神戸学校

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「一つの大きな目標を超えること~冒険に馳せる夢~」



<第1部>

ヨットでの航海。
初めての太平洋単独横断「太平洋ひとりぼっち」から
生ビール樽双胴ヨットの航海までをご紹介します。

僕は2年前に生ビールの樽を528本繋いだ双胴ヨットで、サンフランシスコからハワイ経由で明石海峡大橋へと帰って来ました。太平洋をたったひとりで100日近くも航海していたら、「おかしくなったんではないか」、「発狂したん違うか」とよく聞かれます。しかしおかしくなるとか発狂するとかいうと、もともと正常な人が言うことであって、僕のように発狂しっぱなしの者はこれ以上おかしくなったりしないわけです。

(会場:笑)

僕にとって、この太平洋単独横断の航海は10回目。1回目は今から39年前、大阪湾の西宮ヨットハーバーからサンフランシスコへの小型ヨットによる単独太平洋横断の航海で、「太平洋ひとりぼっち」(文藝春秋)として紹介されています。昭和37年5月12日土曜日夜の出発でした。2人の先輩たちの自動車のヘッドライトに照らされて見送られ、前のもやいのロープを杭から外して白い帆を揚げて、「行ってきます」と言って手を振ったんですが、風がなくてヨットが全然進まなくて……。普通は5分か10分もあれば港を後にすることができるわけですが、「太平洋ひとりぼっち」の出発に際は港を出て行くだけで1時間30分を要するという最悪の出だしでした。そして、大阪湾から紀伊水道、太平洋へと進路をとって行くわけです。まず日本を出発して最初の1週間は船酔いに悩まされました。みなさんも船酔いの経験はあるかと思いますが、最初は気持ち悪くなって、もっと気持ちが悪くなってくると食べたものを全部もどしてお腹が空っぽになったと思っても食べ物を考えただけでも胃がギューっと小さくなっていくような思いがしました。それでも1週間もすると慣れて、以後目的地のサンフランシスコに到着するまでは1度も船酔いしなくなりました。
このヨットはどうしたことか船底から海水が入ってくるんです。底に穴が空いているのではなく、板と板の継ぎ目から少しずつ染み込むように入ってきました。原因はヨットの船体の材料が木でできているからではなく、予算にあったんではないかと……。ですから1日に2、3回船底にたまった海水をバケツで汲み出していました。そして進行方向の前方100メートルくらいを見ると真っ黒な巨大な流木が数本かたまって浮いていたんです。この巨大な流木はアラスカかカナダあたりから流れて来たんだろうと思って近づくと、流木ではなく大きな鯨が数頭かたまって浮いていました。なぜ鯨とわかったかというと、僕のヨットよりも大きくて、頭のところから潮を吹いていました。息をするたびに海面から1メートルか2メートルの高さでポコポコッと潮を吹いているんです。あとからわかったんですが、この鯨は昼寝をしていたようです。その横を通り過ぎながら思ったのは、鯨に気づかずに全速力で進んでいって、鯨がびっくりして尻尾でも振り回すと、ひょっとしたら尻尾がヨットの船体に当たって壊されていたんではないかと一瞬ヒヤッとしたんですが、何事もなくその横を通り過ぎていきました。そしてどんどんと東に進路をとって行くと太平洋の真ん中に南北に、どの世界地図にも国際日付変更線が記されているわけですが、実際の海には何の印もないという不思議な線を越えて、東経側からアメリカの西経側へ入っていきました。

