゴロゴロ山から落っこちてきて……。ずいぶんたくさんの方も亡くなったし、三宮近辺は材木だらけになって大変な被害を受けてました。そういった被害を受けたときに神戸市を創るのは、伝統的にだいたい都市計画をやる人間たち。そういう人が市長になるんですね。いまの市長もそうですけれども、当時の市長さんも、もともとは土木事務所の所長でした。満州で奉天だか新京だかそういう新しい街づくりをした人で、昭和13年に新しい神戸づくりのためにわざわざ呼び寄せられたんですね。確かに神戸の山はくずれやすいから、例えば雨が降るとみんな砂になって川に流れてしまうんで、川床がどんどん上がってくる、川床が上がってくるから神戸の川はすべて天井川ですね。天井川のいちばん極端だったのが湊川で、湊川っていうのがひとつの境になっちゃって兵庫と神戸を分けてしまうという、そういうことにも繋がるんですけれども、その川を整備した。川を整備したのと山を切りくずしちゃって、どうせくずれるんだったら切りくずしてその土でもって海を埋めてしまおうっていう計画は、昭和13年からあるんですね。昭和13年ごろの神戸都市計画のあらましのその地図を見てみると、ほぼいまと同じようなことがちゃんと書いてあります。

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役人っていうのはすごいって思うのは、戦争が激しくなる前、「弾丸列車」っていう構想があった。それは東海道線とはまた違うところで、もっとスピードアップした汽車を、しかも日本の場合にはレールの幅がそれまで狭かった、狭軌ですね。それを広軌鉄道にしようと計画された「弾丸列車」の通りに、新幹線っていうのができてるんですね。そのときにすでに新神戸も新横浜も駅として、そこの所は用地買収の寸前までいっている。それがそのまま生き返ったのが昭和39年にその開業した新幹線なわけですけれども。昭和39年に開業した新幹線ですが、昭和13年のときにすでに神戸の山をくずして海を埋めるという、発想があって、ただし戦争でもってそれはとてもできなかった。なおかつその神戸は進駐軍がイーストキャンプ、ウエストキャンプってとこに居座っちゃってなかなか発展ができなかった。中心部をすっかり取られちゃってたから。それで結局昭和31年に、王子(おうじ)に国体が来たんですね。その国体以後、神戸はむやみに発展をし始めたわけです。そんなもんだから神戸はさまざまな手を使って、後に「神戸株式会社」って言われますが、新しい都市計画をやることができたわけです。神戸は他の都市に比べると本当にその後の進歩というのはすごくて、またその住宅環境の整備から、あるいは工場を誘致するためのいろいろな基盤を整えるというふうなことに非常に有利な立場にあったし、行政面でも有能であったかもしれません。ただ僕らにとってみると、往年神戸というようなものがまず僕らのころにはひとつの大変な警告でした。つまり、石屋川の上流そのものが全く谷底になってて、そこに深山幽谷という感じの鶴甲山って山だったんですがこれを削っちゃって、その削った土のせいで石屋川の川そのものの流れがなくなっちゃったからその川をダンプカーの通り道にして、その鶴甲山の土をどんどこ埋めて、それでポートアイランドを造るってことになったわけなんですね。だから神戸に来るたびに、かつて自分が蝉取りに行ったりカブトムシをとりに行った山がどんどん丸坊主になっただけじゃなくて、なくなっていく。それからもちろん住宅地が山肌をどんどん這い上がっていって、これはまぁごく一部の方しかご存じないと思うけれども、「一王山十善寺」っていうお寺があったんですが、そのお寺は小学校1年生の時に行く遠足の場所だったけれども、これも住宅地に飲み込まれてしまう。
僕の家は14歳の時に戦災でもって焼けちゃったんだけれど、やっぱりいかに戦争中とはいっても14歳までは、腹が減っているとか中学生になっても全然勉強なんかしないで勤労奉仕ばかりやらされていると、その中につらい記憶もありますけれども、年ごろからいって、やはり輝かしい時代には違いないですね。特に僕の場合には家がおかしくなっちゃったってせいもあって、往年を感傷的に美しく飾る傾向がありますから、つい昔の神戸というものを求めて、ある時期は月に一度くらいは物書き仲間を7、8人連れて神戸に来ていたんですよ。そのうち僕は神戸市観光課から表彰されるんじゃないかと思ってちょっと期待していたけれども、その点で言うと神戸って所は冷たいところですね。

