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「20世紀最後の12月~絵本とその周辺」



<第1部>

五味 太郎さんとその周辺。
絵本はこどもだけのものじゃない。

五味です。よろしくお願いします。僕は人の話聞いてるのはあまり好きじゃない。だから、対談がうまくなくて、だいたい僕がしゃべっています。僕が作っている雑誌に、ゲストを呼んで対談するコーナーがあったけど、「五味さんひとりでしゃべってるからゲストにもしゃべらせてください」って……。人の話聞いてるのが好きじゃなく、だから学校がだめだったんです。
少し説明が前後しますが、絵本をただ趣味で描いていて、それがこどもの本って形で設定された時に、「ああ、そうなんだ」と思ったわけ。僕はそういう意識はなくて、絵本をただ描いていたんです。例えば売り込みに行くと、編集者が「これ、こどもに何を伝えたいんでしょうか?」と言うわけです。「特にないんです」と言うと、「じゃあ、何で描いたんですか?」、「おもしろかったからです」みたいな、だらしない会話をずっとしていて、そのうちに「こどもに何か伝えなくちゃいけないのかなあ」とか、「それが絵本の義務なのかなあ」みたいなのがあって。でも、「多分それはないんじゃないだろうか」って思って。
で、どさくさにまぎれて本を出し始めて、何となく売れて、何となくやってるうちに、少しずつ周辺のことがわかってきたんです。重たさもおもしろさもわかってきて、その重たさのひとつには、「大人は、いろいろなものをしょいこんでいて、こどもに向かって、どうしたらいいか、こうしたらいいかということをいろいろ考えているんだなあ」っていうことがあり、それが気になり始めたんです。同じ絵本を描くのでも、例えばよい子のための絵本みたいなのがあって、「暴力的なものっていうのは、読んでるうちに暴力的になるからいけない」、「ワイセツ的なものを読んでるとワイセツになるからいけない」っていうのがあって、「そんなもんかなあ」って思って。こどもは、例えばマンガでもいいんだけど、暴力的なものを読んでるうちに暴力的になったってことが実際あるんだろうか、ワイセツなものを読んでワイセツになっちゃったってことがあるんだろうかって考えてくと実は全然ないんです。ただ、好きだから読んでるわけ。本を書く時、こどもに何か影響を与えるっていうことを大人は気にするんだなあ。だから、きちっとした暮らしをすると、きちっとしたこどもになるみたいな。何々をすれば何々になるっていうような、因果関係みたいな形でこどものカリキュラムみたいなのをものすごく組み立てられてることに気がついて、意識的に研究するようになったことが実際にあります。

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僕の中でいうと、こどもっていう存在はなかなかいいやつだよね。能力あるんだよね。彼らに足りないのが、寸法なのね、まだ成長してないから。当然経験が少ないから知識が少ない。あとお金持ってないのね。だけど、意地も根性もプライドも見栄もあるんだよね。そこの部分だけが、ちょっと違っていてほかは普通。普通っていうよりかなり上等なの。例えば絵本を読むのでもかなりいい読者なの。全然アプローチが違うんですよ。あのこどもたちに何を教えたり、何を学ばせたり、何をしつけたりは必要ない。必要ないっていうより、彼らはそういう立場にないんじゃないかって自然に思うの。実は今年の6月におじいさんになりました。つまり娘がこどもを生んだの、孫がいるの、こいつが何かよさそうなやつなの。寸法が小さいし、お金がないし、知識がない。でも、それ以外はちゃんとしている。こどもっていうふうにとらえなくて済むような生物なんだよね。ところが僕が属した世界、こどもの本を作るみたいな世界があった時に、どうもずれるの。例えばある言葉を使って、「これこどもにわかるか、わかんないか」って悩むわけ。でも僕は「わかってもわかんなくてもいいな」って思うわけ。実際あった話ですが、例えば「木枯らしがやって来た」っていう文章があるとします。「木枯らしってこどもはわかりますかねえ。わかんないかも知れませんねえ」って編集者が言うんです。「わかるやつもいるんじゃないですか」って答えると、苦し紛れに編集者が、「『強い北風』ではだめでしょうか」って言うの。だめとかだめじゃないっていうそんなレベルの議論をこどもの本ってしてるのね。ところが僕にしてみれば、わかってもわかんなくても、きっとあるものを感じてくれるなあと思う。例えば物を壊すようなシーンがあると、いけないんじゃないかとか。で、こどもたちっていうのは保護して大人がいろいろ教えて、導いて、何するべき人々だって設定されちゃってるわけ。それが幼児で終わらなくて、幼稚園入っても、小学校入っても、中学校入っても、下手すると大学まで、その幼い人々は、大人が教え導いていくべき対象の人々だっていうふうに設定されてるわけ。
ここで問題なのはそれをこうむる側、つまり幼い人々若い人々は実はそう思ってないっていう誤差があるわけ。つまり、自分たちは指導される人々だって思ってるわけじゃないけど、システムがそうなってるわけ。システムがこどもたちは学んで大人の言うことを聞いくっていう形の中で、大人になっていくっていうことを大人側の理論でプランされた人々なわけ。
これを冷静に考えてみると、例えば発展途上と位置づけされている国の人々は、高度に成長してる国の人々から教育を受けたり、指導を受けたり、援助を受けたりして、保護されるべき人々だって設定されちゃうわけね。例えばある島に着いて、そこに島の人々がいる。その時に瞬間に思うわけね。ここの人々は文明の光にまだ当たってないって思うわけ。で、問題なのはそこの島の人。島の人っていい人が多くて、魚獲ったり木の実採ったりして、だいたい問題なくのんびり暮らしてるわけ。それが船で文明人がやって来て、「君たちには文明がない」って言われる。すると島の人は、「そうかなあ」って思うわけ。ほんで「あなた方には宗教がない」って言うと「確かになあ」って思うわけ。そのうちに「君たちのために家を建ててあげよう」と言う。そこに、ちょっと入ってみたりするやつがいるわけ。「これはいいなあ」と思ったりするともう負けだよね。ここから先は全部向こうのペース。「こんなところで、ヤシの木ばっかりだったらまずいから、とっぱらって、コーヒーを植えなさい。まとめて買ってあげるから」とか言うわけ。そうすると、生活も安定するみたいなのもあって。これが覇権主義、植民地主義だよね。それでどんどん拡大していくうちに境界ができる。ちょっと遅れて、神父さんがやって来る。それで「君たちの現在がある。生まれついたのが罪なのだよ」とか言う。すると島の中で賢いやつが「もしかしたらそうかもな」って。そうなると完璧に負けだよね。そうすると島のエリートが文明の国の方に留学に行ったりする。それで帰って来て島の暮らしをずーっとしていた奴に、「おまえは古い、反省がない、進歩がない」と言い、「どうしたらいいんでしょう」って言うと、「学校へ行きなさい」と……。こういう図式で考えてくと、実にわかりやすいことが世界で起こっちゃってたわけね。単純に言うとヨーロッパの異種派遣主義、それから植民地主義。それが小さいところでも起こっているわけ。