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ヨットが順調に航海している時、何をしているかというと、暇な時はだいたいキャビンで本を読んでいます。ヨットの航海で痛切に感じるのは、新聞の配達があるということがどんなに素晴らしいことかということ。僕は1度読んだ本を2度読むことは滅多にないのですが、ヨットの航海に出るとやむを得ず同じ本を繰り返し読むことになります。そうすると何度同じ本を読んでも、その都度新しい発見があるということに気づくようになりました。この時も僕はキャビンで本を読んでいました。すると、突然「キーン」という金属音が聞こえてきました。「どうしたのかな」と思って空を見上げるとジェット機がヨットスレスレに飛んで行きました。このジェット機を目で追うと、数キロメートル行ったかと思うとUターンして、また僕のヨットに向かってまっすぐに来るわけです。そして僕のヨットのすぐ横をヒューンと飛んで行くんです。太平洋の真ん中で僕のヨットを発見した時に恐らくパイロットは「この小さなヨットは遭難しているのではないだろうか?」、あるいは「何か困っているんではないか?」という推測で、何度も行ったり来たりしてくれているようなんです。この時僕が思ったのは「このジェット機が近づいて来た時に、大きく手を振りながら大声を出すと『助けてくれ』と言っているように誤解されないだろうか」と。僕が最も恐れたのは助けられるということでしたから(笑)。そこで、僕は持っていた小さなカメラでジェット機が近づいて来ると写真を撮りながら、そしてパイロットの顔が見える時だけ手を振るということを何度か繰り返して、こちらもエンジョイしている感じを見せました。それで安心したのかジェット機は北の方に飛んでいきました。僕は「やれやれ」と思って、また航海を続けていくわけです。
太平洋の真ん中を越えて目的地のサンフランシスコへとかなり近づいていた午前8時ごろ、ヨットのキャビンで休んでいたんですが、突然「ボッボー」と船の汽笛が聞こえました。この時僕のヨットは西からの弱い風を受けて東に進路をとっていたんです。そして、進行方向の右手、すなわち南側を見ると数百メートルの近距離のところに真っ黒な大きな汽船がスピードを落として近づいていたんです。汽船は僕が進んで行こうとしている東側約1キロメートル前方へグッと回り込んで来て、この汽船は僕のために止まってくれたわけです。僕はこの船を見た時「黒い大きな船だなあ」と思って、その船の後ろ側を通って右舷側の風下側へと近づいていきました。そして、その船の後ろ側を通る時に、この船はニューヨークにある船会社で、そして船の名前も船尾の白い文字を読んでわかりました。「アメリカの船だな、ひょっとしたら英語しか通じないな?」と思いました。39年前、僕は23歳、この船に会うまで、1度も英会話の経験がなかったんです。ですから、僕のヨットが汽船に近づいていくに従って強制的に英会話の試験が始まろうとしているような強迫観念で近づいて行ったわけです。
で、近づいて行くと、船の右舷側のデッキに20人くらいがずらっと並んで僕のヨットを見下ろしているんです。約20人の顔はどの顔もどの顔も全部英語の顔(笑)。日本語らしい顔はひとりもいないんです。そして10、20メートルの距離まで近づいた時、僕は「アイムジャパニーズ」と大きな声で3回叫びました。そうすると20人のうちの数人が聞き取ったようなんです。そうすると今度は制服を着た背の高い船員らしき青年が大きなメガホンを持って、デッキから体をグッと乗り出してきました。この瞬間僕は「メガホンを持った青年は英語で何かを尋ねてくるに違いない」と思い、僕は両方の手のひらにグッと力を入れて構えていました。青年は予想通り英語で「どこへ行くんだ」と尋ねてました。これくらいはわかったので「日本を出発してサンフランシスコに向かっているんです」と答えると通じました。僕も一方的に聞かれるだけではおもしろくないんで、「この船はどちらに向かっているんですか?」と尋ねると、彼らは「横浜を出航してパヌマ運河を通ってニューヨークに帰るんだ」と教えてくれました。非常に親切で「食料はいらないか、水はいらないか、何かいるものはないか」と何度も繰り返し尋ねてくれました。
僕は日本を出航して2ヵ月半どこの港にも寄らずにいたので、もちろん食料、水はかなり減っていましたが、まだ少々残っていました。しかし無事サンフランシスコに到着してから、あるいは日本に帰ってから「堀江のやつはあそこでうまい具合に船に遇って食料や水をもらったから行けたんだ」とケチをつけられたらおもしろくないと思い、痩せ我慢をしてお断りしたんです。僕は船の位置を緯度経度で教えていただき、この時の教えてもらった現在地と僕の計算していた現在地も間違いないという裏づけがとれたので非常に意を強くしました。そして、これ以上時間をとると営業妨害をしているような気がしたので汽船の船体を右足でグッと押し、僕のヨットは東の方へ進み出しました。船も「ボッボー」と汽笛を鳴らして、東の水平線に向かってスピードを上げていきました。船は水平線の彼方、小さくなるまで何度も何度も繰り返し汽笛を鳴らしてくれました。僕はヨットの後ろに立って船が水平線の彼方小さくなるまで麦わら帽子を振りました。この時の僕は「日ごろ英会話を勉強しておけば、もっといろいろな話ができたのに」と思いました。その反面、「ひとりやふたり、日本人が乗っていてくれなかったんだろうか」とも思ったりしたわけです。それでもさきほどまでの僕自身とは違うわけです。出発以来2ヵ月半ぶりに船に遇って、何か身体全体の血が熱くなったような、心に余韻が残っていて、人と会話をするというのはこんなにも素晴らしいものかと再認識しました。そんな楽しい余韻に包まれながら航海を続けていきました。
その船にあってから約3週間、日本を出発して93日めの8月11日土曜日、その日はアメリカ大陸が見えるんではないかと朝から前方を睨んでいました。まだアメリカ大陸は見えないんですが、アメリカ大陸は近いという兆候が現れてきます。まず海の深さがだんだん浅くなってくる関係で海の色が変わってくる、あるいは陸から来たと思われる鳥の数が増えてくる、人間の手の触れたと思われるゴミに遇う回数も多くなり、ラジオ放送もだんだんクリアに聞こえ出してくるわけです。この日、朝から前方を睨んでいたんですが、このあたり特有の濃霧が出ていてなかなか視界が開けなかったんです。それが午前10時ごろ突然、濃霧が飛んで視界が開けたと思うと前方にアメリカ大陸が見えていました。
前方に見える大陸はサンフランシスコよりも北だと確信していたので、大陸が見えると同時に僕はコースを南へと変えました。大陸に沿って2時間ほど進んで行くと前方に大きな岬が見えてきました。僕が目指すサンフランシスコの北側には岬があるので、「多分この岬だろう」と思って近づいていったんです。海図によると目指す岬は海面から約90メートルの高さのところに灯台があることになっているんです。どんどんと近づいて行くと海面からかなり高いところに白い灯台が見え始めたので間違いないと思いました。で、そこを通過するころには午後5時ごろになっていました。まだ日は高かったんですが、また非常に濃い霧が出てきて急に暗くなって灯台が信号を発し始めました。
信号というのは灯台によって違うわけですが、海図にはFL5セコンドと書いてありました。これは5秒に1度ピカっと光るという意味です。この灯台がピカッと光ってから5秒めにピカッと光る。間違いなくその岬に来たという裏づけがとれたわけです。ということは目指すサンフランシスコは目の前。そして日が暮れて暗くなるわけですが、そうするとサンフランシスコと思われる町の灯りが見え始めて、その真ん中を目指して行くと真夜中にはサンフランシスコ湾の入り口にある金門橋がイルミネーションに輝いてはっきりと見えるところまで近づいていました。このまままっすぐ進んでいくと外国の港に夜入るわけですから、いろいろと誤解を受けるということと、危険も感じたもんですから1晩待つことにしました。