(会場:笑)

神戸の面影というのは、そのころあたりから、阪神淡路大震災までですね。戦争で僕の家は焼けたんだけれども、お向かいの家の塀は残ってたんですね。その塀を見せたり、僕が小学校の帰り道に溝に向かっておしっこをするときにいつもひっかける石があったんですが、その石が残っていて、それを東京から連れてきた連中たちに「あの石が俺が小学生の時にしょんべんをひっかけた石だ」って言って僕が感に堪えていると、他の連中はほんとにうんざりした顔をして(会場:笑)「それがどうしたんだ」って言うから「それがどうしたって言われても困るけれど、そういうもんなんだ」(会場:笑)って言ったりなんかしながら、酒ばかり飲んでました。それでもそういう石があったり、お向かいの塀が残ってたり、それから例えば大石川の下の方に行くと、造り酒屋が昔のまんま残っていましたね。それから西国街道も。その街道沿いの建物をいちいち説明してみたり、夕方になるとコウモリが飛ぶと「そら、神戸にはコウモリが飛んでる」なんて言って、顰蹙(ひんしゅく)されたりしたことがあります。残っている昔の神戸をずいぶん探し歩いて、その片鱗というようなものを見つけることはできたんです。
そして今度、僕は神戸の山の上へ上がって行ったんです。山の上へみんなを連れていくと、昔の神戸っていうものが漠然と見えるし、右の方には淡路島、向かいには和歌山があって、左に大阪が見えると。よく目を凝らすと通天閣が見えたりしたもんですよ。それをいちいち説明することが僕はうれしくて、本当に月に一度ずつ来ていたわけですね。神戸の市章というのは、扇の都と言われている防波堤みたいな、あれ自身をそのままかたどったと言われてるくらいで、これが僕にとってみると神戸に帰ってきたという証でした。戦争中には、ヨーロッパ戦争が始まったために帰れなくなっちゃったシャルンホルストっていうドイツの船がいつも繋がれてたとか、とにかく上から見るとそれなりに昔に戻ることができたし、またそれをあれこれ説明することが僕自身楽しかったんです。
さすがに昭和13年以前の僕が知っている、よかったと思われる神戸について言うなら、こっちも幼かったからその後で身につけた知識でそれを補うところがありましたけれども、それ以後のことだったらかなり綿密に覚えているわけだから、それを言うことによって僕自身生きることの確かめみたいな……。いまで言うとアイデンティティというのは、焼けるまでの神戸にあったような、そういった感じがあって、いったんそれにのめりこむと、僕はそれを脱稿現象って言ってましたけど、あれと同じでなんか過去に向かって自分の現在がずっとこう戻ってしまうような、そういう空耳で誰かの声が聞こえて来たり、あるいは当時お風呂を炊くっていったら石炭で炊いていたから油煙のにおいとか、何もかも、一度何かのきっかけでもってそっちへ入っちゃうとのめりこんでしまうみたいな。一種トリップするみたいな格好でもってあれこれ手探りすることができたんです。

ところが震災のあったときに、これは天災ですから如何ともしがたい。その後の例えば復興ぶりというのはまことに結構で、高速道路がひっくり返った所も、復興の物資を送るためにとにかく早く片づけなきゃいけないと、世界がびっくりするくらいに早く片づけちゃったわけですね。つまりこの前の神戸の時でもそうだと思いますけれども、国道2号線の上のひっくり返った所の人たちは町がこんな明るかったかってびっくりしたらしいですけれども、本当に高速道路っていうのが普通にあると思っている年ごろの方にとってみるとそれがなくなった街っていうのがちょっと想像しにくかったらしいですよ。だけども神戸はあれをあっという間にもとに戻しちゃったわけですね。
神戸の復興も「ルミナリエ」からでしょ。あの年の暮れに、光のイルミネーションができた。あのイルミネーションは、家をなくした方たちにとってはそれどころじゃなかったんだけれども、それでも僕の見ている範囲では、光の列というふうなものを見に行くことによって、自分自身のいまの不況もやがてはうまく行くだろうという確かめにしているような感じを受けました。あのルミナリエ以降、神戸はかつての国体があったのと同じような感じで復興し始めました。
そこに、神戸は都市計画でいろいろな大きなビルが建ちつつありますけれど、本当に新しくできた神戸は、僕はちょっと神戸の街を顔を上げて歩きにくいって言うか……。地震の前まではまだなんだか往年の神戸というものがそこかしこに残っているような感じがしていたんですけれど、生まれ変わった新生神戸というのは、住んでる方にとっては確かに結構な街だろうと思いますよ。神戸から逃げ出した東京の人間が、全然その生活の実感もないまま神戸の行政なら行政のあり方についてとやかく言うことはないし、ここに住んでらっしゃる方は確かにいろいろと便利らしいですね。だからそれはそれでいいんですけれども、ただ神戸というものに思いをかけている人間からすると、ちょっといまの神戸には行きにくい。

