神戸学校

神戸学校はフェリシモが主催する「神戸発 生活デザイン学校」です。

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「知恵の伝達~森林の再生は、未来への贈り物~」



<第1部>

最初に、僕の生い立ちをお話します。

今があって当然歴史があります。僕の先生はコンラート ローレンツ、ノーベル賞の生態学者の弟子だったんです。だから僕はローレンツ先生の孫弟子ですね。ローレンツ先生に聞いた話は、人類にとって、もっとも大事な勉強は歴史とバイオロジー、生物学、生の勉強です。じゃあ、なぜ僕が日本国籍なのか。僕は亡命したんじゃないですよ。前はカナダと英国、パスポートがふたつあったんです。そのままでも永住権をいただいていましたから、別に国籍をとる必要はなかったんです。でも、僕にはとる必要があった。それは僕がケルト人だからです。
我々は3000年くらい前にユーロアジアから移動して英国、当時のブリテン、それもケルト語を話すケルト系に入ったんです。それから2000年前にローマ帝国と戦い、ウェールズはローマ帝国に支配されました。しかしローマ帝国は従うなら相手の文化を尊敬する帝国だったんです。だからウェールズとウェールズの文化が残りました。帝国というものは必ず滅びます。特に資源の無駄遣いをしだすと滅びるんです。これはメソポタミアの帝国、ギルガメッシュの帝国から確かなことです。歴史と生物学は一緒なんですよ。ローマ帝国は滅び、そしてサクソンがどんどん入ってくる。ケルトとサクソンが800年戦い、それでサクソンの方が多いんです。ケルト人がみんな一緒になって戦ったら勝つだろうけど変な性格があるんですよ。いい戦争の後で国へ帰って敵の首を飾って「いいやつだった、勇敢ないい敵だ」と歌をつくったりするんです。相手の土地を支配しようと思ってないんです。しかし900数十年前にフランスからものすごく強い人々がイギリスに渡ってきて戦うんです。これはノルマンズ、その人々は実に強くて支配者の気持ちを持ってました。サクソンを奴隷にして、そしてアングロサクソンの古いドイツ語に近い言葉がノルマンのフランス語と一緒になって英語ができます。英語が新しい言葉です。それでイングリッシュができて、イングリッシュがウェールズとスコットランドとアイルランドと戦うんです。我々にいちばん近いウェールズは負けました。なぜかというと、まず港を支配します。港で城をつくり港の入り口を完全にコントロールすると、材木の動き、穀物の動き、それから海の幸の動きを支配します。強い者はやっぱり魅力的ですよ。強い者に褒められて買われる、特にウェールズの武士の特徴は弓でした。その弓の射程距離が360mです。100mで鎧と鎖でできたベスト、そういうものをぶち抜ける。だからその弓、ボウガンは非常にいいお金をもらってノルマンのものになったんです。それで文化もだんだんとノルマンになってしまったんです。しかし言葉は残りました。

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僕の先祖にもお城がありました。それで僕は小さい時からおじいさんから「騎士はこうであるべきだ」と教わりました。うちは、非常に古い家庭でした。12歳の時に指を切られて、聖書の中に自分の血でマークをつけて、「こういうことを絶対守ります」と約束させられたんです。「弱いものをいじめてはいけません」、「小さい、弱いものほど尊い」、「嘘は言っちゃいけません」、「人の悪口を言うなら面と向かって言え」、「戦う必要があったら、負けても恥ずかしくない」、「戦うのは正しい時もある」、「できたら戦わないで相手を納得させる。けど納得しないなら下がっちゃだめだ」……、そういうことをこどもの時から徹底的に言われ、僕は信じていました。
そして僕はイングリッシュスクールに行きました。学校では毎日いじめられました。僕は裸にされてイラクサの中に捨てられました。本当にひどかった。ウェールズ語を話そうとすると先生に「ウェールズのバカ」と殴られて廊下に立たされました。国へ帰るとお城はつぶれていた、小さな家しか残ってないけど僕の生まれた国には歴史と伝統と誇りがあったんです。古いケルト人にとってアングロサクソン人はまだ敵です。でも面と向かっていって、お互いを尊敬したらいちばんいい友だちになれる。そういう気持ちはあるよ。
明治政府が国をつくる時に、島国で古い伝統があって王様がいる国で日本に近い国はアメリカよりもイギリスでした。それで島国だから海軍をつくらなければならない。100年前はイギリス海軍が世界一だったんです。それで明治政府がいろいろな人をイギリスに送る。だからその人たちはわかっていたんですね。イギリスという国はないの。あれはスコットランド、ウェールズ、イングランド、アイルランド、そのうちにアイルランドはふたつに分かれる。だから、「僕はケルト人だ」と言うと、お年寄りはわかってくれるけど、若い人はわからない人が多いですね。文化が違うの。だからケルト人にとって、ケルトの昔の宗教は昔の新党にそっくり。「全ての生き物に魂がある。岩でも滝でも魂がある」、僕はそれをおばあちゃんに教えてもらったんです。でも教会に行くと「犬や馬には魂がないから天国に行かない」と牧師が言うんです。犬や馬や鳥がいない天国には僕は行きたくないと思ってこどもの時から反発してたんです。小さな時から反逆者だったんです。とにかく学校の言うことは信じない、教会の言うことは信じない。それで僕は12歳くらいになると、どうして我々の国はこんなにやられたのかを考えるようになりました。戦争の死亡率はウェールズ、スコットランド、アイルランドは高いです。僕のおじいさんもお父さんも戦争に行きました。