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翌日、日本を出発して94日目の8月12日の日曜日、アメリカの西の玄関サフランシスコの金門橋が朝日に輝いて見え始めました。そして僕のヨットは風に乗って進んでいき、金門橋の下を午後1時ごろくぐり抜けてサンフランシスコ湾へと入って行きました。湾には白い帆のヨットが無数に走っていました。この到着したサンフランシスコは非常にヨットの盛んなところですし、また到着したのが夏の日曜日の午後、ヨットが走っている条件が最もそろった時に僕は偶然到着したわけです。そこへ僕は追い風に乗って吸い込まれるように進んでいきました。
ヨットが外国の港に入る時には国際法により黄色い旗を揚げるのが規則になっています。「検疫をお願いします」という意味の旗なんです。そうすると、1隻の大型のヨットが全速力で近づいてきて、僕の方に「どこから来たんだ」と声をかけてきました。もちろん僕は、「日本から来たんです」と答えました。続けて「パスポートを持っていないんです、どちらへ行ったらいいですか?」と聞くと、このヨットはすぐに「OK、ついて来い」と言って、誘導してくれました。このヨットには白い帽子を被った船長さんが乗っていて、今度は「何日かかったんだ」と尋ねてくれたもんですから、「94日かかったんですよ」と答えながら僕は右手で帽子をとって3ヵ月間散髪をしていない頭を見せました。そうすると船長さんも驚いて、白い帽子をとると頭には髪の毛がほとんどなかったんです(笑)。到着そうそう陽気なアメリカ人に会い、「サンフランシスコに来たんだなあ」と実感しました。誘導されながら進んでいくと、今度は前方からアメリカの沿岸警備隊の人が僕を迎えに来てくれました。恐らくこのヨットは僕を誘導しながら無線で沿岸警備隊に連絡を取ってくれたんじゃないかと思うんです。そして今度は警備隊の指示で僕はヨットの帆を全部降ろして警備隊の船にひかれてアクアパークというところに入って行きました。警備隊はすぐにサンフランシスコにある移民局と検疫に連絡をとってくれました。最初に検疫官を乗せたモーターボートが全速力で来ました。検疫官は僕のヨットに乗り込んできて、検疫が始まるわけです。検疫官は最初に「このヨットにはねずみはいないのか?」と聞きます。「ねずみはおりません」と答えるとこれで検疫は完了(笑)。で、移民局はサンフランシスコの日本総領事館に連絡をとってくれるわけですが、到着が日曜日だったので役所が休みだということで連絡が取れるまで2時間ほどかかりました。そうすると今度は小さなボートで地元の記者が取材に来たんです。さきほどのヨットの船長さんはサンフランシスコ地元のテレビ局の役員だったということもあり、記者が来ました。そうこうしている間に日本総領事館と連絡がとれ、到着した8月12日の日曜日の夕方にサンフランシスコへ上陸することができました。
そして1ヵ月間、僕はサンフランシスコにある日本総領事館でお世話になるわけです。上陸して最初に僕が何をしたかったかと言うと、お風呂。3ヵ月間お風呂に入ってなかったのでカスがバスタブに残るんです。ちょっと恥ずかしいなと思ってバスタブを掃除して、ゲストルームのベッドで休むことになりました。ベッドに上がった瞬間、そのあまりのふわふわさに僕はびっくりしました。僕は3ヵ月間の航海中、揺れるヨットの中の板の上で、寝袋ひとつで生活していたわけですから。そのベッドで94日ぶりに休めるのかと思うと急に睡魔が襲ってきました。
翌日の月曜日、僕はサンフランシスコの地元の新聞に紹介されました。僕はどのように紹介されていたかと言うと、23歳の日本の青年が19フィートのヨットで94日間を要してサンフランシスコへ日曜の午後到着したことから始まっていました。そして記事の最後に、この日本の青年はサンフランシスコに到着した時に3つのものを持っていなかったことでこの記事がしめくくってあったわけです。持っていなかった3つのもの、1つ目はノーパスポート、2つ目がノーイングリッシュ、最後3つ目はノーマニーと紹介されていたんです(笑)。
翌日僕は最初に移民局に出頭するよう指示を受けていたんですが、移民局に行く前に散髪に連れて行ってほしいとお願いしました。散髪というと日本ではだいたい月曜日がお休みですが、何とサンフランシスコも散髪は月曜日が休みだということがわかったんです。そうするとこの髪ボーボーの頭でもう1日我慢しないといけないのかなと、こう思っていたんですが、調べていただくと月曜日もやってくれる日系人の理髪店があるということがわかったんです。それで僕は早速連れて行ってもらって、そこのご主人に僕の頭を刈ってもらいました。散髪代もないとわかって頭を刈ってくれることになるわけですが、アメリカの散髪屋ですから3分か5分くらいで終わるんです。やたら早いんです。新聞にノーマニーと出ていたわけですから散髪代を無料にしてくれたわけです。そこを後にしようとすると今度はご主人が5ドル小遣いくれました。

