神戸学校

神戸学校はフェリシモが主催する「神戸発 生活デザイン学校」です。

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「表現すること 伝わること ~自分を探す人へノッポさんからのメッセージ~」



<第1部>

やりそこなったおじさん
だめなおじさん、そんな僕のお話です。

えっと……、今日僕の声を初めて聞く人?
(半数以上手が上がる)
あの番組(NHK教育テレビ『できるかな』)は黙ってやっていましたけれど、あれが終わってからもう十何年経ちます。その後は歌を歌ったり、台詞を言ったりしていましたから、今日初めて声を聞くって方はそういう番組を見ていてはくださらなかったと……。一生懸命やったんですけどね(笑)。
えー、声を出す人として、はじめまして! みんな大きくなりましたね。
(会場:笑)
今日はタイトルに大変むずかしいことが書かれていましたけれど、あれはこの会社の人が、僕に押しつけた演題です。
(会場:笑)
でも、僕がこれから話すことと関係ないとは思いませんから、そこはみなさん、あとで勝手にこじつけてください。僕はやりそこなったおじさん、だめなおじさんの話をしたいと思います。
(略)

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僕は京都生まれです。4歳のときに東京に移り、それから戦争が始まるまで東京にいて、戦争と同時に岐阜に疎開して、高等学校の1年まで岐阜にいて、それから東京に戻りました。だからこの歳になるまでを足し引きしますと、東京育ちと言ってもいいかと思いますけれど……。
親父は芸人で、母親は両国の相撲茶屋の娘です。粋筋で両方とも親の許さぬ仲っていうんで駆け落ちしました。僕が生まれたのは京都の太秦撮影所村。役者長屋の一角に生まれました。親父が芸人ですから、僕もそのまま芸人になったかというとそうじゃありません。ごく普通のこどもとして暮らしました。普通の子として育ちましたけれど、中学生のころは学校の先生も引き受けてくれないほどの手におえないこどもでした。いたずらじゃないんですよ。それはそれは成績がよくて。誰も知らないからそう言った方が得でしょ?
(会場:笑)
要するに生意気の度が過ぎていたんでしょう。ちょうど終戦後で、それまでは「鬼畜米英を打ちてしやまん」と言っていた先生が、終戦を境に「いいねぇ民主主義は」と一転。これを小ちゃい僕たちに説明するとき、1週間前2週間前とまるで正反対なことを言う自分にある意味の恥じらいを浮かべている先生には、僕もとても寛大でした。けれど、それを平然と、なおかつそれに反発する小さなこどもに、権威を保つために高圧的にかかってくる先生にはすごく反抗しました。あとから聞くと学校で僕ひとりが受け持ってもらえない子でした。「僕はどうしてこんなに先生に嫌われるのかなぁ」って悲しくて悲しくてしょうがなかったんですけど。勉強もよくできるし、いたずらもしませんし……。ただ、僕が教室に座っていると先生が居心地が悪かったそうです。「そこで皮肉な目をしているお前がいると、とてもやりにくいから受け持ちたくないんだ」、最後に受け持ってくれた先生はそうおっしゃっていました。
こんな僕を父親は非常に買いかぶってくれました。
「お前みたいなすごい子はいない、賢い子はいない」と。
親父は、僕を買いかぶったまんま死んでいった人。この父親は「たまたま不運で、いまこういう境遇にいるけれど、あんたがだめなわけがありません」って言うものだから、僕は仕事がない時期が続いていても、死にたくなるほどのこともありましたけど、この父親がそばにいるときずーっと安心して生きてきました。

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そういう僕が高校生の終わりになったとき、親父がこう言いました。
「上の学校へ行きたければ、自分で働いて行くんですよ」
そのとき生意気に育っていた僕はこう答えました。
「僕は大学へ行くほどバカじゃないから、行きません」
いまから考えると、よくも言ったもんだと思います。
「じゃあ、何をするんですか?」 
ここは「蛙の子は蛙」っていうので、手近にある親父の後を継ぐというか、僕はとてもダンスが好きでしたから、ダンサーになりたいと思いました。
僕は中学生のころから、休みになると岐阜にある映画館へお弁当を持って朝いちばんに行って、フレッド・アステアのダンス映画を観たりしました。映画は1回観ると筋は覚えます。ダンスシーンがどことどことどこにあるのかは1回観ればわかりますから、全部を観たあと、2回目はダンスのシーンになるまで廊下でお弁当を食べて、そこら辺をうろちょろしたりして、ダンスのシーンになると映画館へ入る、と。そういう生活をしていました。ダンサーになりたい。それもアステアのようなタップダンサーになりたい。フレッド・アステアの映画は、最初から終わりまで本当に邪気のないところで楽しめる、そういうものすごい人なんです。ダンスを習い始めて、そしてこの道に一応片足を踏み入れました。
でも、入ったからといってすぐお金になる訳もありません。仕事が手に入ったとしても、それは明日になればここからふわっとすり抜けていく仕事でもある訳です。ある意味、悶々として、それから訳のわからないところで苦しんでいる僕を見て、親父があるとき銀座の靴屋さんへ連れて行ってくれました。最高級の靴のお店でした。そして親父はこう言いました。「いい靴がありますからね」と。そのころ、僕は駐留軍の払い下げのジャンパーを着て、カーキ色のズボンを履いて、足にはそこら辺の運動靴ともつかない靴を履いていて、収入は一銭もありませんでした。親父も芸人として駐留軍のキャンプまわりはしていたけど、大したお金は稼いでいませんでした。その親父が店の中でいちばん高そうな靴の並ぶ棚へ行って、そのうちの1足をぱっと取ると、僕の目の前で「いい靴ってのはこういうもんですよ」って言いながら、ギュウって曲げたんですよ。びっくりしました。「あぁ、いい靴ってのはこんなふうにギュウッて曲がるんだ」って。「いいでしょ? いい靴ってのはこういうもんなんですよ」。店員が慌てて来ました。だって店の高い靴が並んでる所へ変な親子が入ってきて、そのうちの歳取った方がその高い靴を、ギュウって曲げてるんですから。親父がこう言いました。「おたくはさすがにいい靴を置いてますね。この子の足は商売物ですからね、この子の足にはいい靴を履かせなくてはなりません。これいかほど?」。僕はそばで値札を「ええっ!!」と思いながら見ていました。それは親父の収入の何ヵ月もかかるくらいの値段でした。その靴を親父は買ってくれました。