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いまのところ僕は阪急電車ってなものに乗っかってちょうど武庫川を出たところで、六甲山地の東のはずれのあたりを夕方を見てると、六甲山のシルエットというの、これはなんか昔のまんまみたいな気がします。ただ、昼間だったらかなり変わっていますからね。山の上へ行ったら今度はもうポートアイランドや六甲アイランドはあるし、まごまごしてるとその向こう側に空港ができちゃうっていうでしょ。そう、僕にとってはまるで別の街になっちゃう。そういう感じはするんですけれども僕自身は山のシルエットを見ることで神戸に帰って来たっていう、なんかそういう感じがするわけです。
あと「21世紀、21世紀」って言いますけれど、21世紀に未来なんかまずないと思いますよ。(中略)

21世紀っていうのはあんまり明るい世紀ではないですね。先行きいい事は考えられないですね。21世紀になったらこんな輝かしい世の中が用意されているっていうふうには誰も言わないでしょ。誰も言わないけども、だけどこの自然に恵まれているってことだけをちょっと目をつければ、僕自身は他の国はどうなるか知らないけども、日本みたいにもともとは恵まれてるんだから恵まれているところをもうちょっと見直せばいいと思います。なにも自然にやさしくとか地球にやさしくとか、地球を蘇らせるとかおおげさなことを言わなくても、神戸においてはどうだかわからないけれども、東京ではガーデニングっていうのがはやっています。
そこへいくと神戸の場合には、目に見えるところに緑があって海があって、立派な山があるわけですよ。東京の場合には山なんてないんですね。本当によく晴れた日に、はるかかなたの山、箱根の山とか、富士山なんてものが見えないでもないけれども。とにかく山を見ようと思ったらちょっと無理です。それから海は、東京湾。東京湾はさまざまな生き物がいるらしいけれども、だけどそれを釣ってどうのこうのって人はいないんですよ。だから、東京には自然がないからなんとかしなきゃいけないというふうな感じがいくらかあるんですよ。で、神戸の方たちもやっぱりここまで海と山を虐げてしまうと具合が悪いと思って、何かやるような気持ちもあるんだとは思うけれど。ただ、さらになんか便利な街を創るための方向にまだ舵が向いているんじゃないかと思います。
とりとめのない話ですが、むしろ神戸っていうのは本当に自然に恵まれているっていうか、しかもなおかつ機能的に都市として最も整備されているところなんですね。神戸空港が必要だったらそれもいいでしょう。もうここんとこまできたら都市化というものの極限に来ているわけで、また別の形でもってあんまり自然というふうなものを壊すというよりも、自然を、例えば都市そのものを壊してでもいいから自然を取り込むってことについて、神戸は常に先端を行く街だから、ファッションの先端も結構ですし、食い物の先端も結構なんだけれども、また逆に言えば都市としてのあるべき姿というものをこれだけ自然に恵まれてるだけにそちらの方向に進んでいただければ、また僕自身も神戸についての、全く手前勝手な感傷的な思いですけれどもそれについていささかの老後の満足がかなうかもしれないと思って、それをお願いいたします。

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だんだん時間がなくなっちゃって……。
では、戦争童話集の話をします。