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地域的じゃなく年齢的なところでいくと、この新しい人々、つまりこどもの位置というのは、その島の人々なわけ。ボーっと生きてちゃいけないって言われるわけ。朝ちゃんと起きなくちゃけないって言われるわけ。で、もうひとつ言うならば、その島の人々も朝が来るちゃんと起きてたんだよね。お腹がすくと何か食べてた。特に問題なかった。で、ひとつには、その島は運よく誰も船に乗って来ない、誰も攻めて来なかった。でも島はずーっと島なのかっていうと、なんとなく工夫しながら少しずつよくなったり、反省したり、つくり直したり、あるいはまた別のこと考えたり、トラブルが起こったら解消したりっていう、土俗的な文化っていうのも自然に出てくるのは当たり前なわけね。ところが、外から来た外圧でいろいろなものが乱れていくわけ。この外圧がある意味魅力的なわけですよ。受ける側にそれだけの力があれば、外から来た奴もいい形にアレンジメントして自分たちに取り入れるようなことを十分できるような。日本は外圧があって、つまり50年位前戦争に負けた状態、それからもっともっと前にいろいろな外圧があったわけだけど、やっぱりこの国は島国でのんびりやってたから、いろいろな秩序の中で、文化っていうのがそれなりにできていた。今もそれが続いている。外圧が来てもそれなりにアレンジメントしてうまくやって来た国ではあるんです。
おもしろいのは外側から来る文化、例えばテレビの文化があって、アメリカ的な産業資本主義な方法としてテレビコマーシャル、新聞の広告、雑誌の広告なんていう方法が入って来たわけだけど、この国の人々は、あっという間にそういうのを自分たちのものにしてきた。ニューヨークの雑誌やテレビより、日本の方がおもしろいよね。アメリカはそれを方法として考えた国だけれど、コマーシャルのレベルで言ったら、これは安いとか、これは環境によいとか、これはこっちの方が高級だとかっていうことだけ。ところが日本の広告は「これなんじゃろか」っていうような広告、購買にすぐ結びつくかわかんないけど、テレビ広告文化みたいなもので、それもいろいろな形の中で工夫しながらやってるのね。アレンジメントして自分たちにとり入れて、早いんだよね。

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学校って? 規則って?
ずれた社会に五味さんが喝!