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僕がこどもの時はほとんど森がありませんでした。たまたま僕が生まれた小さなニースという谷間はあんまり石炭が出ない、だから森は少し残っていました。これはオークの森です。オークというのは調べるとカシと書いてあるけど、形は同じだけれど、カシの葉っぱはオークの葉っぱより大きいです。でもカシの葉っぱは落ちないでしょう。オークはナラと同じように葉っぱは落ちる。だからオークはナラだな。ウェールズ、ケルトにとってオークは神々の木、特別の許可がなければ切ってはいけない木です。勝手に切れば処刑されました。ローマ帝国の時代からウェールズを支配する時に船、お城をつくるためにはオークが必要です。石のお城でもはりや屋根は全部オークです。「You can cut the forest of the Celts」=「あなたはオークの木が切れる」と、ローマ帝国のシーザーから許可をもらった。そうすると手首と額にどんぐりとオークの葉っぱの飾りがあるんです。
昔我々は森の民族だったんです。少し森を開いて家畜を飼ったり、小さな畑をつくったり、狩りをしたり、日本の縄文人みたいな生活をしました。でも帝国が入るとどんどんオークが切られます。隣のロンダ地方の谷間に行くとみんなが「ここは世界一いい石炭が出る」と言うんです。軍艦三笠に南ウェールズの石炭が積んでありました。ロシアのバルチック艦隊と戦った時に日本海軍の船はウェールズの石炭を使ってました。三笠もイギリスでつくりました。とにかく石炭産業のために、150年続けて森はどんどん切られました。石炭を運ぶために鉄道をいっぱいつくったんです。枕木にオークとかクリとかクルミを使いました。僕の谷間には小さな森のかけらがあったけど隣の谷間にはない。そこには炭鉱が47あったんです。炭鉱から出るものは石炭だけじゃないんです。ボタですね。ボタはどこにでも捨てた。そこは月の裏みたいなかわいそうな谷間だったんです。でも名前だけは美しかった。「A FUN」と言います。「A FUN(ア ファン)」は、風が通る森の谷間という意味。おじいさんに「森がないのに、どうしてその名前がついたの?」と聞くと、「昔は全部森だった」と教えてくれました。僕は悔しいと思いました。
しかし石炭を掘る150年の間に新しい文化もできたんです。石炭を掘る炭鉱の男たちはすごく誇りを持っていました。小さな石づくりの長屋で石炭を燃やしているから町中黒くて汚いんです。だから毎朝奥さま連中が、自分の家だけじゃなく、人が歩く外の道をゴシゴシ洗うんです。自分の家のまわりをピカピカにきれいにするのが誇りだったんですね。しかし、僕が10~12歳くらいの時、国は石炭から石油に切り替えました。そうすると炭鉱が次々つぶされ、失業者が37%です。働ける男たちに仕事がなくなりました。そうすると組合と政府の戦いです。もう社会がめちゃめちゃになったんです。僕はティーンエイジャー、いちばん情熱ある時、いちばん美しいものは歌と自然がつくったもの、いちばん醜いものはスラムとか人間がつくったものだと思う若者になっていたんです。

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14歳から柔道とレスリングをやり始め、そして15歳の時に初めて日本人に出会います。15歳の僕は大人から「日本は恐ろしい、捕虜を残酷に扱ったりするひどい国だ」と聞いていました。15歳の時に小泉 軍治という柔道の先生に出会いました。小泉先生は嘉納 治五郎の弟子、本当の侍です。めちゃめちゃ強かった。明治時代の方で、小柄でダンディーで、言葉がすごくきれいで、それで文化人です。先生に出会い、僕は大人が言っていることはおかしいなと思いました。それで僕は、英国の博物館や図書館で、日本のことを調べました。そしたら素晴らしい国じゃないですか。それで僕は日本に行くことを決めました。
でも先に17歳の時に8ヵ月、北極探検に行きました。そしてまた、18歳の時に8ヵ月北極探検。19歳で、イギリスに帰ったんです。母がものすごいガミガミ言うんですよ。「しょっちゅう探検に行ってる」とか、「しょっちゅうけんかをする」とか、それから「学校に行け」とか。僕は先生になるために学校へ行きました。しかし僕は北極とか歴史とか格闘技とか武士道、騎士道、詩を書くことに燃えていたんです。そしてイギリスでいちばん若いプロレスラーになりました。「母にプロレスをやってるとばれたら大変だから、やめろ」とみんなが言うんです。北極体験2回行ってるんです。それで大きくなったんです。もう誰も僕をいじめない。だから「俺はやめない」と言いました。そうすると、学校の学長に呼ばれて、プロレスがどれほど悪いかを僕に言うわけです。でも、僕は知っていました。プロレスのもとは騎士道。プロレスのもとのレスリングは騎士と騎士が戦った技です。だけど学長は「辞めなさい」と言いました。僕は素直です。学校を辞めました。