(会場:歓声)

散髪代を無料にしてくれて小遣いまでいただいたのは僕にとって最初で最後の体験でした。そして移民局へ出頭し、正式にアメリカの滞在許可をいただきました。日本総領事館へ行くと記者会見。記者会見が終わると、今度はサンフランシスコのシティーホールに行くようにという指示され、僕は日本総領事館の総領事さんに連れられてシティーホールに向かいました。シティーホールに行くと、サンフランシスコに到着して20数時間しかたっていない時にサンフランシスコの市長さんからサンフランシスコの名誉市民の金のかぎをいただくという幸運に恵まれました。
僕はサンフランシスコに到着した時散髪代もなかったわけですから、もちろん日本に帰る費用もありませんでした。それでは日本に帰る費用はどうするつもりだったかと言うと、このヨットを売却すれば帰りの費用くらいは何とか捻出できるんではないかと漠然と思っていたんです。ところが到着して数日経つと、今度は航空各会社から「日本に帰るならうちの飛行機に乗りなさい」と言って声をかけていただけたんです。それで僕はお願いして、日本に帰る費用の心配はなくなりました。ヨットを売らなくてよくなり、僕はお世話になった市長さんをはじめとしてサンフランシスコのみなさんにお礼の意味もかねてヨットを寄贈させていただきました。ヨットはサンフランシスコのフィッシャーマンズワーフにある国立海洋博物館に39年前から保存され展示されて今日に至っています。僕は何度かこの海洋博物館を訪れたことがあるわけですが、いつも大満足するわけです。なぜかと言うと、行くたびにヨットがきれいになっているんです。保存状態、手入れがよくされているということで、サンフランシスコに寄贈させていただいたのは間違いでなかったと……。

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最初のきっかけは高校のヨット部。
最初の1ヵ月でヨットの魅力にとりつかれて……。

そもそも僕がヨットを始めたきっかけは、今から47年前。関西大学の付属高校の関大一高に入学し、僕たち1年生は入学と同時に10数人がヨット部に入部しました。ところが1ヵ月もしない間に新入部員は僕ひとりになってしまい、僕も辞めようかなと思ったんです。しかし1ヵ月の間に僕はヨットの魅力にとりつかれてしまったんです。でも入部1ヵ月ではとても乗れるようになれなかったんです。ですから今日まで47年間ずっとクラブ活動をやっている感じもしています。もちろんヨットはスポーツですから、できるだけ高いハードルを越えてみたいというのが原点にあるわけです。それでは39年前の「太平洋ひとりぼっち」はと言いますと、複数でやるよりもひとりでやる方がより困難だと思っているわけです。そして世界一広い海を世界一小さなヨットで航海してみたいというのが原点にあるわけです。
39年前の全長5,85メートルのヨットは太平洋を航海した最も小さなヨットでした。それから27年たった1989年、今度はサンフランシスコから日本への復路の航海を行ったわけです。この時のヨットが全長2,8メートルの超小型ヨットだったわけですが、僕の身長を2倍しますとヨットよりも大きくなるわけですから大体の大きさが推測願えるかと思います。そしてハワイから沖縄までの足こぎボートの航海になるわけです。このヨットは現在では太平洋を航海した最も小さなヨットです。ですから世界一広い海を世界一小さなヨットで航海してみたいというのは同じ原点の上に立っているわけです。そして今までの航海の動力源は風だったわけですが、今度は人力、今までの航海と違って体力のいる航海になるわけです。もっと若くて元気な時にやっておけばよかったんですが、その時にはそういうことが僕にできるとかできないとか考えもしなかったわけです。それでは50代になってからできることがわかったかと言うと、それは今までヨットの航海をしている間にだんだんとわかり始めてきたんです。ひとつには行動することによって、例えば山に登って行けば今まで見えなかった向こう側が見えてくるように、行動することによって今まで見えなかったこと、あるいは可能性が見えてくるわけです。僕の場合はヨットの航海をすることによって、できそうだということが見え始めたんです。このボートでハワイから沖縄まで111日間かかって航海しました。