話は変わるけど、僕、今免停なの。あのスピード違反でも、原則があるわけ。公安委員会や警察が考えて、スピードは事故に繋がる率が高い。つまり、世の中には、そういうシステムがあって、誰かが誰かを指導する。交通問題に関していえば、交通事故起こさないっていうことを原則に、どうすればいいかって話をすればいいだけじゃない? それと駐車違反っていうのも、それに伴う危険がどのくらいあるかをチェックしてるかどうかというと、今度は公安委員会、あるいは地元の警察の責任問題みたいなことになってきちゃって、彼らの責任がないように、怪しいところは駐車禁止、信号、横断歩道にしといて、それに違反すると違反っていう形で回避する側の利運の中でできてるものが多いって気がするのね。つまり事故が起きないようにという次元での取り決めが、一方的に作る規則があるわけ。「日常の中で、運転をする時にいちばん穏やかに事故が起きないようにするのにどうしたらいいだろうか」という一般市民側の意見、感覚は入りようがないシステムがある。例えば高速道路は時速60キロが安全であるという保障は誰が決めたんだっていうと、ある人が決めて、ある組織が決めてくわけでしょ。また、シートベルト。シートベルトで身は安全かっていうと、ほとんど安全じゃないわけ。もし高速道路で時速60、70キロで追突されたり、したりした時に、身を守るためのシートベルトはリュックサックしょうみたいな形、本気にやればそういうシートベルトをするしかないわけ。ところが今のシートベルトはそっちに向いてなく、おまわりさんの取り調べの方に向いてるわけ。実際事故が起こった場合、保障の限りではないっていう……。実際鎖骨折るみたいなことが起こっちゃうんですよね。妊婦さんはしなくていいって話が出てるぐらい不思議なもんでしょ。もうひとつにシートベルトというのは、運転手なり、乗ってる人当人の問題でしょ。他人に害するような世界じゃなくて、自分を守るってだけの問題。
他人が「自分の身を守りなさい」って言うことを、義務化するっていうのは何だろうかって。つまり、自己管理の世界の話だと思う。だから車運転してる時に、追突されたら危ないと思ったら、当然シートベルトをする。本気で考えたら、もっと立派なキチンとしたものをしなくちゃもたないってことはわかってるわけ。高速道路も多いからもっと安全なものを選ぶ、自動車会社に特注でつけさせるっていうならわかる。簡単にいうと、「自分のしあわせを自分で守りなさい」っていうことをやってない人は違反だっていうこと。それをおまわりさんがチェックしたりして。

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同じ構図を学校教育も持ってるわけね。こどもたちに向かって「君たちこどもがまともに生きてくためには、こういうことをしないとだめですよ」って。で、やんないと点数つけられちゃうのね。いまだに遅刻すると怒られるじゃない。遅刻する、宿題をしてこないと怒られる、これ不思議な現象なんだよね。学校の先生に聞いたことあるんです、「何で怒るんですか?」って。「遅刻はいけないんですよ」って言う。で、「何でいけないんだろう」、「遅刻ですから」、「あっ、そうですか」みたいになっちゃうのね。「宿題ってしてこなかったら何で怒られるんだろうか」、「忘れたからですよ」って同じ議論になるわけ。これを考えてみると、答えは簡単。先生がムカッとするからなんだよね。先生の管理能力を問われるってこと。「私が命令したことどうして守らないの?」っていうことなんだよね。でもそれはわかっている人はかなり頭が明解な人だよ。こどもは「何で叱られるんだろう」って思うわけ。同時に、宿題を忘れると叱られるんだということだけ覚えるわけね。雨が降ると濡れるんだ、穴に落ちると上がるのが大変なんだ、宿題忘れると叱られるんだってなるわけ。叱られるのはいいことじゃないんで「じゃあ宿題していこう」ってことになるわけ。ここがおもしろいんだよね。遅刻をしたら叱られる、だから遅刻しないようにがんばる。「何で遅刻しちゃいけないんですか?」って言うと、「きちんと来る決まりだ」ってなる。「何できちんと来る決まりなんですか?」って言うと、「そういうことになってるんだよ」って。すごい言葉があってね、「そういうことになっている」って。それ以上議論を拒否するような、すごい言い方なんだよ。天然現象みたいな感じになるわけ。天然現象みたいで、先生に怒られちゃったりするわけ。それで対処する方法ばっかり覚えるわけ。シートベルトは象徴的なんだけど、「シートベルトって何でするんですか?」って言うと、「そういうことになってるんだよ」、「決まったんだよ」、「誰が決めたんですか?」って言うと、「上だよ」って言う。早い話が自己管理責任っていうものが、ずれてきちゃった社会なわけ。自分で決めるっていうことがものすごく下手な人々が多くなっちゃったわけ。
あるグラフィックの学校で特別講義をやってて、授業の間に課題をやらしとこうと思って、「『私の好きな○○○』をグラフィカルに表現しなさい」って。で、2時間後に戻ったのよ。そしたら、50人の生徒の中で、動いてたのは3人くらい。あとの生徒に「何でできないの?」と聞くと「紙はどういうのを使うんですか?」、「色は使っていいんですか?」とか言うわけ。「色使うのか、絵で描くのか、写真で撮るのか、パフォーマンスやるのか、自分で決めるんだよ。じゃあ、来週ね」って。その次に行ったら3人くらいがわかっていて……。美術でもやろうかって学生が、方向つけてあげないと動けないんです。ゾーッとしたし、怖いし、間が抜けた。講義は4回の約束だったけど、2回でやめさせてもらった。でも僕が言ってすぐに反応した人は、今も時々手紙くれたり、出世してるんです。自分で物事判断して自分でやることに慣れてきて、その快感をこどものころに獲得した人、獲得し得なかった人、できなかった人の差だろうなって思う。つまり、「ここで何かしましょうか?」って言った時の自己管理、それと自己規制って言ってもいいと思うんだけど、これがいいとか悪いとかはまだ結論は出せないけれど、この国ほど運営してく側から見れば運営しやすい国はないでしょうね。ある罰則みたいなのをちょっと与えとけば言う通りになっちゃう。シートベルトがここまで浸透したのは、ある意味非常に怖いこと、「私の問題にあなた口出さないで」という意見がほとんど出てこなかった。お上が口出すことじゃない、「自分の健康は、自分の安全は、自分が守るんだから勝手でしょ」って話。例えば今の学校制度を文句は言ってるけど、変えるっていう人はあんまり出てこない。その中でお互いが様子を見ながら、一般的な常識になるとみんなが認めちゃう。そういう教育って異常だなあって思うわけ。