(会場:笑)

20歳になり、小さな島に行って渡り鳥の調査を手伝ったりして自分の酒代くらいは稼いでいました。でも北極に帰りたい……。そんな時、神様が電報をくれました。「越冬隊になりませんか?」と。それで僕は北極に19ヵ月。越冬隊は素晴らしかった。ずっと北極にいたい、しかし空手も柔道も大好き。イギリスに空手の先生はいなかった。だから空手を習いに39年前に日本に来たんです。僕はウェールズの最初の空手の黒帯になると決めました。ここでやっと森の話です(笑)。

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39年前に日本に来ました。
そして、日本の森の素晴らしさに感動したんです。

やっと日本の森に連れて行かれたんです、冬に。本当に感動しました。ウェールズの原生林はほんの小さなものです。日本の人口はイギリスの約倍。39年前、東京は多分世界でいちばん大きな町だったかな。とにかく大きい。これだけ工場があって、あの恐ろしい戦争もやって……。で、東京からちょっと旅するとクマ、イノシシ、シカが住める森があるの、長野とか岐阜とか。どこへ行っても素晴らしい自然があるんです。それを見て感動して、自然から力をもらったなあ。それで東京で2年半がんばったんです。そして黒帯になりました。それから北極に戻って、それからエチオピアに行って国立公園をつくりました。
そしてエチオピアから日本に戻って、また勉強したんです。日本の北には流氷があって、南にはサンゴ礁があります。大きな町の近くでも奥深い森があって、素晴らしい自然があります。言論の自由、宗教の自由、旅の自由、それからこの国は平和を約束して守ってました。僕が生まれた国は第二次世界大戦の後、すぐ、マラヤ、アデン、ケニヤあちこちへ若者が戦いに行くんです。僕は格闘技が大好き、でも戦争を憎んでます。
僕は日本が世界一の国だと30歳でわかってました。日本が大好き。
いろいろな仕事をして、やっと作家活動で生活ができるようになったらもう38歳です。詩人の谷川 雁さんに、「ニコル、お前は40歳であっちこっち放浪して、けんかして、いい加減に文学と戦いなさい。ひとつの場所を決めて住みなさい」と言われました。僕はケルト人、ケルト系日本人ですから「わかりました」と答えました。それで長野県の黒姫に住むことを決めました。最初の冬は大雪で大変でした。かやぶき屋根の家に住んで、屋根に雪が積もるとふすまや障子が動かないんです。それから屋根がぎしぎしして昔のススが落ちるんです。僕のビールに落ちた時はショックでした。

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(会場:笑)

それで隣のおばあちゃんに「あんた、ずくなし」って言われました。「ずくなし」、知ってる? なまけものとかやる気がないという意味ね。「雪下ろししないとだめだ」と言われたんです。僕は雪下ろしなんて聞いたことない。でも覚えました。最初下からやろうとしたら雪崩がきました。死にそうでしたよ。埋もって動けなくて、大変でした。とにかくいろいろ新しいものばかりだったんです。山を知りたい。しかし、山の方は4.5メートルの雪があります。山を知るなら猟師と一緒じゃないとだめ。だから僕は猟友会の弟子として大声を出して、ウサギをおっぱらう仕事をしました。そのうちに鉄砲を持って猟師と一緒に山を歩きました。猟師と一緒に歩いてビックリしました。町から20分のところに車を停めて、山を歩いたら、ナラ、ブナなど、素晴らしい落葉樹の原生林。半日でクマを4頭見ました。そして足跡は7頭分ありました。もちろんほかの生物もたくさんいました。リスがこの木から降りた、この木に登った、途中でテンに追いかけられた。これはタヌキ、これはキツネがウサギを追いかけてる、これは山鳥の跡だ。いっぱい見ました。感動してしょうがなかった! 雪の上にいろいろな物語があったんです。
日本の自然と文化はすごいものだ、ヨーロッパは負けると信じてたんです。でも次の年に行ったら森は全部切られていた。年輪を数えたら400年以上の木々が何千本切られていました。僕はショックでした。
これがバブルの始まりでした。日本はあちこちにリゾートをつくり、スキー場をつくり、ゴルフ場をつくり、マリーナをつくり、立派な建物をつくって、どんどん古い森を切りました。そのことを僕が猟師の仲間に言ったら、みんな同じ意見でした。この豊かな国は、なぜ水源地や森、林学、森の文化にもっとお金かけないのか……。それで日本人の仲間が「そうだ、お前がマスコミに言え」と言いました。「どうして僕が言わなくちゃいけないの。僕は外国人だよ」と言うと、「日本人は日本人の言うこと聞かないからお前言え」と答えました。だから僕は「いいよ、バックアップしてね」と言いました。僕はふんどしを締めて、はちまきを巻いて、突撃しました。しばらく走って振り返ると誰もいないの(笑)。夜になると仲間が勝手口からお酒持って来るんです。「よっ、ニコル、がんばってね」って言うんです。「あんたも言え」と言うと、「いや、俺親戚いるから」とか言うんです(苦笑)。大変でした。でもひとつ、いいことがありました。僕は営林省、林野庁、木こりの人たちと面と向かってけんかができました。面と向かってけんかをすると、半分以上の人と友だちになれますね。彼らがどうして林野庁、営林省に入ったかというと森が好きだからなんですよ。彼らも困っていたんです。国が「これを切れ」と言う。しかし「これを残したい」と言う人も大勢いました。いい友だちになれました。そしてみなさんのような方々が、森が大好きな僕の話を聞こうと来てくれます。そうすると僕は有名になっていき、コマーシャルにも出ました。

