神戸学校

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「映画づくりの哲学~人の心を描く仕事~」



<第1部>

僕らはテレビの第一世代。

テレビ局のすざましさ、世の中にちょっと喜びや、気を楽にする、そういう仕掛けを人さまに与えるためには……。全国の、みんなは見てはるわけですね。8時から。視聴率が20%近くある番組っていうのは、1%っていうのはだいたい100万人ぐらいだから、視聴者が2000万人ですよね。相当な数の人達がちょっと憩い、団欒のために見ています。2000万人が見ているものを、我々は10分の打ち合わせで、夜8時から朝の5時まで10時間近くやらされるんですよね。僕はこんなふうなことは、久しぶりでしたが、でもテレビ専門の子たちは毎日それをやってるんですね。テレビは、ほんとに日本人にとってはもうかけがいのないもの、テレビがないともうどうして生きて行くねんっていうぐらい心の拠りどころになっています。

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僕は1952年の生まれなんですけど、僕らが多分テレビの第一世代。僕が小学校3年生か4年生ぐらい、その時から見てるんです。いわゆる、僕らがテレビっ子の第一世代になるんです。だからもろにテレビの影響っていうか、テレビがないとやってられへん、テレビがないと生きてられへん、テレビがないと窒息してしまう、そういうテレビの力をいちばん最初に浴びてしまった世代です。
昭和34、35年ごろというのは、牧歌的でした。僕は奈良の生まれなんですけど近鉄で大阪に出るのも、上本町までしか電車はなかったですし、難波に何か買いに行って、オムライス食べに行くいうてもバスに乗るか、あるいはトロリーバス、それと市電。まだ上六から出てたころです。道もガタガタ。もちろんトロリーバスの線もあるし、市電の線もあるし、電話線もあるし、電気の線もあるし、もう線だらけ。空が線ばっかりみたいな大阪の街の時代でした。テレビができたころに、昭和34、35年、テレビの中に僕らはバラエティとか、クイズ番組、それと海外取材番組、ああいうのはありませんでしたよね。
僕らは第一世代、大人はテレビを見てましたけど、半分はいい加減に見てたと思うんです。やっぱり大人の見方だったんです。「こんなものばっかり見てるより仕事せなあかんねん」というか、余暇的に思ってたんです。ところが僕らこどもには、ものすごい新鮮でした。難波の空に電線が網の目のように走っている時代っちゅうのは、そのテレビの中に映し出されるものが、アメリカから来るアメリカのドラマがほとんどで、日本で制作しているのはほんのわずかでした。それはアメリカのテレビのためにつくられた映画、全部フィルムで撮られたテレビドラマでした。
例えば世界大戦シリーズ。アメリカ軍の一個小隊、敵がドイツ軍。ドイツ軍が出てくるんですけどドイツ語しゃべるんですよ、当たり前ですけど。今のこどもは、ドイツ語聞かないでしょうね。ドイツ語聞かないですよ、テレビで。ドイツ軍はドイツ語しゃべるんですよ。アメリカ軍の軍曹は日本語しゃべってるんです。日本語とドイツ語の戦いなんですよ。英語ちゃう、日本語ですよ。相手、ドイツ軍はドイツ語なんです。それでドイツ語、もう小学校3、4年生が聞いてるわけです。字幕が出るんですよ。映画館行かんでも、家でもう字幕ですよ。いきなりもの心ついたころからそれ見てるんです。それで必ずドイツ軍負けるんですよ。毎週負けるんです。あのシリーズは今、ビデオ屋さんに行くと、懐かしいシリーズで置いてますよ。何回ぐらいあったのかな。5~6年やってましたから、1年に50本としても、300タイトルですよ。300回見てても1回もドイツ軍勝ったことない、僕はこどもながらに1回ぐらい勝てよ、とハガキに書いたことあるんですよ。テレビ局に。1枚やったら届かんやろ思て10枚ぐらい「何でドイツ軍が勝たないんですか?」言うて。本当に夢中でした。僕、ドイツ軍に肩入れしてたんですよ。ドイツ軍もちゃんと人間やないかと。まとまって隊長の言うこと聞きながら歩いとるわけですよ、パトロールで。で、その主人公がやって来て、グループがやって来て、待ち伏せしてて、ごっつい卑怯な待ち伏せですよ。向こうはタバコふかしながら「おい、ちょっと休憩しようぜ」とか言うて「軍曹、休憩します」とか。なんかみんな、その辺の石とかあるとこに何か楽しく座って、いろいろ話しとんですよ。それをアメリカ軍の主人公チームは、こっそり近づいていって爆弾ポーンと急に投げるんですよ。あんな卑怯な戦い方。堂々と戦えよ言うて、僕ら叫んでました。僕らの世代で、このシリーズを見なかった人はいないはずです。強い強い兵隊ですけど、勝ったアメリカ軍にも何か恩情をあまり認めないというか、こども心に、無情感、空虚感です。何もない、そういうものを僕はもちろんそんな漢字や言葉の意味は知らない年ごろでしたけれど充分味わったような気がします。大人の非常に無駄な、無意味な行為の結果、そういうものを思い知らされました。