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「トラウマ」っていうのは何だろうって思ってたんだけど、こどものころに何か心の中に入ったものが尾を引いてしまうっていうような、やっぱり幼児のころに引っかかって結構尾を引くなあって思うんだよね。つまり、学校というシステムは言うならば、経験があって少し知識のある人間、あるいは考えることを専門にしている人間、あるいは作業を専門にしている人間は一般の人よりは少しものがわかってたり、理屈がわかってるから、それに興味のある人が知識なり経験を少し探ってみる、それが工学的でも、心理的でも、文学的でも、何でもいいんだけど、そういう場っていう形で学校って、とても有効な場所なんだと思う。ところが、今の小学校、考えてみると、おもしろいよね。自分のこどものころのこと、考えてほしいんだけど、学校に行く時に学びたいなあって思って行った人って本当にいないんだよね。でも、あなた方が大人になって、テニススクールとか、スイミングスクールとか、カルチャーセンターに行く時には、学費を払って、それでいい加減だと「高いわ、あそこ」なんて言ってやめちゃうじゃないですか。けどこどもは何にもないんだよね。さっき言ったみたいにこどもって自分でかなり完璧だと思ってるから、自分の欠落部分に気づいてない、自分の弱さにまだ気がついてない、あるいは弱みと思ってないわけ。だから学ぶ気なんて全然ないの。学ぶ必要性がないの。それを学ぶ必要があるっていう前提で、「学校行きなさい」ってなるわけでしょ。そうすると「学校って何なんだろう」って思うわけ。学ぶってことがよくわかんないし必要も特にないの。なおかつ、音楽とか絵もあるわけよ。これがわかんないんだよね、絵を描くことを習うって。これがおもしろい。
中国行くと、ナスの書き方があるんだけど、太い筆があって、最初にちょっと水をつけといて、次に墨を吸わせて、ギュッと描くとナスが描けるんだよ。それを求めるならば中国ですよ。それが伝統的、中国の絵の先生のシステムみたいなのがあるの。でもオリジナルで描くと伝統を踏まえてないって軽蔑されるわけ。絵っていうのはそうじゃない。ナスはナスのまんま、金魚は金魚のまんま。描くっていうのは、喜びとする人もいるだろうけど、絵とはもうちょっと違うところなんだよっていうのを近代画でずっとやってきたわけね。そうすると、ナスの描き方と同じような感じでこどもたちに絵の授業をするっていうことがどういうものなのか、美術の先生もよくわかってないし、描くこどももわかってないし、なんだか知らないけどやってるんだよね。
例えばもう少し原則的に初等教育っていうのは何かって徹しちゃって、社会で生きてく時にうまくやれるための基礎学習って形で、深く考えなくていいと。「住所、氏名が書けて、履歴書が書けて、手紙が書けて、新聞が読める、その学力をつけましょう」、算数も、「足し算、引き算、掛け算、割り算ぐらいやりましょう。あとは、金利の計算ができるぐらいの能力を身につけましょう」って言ったら、別に中学、高校、大学までかかんなくていいよね。社会なんて「役場のしくみとか、ゴミ焼却場のしくみぐらいの行政の一覧表ぐらい覚えときましょう」とか。理科になるとオシベとメシベなんて言い始めるときりがなくなるけども、「一応基礎的な常識の範囲だけ覚えときましょう、おしまい」って言うとそんなに時間かからないでしょう。学校でやるものの中に家庭科で、雑巾を縫ったじゃないですか。家庭科は職業訓練学校に徹すればそれもいいと思う。ところがここはむずかしいんだよね、明るい人格とか、正しい考え方とか、やる気とかこのあたりが出てくると、つまり人格形成みたいな話までいっちゃうと僕も黙っていられなくなるなあと。その時に美術とか音楽っていうようなものの位置関係があまりにももったいなすぎる。例えば言葉、文字、体を使った表現とか、絵描いたり字書いたり、音楽やったり、芝居やったり、踊ったり……は人間的に生きていくということに関してはちょっと重要なもの。絵っていうのは、はがきの脇にしゃれて描くだけじゃないんだよね。つまり歌を歌うことっていうのはみんなを喜ばせるっていうのとちょっと違う、作文書いて先生に「花丸もらいました」ではすませない、もうちょっと重要なことがあるんだよね。それをわかってる人に初等教育をやってほしいって感じがあるんだよね。

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「ねえねえ、はじめって何だろう」
この命題に関しては解決策はなくて……