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バブルの時に森は破壊された、鉄砲水が起こる、クマが森に餌がないから出てくる、そして有害駆除で射殺される、木こりがクビを切られる……。森の失業者って多かったんですね、森には仕事があったけど金にならなかった。だから、どんどん森から日本人が去っていきました。「この国は自殺してるな」と僕は思いました。ちょうどそんな時、南ウェールズから手紙が来ました。「ウェールズから出て行った人たちが新しい木々を植えている。で、例の谷間に森の公園ができた、そして森の中のボタの上につくった16キロの鉄道の跡があるのですが、それを利用して鉄道が走った」と言うんです。「あの月の裏みたいな悲しいところに森の公園? わからない」、だから僕は行ってみました。すると、16年以上行ってなかったその場所に、緑が帰ってきていたんです。彼らは何にも生えていないボタの上に肥料をまき、クローバーとか4、5種類の草の種をまきました。緑が出たら緑は緑を呼びます。それでみんなでバケツ1杯の土を持ってきて、ボタの斜面に手で穴を開けて苗木を植えたんです。最初は早く育つシラカバとかダケカンバとか。それから水が出るところはハンノキを植えたそうです。僕が行った時はもう若い森になっていました。
ほとんどの人間はできれば美しいきれいなところに住みたい。だから緑ができ、だから人間も戻ってました。僕はそれを見て、「日本中いろいろと行って、書いたり、講演したり、番組つくるのもいいけれど、僕もやってみたい」と思いました。それで日本へ帰って自分のお金をみんな森に使いました。最初、地元の人は「ニコルは、オリンピックが来るから土地転がしをやるのよ」と言いました。

(会場:笑)

「いや、僕は森つくりをやりたい」と言いました。落葉樹のわりと若い木は種類によって、切っても幹からいっぱい芽が出るんです。根っこはまだ生きてるんです。しかし根っこも酸素が必要です。必死に自分で芽をいっぱい出すんです。それをそのままにすると、だんだんと切り株から出た芽が死にます。30年くらいには人間の首の太さくらいの幹が5、6個残ってるんですね。昔はそういう雑木林でそれを間引いて炭にしたり薪にしました。これが大事だったんです。日本はツルのような植物が多いです。混んでるとツルは枝から枝へ移ります。フジもとても太くなります。フジは美しいけど木を絞め殺します。あんまり土がよくなると木が負けるんです。だから枝を見て少しずつ間引くと、栄養が残ったひとつかふたつに行くんですよね。それで10年から20年の間にひとつだけ残すと、栄養と太陽の光でひとつの幹になるんです。日本は自然が豊かで元気がいいから100年で大木になります。150年で素晴らしい大木になるんです。イギリスだったら300年くらいかかるでしょう。大木はどうしていいのか。まず大木がなければ住めない生物がいます。例えばシジュウカラとかコウモリとかフクロウとか。そして大木の中の空洞が必要。だから我々は木を間引いたんです。それから日本にはササが多い、ササは殺菌の力があるでしょ。寿司の中の緑のプラスティックは意味ないの。

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(会場:笑)