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そして今度は、今から5年前のアルミ缶リサイクルのソーラーボートの航海。それより1年前の1995年、「記者会見をやりますから集まってください」と発表した日の早朝に阪神淡路大震災を受けました。地震のニュースばかりですから、これが終わればアルミ缶リサイクルソーラーボートの発表をしようと待っていたんですが、今度は地下鉄サリン事件が起こりました。結局、会見は5月になりました。このボートは三重県伊勢市にある強力造船で、建造完成して浸水します。アルミ缶リサイクルのソーラーボートと言うと、アルミ缶を並べてつくっているように誤解を受けるんですが、これはアルミ缶を溶かした材料でボートをつくるわけですから、アルミ缶でできているかどうかはわからないわけです。それではソーラーボートは何かと言うと、このボートには帆は全くないわけです。ソーラーボートですからボートのデッキに太陽電池を貼りつけて、その電気をボートの底に積んでいるバッテリーに充電して、そしてモーターでプロペラを回して進んでいきます。このボートの動力源は今までの風ではなく太陽の光になるわけです。そして出発点は南米のエクアドルなんです。エクアドルへは出発の1年前に現地へ行き、「アルミ缶リサイクルのソーラーボートの出発地に使わせてほしい」とお願いしました。なぜエクアドルかと言うと、エクアドルという国は南米の中で日本と最も縁のない国なんです。「エクアドルは世界で最も環境保全の進んだガラパゴス諸島を持っているということと、アルミ缶リサイクルのソーラーボートの出発地として、最も理想的な場所なので使わせてください」とお願いすると理解していただきました。そして、サリナスにあるサリナスヨットクラブをお借りして準備することができました。そしてエクアドルを出航して東京へと帰って来たわけです。
今まで僕はゴールを東京湾にしたことは一度もなかったんですが、5年前の1996年は東京で世界都市博があるということだったんです。それならば東京湾をゴールにさせてもらおうと思って予定していたんですが、世界都市博は中止になってしまったんです。しかし東京がなくなるわけでもないだろうということで予定通り帰って来て、この航海も無事終えることができました。
そして次は生ビールの樽528本を繋いだ双胴ヨットの航海となるわけです。出発点はまたサンフランシスコですから日本からコンテナ船にお願いして一昨年サンフランシスコへ送りました。そしてサンフランシスコヨットクラブをお借りして出発準備をするわけです。出発は2年前の1999年3月28日の午前11時。今度は昼間ですからたくさんの方が見送ってくださいました。で、その中にふたり特別な方がおられたわけですが、ひとりは39年前、サンフランシスコに到着して初めて会った白い帽子の船長さん、彼は自分でヨットを操縦しながら僕がサンフランシスコの金門橋を出て行くまで見送ってくださいました。そしてもうひとりはサンフランシスコに到着した翌日サンフランシスコのかぎをくださったサンフランシスコの市長さんです。そして彼らと別れ、僕はハワイへと進路をとっていくわけです。この双胴ヨットは全長が10メートル、横幅が5,3メートル。胴体がふたつ同じものがあって、横に6本の梁で繋がっています。船体には1本ずつ合計2本のマストがあり、その1本のマストに1枚の帆をつけて、これに風を受けてサンフランシスコから日本へ帰っていくわけです。そしてこのヨットの後ろには風力発電機がついているんです。これは動力源ではなく生活用の電源。生活用の電源とは何かと言うと、例えばマストについた航海灯ランプ、アマチュア無線に運用するわけです。それからこの電源を用いて海水造水機で海水から飲料水をつくります。この水を使って珈琲も沸かしますし、ご飯も炊きます。飲料水でお米を研ぐのはもったいないので海水で研いで、飲料水を入れてご飯を炊くのですが、海水を切っても少しは残っているのですが、海水が入っていることがわからないほどおいしく炊きあがります。39年前、僕は「海水100%でご飯を炊いたらどんな味がするだろうか、おいしいんではないか」と思ったんですが、とても苦くて食べられませんでした。
海水半分、飲料水半分、半々だと丁度いいかなと思ったんですが、これも苦かった。だから以後海水はお米を研ぐだけになりました。副食品は缶詰類ですが、その中で最も多いのはカレーです。カレーは缶詰もありますがレトルトパックもあります。カレーの時にはまずお米を海水で研いで海水を切って、そこへレトルトのパックを出して鍋に入れて、飲料水を入れて一緒に炊き込むとカレー炊き込みご飯ができ上がります。このようなお米であるとか缶詰であるとか、日持ちのする食料品は全部日本からヨットの中に詰め込んで送りつけているわけです。もちろん僕は今までにハワイ、サンフランシスコ、ニューヨークで日本食品を仕入れたことがありますが、やはり日本から持っていった方がいいわけです。賞味期間、コスト、種類、全てにおいてすぐれています。しかし現地で仕入れる食料品もあるわけです。生ものが中心ですが、まず生卵、僕のヨットには冷蔵庫はありませんが卵はボートの底に積んでいますと40日間は使えるということで非常に便利なものなんです。それから野菜は、じゃがいもとたまねぎ、この2種類は日持ちがするのでいつの航海にも持って行きます。じゃがいもは持って行くわりに食べないんで、最近はたまねぎだけです。ヨットで世界一周した友人が「かぼちゃを持って行ったら、日持ちがして重宝しました」と言うんですが、僕はヨットの航海でかぼちゃは持って行ったことがない、なぜかと言うと、かぼちゃは戦争中に食べ過ぎたもんですから。