今、20世紀最後の12月。だから何だって言えば困っちゃうんだけど、「あなた方いったい何なの?」、「あなた方これからどこ行くの?」、「どこから来たの?」、「ここはどこなんだろう」っていう、この命題に関して実は何の解決策もなくて、僕の娘がちっちゃい時に、「ねえねえ、はじめって何だろう」って言ったことがあるのね。「はじめって、どっから始まったんだろう」、「今どの辺何だろうか」って。例えば来年くらいは何か見えてるけども、歴史を逆に考えてみると、300年前があったんだから300年後もあるだろう。もっと単純に言うと、「さっきっていうのはどこにいるんだろうか」って、ふっと変になることあるわけですよ。
小学校2年生くらいの時、僕は夏の真っ盛りに学校の帰りひとりで畑道を日射病寸前みたいな状態で足元見ながら歩いていた時に、当たり前だけど、一歩ずつ、一歩ずつ、足が動いてるうちにすっごく不思議な気がしてね。自分が歩いてるんだけどそれがふっと切れちゃう、瞬間的に何だろうって思って、次の瞬間転びそうになった覚えがあるの。今、僕55歳ですけど、55歳になって解決する話でもないし、僕の友だちが死んで、あれはどうしたんだろうかって思ったり。あるいは孫が生まれて、この子はどっから来たんだろうか、この単純なものって、不思議なことなんだよね。個人の中でいろいろな形で出てくる不思議なものは、個人の権利だし、個人の問題だから、そのことについて、もの考えるとか、表現するとか、伝えるとか、あるいは自分の中にもう一回取り入れたりする時に、言葉とか絵とか文字とか、音階とか、表現の方法っていうものは、かなり大事なもの、重要なものなんだっていう気がする。

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で、そのことについて、社会を生きてくための道具って形で、今の教えがその程度のもんだって形でこどもたちにインプリンティングしていく教育のシステムみたいなものが、つまり教わったからわかった、わかるようになったっていうようなプラスの部分ばっかりを言うけれども、マイナスの方が多いんじゃないだろうか、と思わざるをえないことばかりのような気がするの。簡単に言うと、自分が個人的な問題を解決するのは考えて行動するしかない。わかりきってる方法にあまりにも選択肢がない。で、少年少女、あるいは青年、あるいは中年が何か事件なり事故を起こしても意外とパターンが似てるよね。誰かがナイフ持つとみんなが持つ、つまり自分の感情を表現する時に方法がない。文章書いたり、絵描いたり、踊ったり、歌ったりってことと同じ次元の中で、テクニックとして持ってないと、この気分を表現したいことがあるんだし、表現して楽になることがあるんだし、表現してさらに次に向かえることがあるんだし、いやされるんだし。この方法がないところにいやしって言葉が出てくる、情けないことだと思うね。はっきり言うならば、自分でやる仕事だろうと思う。自分の心の管理ってことは、シートベルトの話と同じで、自分の身を守ることについて、管理できるのは自分だろう。で、その力を幼いころからトレーニングして、エデュケーションのカリキュラムみたいなものを模索はしている、僕自身。それで僕ができることなんてたいしたことじゃないから絵を描くってことについての必要性、もっと言うなら楽しさとおもしろさ、絵っていうのはなかなかいいもんです。ちょっと味わってみたらっていうぐらい。こどもたち集めてワークショップみたいなのも時々やってるけど、むしろ僕は大人たちにその風景を見せたいなあっていうところもある。これは偶然だったんだけど、ワークショップをやった後に大人たちと話したことがあって、感想の中に、「こんなにこどもたちが真剣になっちゃうとはわからなかった」と……。
絵を描くっていうのは、魅力的な興奮するような世界なんだよね。表現するってことはおもしろい。ところが、あなた方も経験してるけども、小学校で国語の時間でやる表現の方法の唯一無二の方法、遠足の感想文、運動会の感想文、「遠足行って六甲山に登りました。天気がよくてよかったです」とか。もうちょっと何かあるだろうみたいなこと。最初から書く気がないんだもん。つまり、遠足行って、どうしても文章にしたためておきたいって、それは変なこどもだよね。ところが文章っていうのが、ある瞬間にどうしても書かなくちゃいけないなっていう人には大事なことなわけでしょ。絵は僕のもんじゃないけど、そんなに軽く使ってくれるなって思いがあるけど。「今日は写生ですよ」って、しょうがないから桜の木を描くとか、今日はリンゴを描くとか、「そんなんじゃないんだよ」って。だからしっかりしてくれないとだんだん興奮してくるんだよね。大人の、はっきり言うならば教師という職業の中で、よりつまんない形のものにディスカウントしてしまう。桜の花なんかが縦割りになってる絵があって、オシベ、メシベとか書いてあって、それで受粉して、しばらくするとさくらんぼになりますって。「あんなところで、オシベ、メシベの話は聞きたくなかったなあ」っていうような話っていっぱいあるんだよ。娘の学校のテストで「○○のように雪が降る。」○○に適切な言葉はを選べって「絹糸・真綿・座布団」の3種類があったんだよね。僕の娘は座布団のように雪が降るって。それでバツ。それで娘に、「何でこんなふうに書いたの?」、「おもしろいじゃん、それ」。真綿のように雪が降るって書くと無事にすむわけだけど、ムカッとくるわけだよね。つまり雪が降ってる時にある人が真綿のようだなって。でも雪によってスピードも何も違うじゃないですか。○○のように雨が降る。絹糸のように雨が降る、雨も木綿糸のように降るのかもしれないし、そうめんのように降るのかもしれないし、それは見てから考えればいいことで、雨が降っているのに気づきませんでしたっていうのもありでしょ。そのことを教育の中で学習にあてはめた時に、何を学ぶんだろうかっていうと、言葉の記号化ってことでしょうね。「言葉を記号のように使いなさい」、あまり言葉は深く考えないって話しかない。この場合に何も考えないわけですよ。つまり手紙出す時、ファックス出す時、意識は何も動いてない。