僕が戦争童話集をなぜ書いたかというと、何とか伝えることはできないだろうかと思って。婦人公論という出版社で、読者が完璧な大人であるところにあえて童話という形式で書いてみたんですね。童話だからと言って、“昔々……”と母親がこどもに読み聞かせるみたいな童話じゃなくて、つまりは母親に伝えるための童話です。もはや、こどもとか動物とか、そういった人間がすべて死んでしまうっていうような戦争の話なんかをしても嫌がられるような、そんな世の中でしたから。だからせめて童話って形式を借りればできるんじゃないかと思って、童話って形でもって作りました。
戦争終わってから26年目っていうあたり、だんだん戦争を知らない世代というのが少し前に言われていて……。僕自身も空襲は知っているけど、戦争を知っているだろうか? 確かに戦争は知っているけど戦場は知らない。戦争を知っているって言えるのは、外地へ行って、そこで戦場に身を置いた人。あと国内で言うならば沖縄県の人、これは戦争を知っていると言えると思うんです。僕は空襲は知っている。およびそれに前後する飢えは知っている。だけども戦争は知らない。そうは言っても、あれは日常茶飯事のことではなくて、やはり特別な時代、状態であったっていうふうに思っていて……。“昭和20年8月15日”っていう冒頭の言葉はいつも同じもので、27年前に1年間連載したんですね。
それを黒田 征太郎さんが彼なりにストーリーを借りながら、自分なりの表現の仕方としてアニメーションを作ったんです。黒田さんは、娘さんと一緒にニューヨークに行っていましたから、娘さんがどんどん英語に慣れてしまって日本語を忘れそうになっている。しかし日本人であるなら日本文化をちゃんと根元においといて、その外国の文化をその上に築き上げていくということが本来あるべき姿であって、なかなか日本の土着から離れることはできないわけだから、黒田さんは黒田さんなりに、自分の娘に読ませようと思って、日本の本屋を歩いていたら、そしたら古い古い僕の本が一冊あったんでそれを手にとって娘さんに読ませながら、なおかつ自分も読んで、それで彼は彼なりに戦争を伝える手段として、12巻のアニメーションをたったひとりで作ったんです。描いた絵は3万枚。つまりアニメーションですから少しずつ動かさなくちゃいけない。3万枚だから、1巻あたりだいたい2500枚くらいの絵を描いてそれをさまざまな方法でそれを模してみたり、あるいは水に浸してみたり、破ってみたりって格好で、いろいろな実験をしながら僕の戦争童話というものを彼なりのアニメーションとして作ったのがこの戦争童話集です。これはいろいろな方が、語りとして僕の文章を読むことでもって絵を説明しているわけですけれども、その絵と語りというものが、まことによくマッチしていてなかなか僕はいい作品だと思います。

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それも含めながら沖縄編というのを作るっていうことで、いま僕自身も沖縄に行くし、黒田さんも100回以上沖縄に行っています。僕自身も童話というスタイルで考えた場合に、沖縄の地上戦というのは、空襲で逃げ惑ったとか、腹が減ったとかいうのではなく、そこには日本の兵隊が何十万人かいたわけですけれども、その兵隊の死者が、だいたい8万から10万人って言われています。そして、沖縄の民間人の死者ってのは15万から20万人って言われています。民間人の方がたくさん亡くなってわけです。それで、その亡くなり方が……、焼夷弾も爆弾も怖かったでしょう。だけど火炎放射機にもろに狙われるとか、自分が隠れている向こうには自然の洞窟がありますけれども、そこに入り込んじゃったときに上のほうから機械で穴をあけられて、そこから手榴弾を放り込まれる……、その穴を開けられている音を聞く時の怖さとか……。あるいは向こうの方から米軍が来るわけです。こっちは隠れている。隠れているときに赤ん坊が泣き出す。赤ん坊が泣き出すから、ついその赤ん坊の声を止めようと思って口をふさいで息を潜めている。米軍がいなくなっちゃったんでふさいでいた手を離したら赤ん坊が窒息しているという……。こういうとてつもない状態っていうものが出てくるわけです。それから日本軍が沖縄県民の話す言葉が違うもんだから「言葉が違うからスパイだ」と思っちゃって、日本軍によって日本人がたくさん殺されたということもあるわけです。
そういう現状を見てしまうと、とてもじゃないけれども沖縄の地上戦を童話にすることはむずかしそうだって思ってしまって……。結局、定められた期限では、僕は書くことができなかったんです。沖縄にいない人間が書くってこと自体がおこがましいことと、一度は放棄したんだけれど、だけども僕は改めて沖縄編というものを書き続けていて、黒田さんに会ったときにそれを渡すつもりです。
来年の春くらいには「沖縄編」が、第13巻目としてできるだろうと。さらに言うならば「原爆編」も作るべきなんでしょうけれども、これはちょっと、なんとも僕には考えられないっていうか、原爆をどういうふうな格好でもって文章にしていいのか、だけど僕自身は原爆には手はつけられないような感じですが。

(映像:戦争童話集「小さい潜水艦に恋をしたでかすぎる鯨のおはなし」)