だからほかの生物を抑えちゃうんです。それから切り株から芽が出ない木がたくさんある、ブナはそのひとつね。だからササ刈りもやりました。でもササの中に巣をつくってるメジロとかいろいろな小鳥がいます。だからササもブロックごとに残しました。木も間引きました。そこでまた言われました「ニコルは木を切っちゃいけないと言っているのに木を切ってるじゃねぇか」と。僕は「木を切っちゃいけない」と言ったことは1回もないの。僕は「原生林を残そう」と言ってるんです。日本の森の面積は確か60%以上は木です。しかし原生林はその2%しかない。北から南までいろいろなタイプがあるから、原生林は遺伝子の銀行です。この国の生物の多様性が山にある。だからそれを守れと言ったんです。守れということは放置じゃない。守るためにレンジャーがいる、学者がいる、案内人がいる。「森に手をかけて立派な材木に育てよう。立派な森の恵みをまたみんなに戻そう」と。そういう作業を16年間、松木さんという僕の愛する相棒とやってます。僕は銀行にほとんどお金がないの、なぜなら45000坪の土地を買ったから。最初はササ刈りやった後にスミレとかイチリンソウとかニリンソウとかがじゅうたんになって咲いたんです。チョウチョが増えた、小鳥が増えた、どんぐりが増えた、鳥ははっきりわかっている種類は60数種類、僕は93種類だと思ってるけど、まだ科学的に照合してないからだめなの。その中でオオタカ、ヤマセミ、カワセミ、ツグミ、フクロウも来る、今年は美しい長い尻尾のサンコウチョウが巣をつくったよ。我々は巣箱もつけてるからね。大木がまだないから、巣箱には100%入ってます。ヤマネもいる、クマも遊びに来る、6頭は知ってる。あとはハクビシン、ヤマネ、リス、タヌキ、テン、キツネ、ウサギ、みんな小さな森で。
僕はこの国に22歳に来ました。人生の中でいちばん長くいるのは日本です。日本に保護されて教育受けた。僕の愛しい人たちはほとんど日本人、お返ししないとおかしいでしょ。だから、僕が買ったこの土地は全部寄付します、僕が死んだら売られるでしょうね。だから財団で残して。今僕は61歳、75歳まで働いてこの財団が育つためにがんばると決めています。そして、できたらウェールズの森と交流ができるようにしたいんですよ。最近、ウェールズの友人に聞いたのですが、ウェールズには、毎年20万のお客さんが森に来るそうです。歩いたり自転車に乗ったりして来るんですよ。それからこどもの教育は年4000人、これはどんぐり集めておもちゃつくるだけじゃなく、だいたい2週間森の勉強をします。森の勉強には、生態学だけじゃなく、数学もあります。例えば100平方メートルはどのくらいでどう測るか、100平方メートルで木は何本あるか、種類は?唐松は何%?とかね。ウェールズは国立公園になったんです。それで森からもちろん材木を取る、教育もある、水も取れる、だからね、自然保護は放置じゃないの。残すんじゃなくて生かすの。自然を生かしたら経済が直ります。みんなのライフスタイルがよくなるんです。それを僕はこれからやります。

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カナダの川の再生のように
日本の水源地、川もよみがえらせたい!
それが僕の夢です。

カナダの西海岸の話をします。多分世界でいちばん木々があったのは西海岸、特にカナダです。しかし、この100年の間に、特に材木会社があの手この手を使って、州政府とか、政治家から水源地を切る権利を取ったんですね。少数民族をだましたり……、ひどい歴史です。カナダに怒られてもいいんです、僕は真実を話します。大雨があるところの急斜面を伐採すると侵食が起こります。どういうことかというと、カナダで僕の昔の部下がそれを研究した。2000数百メートルの山から海までいちばん長いところで50キロメートルくらい。大雨が降ると、雨水が海まで流れるのは6日間くらいかかったんです。伐採された後は同じ量の雨が降ると、海までは2時間。だから岩や大きな切り株が何千万トンと流されるんです。シャケが上がる川はもう何百も潰された。シャケが1年前と比べて50分の1に減っちゃったんです。このシャケが原因でいろいろけんかが始まるんです。「アメリカが獲りすぎ」、「いや、カナダが獲ってるじゃないか」、「この刺し網はだめだ」、とか。それで猟師が「木こりがあれだけ伐採した」と。すると木こりが「そうじゃなくて、これは町の汚染だ。パイプ工場の汚染だ」と。ほかの人が「今は温暖化されてるからシャケが生き残る海の範囲が減った」とか。多分全部本当です。でもどうすればいいの?
カナダは、10年前からまず川づくりを始めました。どういうことかと、適当な速さで川が流れている、魚が休むところがある、深いところある、餌がとれる場所がある、きれいな砂利がたまる場所がある、上がる時に水に潜って飛べる、シャケは足がないの、潜って上がらないとだめなの。科学者、土木のエキスパート、地元の年寄りがこの川は直せる川か、何が必要か。だからそれを研究して川を直そうとしています。
僕は今年、カナダで222キロメートルの川の直しているところを見ました。コンクリートは使ってないの。全部岩と大きな丸太。やり方は複雑、だけど目的は単純です。「シャケが戻れる川にしよう」それだけです。でも新しい問題が出たんです。川を直したからシャケが上がれるはず、温度も酸素も長さもちょうどいい、全部条件は合うけど稚魚を放してもあんまり戻ってこないの。現在シャケが戻ってる川と戻ってこない川とどこが違うのか、それは水中昆虫に秘密があったんです。水中昆虫の体を分析したら体の窒素とかリンとか、その元素の7割は海から来てるんです。まわりの木をボーリングしたら、やっぱり木の中も3割くらいは海の元素が入っているんです。みんなが当たり前ね。稚魚が海へ行って、長い冒険をして、立派な体になって戻ってくる、途中でクマに獲られて、カワウソに獲られて、人間に獲られて食べられるんです。そして食べ残しとか、排泄物とかが森の肥料になるんですね。クマ1頭が川で700匹くらいのシャケを捕るんです。それをはらわたと首の辺りだけを食べてポイと落としちゃう、栄養をばらまいてるんですよ。生き残ったシャケは産卵して死にます。この自然には無駄はないの、シャケの死は大事だったんです。あの体は微生物に分解されて川の栄養になってたんです。そして、親の香り、山の香り、森の香り、全部必要だったんですね。僕が見た人たちが「じゃあ、どうするの」って言いました。