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確かに勇気や友情や何かちょっとした愛情や、あるいは団結心や、あるいは孤立を恐れない気持ちとか、何かいろいろなものをアメリカ軍から教わったかもしれません。友情豊かに描いている回もありました。それからドイツ軍をひとりぐらい助けて逃がしてあげる回もありました。そういうちょっとした愛情、敵ながら感じる友情もありました。そういうものは、うんうん、そら当たり前やないかというふうな気分で僕らは見てました。戦争ってのは、きついことやなあっていうのを存分に味わいました。そんだけ味わわせたものってのは、いったい何だろうかってのを小学校6年生ぐらいになって、だんだん感じるようになりました。僕はそういうフィルムもの、まことしやかな虚構、本当にリアルな劇、ものすごいリアルな歴史物、そういうドラマを目いっぱい浴びるぐらい見たわけです。そういうものが勉強以外にごっつい感じさせてくれるもんだなあ。僕らは「無」とか「空虚である」と感じつつ夢心地の気分の中で、シーンを反芻しながら寝入ってしまったような、そういう記憶があります。
そういう映画の持つリアリズム、フィルムに移された劇性、こういうものを目いっぱい感じた、こういうのは人の、何かいちばん、腹の中に響きわたるぐらいの気分で見たっていう、こういう作用っていうのはいったい何やろなって、こう思い出したのは小学校6年生ぐらいになった時でした。それが僕は親父と一緒に大阪の大きな映画館で、同じようにまたアメリカ軍とドイツ軍の映画を見てしまいます。そればっかりです。もうアメリカのつくるものって多かったんですね。あの戦争後間もないころというか、日本が独立した年に僕は生まれましたから、まあそれから10年経ったとしても、まだまだよちよち歩きです。まだ奈良の天理辺りには駐屯軍もいました。アメリカの兵隊もいました。大阪の八戸の里、あの辺にも進駐軍がいました。日本はこれから立ち直ろう、平和的に立ち直っていこうっていう時にアメリカの占領政策を受けて、やっと独立していく矢先のことですね。そういう時代の延長です。延長の中で、やっぱりどうしてもアメリカのハリウッドのつくるものっていうのは、一言で言うことはなかなかむずかしいですけど「正義」みたいなこと、あるいは「悪」っていうようなこと、そういうふうなことを、アメリカはテレビだけじゃなくてスクリーンの世界に、大スクリーンの世界にも宣伝してきました。でも僕はもう4年間5年間ぐらい、もう慣らされてますからね。もう「無」や「空」を知ってますからね。アメリカもドイツも充分知ってましたからね。ドイツ語はしゃべれませんでしたけど、一応知ってましたから。だからもう6年生のころ、親父に連れられて梅田の劇場で見るような大きな戦争映画見た時は、もうどっちも負けるに決まってるんだ。ちょっと大人びた気分になってました。どうせこの映画は無常が漂っているんだろう、この映画は空虚に違いない、もうそんな気分でしたね。
アメリカがいかに正義と悪の違いを売りつけてきても、僕は平然と映画を楽しんでました。ヘリコプターの空中撮影のショット、タイトルがバッと出たあと、ヘリコプターが空中撮影。ヨーロッパ戦線ですから、フランスのちょっとごつごつした岩だらけの小高い岩山、そこをすれすれにバババーンって音楽が鳴りながら画面がザーッと動くんです。岩山の稜線が迫ってくるんですよ。当たりそうな感じで。大きなスクリーンですよ。左右、もう見きれない。その大画面、家で見てた電気箱の1000倍ぐらいの画面。それで空中撮影、岩山が迫ってきて、僕は真ん中よりちょっと後ろの方で見てたんです。音楽鳴ってます。岩山が迫ってきた時に、前の何百人という大人たち、いっせいに腰上げましたね。岩山に当たると思ったんでしょうね。腰をふっと思わず。ほとんど同じタイミングでですね。で「うおーっ」って言ってました。それで、今度はまた高度を高めて、それで次の谷の方に。そしたら偵察機に将校が乗ってて、写真撮っとんですね、ドイツ軍の戦車がいないかと、そういうカットシーンですよ。ものすごくワクワクするような導入部ですね、まさに戦場。でも大人の人たちは、腰浮かすだけで初めてのような気分で見てるんですけど、僕はテレビシリーズでもう5年間慣らされてますから、僕は腰なんか上げませんでした。僕は「おう、だまされとるやないか。そんなん、映画やないか。これは」。でも大人たちは本当に、食い入るように観ていました。間もなく公開の最初の封切りの映画だったわけです。だからみんな、あれ初めて体験したんでしょうね。僕はその巻頭5分間ぐらいのショットを見た時、思いましたね。