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<第2部>

お客さまとのQ&A

お客さま:
21世紀、我々はどういうふうに知恵を働かせていくと長生きできるのか。先人たちの知恵を、後に残っている人へも教えていただけますか。

野坂さん:
長生きというのはひとつの言い方であって、人間として悔いのない生活を送るということだろうと思うんだけれども。先人の知恵っていうほどのことは、僕はとても言えませんけども……。まぁ、僕の小説などを読んだらいいんじゃないかと思いますがね。

(会場:笑)

お客さま:
関東大震災から77年、東京に大地震が来ると言われながら東京の人たちには危機感がまるでありません。やはり人間というのはそのときにならないと、わからないのかもしれません。東京に住まわれていて、この状況をどう感じられますか。

野坂さん:
この前の戦争の時もそうですけれども、東京の3月10日の空襲に始まって、それがいかにひどいものであるかってよくわかって……。そして、それが名古屋、大阪、神戸と来ました。大阪は6月1日でした。次が6月に来るってことは誰もがわかってたんです。しかもなおかつ一度来たら1000人単位の人が死んで焼け野原になるってことをわかりながら、あんまり大きな最悪ってものが来るってことが予想がついていても、自分だけは大丈夫だというふうにみんな思っていました。
現実問題として、関東大震災みたいなプレート型の震災はまだ100年くらい来ないんです。いまの地震で言うと、あるとすれば直下型地震なんで、それがどこらへんが震源地なのかもおおよそわかってるわけです。また南海地震というのは非常によく調べていて、これはもういつ来てもおかしくない。南海地震が来ると静岡は壊滅状態になるっていうのはわかっているんですよ。それからあと、東京のあたりもかなりの被害を受けると。
だけど、もし大きな被害が来て、自分の力では如何ともしがたいというときに「じゃあそんなえらいことになるんだったら会社を辞めてどっか行こう」ったって、日本列島の場合、はっきり言って地震の来ないところはないわけですよ。行くところもないということもありますけれども「まさか来ないだろう、来ても俺は大丈夫だろう」って思うことで生きているのが人間の一種の生きる知恵といえば知恵なんですよ。で、明日地震が来るかもわかんないと怯えきってた日には、これはノイローゼになっちゃって生きられなくなるわけです。
人間はあまりにも大きな災厄に対しては無力で、どっちかといえば運を天にまかせるというところが基本的にあります。だから神戸の地震のときに非常に神戸の方たちの神経を逆なでするみたいに、東京へ来ててよかった、東京じゃなくてよかったというようなことをすぐに言った人間がいますけど、確かに東京の人間も神戸のことをいろいろ聞いてペットボトルを買ってみたり、大事なものを枕元に置いていたのはほんの三月です。それがいまはまったく飽きちゃって、しかもいまは日本列島あっちこっちで噴火があったり地震があったりしてます。だから切迫しているということは誰だって知っているんですよ。知っているけど、具体的にじゃあもう一度家の中を検査して、神戸の地震なら地震というものを近代化された都市の中で、あまり重いものを2階に置かないとか、高いところに重量物置かないとか、「地震が起こったらどうもものが飛んでくるらしいから」といったことをやったのはやっぱり1年間くらいですよ。いまやまったく元通りになっちゃって、で、いつ来てもおかしくないんだけれども、まだ来ないだろう、まだ来ないだろうっていう神頼みみたいなもんですね。これは空襲のときと全く同じです。僕自身は恐ろしくそういう点が臆病で、2階にあるものは全部下におろしちゃったし、それから重量物は寝ているところには絶対来ないようなふうに片づけちゃったんですね。これはまぁこどもがいなくなっちゃったんで夫婦ふたりですからそれはできるんですけど。やはりそういうことについて具体的にちゃんと持続して怖がっているっていう人間はやっぱり変わっていますよ。