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死んだシャケを養殖所から20キロ30キロしょって、山に登って来るんです、そして川に置いとく。それを3年続けると稚魚が増えて戻ってくる。効果がある。でもやりたい? 死んだシャケを背負って山に行きたい? 重い、くさい、しかもあちこちからクマが来るんですよ。危ないからできない。「じゃあ、どうするの」。僕は野蛮人だけど、化学も必要だと思っています。シャケの体を分析してどんなものが入っているか調べたんです。これ1個はシャケ4キロ分です。これは海の元素ね、デコールマジックブルトににおいはないです。これを化学的につくって、ヘリコプターからばらまきます。まず最初にこの栄養分で川の中の藻が増える、藻を食べる昆虫が育ちます。その昆虫を食べて稚魚が育つ、海へ行って帰って来るけど、これが3、4年かかります。そのうちにわかった。戻ってくるやつをせき止めて「来た、獲ろう」。そういう欲張りはだめよ、ちゃんと山に返さないとだめ。それで何%か返してまた自分の体が未来のためになると、サイクルがつくれます。
日本は北海道から北九州まで何百の川にシャケが上がってました。僕が今住んでいる長野県信濃町、僕の書斎、道場のまん前に川があるんです。大正時代まではシャケが上がって産卵してたんです。じーちゃんから聞いたけど、大正時代に鎌を持って川に近づいて、シャケが上がってるのを鎌で「ほいっ」と、立派なシャケが獲れたんですよ。松本まで大量にシャケが上がっていたそうです。シャケが上がるならイワナもいます。イワナが海へ通うと立派な魚になるんです。ニジマスもいます。もちろんアユも。
今僕は61歳、呑ん兵衛で食いしん坊の僕がどのくらい生きるか問題ですけれど、まず、日本の水源地を元気にする。日本のこどもに日本の自然、歴史、森の恵みはどれほど大事か、森から流れてくる水、井戸から上がってくる水が安全でおいしい、我々の国は素晴らしいとちゃんと理解させたい。それから日本の川にシャケを戻したい。僕はこどもの時に学校に行くためにロンドンを通ったんですね。ロンドンはいい場所です、お城がいっぱいあるし、博物館もあるし、バッキンガム宮殿もあります。だけど、テムズ川は死んでいます。魚1匹もいない。テムズ川は立派な川だなんて、なんで威張るのって思ってました。でも今はロンドンにもシャケが上がってるよ。日本の学問、日本の自然に対するやり方は間違いなく世界一、ただやる気があるか、ないか。僕はやる気あるよ。がんばります。ウェールズ系日本人として! ありがとうございました。

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<第2部>

お客さまとのQ&A

お客さま:
自然の中ですること、自分だけの楽しみは何かお持ちですか?

ニコルさん:
ただボーっとしてるのも大好きだね。僕はテント生活をこの61年で10年以上してます。あと、山菜とかキノコを少し採って料理するのも好きです。それから僕はずっと空手を続けているんですよ。時々森の中で空手と棒術の型をやります。好きなことは何でも森の中でできるでしょ。

お客さま:
この前『ステレオ・フューチャー』という映画を観たんですが、その中で自然についてふれている部分があって、最悪の場合、あと10年したら世界中の自然がいっせいに枯れてしまうかもしれないという学説があるというふうに出てきたんですけれど、何もしないでこのままでいったら本当に10年後に枯れてしまう可能性はあるのでしょうか?