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僕は今のショットと同じようなこの画面をいつか撮るだろう、作るだろう、そういう気分になりましたね。それはもう記憶としてあります。こういうものを作ったらおもしろいやろなあ、大人たちががいっせいに腰浮かすようなもの、おもしろいやろなあ。腰を上げる、オシリを浮かす、こういうこと、オレがいつかしたい、もっと厳密に言うならするだろう。そういう思い込みに近いもの、何て言うんでしょうね、こどもの健気なあこがれです。例えようがないですけれど。腰、オシリを持ち上げる力を与えるもの、それを僕がつくるんだ、うそのものなんだけど、本当になってしまう。こういう感覚を僕は6年生のころ、ふっと持ったんです。それからずっと忘れてました。大人っちゅうか、もの心がついてですね、中学校に行って、いろいろな女の子のことも気になりだして、むさくるしい男になっていくさなかですね、そういう気分っていうの、すっかり忘れてしまいました。心にはあったんでしょうけど。何か違うことに興味がいくようになりました。人間なら誰でもそうや思います。中学校、高校とずーっと、いい加減に思ってました。

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高校時代はフリーダムと
リバティのことばかり考えていた。

高校生になってから、またいろいろ映画見ました。68年、30数年前ですよね。うちの高校にベトナム戦争反対とか学校の風紀取締強化反対とか、学園の自由化とかですね、そういうことを先輩たちがやっていた時代です。大学は大学で全教徒の先輩たちが竹ざお持って暴れてました。70年にせまってくる安保の改定にどうのこうのって反対してました。沖縄の基地にはアメリカのベトナムから帰ってくる死体の入ったボディバックが毎日10体ずつぐらいかな、届いてました。沖縄のニュースでいつもやってて、夕方のニュースいうたら必ず「今日はアメリカ軍の兵隊のボディバックが5体届きました」ってな話を毎日のようにニュースで流れてました。僕はその時高校2年生ぐらいでした。『イージーライダー』という映画を見たんです。(中略)

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アメリカ軍とドイツ軍の戦争映画ばっかり見てきた僕にとっては、ものすごいショックな映画でした。今の世の中の矛盾、世の中の不条理、そういうものを映画っていうもので描けんねんなあ、何か正義と悪とだけちゃうな。僕はそれを見た時、高校をしばらく休みました。もう学校行く気しなかったです。映画の中にあったセリフ「法律の中で人間がしたいことはフリーダムとは言わないんだ。別のリバティって言葉があるんだ」。リバティ、法の中の自由。学校を行かずにフリーダムとリバティのことばっかり考えてました。僕ら、自由に生きて行こうとか言ってるけど、結局は何をしていったら自由になんねんやろう。誰からも何も言われないで、本当に気楽に自由に生きて行きたいけど、ごっつう悩みました。その映画、ごっつうおもしろかったから、自分の悩みもふっ飛ぶぐらいですね。頭がこう白くなったって言うのんか、あまりにもショックでした。僕「もう残りわずかしかないからいいや。辞めてやろう」と。それから半年余り家出しました。東京へ行ったり、九州へ行ったりプラプラしとったんですよ。そうこうしてるうちに、お金もないし帰って来たんですよ。アメリカ軍の正義やドイツ軍の勇敢さを見せてくれた親父に「フリーダムとリバティの違いわかるか?」言うても、わかってくれませんよ。家に帰ってからでも悩んでました。悩んでるうちに学校出てしまいました。科学の授業を確か1年間受けてなかったです。僕は岩場乗り越えるショット撮るねんって思ってるから、あんまり関係なかったです。