(会場:笑)

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それから果物はだいたいバナナとりんごとオレンジとグレープフルーツの4種類。この中でいちばん日持ちがしないのがバナナで、最も日持ちがするのはグレープフルーツです。
このヨットは絶対に沈まない不沈構造になっていたわけです。どんな構造になっているかと言うと、胴体の中に発砲プラスチックを詰め込んでいます。この発砲プラスチックが浮力体の役目を果たして沈まない構造になっているわけです。僕はヨットによる世界1周の航海は今まで2度行っているわけですが、1度目は今から27年前の西回りの単独無寄港世界1周という航海だったわけですが、それはまず日本を出発して西回りで世界1周して出発点である日本に帰って来る、9ヵ月間どこの港にも寄らず世界1周して帰って来たんです。そしてその後に行ったのが縦回り世界1周です。まず日本からハワイへ向かいましてハワイから南アメリカ大陸、そして北アメリカ大陸、すなわちハワイから南北アメリカ大陸を時計の針の反対の方向に回ってハワイへ帰って来る縦回り世界1周の航海です。このふたつの航海の反省として、以後のヨットは全部沈まない不沈構造になっていた。直接役立ったことは一度もないわけですが、そうなっているというのは非常に精神衛生上もいいわけです。
そして、生ビールの樽の双胴ヨットでまずサンフランシスコからハワイへ向かい、ハワイで1週間寄港して、ゴールの明石海峡大橋へと目指します。最初に日付変更線へと近づいて行ったのですが、ヨットは波が来るたびにピシッピシッピシッと音がし始めました。何かと思って見ると、ヨットは双胴ヨットで胴を繋ぐ梁が6本ありますがそのうちの1本に亀裂が入ってきたんです。そして日付変更線のところで1本目が完全に切れてしまって2本目に亀裂が入り出しました。ゴールの明石海峡大橋までは何千キロもあるわけですから、その時僕はゴールできるかどうか自信がありませんでした。ヨットは一瞬一瞬壊れていくわけですからできるだけ大事に使って、ヨットがバラバラになるまではがんばろうと思ってゴールに向かいました。そしてゴールの明石海峡大橋が見えた時には6本の梁のうち5本が完全に切れていて、ぎりぎり明石海峡大橋を潜り抜けてゴールすることができました。振り返ってみると、太平洋の大きさがあと1%大きくてもゴールできてなかったかも知れません。しかし今回も幸運に恵まれて無事ゴールすることができました。
これからも現状に満足することなくいかなる結果も恐れず、より高い目標に向かって行く、そんな人でありたいと思っています。来年は40周年ということで、また西宮からサンフランシスコへの航海に出かけたいと思っています。

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<第2部>

お客さまとのQ&A

お客さま:
「世界1周をしよう」と思う、気力、体力、精神力はどういうところからきていますか? それ以外にも身体から湧いてくるものがあったと思うんですけど、その辺をお聞かせください。

堀江さん:
僕は高校1年でヨット部に入ったんですが、大阪府下には高校が何百かあると思いますが、僕が行った関大一高はその中でヨット部がある唯一の学校だったんです。なぜヨット部に入ったかと言うと、中学3年生の時に大きなニュースがあったんですね。それは何かと言うと、エベレストに英国隊が初登頂したということだったんです。エベレストは誰が挑戦しても登れなかった山だったのが、英国隊が登ったというニュースを聞いて僕はショックを受けたんです。山の時代は終わったと思いました。それで翌年ヨット部のある学校に入学したことは深層心理でちょっとくらい繋がっていたのかなという気がするんです。入学してヨット部に入ったんですが、その時から太平洋を横断しようとか世界1周しようとか思いませんでした。しかしヨット部に入って、先輩から話を聞かされたり、専門誌を読んだりしてヨットにはこんな可能性があるのかとわかるに従って、僕の夢も広がっていきました。
僕は人間としてしたいと思うことはたくさんあるわけですが、できないこともいっぱいあって、例えばヨットで月へ行けるもんなら行ってみたいと思うんです。けれど実際には自分の能力とかがありますから、自分が行けそうだと思うところに絵を描いて研究をしいるというのが現状です。
やはりヨットの航海に限らず自分自身はいろいろなものに対して強い人間になりたい。恐怖を感じさせるものを許せないという気持ちはあるわけですが、ヨットで航海していて、嵐にあったりするとやっぱり怖いわけですね。がんばろうと思っても、気持ちだけではなかなかなれません。で、「太平洋ひとりぼっち」の航海をしている時に感じたのは、初めて嵐に遭うわけですが、何が最も怖いかと言うと自分自身の想像力なんです。嵐でヨットが波に翻弄されてアップアップしているわけですが、想像力が怖いというのは、「この嵐が強くなったらどうなるんだろうか」、そう思うと悪く悪く考えて、どんどん自分が追い込まれて行くところがあります。それでも時間が経過すれば嵐が去って平穏な日が続いて、また嵐が来る。そういうことを2回か3回繰り返すとですね、自分自身が強くなっているのがわかるんです。ですから自分が強い人間になりたいと思うだけでなれなくて、やはり体験することによって新しい世界が見えてくることがあると思います。体験を重ねることによって、自分が少しずつ成長しているのがわかる感じがするわけです。