ニコルさん:
僕はそうは思いません。でも枯れるところは枯れますね。例えば、南ウェールズは僕がこどもの時よりずっと森が増えました。川がきれいになった、運河がきれいになりました。でも確かに砂漠化されているところは多いよ。エチオピアはそうだったんですね。でも僕は日本人が目覚めると信じています。そうすると日本は豊かな国に戻るんじゃないかって思います。

お客さま:
ニコルさんが作品を通して伝えていきたいと思っていらっしゃるテーマをお教えください。

ニコルさん:
まず、僕は戦争を憎んでます。しかし、僕の新しい親父、11歳からの親父は27年海軍でした。僕はニコル家の長男です。僕が日本国籍をいただいた時に父親は亡くなったけど、何か送りたいと思い、それで僕は日英同盟の日本の海軍の話を調べて書きました。23年続けて日本とイギリスの海軍はものすごく仲がよかったんですよ。海軍の人たちの中で本物のヒューマニズムを持っている勇敢な男たちがたくさんいたんです。それから森が本当に好きなのに木を切り倒した男たちなど、忘れられた日本のヒーローたちを描きたいと思いました。
そして自然を取りすぎて悲しくなった複雑な話題と僕は面と向かってるでしょうね。川の工事でずいぶん僕も戦ったけど、今は信濃町黒姫で、いちばん仲のいい地元の人は土木の若い人たちです。ヘルメットかぶって、どんな天気でも川の仕事をしている人たちと僕は友だちになりました。なぜなら面と向かってけんかしたから。そういう人たちを僕は尊敬しています。「あんた、間違ってる」って言うことは大事だと思います。でも友だちだから必ず意見が合うってことはないです。

フェリシモ:
来年ニコルさんは作品を発表されるそうで、それもアーサー王伝説と関係しているということで、ここで少しお話をしていただけますか。

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ニコルさん:
僕が10年の間に日本の海軍、捕鯨の研究を続けて書いてますけど、翻訳を待ったりすると時間がかかるんですよね。日本国籍をいただいた僕がまだ英語で書いているのは変だなと……。それで20年前に『風を見た少年』(講談社文庫)という本を日本語で書いたんですよ。去年映画になりました。いつも僕はケルト系日本人だと言ってます。「一体ケルト系日本人って、なあに?」と。それで、みんなが知っているアーサー王の伝説より前のケルトの伝説を勉強して日本語で『裸のダルシン』(小学館ファンタジー文庫)という小説を書きました。挿絵も自分で描きました。

フェリシモ:
その作品の中にあるテーマのいくつかはニコルさんがずっと大事にしたいと思っていらっしゃることだと伺いました。

ニコルさん:
いろいろな文化の中ですけれども、どの民族も、リーダーになるために自然の一部にならないと本当に強くならないと。だから裸になって自然の中に入ってしまう。もし人間が裸になって日本の山の中で暮らすとなったら、僕らは死んじゃうね、でも昔はそういう訓練もあったんですよ。生き残るものはシャーマンに近い戦う人間。まわりの自然に感謝しながら食べ物も服もサバイバルをやると、超自然と自然はひとつだとわかるんです。これはケルトふうに日本語で書いた変な本になりました。

お客さま:
コンクリートの川をもとに戻すにはまず何からはじめたらいいのでしょうか?
それと日本でもコンクリートのない河川をつくっていませんか? そのような取り組みをしているところがあれば見てみたいです。

ニコルさん:
まず、僕はコンクリートを単純に否定はしてません。特に町の中とか港では必要です。本当は石の方がいいと思っていますけど、単純に否定していません。テムズ川で、コンクリートを外してる仕事を見たのは13年前です。男たちがコンクリートの岸壁を壊して川から出してたんです。そしてその代わりに土の中の溝を掘って、太い柳の杭を地面に打って、柳の枝で垣根みたいなものを編んでたんですよ。その後で埋めていました。ものすごく頑丈です。杭の種類は大木になる柳。それで柳の杭と枝から根が出て芽が出るんですね。これを使って川岸が流されるのを止めたんです。
もうひとつのテクニック。今テムズ川はレジャーにも非常に使われています。ボートがたくさん行ったり来たりするんです。ボートが動くと波が起こります。その波がやっぱり川岸をだめにしたり、鳥の巣をだめにしたりすることがあります。場所によって浅いところがあるんですよね。柳がある川岸から1メートルくらいの深さのところがあるんですよ。そこへさびない金属のメッシュの大きいかごに石とかガマとかアシの根っこを入れて沈ませたんです。するとガマ、アシが育ち、そのガマとアシと石のかごが波の力を防いでくれるんです。それだけではなく、コンクリートのパイプを5メートルごとにかごとかごの間に置いてたんです。そうすると魚が出入りでき、静かなところで魚が産卵してたんですね。それから川岸が緑になっただけではなく、とても安全。テムズ川は流れがそんなに早くない。カナダでは日本の川と同じように早いんです。彼らが使っている鉄筋はすごいですよ。これは大きな丸太と想像してください。でも丸太だけでは動くから岩を使っている。ただし人間2~3人くらいで運ぶ岩だったら大水の時に流される。ですから現場で大きな岩にドリルで穴を空けてる。想像できますか?大きな岩に穴を開ける。その穴をブラシで洗う。そして穴の中に接着剤と細かい砂を入れてケーブルを入れるんです。岩からケーブルが出てるんです。それをヘリコプターで運ぶんです。ケーブルはさびないものです。それで丸太を岩で止めて、このケーブルでまた丸太と岩を止めるんです。こういうようなテクニックがいっぱいあります。日本にも縄文時代から、似たような考えはあるんですよ。コンクリートは否定してないけれど使いすぎ。だから、コンクリートだけはやめてほしいな。でも「コンクリートはだめ」という考え方もやめた方がいい。適当に使ったらいいです。