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この前の神戸の地震でも、新幹線が走る前の5時46分だったからよかったようなもんだけど、あれがもう3時間後だったら死者数が1桁上がってましたよ。それからあともう3時間前だったら真っ暗闇で何が起こったかわからないって、とんでもない混乱が起こったと思うんですね。それから、もしも1月じゃなくて6月に起こっていたら避難所は病気だらけになっちゃうでしょ。それから第1、食べ物を配っても腐るだろうし、排泄物の問題があるだろうし。こういう言い方はまったく申し訳ないんだけれども、1月17日午前5時46分ってのは、まったくよく考えてもらったもんですよ。男手がまだ家にいて、勤め人はまだ出ていない、新幹線もまだ走っていない。で、いちばんいい時間に来た、みたいな。だから、あれで済んだわけで、いま東京に来ると56万人死ぬって言われているんですね。
東京に地震が来るっていうのは何も昨日今日の話でなくて、ずいぶん前、昭和20年代から言われているわけです。運がよければ神戸程度で済みますよ。だけど普通のウィークデーの昼間にあったら、56万人くらい死んじゃうんじゃないですか。まぁ耐震ビルも増えているし、必ずしも56万人という予想が正しいかどうかはそりゃわからないけども、だけど具体的な何か準備もしていなければ、災害が起こったときにそれをカバーするべきあるシステムとかを作る気配もない、東京はまったくダメですよ。地震があったらどちらに行きなさいっていう方向を指示するものだけなんだけれどもしない。また、それぞれの東京に乗り入れる車には必ずトランクの中に消火器とロープと、なんか簡単な工具を備えることを義務付けておけばそういう1台1台の車が消防自動車になるわけでしょ。そういうことくらいやってもいいわけだけれども、そういうこともしませんね。それから各自それぞれ食べるものについてちゃんと自分でもって買っときなさいということを言ったっていいわけで、自分がやっぱり3日なり5日なり10日なり、誰にも頼らなくても生きていけるんだ、というくらいのことを各自がちゃんと持っているべきだと思います。東京の人は、そのへんの危機感のなさというのは信じがたいくらいに(危機感が)薄いですね。東京は、あんな街をつくっちゃったんだからえらいことになるってのはわかりきっているわけなんです。わかりきっているならそれなりの覚悟ってのは持つべきだけれども、どうもそっちの方への想像力が完全に失われてしまっています。これはちょっと不思議なくらいですね。

フェリシモ:
先ほど自分のことは自分で始末するという言葉が出てきたんですけれども、それに加えてこの間の神戸の震災ではひとつの地域が震災に遭遇したとしても、それ以外のところでそれをフォローする体制ができていなかったという話をなさっていましたよね。そのことについて、もう少しお聞かせいただけますか。

野坂さん:
おもに、東京、あるいは静岡に来るってなっているわけですね。そしたら静岡でも神奈川でも東京でもあるいは群馬だって、茨城だって危なんですね。そしたらひとつお互いさま、昔でいう“頼母子講(たのもしこう)”みたいなもんですよ。それぞれお金をプールしといて何かがあったときには、食べ物や非難する場所もお互いに決めておいて、例えば、俺んとこが焼けたらお前んとこへしばらく行くと、そっちが焼けたら俺んところへ来いと……。
そういう格好でもって疎開をしてみたり、あるいはいざというときにはそっちで頼むという……、こういう形での約束ごとはこれはとてもじゃないけど国家はやってくれませんから。各個人でもってやることが無理だったら行政の県単位でもって、例えば年間1億でもいいからプールしておくわけです。それでいざという場合にはすぐに、そっちへお金を送ると。この前だっていちばん必要だったのはとりあえず現金なわけでしょ。あるいは少し時間がたってから全国から衣類が届くなんてそういうことじゃなくって、まず避難所なら避難所にいるときに避難所にいる人たちを、空いている家に優先的にただで入れてしまう。そうすればあんな冬の最中に公会堂やら小学校の講堂やら、体育館に延々と2月も3月もいなくてもすむわけ。
この前戦争の時には、避難所になった成徳小学校(当時は国民学校)もやっぱり避難所だったんです。大和町、仲郷町、それから徳井町、備後町、琵琶町の被災者は全員、成徳小学校に入ったんです。3日間ですよ。みんな3日間でもって特配の毛布とか缶詰とかお米とかをもらってそれで自分のそれまでに約束していた、比較的焼けていない田舎や自分の親戚のところへとりあえず身を寄せたわけです。それができたんですね。
だけど今度の地震の場合はあまりにも突然だったし、生活様式が昔と違っちゃってるもんでなかなかそれができかねて、それでああいう所に何ヵ月もいたなんていうのは、例えば先進国として考えた場合にはあれはみんながびっくり仰天するくらいに遅れた現象だったんですね。いまはもっと各自治体同士が助け合うしくみをつくっておくことも大事だと思うけど、そういう動きというのは気配もないですね。