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知らんうちに卒業して、
いろいろな人に恵まれて……。
ファーストフィルムが作れました。

知らんうちに学校卒業してました。どうしたもんかな、バイトでもせなしゃあないと思って、アルバイトしてたんですよ。歌手のコンサートのスポットライト当てたりやってました。当時、時給が120~130円の時代でした。僕、15分間2回ショータイムやって2000円ぐらいもろてたんです。「こんないいバイトはないや」って。でもやっぱり無常しか感じなかったです。とにかくそんなことやってて、いい加減なお金をもらってたんですけど、無常感が先立って、いい加減なことしてるからよけい無常感が募ります。どうやって生きたらええねん。いろいろなこと悩んでました。何も目的がない。それでよく行く飲み屋に行くと、いつも来る山田さんという先輩がいたんです。で「おっ、こっち来い」っておごってくれた。やっぱりいい先輩は持つべきだと思います。先輩たちは絶対に足手まといにならないです。甘えたらいいんです。山田さんがある日「おい、井筒、ちょっと来い、あのな明日、アルバイトをしてほしいんだ。うちの会社に来れるか?」「何でもしますけど、何したらいいんですか?」と聞くと、言わないんですよ、職業を絶対言わない。僕はもう恐い人やと思ってたんです。「何時に行くんですか? 夕方からですか?」「バカヤロー、7時に来い」「えー7時。僕、寝てるんですよ」「バカヤロー、人間は7時なったら起きるんだ。だらしないヤツだ」、ものすごい恐いんです。僕ら今の歳になってようわかりましたわ。本人は怒ってないんです。当たり前のこと言いたいんでしょうね。「じゃあ行きます」と。で、僕7時に行ったんです。車が止まってるんですよ。バス、トラック、バン。いろいろな自動車。
行ったら何人も働いてるんですよ。照明器材を運んだり、キャメラのようなものを運んだり。初めてです。僕見てたんです。「ほー、ひよっとしたら撮影に使うもんやな。なるほど」。そこに山田さんがやってきました。「おう、井筒、お前この車乗れ」。ゴミだらけの車です。「はい、わかりました」「おい、後ろへ回れ。中からゴミ出せ」。初夏でしたね。日が昇ってました。「もの出せ。そこで1回干せ。雑巾持ってる人おるから借りろ。これ拭け」って言うて。ぬいぐるみみたいなん出てきたんですよ。「それを拭け。カビくさいだろ」カビだらけなんですよ。もうくっさい、くさい。これ何か使うんだなあと思って拭いてたんです。「もう、それでいいや。時間がない、出発だ」車は山田さんのひと声でダッと進みました。僕は車に乗りました。運転している人は全然しゃべってくれません。じーっと乗ってたんですよ。車がどんどん淀川べり、農家と農家の間をすり抜けて、淀川の土手に、ちょっと駐車できるような空間があって、そこへ車を入れたんです。僕も車降りて、じっとしてたんですよ。「おい、井筒。さっきお前、カビとったヤツあるだろ。早く着ろ」「はい、そうですか。わかりました」。ほんとに履きにくかったんです。いかにラバーで伸びるいうても、足入れる穴、こんな小さいんですよ。こんな田舎者の太い足入らないんです。