お客さま:
「アファンの森」の活動の中に、森林や里山の保全、再生活動もされているということで、ニコルさんがされている里山の保全活動についてお教えていただけますか?

ニコルさん:
今頭に浮かんだのは、ケルトの時代に森の価値をどういうふうに図ったかと……。もちろん、それは木がどのくらいあるか、でもオークの木は切っちゃいけなかったから。豚はどれくらい入れられるか、豚はどんぐりを食べるので夏の終わりから冬の初めまで森に入れるんです。それから猛禽類の巣がどれくらいあるか、それはどうしてかと、猛禽類の巣がたくさんあったら猟の目的になるキジとか、ウサギとかシギとかそういうものもたくさんいるということだったんですね。鳥はどのくらい、虫はどのくらい、木はどのくらいの種類か、今そのカタログをつくっています。それからクマはいつごろ来る、何頭来る、何を食べている、これは糞で調べたりします。自動カメラを置いてクマの写真も撮ります。それから森からどのくらい山菜、きのこなどなどが出るか。あとはカブトムシに小さなセンサーをつけて、どのくらい飛ぶのかとか、そういうような調査も現在やっています。

フェリシモ:
「アファンの森」に足を運びたいという方が何人かいらっしゃいますが。

ニコルさん:
お客さまは大歓迎ですよ。ただ小さな森なので、ワイワイ騒いだり、バーベキューやカラオケはお断り。クマの調査や山の調査もいろいろとやっているから少人数でゆっくり歩くとかお話しするとかはいいです。この森の目的は生物の多様性豊かな森と教育の場所にすること。財団になったら大勢が遊ぶ森もつくろうと思ってますけど、今は45000坪しかないの。本当は60000坪くらいじゃないとだめなの。だからもうちょっと待ってね、今は1回6人までね。

フェリシモ:
神戸の自然についてニコルさんが思っていらっしゃることと、実際に私たちができることは何でしょうか?

ニコルさん:
僕は1995年1月17日、あの時は総理官邸にいたんです。村山総理といろいろな人で日本の未来の環境について話していました。神戸にあんな地震が起きていたとは誰も知らなかったんです。だから僕みたいな者が神戸に来て「こうあるべきだ」とか、そういうことを言う権利もないです。僕は地震を経験していない、ただ神戸の歴史を見ると、神戸の水、六甲の水が世界の船乗りの間ですごく有名でした。こんなに素晴らしい山々があって、海もすごく豊かだった。僕はあの地震の後で、未来の日本の街には何が必要かいろいろ考えました。まず公園が必要です。もっと緑のある場所、生きている池のある場所、いざという時の逃げ場所、休む場所がもっとないといけないなと思います。それと駐車場をもっと緑にするべきだと思ってました。神戸のみなさん、僕は一緒に苦しみを味わってないけど感じていました。地震は戦争と同じように恐ろしい。

フェリシモ:
森の再生活動をされている時のこと、正面からけんかをすることで人と仲よくなれること、そういうことを大事にしたいとか、そして小さいものは弱いけれどそれが最も尊いものなんだというお話を伺って、ニコルさんが大事にされている力や強さの本当の意味が何となくわかったような気がします。

ニコルさん:
僕は武道を通して自分はどれほど弱虫かがわかったんです。でも面と向かって戦う時があるんです。もうひとつは世界中に仲間が増えたんです。我々の流派だけじゃなく、100ヵ国に友だちがいます。どこの道場に行ってもそこには友だちがいる、ライバルもいるけど、友だちの方が多いです。地球はひとつだとわかったんです。

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Profile

C.W.ニコルさん<作家>

C.W.ニコルさん
<作家>
*プロフィールは、ご講演当時のものです。
1940年、英国ウエールズ生まれ。17才でカナダへ渡り、その後、カナダ水産調査局北極生物研究所の技官として、海洋哺乳類の調査研究にあたる。1967年より2年間エチオピア帝国政府動物保護省猟区主任管理官。シエミン山岳国立公園園長。72年、カナダ水産調査局淡水研究所主任技官、環境保護局環境問題緊急対策官として、石油、化学薬品の流出事故等の処理にあたる。80年長野の黒姫に居住し、依頼執筆活動。95年日本国籍取得。「ティキシー」(角川書店)「勇漁」(文藝春秋社)「風をみた少年」(講談社)他著書多数。

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