お客さま:
「21世紀は暗い」とおっしゃいましたが戦争の本はどういう気持ちで書かれていますか? もうひとつ、『火垂るの墓』という作品が戦争の悲劇や生々しさを物語る感動の作品であるわけですが、ご本人とこの作品の関わりについて一言、思いをお伝えください。

野坂さん:
『火垂るの墓』、あれはいかにも僕自身が主人公みたいだけれども、僕自身が主人公だったら、あの主人公は死んじゃうわけですから、そのままじゃないわけで……。当時1歳4ヵ月だった僕の妹は確かに飢え死にしましたけども、1歳4ヵ月じゃ話にならないっていうか、会話が成り立たないから4歳って設定にしちゃったけど、ほぼあんなふうな経験に近いことを僕はやりました。ひとつだけ違うのは僕は、主人公のお兄さんみたいにやさしくはなかったですね。配給のとき1歳4ヵ月のこどもの口にはとても合わないようなものしかないんです。だし大豆のとかなんとかね。だし大豆ってのは煎って食べるんですけれども、とても1歳ちょっとのこどもの食べられるもんじゃないわけで、大人が食べたって下痢しちゃうわけですから。例えばそれを口の中で柔らかくしてやろうと思って口の中に入れて妹にやろうと思うんだけど、僕はやっぱり腹が減っているときはひゅっと飲み込んじゃうんですよ。結局は妹の食い物を僕自身が食ったという結果になっちゃったってところは、僕自身ずいぶん一種の負い目みたいな格好でいまも残っていますけどね。それを話の上で穴埋めするみたいな格好で妙にお兄さんをやさしい兄に書いたんです。でも、本当に飢えに追い込まれてしまうと親とこどもでも親はこどもの食い物を食べますよ。つまりこどものためなら親は命はいらないっていうのは瞬間的にはぱっと思う。だけど恒常的になると、親とこどもの間において言うならば親はこどもの食べ物を食べて自分は生きぬくっていうのは、これは生物の理にかなっているわけです。親がもしも飢え死にしちゃったらこどもも飢え死にしますからね。親が生き残れば親はまた新しく生殖行為をしてこどもを産めばいいんです。だから親が生き抜く方が大事なんですね。弱い者と強い者がいて、どっちをなんとかするっていったら強い者が生き残ることがいちばんなんです。
例えば飢えてる国へ援助しますね。あの援助ってのもなかなかむずかしいんだけれども、3人飢えてるこどもがいると。そこにふたり分の食料しかないときにふたり分の食料はあくまでふたり分の食料であって、3人で分けたら3分の2ずつになるわけでしょ。3分の2ずつだったら3人とも栄養失調で死んじゃうわけですよ。だから3人の中でもってふたりを選ばなきゃしょうがない。そういう時、現実に木登りさせて、ちゃんと木が登れたスピードの順に食物を与えて、最後のひとりには食物を与えないっていう……、それくらいにきびしいもんなんです。

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だから飢えというものについて言うならば、質問してくださった方には想像もできないだろうし、まったくマリー アントワネットみたいなもんで、パリ革命が起こったときに「パンが食べられないならお菓子を召し上がればいいのに」と言ったというそんな世間知らずのひとつの例として言われますが、いまの皆さんも多分米がなくなればラーメン食えばいいだろうとか簡単にそう思っちゃうかもわかんない。だけどなくなるときには1発で全部なくなりますから。アメリカがいくらこっちに輸出しているといったってアメリカがもしも取れなかったら輸出のしようがないわけで、自分の国の国民が飢えているときに日本を助けるわけがない。日本がいくら金持ちだってね。
そういう状態といったものは、当然次の世紀には来るわけで、そのためにどういう覚悟を持っておかないといけないかっていうと、結局はやっぱり自分のことは自分で考えるってこと。ほんとに食い物がなくなったら自分だけ食えればいいっていうふうに、そりゃ世の中いろいろ人がいますから、そんなふうに極端に言っちゃいけないかもわかんないけど、基本的には自分だけ食えりゃいいと。それくらいに飢えってものはすさまじいもんで、だから人間てのはこうやって生き延びてきたんですね。そんなみんなが慈悲深く自分が食わなくても他人が食ってもいいみたいな格好でもってお互いが融通し合っていたら、人類なんてこんなふうにはたくさん生き延びられなかったわけで、弱肉強食の世の中になってしまうのが飢えの時代です。
僕は、その中に放り込まれたわけで、現実問題としてこうやって生き延びています。でも、豊かな世の中になってくると僕はいわゆるご馳走っていうものを食べられないです。対談とか座談とかっていうとよく料理屋に行くんですけれどね。料理屋に行ってこれ見よがしな料理が出てくると食べられないですね。それから僕のこどもが小さいときに、クッキーをもらって、半分だけ食べてポッと捨ててるのを見ると、ものすごい憎しみを覚えましたね。あの世っていうものがあるんだったら自分の妹にこのクッキーを持っていってやりたいって気持ちは痛切にあったんですね。
そういう気持ちが『火垂るの墓』であのお兄さんをやさしくしちゃって、あれが戦争によってもたらされた悲しいお話かもしれないけれど、一方において兄弟愛みたいな形で受け取られています。