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女の子3人寄って来て「早く履きなさいよ、できるでしょ」とか言うんですよ。「あーそう、履けないの、これじゃあなかなか履けないわね」とか会話してるんですよ。「ちょっと、履けませんよ」って。そしたら、3人のうちの1人が天花粉、持ってきたんですよ。「じゃあ、いまから粉振りますから脱いで」とか言う。「ほな、脱ぎますわ」で、パンツ一丁ですよ。その女性が「それも脱いで」と。「ええ、これ脱ぐんですか?」。山田さんがやってきました。「井筒、裸になんねん。素っ裸になれ」で、パーッと脱いだんですよ。そしたら女の子が3人がかりで「今から粉振ります」と。もう真っ白けですよ。それで女の子2人が「ここに足つっ込んで」って言うんですよ。僕、もうしょうがないからガーッはいたら、ツルッと入ったんですよ。すぐにツルッといったわけじゃないですよ。で、今度は上ですわ。頭の部分。山田さん持っとんです。「お前がこれかぶったら仕事や」「はい、わかりました」。でも、入らないんですよ。ほしたら、また女の子たちが顔中塗り出したんですよ。「あーできたわ」とか言っとんですよ。で、こっち見たら山田さんが笑とんですよ。ほんでディレクターは、パンタロンをはいたやさ男で、サングラスをして長身で格好いいですよ。こんなトランジスタメガホン持って「じゃあ、いこうか。井筒君、苦しかったら、見えてるだろ、その穴で呼吸できないよな。もし苦しいとなれば、胸を叩いてくれ。これがサインだ」とか言ってるんですよ。これもう、聞いてるうちから、すぐ叩いてましたよ。(中略)
何度もNGが出て、ほんで、ディレクターがやっと「OK」って言うたんですよ。で、もう胸を叩く必要もないし、女の子が「井筒君、お疲れね。よくがんばったわね」と寄って来てくれたんですよ。僕も、もうお終わりやなあと思ってね、これ脱がしてもらおうと思ったら、あれですわ。商品が先です。僕らもう放ったらかしですよ。ほいだら、地域の方がみんなで見てたんでしょうね。農家のおばちゃんがやって来て「スイカ冷やしてあるから、みんなで食べてもらおう思って」言うてくれはったんですよ。スイカを切って、まな板にのっけたまま、みんなで食べられるように。僕は本当にスイカ食べられなかったんです。でも、忘れないです。スイカちゅうのはあんなおいしいものか、初めて知りました。山田さんが寄ってきました。それからサングラスのディレクターもやって来て、僕に握手をしてくれました。そしてサングラスをとってくれました。こんなやさしい目が隠れていたのかと思うようなやさしい目でした。「おう、ようやった。ご苦労さん。スイカもよばれたことやし、みんな礼言うて帰ろ。お前何が食べたい?」「いやー、もう、スイカで充分ですよ。クタクタです」「いや、お前の食べたいもの言ってみろ」「ステーキ食べたいです」「いいよ、じゃあ全員ステーキだ」。で、ステーキ食べました。でも、何にも覚えてないんです。スイカは覚えてますけど、ステーキは覚えてないんです。そんな感じで僕は無事帰ってきたわけです。

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山田さんの机の前に行くと茶封筒が用意されていて「おい、井筒。中に紙が入ってるから、それにサインしてくれ」って、茶封筒渡してくれました。「でもな、井筒な、一所懸命がんばったからもらえんねや。オレはサラリーマンだけど一所懸命やっていくと人間は何でも見返りというものがあるんだ。覚えとけ」「いやー、こんなたくさんもらえるんですか」「井筒、お前また今度やるかもしれないから、がんばってくれよ」「僕、今日みたいなのは結構です。違うヤツ、やらせていただきますけど」……。
それから、ゴキブリを100匹ぐらい捕まされたこともありました。そういうアルバイトを続けたんですけど。山田さんは、今CM会社の社長になっています。山田さんが大阪に来た折に僕は電話をします。彼は僕にどんな要求されても応えてくれます。サングラスのディレクターは海外旅行中に撮影中の事故で亡くなりました。3人の女性のうちの1人は、今東京でスタイリストの会社の社長さんで、CMおよび映画界で活躍していて、僕もときどき遊びに行きます。「この前、テレビで見たわよ。監督」って言って、ひいきにしてくれてます。
僕は今だに、映画を撮ってんのか何をしてるのかわからないまま、デビューして、自分の撮った数も忘れてます。テレビの番組もつくり、出演もして、CMもやったりですね、いろいろなことをしながら今日に至っています。こどものように喜んで「OK」って言ってくれたディレクターのようには、まだ至っていません。まだ僕はなかなかできません。とまどいもあります。僕はぬいぐるみ青年のままなのかもわかりません。でも先輩たちに囲まれていると、やっぱりなんでも勉強になりますから、それがいちばん恵まれてるなと思っとるわけです。いろいろな人たちとの出会いがあって、電通映画社との出会いがあって、僕はそれから2年後ぐらいにファーストフィルムを自分でまわして、ひとり立ちになるというわけです。ありがとうございました。

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<第2部>

お客さまとのQ&A

お客さま:
監督がテレビではなく映画の監督になりたいと思われた理由は、小さいころからの経験もあると思うんですけど、映画を撮りたいと思われた理由はどのへんにありますか?