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時々僕に手紙が来ます。こどもたちは礼儀正しいから、「五味さんの本が好きです」って書いてる。でも、「五味さんどういうふうに考えますか?」っていう手紙が1週間に一度くらい来る。絵本を見て相談する気になったのかなあ、話聞いてみたいのかなあと思うのは、僕の言葉使いとか、絵の描き方とかを見ながら気にしてくれてるのかなあ、そういう見方されてるんだなあと思うと緊張しますけど、同時に彼は素晴らしい読者だなあと思っちゃう。さっきのスタートも終わりもよくわからない、ここまで2000年も4000年もやって来たけど、やっぱりまだ確たるものが得ていない生き物として生きてく時に、言葉なり表現なりに頼らないとやばいと思うのね。そのために表現手段だとか知識、あるいはツールっていうのはもっともっと大事なもんなんだろう。だけど、それが初等教育の中で大事というよりは一応覚えときなさいっていうような、ただ知ってるだけで意味がないような知識を覚えて、で、実際自分が何かしたい時に結局は手がないっていう、これの繰り返しって感じがとっても気になる。同時に表現や言葉を失った人々っていうのは、別の苦しみがあるんだろうなあ。大人が普通の会話をできない、そういう人に出会うことがある。つまり、会話っていうのは僕の次元ではものを考えながらしゃべるんだっていう。固く言っちゃうと自分の考えをしゃべって、人の考えてる重さを調整しながら、「僕はこう思うんだけどどう?」って言うと、「いや、僕はそうは思わない」とかっていうような話をしてるのが議論、会話。「どうも、どうも」から始まって、「まあひとつ、よろしくお願いします」で終わるような会話で何が進むのかなあって。社会は進んでるんだけど、人間の営みとしては、止まってるような状態、そこの不足を補うためにいろいろな現象が出てくるのは何だろう、気になってるってわけじゃないんだけど、絵本をやってるがゆえに、それをとりまく、まさに絵本の周辺なんだけど、かなり雑な、暴力的な質の低さ、それの中で育って来た人々、その中で親になったり上になった時、次の幼い人々に向かってものも言えない、こどもたちに対してコミュニケートができてない。そのこどもたちが大人を捨ててる時代だよね。たかだかの何通っていう手紙だから総論はできないけど、「親、大人が何考えてるかよくわからない」という手紙結構多いです。
同時に「こどもが何考えてるんだろうか」という親からも手紙が来ます。例えば事件になった時、「あの子とまともに話できないんですよね」っていうような、そう言えばっていう感じ。「何言ってるかよくわからない」、「どうしていいかわからない」、それを突き詰めてくと、やっぱり根は深いんだな。親っていう問題があって、家庭をつくるってところに、その以前にその人たちが結婚をするって状態があって、深い議論じゃなくて瞬間的なもの。例えば結婚っていうのは男と女が向かい合ってる状態で結婚が行われてると信じてるんだけど、意外と違っていて、社会に向かっての結婚、親を安心させるために結婚するって。「それ、何か違わないか」って言うと、「何が違うんだろうか」って。結構いますよ。で、うまくいく、いかないはわからないけど、それこそ生まれるこどもたちっていうのも、あるものをしょってるんだろうね。「お父さんとお母さんが何で一緒にいるのかわからない」こういう手紙多いよね。つまりあの人たちはどういう関係なんだ、結婚制度っていったい何だろうか、家庭って何だろうかって。ゼロに戻って考え直すしかないだろうってところまで来てると思います。