フェリシモ:
いつも神戸学校のゲストには“神戸”について一言お願いをしているんですけれども、今日は十分神戸についての野坂さんの思いを語っていただきましたので、今回は、お客さまのご質問に変えさせていただきたいと思います。

お客さま:
あまり明るくない21世紀を担う若者にメッセージをください。

野坂さん:
そりゃまたむずかしいですね。

(会場:笑)

あまり明るくない21世紀っていうものははっきりしているわけだけれども、これをつくったのはこっちですからね。これから生きる人たちに何の責任もないわけで、だけども何を取り上げてみてもろくでもないことしかないんですね。
僕らの時には大きくなったなら軍人さんになるとか、あるいは戦後の時期なら将来は社長になるとか、一流企業に入るとか、なんか漠然たるそういう希望があったでしょうし……。いまの若い人たちが30代、40代になったときに自分がどういうふうになりたいかなんて、これからの日本が置かれる状態って言ったらまったく定めがたいっていうか、どういう職業に就いたらいいのかわからない。かつてのように偏差値を高めて一流大学に入って一流企業に入って、そうするとうんぬんってなことは完全に神話でもって潰れちゃいましたからね。だってほんとに一流企業なるものがいつひっくり返るかもわかんないってことはよくわかったわけでしょ。それからいわばここんとこだけは大丈夫だろうと思ってた警察っていうのもずいぶんぼろぼろだし、それからお医者さんってなものもめちゃくちゃだし、それから弁護士も昔に比べりゃ権威はなくなっちゃったし、どこに行ったらどういうふうに保証されるのかっていったら自分を頼る手がない。
はっきり言っちゃえば、生き残ろうと思ったらそりゃ田舎に移ることですよ。田舎に移っていれば大地の近くにいたら飢え死にすることはないですからね。自分をきちんとやっとこうと思うんなら農村へ行くことだ。だけどそう言ったってなかなかできることではないでしょ。

なるべく多く情報を集めるっていう。その情報はテレビを見るとかなんとかじゃなくってやっぱり自分の「皮膚感覚」っていうか、生物として生きる本能としての感覚は若い人の方がずっと優れているはずだし、そういう目で世の中の動きを切実な感じでね。他人事じゃ甘いんだから。だから自分でもって決めなきゃならない。これから自分が何を生きる指針とすればいいかってことがこれほど定めにくいときはないし、また上の方の人間、僕のような年代の人間、あるいはいまの若い方たちの親もなかなか教えてあげられない。本当に混迷の時代なんでいまの若者たちは気の毒だと思いますけれども、だけど若いってことが、なにはともあれいちばん強いってことですから。だからやっぱり生き残るということを考えて、昔の中からいろいろな知恵をちゃんと救い上げて、で、その時その時の流行に取りまぎれないことです。

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Profile

野坂 昭如(のさか あきゆき)さん<作家>

野坂 昭如(のさか あきゆき)さん
<作家>
*プロフィールは、ご講演当時のものです。
1930年 神奈川県鎌倉市生まれ。早大文学部仏文科に在籍中、アルバイトでさまざまな職業を遍歴し、CMソング、コント、テレビ台本などを書く。その後、民放TV分野から活字分野へ転じる。1963年、童謡「おもちゃのチャチャチャ」の作詞家(補作・吉岡忍)としてレコード大賞作詞賞受賞。小説『エロ事師』発表。1967年、「火垂るの墓」(アニメ映画『火垂るの墓』の原作)「アメリカひじき」(『アメリカひじき・火垂るの墓』新潮文庫)で直木賞受賞。1997年 『同心円』(講談社)で吉川英治賞受賞。

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