お客さま:
私も還暦を迎え何か大きな夢をかなえたいと思っています。5月には友人2人と瀬戸内経由九州まで約1週間で行きました。もう一度日本のどこかに行きたいと思うのですが、勇気がありません。どうすれば勇気が出るのでしょうか? またどこがよいでしょうか?

堀江さん:
先日僕と同年代の方からお電話をいただきましたが、その方は還暦を向かえられてヨットを買い、そして横浜からサンフランシスコに行ったそうです。で、現在サンフランシスコにヨットを預けているそうですが、それはどうするつもりなのかと言うと、今度は太平洋を1周しようという夢に変わったそうです。サンフランシスコからカリフォルニアに下がってサンディエゴまで行くそうです。またそこへ預けておいて、サンディエゴからタヒチに航海して、日本に帰って来るという計画をされているみたいです。世界1周でもいいわけですが、どこか1ヵ所経験することによって新たな世界が見えてくるんですね。そうして体験を積むことによってもうちょっと行けるな、もうちょっと行けるな、ということで、どんどんと自分の夢をかなえて行くことができると思います。ヨットは8歳から80歳までできるという、よく外国では仕事をリタイヤしてからヨットを始めて世界1周したという方が結構おられるんで、見方によればおじんスポーツでもあります。

(会場:笑)

人生は還暦からではないかと思いますので、これから本番の人生を迎えたいと思っております。

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お客さま:
ヨットで旅をしている時、日本が恋しくなりませんでしたか?

堀江さん:
僕のように初めからひとりになるのがわかって出て行っているものにとってはたいした問題ではないとは思うんです。ただ人間というのはうまくできていて、環境に対する順応性があり、順応していく力があると思うんですね。僕は今まで航海を行っているわけですけれど、ヨットの設計であるとか、建造してもらうとか、いろいろな人の応援をいただいてやっているので、社会的に孤立しているわけではないのです。たくさんの応援をいただいているので寂しいと言うのはぜいたくだと思っています。

お客さま:
海にいる時、考えること、浮かんでくることにはどんなものがありますか?

堀江さん:
時間があるので考えるだろうとみなさんには思われているようですが、それはかなり能力のある人だと思います。考えると理解できる、僕はそれだけの能力はないと思っています。僕は体験して困ることによって、いろいろなことがわかって来るというのがあります。体験するという方法が僕にとっていちばんの方法だと思っています。海の真ん中にいると、水平線しか見えないわけで景色は出発してゴールするまでほとんど一緒。航海に出て実際に寂しいと思う時があるわけですが、だいたいそんな時はかなり余裕のある時なんですね。ヨットの最大の仕事はヨットを目的地に向けておくということなんです。それは楽なことではなく、かなりめんどうくさいことなんですね。ヨットは夜も休んでる間も進んでいるわけですけれど、適切に目的地に向けているというのはかなりの仕事なんです。まっすぐ走っている、ずれた、そういうことに神経を使っているわけです。ですから、順調に目的地に進んでいる時は、「寂しい」とか「おもしろい本があったら」とか「テレビがあったら」とか、いろいろとぜいたくになってくるわけです。僕はヨットで目的地に近づいているというのが最大の喜びです。

お客さま:
航海に出る時、お持ちになる本の作家やタイトルを教えてください。

堀江さん:
39年前の「太平洋ひとりぼっち」の時は推理小説を持って行ったんですが、推理小説はだんだん僕の趣向に合わなくなって読まなくなって来て、ノンフィクション専門になっています。その中で中心をなすのはいろいろな方のヨットの航海記を持って行っています。例えばAという人がここを航海した時にどんなふうに書いているのか、どんな波に遭ったとか、どんな嵐に遭ったとか、というのを見ることで僕自身の航海の参考にしています。