井筒さん:
今日はちょっと簡単にしか説明できませんでしたけれど、当時、よくアメリカからニューシネマっていうものが来てました。実は今やってるアメリカ映画に比べると、数段質の高いおもしろいものが多かったです。アクションという一言では区切られないような濃厚なテーマを持ち、そしてアメリカの文明を支え、批判をし、いろいろなことを思わせる、愛情もあるし、憎悪もあると同時にいろいろなことを考えさせてくれる、国のことを考えさせてくれたり、人間との結びつきを真摯に訴えてくれる。そういうものを見てるうちに、今日の話の中では割愛させてもらいましたけども、小学校6年生に岩を飛び越えるような、そういうジャンプショットの時に思った気持ちが、高校の終わりごろに高ぶっていたんだなあというのは思います。
映画を撮るんだと、アメリカに負けないような格好いいおもしろいものを撮るんだと、これから撮っていくんだとそういう気分に思ったのは高校2年3年のころですね。じゃあ撮るために、どうするんだとか、そんなことひとつも僕の頭の中で計算もなかったし、方法論がなかったですね。でも、夢だけはありました。方法論がないから山田さんとの出会いもあったんだろうと思います。方法論があったら山田さんと出会わなかったかもわからない、別のところへ行って何をしてたかもわからない。でも撮ってやろうという気持ちはありました。
僕大学生とかによく言うんです。浪人してもええけど、どこどこ行くんだ、何かするんだ、何でもいいです。その夢、欲望を持つ、思い続けてると実現するんです。実現していないのは、実現しなかったのはあきらめたからなんです。僕は何の負担も、本当に重荷を感じることなく欲望だけ持ってましたから。映画を撮るんだと思いながら、関係のないことやってた時もあります。でも思ってましたからね、あきらめないと。僕に対して迷惑をこうむった人は、多分いっぱいいると思います。だから僕、いつも高校生や大学生にも言うんです。その会社に本当に入りたいのかって。入りたいと思てたら絶対入れるって。「いやー、就職試験、落ちたんです」って言うて、また次の会社行こうと思うから間違いや。そこに行きたけりゃずっと思ってりゃいいんだって。そういうことも教わったのは、やっぱり先輩たちです。
まあちょっと答えがそれたかもわからないですけど、厳密に言えば高校2年3年のころですね。ニューシネマの洗礼を受けたっていう、間違いなくそうです。

お客さま:
2~3ヵ月前、夜にテレビをつけたら、教育テレビで若者相手に大変興奮されて激論交わされてたのを拝見しました。若者は冷めた形で繊細なことを話してましたけど。対等だから対等の言葉で、お前たちと勝負するということが非常に印象に残ってるんですけど、今の若者を相手に映画を撮られるとすればどういう映画を撮ってみたいと思われますか。

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井筒さん:
5年前にやった『岸和田少年愚連隊』は、僕が1本目をやったあと、ほかの若手たちが2か3や4とかつくっとるわけですけど、叱咤していいんじゃないですかな、と思います。まあ叱咤激励するということだと思うんですよね。だから愛情のある怒り方をする、つき合い方をするっていうか、そういうことがいちばん若者は求めているというか、だからどういう映画をつくるかということになれば、どうですかね。話の中でも言ったつもりですが、フリーランスな立場というか、フリーダムな考え方で、そういう自由性を思い切って生きているこどもたち、そういう姿を描いてやりたいですね。で、自由を生き抜くにはすごく苦痛を伴うんだとか、あるいは非常にリスキーなんだとか、あるいは友を失っていくんだとか、あるいは恋人とも別れなきゃならないんだとか、そういう自由性、自分にとっての自由性、そういうものを描いてやりたいですね。それが彼らにとっていちばん刺激になるみたいですよ。『岸和田少年愚連隊』で僕が描いたのはそういうテーマでしたからね。偉くなれよとか、いい高校へ行けよとか、いい会社へ入れよ。僕はそういう映画はつくりたくないですね。僕は吉本のヤツらをつかって描いたテーマは、なるべく向上心を捨てろという反対のテーマを描いたんですよ。それがやっぱり若者たちは非常に納得してくれたっていうか、やっぱり非常に興奮して笑ってくれるっていうか、やっぱり生きる活力が出るっていう、そういうメール、FAXが多かったです。逆に「誰からも言われなかったけど追い立ててくれるような気分になった」とか「もっと自由な考え方をして高校生活を送りゃいいんだなって思いました」とか、そういうものが意外と多かったです。だからそういうものをつくっていきたいなって思います。

お客さま:
映画監督で快感を感じるのは、どんな時ですか?