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あるアメリカの社会学者が、家庭っていうのが小学校の根源だろうって言い切ってるけど、僕もその意見には賛成。家族というのはよいものだっていう幻想にしばられてるんじゃないだろうか。僕は今家族を見ていると、ある運命の中で得たひとりの非常に親しい間柄だなあとは思う。だけど守るためにどうするかっていう努力はあまりしてなかったんで、まとまってるんだろうなって思うことがあるんだけどね。家族という形をまとめるがゆえに、多大な努力があったり、誰かが犠牲になったり、誰かが得してたり、誰かが泣いてたり、この家族っていうものは何だろうかって。その家族を単位にした社会、社会を単位にした国家というのは何だろうなっていうのを21世紀にゆっくり考えてもいいと思う。理想を掲げて向かってるわけじゃないんだよ。もっといい感じ、もっと楽な感じ、もっと楽しげな感じ、もっと言うならば、人を傷つけない、人から傷つけられないって方法があるはずだ。でもそれは深く議論するよりは、もっと大事なことを、直観的なところで判断しないと理論的にはいかないって感じ。もっと言うなら、厚生省が考えることじゃないって感じ。本当の交通安全は公安委員会が考えることじゃないっていう感じがする。だって交通安全ってすごい簡単な話だもの。向こうから車が来た時にどのぐらい緊張できるか、交差点どのぐらい目くばせができるか、発進しようって時に周りが気になるかどうか、それだけの能力を問われてるわけじゃない。雨の降ってる日は滑る、積荷を積んだら倒れる、このスピードで角曲がったら飛ぶっていう感受性だけの話じゃない。訓練の方法はもっとあるはずです。だから当然トレーニングっていう方法も違うんだろうと。表現の方法のトレーニングっていうのももっとあるんだろうと。そうすると悩みみたいなものが、少しずつほどけていくんじゃないか。今、政府とか、世界の指導者とかにまかせてる時代じゃないだろうな。だって、誰も戦争なんてものはくだらないっていうのは単純にわかってるわけだけど、戦争状態が産業の中で組み込まれて、彼らには必要であって、予算があって、バランスをとっちゃってる社会があるわけじゃない。僕たちとは全然違う次元の戦争をやってる人間がいるわけじゃないですか。で、僕は戦争って好きだっていう人は延々やってるような気がする、必要不必要に関わらず。
政府、学者の言うことは、個人の中では関係ないんだってことがわかったことが20世紀なのかなあって感じがする。で、21世紀ってのは、やり直しって感じなの。いくら隠しても20世紀のいいとこ取りって気がするのね。引っ越す時におもしろいものだけ持ってって、あと残ったものは売っちゃうって引越しの方法がいちばんいいんじゃないかって。何て言うのかな、20世紀と21世紀そんなに変わるわけじゃないんだけど、少なくとも学校っていうのはこどもたちのためにやってるんじゃないってことかな。実はそんなことを本に書いて、『ここまできて それなりに わかったこと』(講談社+α文庫)っていう(笑)。うちの娘は、「それ、あなたはやったからわかったんだよ。私はまだやってないからわかんないよ」って言ってたけど、それもそうかなって思う。でも少なくともこどもたちのしあわせのために学校という制度があるんじゃないってことだけはわかったね。で、これは学校をうまく使いましょう、うまく利用しましょうって話で、「こどもを学校に預けてこどものしあわせを願ってます」、それはないだろうって、それってバカだよね。そういうものっていっぱいあるような気がする。もうひとつ問題なのは、それは学校の先生、教育委員会が悪意でやってるんじゃないんだよな。もちろんよかれと思ってやってるんだよ。システムが時代的な何かのズレで、少しずつ機能しなくなった。だから修正すればいいのに、なぜか修正できない。その修正っていうのは、個人的な意識だろうなって。個人が何を大事にして何をするっていうしかないんだろうなって思います。

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<第2部>

お客さまとのQ&A

お客さま:
「あなたにしあわせになってほしい」と自分の生き方を私に押しつけてくる人がいるのですが、その人をギャフンと言わせるには何を言ってやればいいのでしょうか?

五味さん:
そういうのはさあ、聞いてあげることでいいんだと思うよ。しゃべってることでしあわせなんだから、そういう余裕があればいいんじゃないんですか。

お客さま:
落ち込んだり、気持ちが荒れてしまった時には、どのように過ごしますか? どんなふうにして自分を取り戻しますか?

五味さん:
あんまり落ち込まないんだよね。昔からねえ。回復が早いんだよね。

お客さま:
絵を描くことに、「これはいける」と思ったのは何歳くらいで、どんなきっかけですか?

五味さん:
これはいけるっていうのは、こどものころから結構受けてたんだよね。仕事にするとは全然思ってなかったんです。で、ものを考えるのが大好きだったから、数学の勉強していて、そのうちにものを作りたくなってきて、工業デザインを少し勉強したの。僕は絵本作家としてはすごく遅いです。26、7歳くらいに引きこもりっていうのやって、それで、ある時に忽然と描いたのが絵本なんだよね。で、今絵本やってるの。だから、「絵本作家になるためにはどうしたらいいんですか?」って質問があるんだけど、いまだによくわかりません。

フェリシモ:
さきほど、忽然と絵本を描きたくなったっておっしゃいましたよね?

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五味さん:
多分字書いて、絵描いて、それが立体化していくっていう、あのやり方がしっくりきたんだと思う。文章と絵がリズムとりながら展開してくっていう世界が、とっても描きよかった。結果、ある友だちが「これって絵本っていうんじゃないの」って言ってくれたようなスタートです。だから絵本を描くためにどうしたらいいかってあまり考えたことないんで、「絵本ってどうやって描くんですか?」って言われてもわかんないっていうのが本音なの。

フェリシモ:
五味さんの作品は絵本を描こうと思って描いてるんじゃなくて、先方に何か伝えたいことがあって、言葉とか絵を組み立てて描いてらっしゃるように感じます。

五味さん:
ちょっとあるかもしれないんだけど、伝えたいっていうのはそんなに強くないの。結果として伝わるものは何だろうかって自分で期待してるみたいなのがあって、あること思いついて描いて、途中まで来た時に僕が言おうとしてるのは、こういうことなのかってわかっちゃうことがあるのね。「僕はこんなこと言おうとしたのかな」って思っちゃって。描いててうまくいくかどうかって終わるまでわかるわけないよね。全ての本そうなんだけど、いちばんいいのは第一読者なわけ、自分で描いてて自分でものすごく受けると、いけるかもしんないって思うわけ。

お客さま:
なぜ表現することが必要なのでしょうか? 表現するというのは、他者に自分を理解してもらう、受け入れてもらうために行うのでしょうか?