お客さま:
何度も航海されていますが、海に変化はありませんか? 景色が変わったとかゴミが多くなったとか環境の変化を教えてください。

堀江さん:
39年前の「太平洋ひとりぼっち」の時にも海には人間の手で汚されたゴミがありました。そして海の汚れは年々進んで来ているという感じがあります。今から8年前のハワイから沖縄までの足漕ぎボートの時に大きな発見がありました。それは、海の汚れはゴミが流れているということですが、それ以外に船から流したと思われる廃油なんです。船からドラム缶で流しているところは見たことはないんですが、どんなところでも油が流れているんです。幅数メートルで、水平線に向かって油のオイルロードができるわけです。ただ海には波がありますから何時間か経過するとバラバラになってわからなくなるんですが、しかし流した後の1時間以内ですとはっきりとわかるわけです。油のオイルロードと思われるのはいつの航海でもあったわけです。しかし8年前のハワイから沖縄までの足漕ぎボートの時には1回も見ることがなかったわけです。それは多分、船に乗っている人たちもだんだんとモラルが向上して、そうなって来たんではないかと思うわけです。
今から5年前のアルミ缶リサイクルのソーラーボートの航海中もそういう感じを受けたものですから無線で漁船と話をしていると、その漁船の方たちも昔は油を流していたそうなんですが最近は油を流す時には中和剤を混ぜて流すという指導を受けたそうです。科学の進歩とモラルの向上によってだんだんなくなって来たなという感じがします。
僕は足漕ぎボートの航海、アルミ缶リサイクルのソーラーボートの航海、生ビールの樽528本の双胴ヨットの航海、この3つの航海では一度も廃油の流した後には遭遇していないので、明らかに漁船とかそのほかの船の人たちもモラルが向上してきたということがあると思います。ですから僕自身もリサイクルのヨットを使っているわけですけれど、これはリサイクル運動をしようというのではなくて、みなさんはゴミを分別しているわけですが、そのまま出せばゴミですが、分別すれば資源になるということで、これは運動ではなくて、モラルの範疇に入ると思います。僕たちヨットマンもリサイクルの材料を使うとか、あるいはリサイクルしやすい材料を使うとかいうのは、ゴミを分別するのと同じようにモラルの範疇に入ると思っています。僕自身は今度の航海もリサイクル材を使って航海をします。そして運動をしようというつもりはありませんが、賛同を得て、関心をひとりでも多くの方が持っていただければうれしいと思います。

お客さま:
冒険というのは死と接していると思います。冒険家の有名な方々が亡くなっていますが、死の恐怖を感じられたことはありませんか?

堀江さん:
ヨットを冒険としてとらえられる方も多いと思いますが、私自身はヨットマンだと思っていて冒険家だと思っているわけではないんです。ヨットと冒険とは根本的に違うと思っているわけです。ヨットは誰にでもできる安全なスポーツで、僕は来年63歳で航海を行いますが、僕はヨットに対する熱い情熱においては負けないかも知れませんが、特別人より体力がすぐれていると思っていません。例えばヨットと登山は自然が相手であるから同じように見られますが、全く違うんです。山登りですと荷物を担いで高い山へ登って行くわけです。空気が半分しかない、寒さもマイナス何十度、山登りは生物が生存できないようなところへ行こうとする。ヨットの場合は寒いといっても溶けた水の上、ということはプラスの温度であるということ、動力源は風だし、荷物は積んでおいたらいいんです。

(会場:笑)

要するにプラスの温度のところを風に乗って進んでいくわけですから、寝ていても進みます。ヨットは波が大きいじゃないかといいますが、揺りかごに乗っているように思えばいいわけです。例えば僕のヨットが39年前と同じ5,8メートルのヨットなんですが、このヨットは、僕自身がヨットに乗るとちょっと沈むわけですけれど、1cm沈めるのに80kg積まないといけない。浮かぶ原理はアルキメデスの原理によっているわけですから、1立方メートル沈めるためには1000kgでないと沈まないわけです。缶詰とかお米とかそういう食料品ですといくら積んでもたいしたことないわけです。そしてヨットはそんなに危険ではない。なぜかと言いますと、みなさんが乗られる自動車は運輸省の管轄になるわけですが、ヨットも運輸省の管轄で安全検査を完全にパスしないと日本から出発できないような仕組みです。おじんスポーツですから、どんどん海へ出て行っていただけたらと思います。

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Profile

堀江 謙一(ほりえ けんいち)さん<海洋冒険家>

堀江 謙一(ほりえ けんいち)さん
<海洋冒険家>
*プロフィールは、ご講演当時のものです。
1938年大阪生まれ。1962年ヨット・マーメイド号で日本人初の単独太平洋横断に成功、西宮港―サンフランシスコ間を94日間で航海した。サンフランシスコとロサンゼルス両市から各名誉市民の称号を受け、イタリアの「海の勇者賞」受賞。この時の航海日誌を『太平洋ひとりぼっち』と題して出版、1963年菊池寛賞受賞。1974年マーメイド3世号で西回り世界一周を成し遂げ、翌年には40日間で太平洋を横断。1982年地球縦回り6万キロ走破、1985年8月世界初のソーラパネル利用のボートによる単独太平洋横断に成功した。2002年5月、再び西宮からサンフランシスコを目指してウイスキーの樽でできたヨットで航海予定。

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