井筒さん:
簡単に言えば、客がドカンとくる時ですね。僕ほど客のことを考えて撮ってる監督は、多分いないと思うんですけど。今どっか自己満足のものが多いし、どこでどう感動したらいいのかわからん、てなものが非常に多いです。僕は明解にしかつくらないです。それはもう昔から。全部そうです。見えないのに「見ろ」いうのは間違いです。見えないものは見えるようにする。明解にしていく。情緒を思いっ切り不安定に持ち込む。これが娯楽映画のコツだと思うんです。そのために僕らは生きてるんです。
いろいろ地方のキャンペーンに出ます。『のど自慢』の時も、ここの神戸震災復興チャリティー試写会も来させていただきました。その時も神戸の人は、1で笑う、2で笑う、3で、これみなチェックするんです。そういうチェックポイントを最初何ヵ所か設けてチェックしたりします。それがときどき何かちょっと間違えたような、ちょっと失敗したかなあと思うような写真があった時もありました。最後まで試写で1時間40分つきあって観てしまうような映画って、自分にとっては最低の作品だろうというふうに、いつも思いますね。あいつ絶対泣くでぇと試写会で幕の横から見てですね、そんな意地悪なことしたりして。そのためにつくっているっていうのが答えじゃないかな。

フェリシモ:
私も『のど自慢』を見せていただいてすごくいい映画で、ずっと泣いてしまいそうになって見てたんですけど……。

井筒さん:
そういう人らを騙しまくって生きてるんです、ええ。それが生きがいです。快感なんですね。そういうふうに騙しまくる、いろいろあるんですけどね。誇るべきものは、瞬間もう騙して、それだけやっていうふうに思わすように持っていくんですよ。お客さんって浮気者ですからね。出たらもう違う話してますからね。「あの時、思いっ切り泣いてたやんか」言うても、買い物の話してたりね。人間なんて浮気なものなんで。だから瞬間、期待を裏切らせたくない、ほんでやっぱり「恐れ入りました」と、そういうものをつくっていきたいですね。

フェリシモ:
最後に神戸学校事務局から質問いたします。神戸について抱いていらっしゃる印象ですとか、今後神戸を舞台に映画をお撮りになる予定を教えてください。

井筒さん:
昔『二代目はクリスチャン』という映画を撮ったことがあります。もうだいぶ前です。北野辺りの坂道で石畳を入れて撮ったという経験はあります。あのころ、世の中も組織闘争やってる最中でね。で、我々がその最中に神戸に来て、芦屋の近所で小道具の鉄砲持ったりしてるんで、住民の反対運動が起こってね「撮影許すな」とかいう横断幕が朝日の夕刊に市民デモストレーションいうて載ったことありましたよ。コミカルな単なるコメディを撮ってたわけやけど、結構、撮影拒否されましたよ(苦笑)。

フェリシモ:
神戸に限らず、今後映画をお撮りになる予定はありますか?

井筒さん:
神戸は、そんなトラウマが……。新空港ができたら、使ったっていいじゃないですか。香港のように100万ドルの夜景を横に見ながら、滑走路に降りてくるところを舞台にするとか、いろいろあると思いますよ。神戸のみなさまも温かく迎えていただけるところであれば、喜んで撮りたいですね。摩耶山に行ってみたいなと思うし、六甲牧場でメルヘンチックなシーンも撮りたいし……。おもしろいとこいっぱいあるし、神戸大好きです。

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Profile

井筒 和幸(いづつ かずゆき)さん<映画監督>

井筒 和幸(いづつ かずゆき)さん
<映画監督>
*プロフィールは、ご講演当時のものです。
1952年、奈良県生まれ。1981年、ATG「ガキ帝国」で注目される。以後劇映画、CM、テレビドラマの演出で活躍。57年若手監督による制作会社ディレクターズ・カンパニーに参加。平成8年お笑い芸人のナインティナインを主役に「岸和田少年愚連隊」を発表。1988年NHK「のど自慢」に出場する人々を描いた「のど自慢」が話題となる。ほかに「ガキ帝国・悪たれ戦争」(東映)、「みゆき」(東宝)、「二代目はクリスチャン」「突然炎のごとく」などがある。著書に「アメリカの活動写真(フィルム)が先生だった」等。受賞歴多数。

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