五味さん:
なぜ必要かじゃなくて必要なんだな。つまり、「何で呼吸するんですか?」っていうのと似ている気がする(笑)。全ての人に必要なものっていうのは興味がないんだよね。表現が必要な人にとっては必要なんだ。その必要っていうのは、もしかしたら他人に認めてほしいってことかもしれないし、もしかしたら意識してないけど表現してるってこともありますよね。

お客さま:
絵本の帯によい絵本と書いてある出版社がありますが、あまりセンスがないと思います。五味さんならどんなキャッチフレーズをつけますか?

五味さん:
よい絵本っていうのは出版社が言ってるんだから、買う側がよくないなっていう権利も十分にあるってことならば、くだらない帯ですよね。僕の場合は帯っていうのは、おもしろいんだよね。あの部分は気になるグラフィックの一部だから、使えるんならばあそこに違う表現なり、立体化するような表現をするために使えるなあと思ってるの。あれは広告の場所じゃないんだろうなってことだけは言えるね。でも、その本、その本に帯の文化があるぐらいだから、逆にみなさんもほかの本の帯を読んで楽しんでみてはどうでしょうか。

お客さま:
こどもの学校をつくるとしたら、どこの場所で、何を特色にしますか?

五味さん:
基本的に学校っていう場所をつくらない。もう学校いらないんじゃないかと思うんだよね。でも、こどもって学校好きなんだよ。みんなで集まんのが好きなんだよ。ただ宿題で怒られんのいやだなと思ってるわけ、おもしろくないのをするのがいやだなって思ってるわけ。つまり義務になるのが嫌いなんだよ。だけど基本的には集まってギャーギャーいってるのが大好きなのよ。その中であとは能率よく学べるシステムっていうのを、こどもに開放してあげればいいじゃないかっていうのが僕の感じ。こどもがいつもギャーギャー集まれる場所がいちばん必要なんだってすごく思う。それが広場だったり、雨の日の建物があったりっていう感じ。みんながいい感じで集まれるところをいっぱいつくる作業をするだろうね。

お客さま:
娘さんに、「始まりって何?」って聞かれた時に、どんなふうに答えられたのですか?

五味さん:
「わかんない」って言った。「最初に誰が生れたの?」って言うのね。僕もわかんないんだもん。で、「同じこと考えてるんだな」って思った。もうひとつには瞬間的にこどもが言った時に僕になんて答えるかって義務はないなあって。わかんないことに「わかんないなあ」って言う大人に会うことはこどもにとってしあわせなこと。なぜかっていうと「この人もわかんないんだ」って思うみたいよ。つまり、こどもたちっていうのは答えを知りたいって思ってるわけじゃないんだよ。疑問を持ってる楽しさについて味わえたって思ってるわけ。で、もしかしてどっかで答えを出そうと思ってるそのことについて思ってる気がする。

お客さま:
こども時代に出会った素敵な大人、好きな大人ってどんな人でしたか?

五味さん:
とりあえずこっちのこと見てない人で、声かけるとこっち向くっていう人が好きだったね。父親も母親も大好きです。あんまり僕のことを見てない、僕に対してあんまり力も入れてないのね。親父は学問をやっている人なんだけど、昔の家の構造って縁側っていうのがあって、その前が庭になってるわけです。たまたま親父とお客さまが話してる時に、僕が庭を横切ったら、お客さんが、「息子さんですか?」って。そしたら、親父が、「近所の子でしょう」って(笑)。僕は、「何だ、あれは?」何で親父があんなこと言ったのかなあって。

お客さま:
人生の中で、最も影響を与えられたと思う本、絵本、映画は何ですか?

五味さん:
影響っていうのはわかんない。ただ、何かに影響を受けて自然にしてるってことなんだろうけど。あえて影響を受けてやってるんだなあってことはないです。ひとつには、高1か高2ぐらいの時にある映画を観たの。すごかったんで立て続けに3回観て、僕は映像作家にはなれないなあって思ったのね。多分映画作りを自分がやるとそれに勝とうとか、それを超えようとかと思い込むんじゃないかなあって。だから映像作家を狙いたい部分もあったけど、よけてきたみたいな気がするんだけど。幸か不幸か絵本では、「ちょっと俺、絵本書く時に意識しちゃうな」みたいなものに出合ってないし、絵って世の中にいっぱいあるけども、「これ参っちゃったな」みたいことになっていないの。でも、絵に関してはあんまりないみたい。僕がもし絵描けたらこういう絵描くだろうなっていうのになぜか出合ってないんで、まだ絵をやってるような気がします。

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Profile

五味 太郎(ごみ たろう)さん<絵本作家>

五味 太郎(ごみ たろう)さん
<絵本作家>
*プロフィールは、ご講演当時のものです。
1945年、東京生まれ。工業デザインの世界から絵本の制作活動に入り、独創的な作品を多数発表。絵本制作は数百冊に及び、ほかにもパッケージデザイン、CD-ROMの制作など、その制作活動はジャンルを越えて広がっている。子供と同じ目線に立ちながら、かつ大人としての包容力を持つ作風は、常にものの本質をとらえ、新しい視点と感動を呼ぶ。子供ばかりでなく、大人にもファンは多い。

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