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不思議なことにそれを履いた瞬間から、自分の足を商売物の足だと思うようになりました。タップダンスが少々できるくらいの足で、何の変哲もない足なのに、親父はこの細長い足を持った息子のその足が、商売物の足だと決めて……。このことに関しては僕は親父にとても感謝しているんです。
芸能界へ一応入りました。でも仕事はありません。19歳から5年が過ぎた24歳のときに、親父は僕を日劇ミュージックホールへ連れて行ってくれました。いま東京の有楽町にある「マリオン」という大きな駅前の建物、その5階か6階にヌードショーを見せる劇場がありました。そこは日本でも有数の劇場、そこへ出れば一流と認められるというようなところでした。ここで親父はちょっとした役で1回出ましたから、「あそこで使ってもらいましょう」と……。
泉 和助という座付きの作者兼コメディアンが僕をテストしてくれました。
「何ができるの?」
「タップダンスが少しできます」
「そう。じゃあ、ワルツ踊ってみて」(高見さんタップを踏む)
「じゃあ、もう少しミディアムテンポの」(ミディアムテンポのタップを踏む)
で、泉さんは次の公演のための僕に1役をくれました。僕は最初の初舞台で、いちばんいい舞台に出られることになったんです。で、帰り際に親父がこう言いました。

「よかったねぇ。よかった、よかった」

初めてですから、ドキドキでした。そしてなんとそのときのコメディの中の小さな1役の私を、朝日、毎日、読売という新聞が取り上げてくれました。“大変有望な新人が現れた”と。さぁ、のぼせますね。ただでさえのぼせ症な僕がたった1回でもって大きな新聞に出たんですよ。もうすぐこうなりますね(胸を張って歩くしぐさ)。
「芸能界なんて易しいや。やっぱり僕はすごいなぁ」
いちばん初めのコメディはこんな役でした。船の中で殺人事件が起こって、そこに居合わせた探偵が怪しいと思われる乗客の中から(犯人を)探していく。その中で怪しいマジシャンという役をもらったんです。「何にもできないんだけど、マジシャンの役ならできそうだ」って上手にはめてくれましたから。とても張り切りましたよ。台本をもらったときに“怪しいマジシャン”と書いてありましたから、「なるほど怪しいマジシャンだからそういう出方は大事だな」って新聞をぱっと広げて袖のところから(怪しい動きをしながら)出てくると、そばに探偵役の泉さんがすーっと眼鏡をしながら寄って来て、耳もとで「7点」って言うんですよ。100点満点の7点ですから、「あれ? 出方がおかしいかな?」と。次の回はまた工夫しました。そうするとまた耳もとで、「15点」。47回の公演全部出方を変えました。そのうちの30何回目くらいやっても15点とか、よくて20点ですから、楽屋へ行って「どうして?」と聞いたのですが、泉さんは「エヘエヘエヘ」って笑うだけなんです。次の回、新聞を広げてクンパルシータに乗って普通に出て行きましたら、耳もとで「80点」って! すぐ楽屋へ行って「どうして?」と聞いたら、「お前は台本を見て、怪しいマジシャンと書いてあったから『俺は怪しいぞ。怪しいぞ』って出ようと思ったんだよな? あのな、見ているお客さんが「怪しい」と思えばいいんだから、『俺は怪しい』って出たらおもしろくもなんともないでしょ?」って言いましたから、「どうして先に教えてくれないの?」って言ったら、「お前は出方を毎回毎回変えた。それはとってもおもしろかったんだよ。で、そのお前の間違った、今回に関しては間違ったけど、お前のその工夫した30何回は次の何かのときには正解かもしれないんだよ。だから私は黙っていたんだよ」って。
で、その演技でもってみんなに誉められたんです。とても評判がよかったので、1ヵ月の公演が終わると2回目の公演も契約してくれることになりました。
ところが僕を上手に使ってくれた泉さんが別の劇場のこけら落としに移動して、次の回は他の演出家が台本を受け持つことになりました。泉さんがいなくなっちゃった途端に、僕はただのでくのぼうに戻ってしまいました。僕は短パンを履いて、裸の女の人のところへ出て行ってビーチボーイズみたいな感じで突っ立って、頼りない声で歌を歌うだけの坊やに陥りました。仕事はそれで終わりました。それが24歳。24歳で新聞に誉められて、次の公演で仕事がなくなって、それから27歳まで全く仕事がありませんでした。

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「どうしようかなぁ。もういまからじゃどうしようもないもんなぁ」

ダンスは少し稽古していました。そしたら、ある日ダンス仲間が
「今日NHKの番組でダンサーに空きがあるから行かない?」って誘ってくれました。
「どんな踊り?」
「簡単だよ。何人もで踊るダンスだから行こう!」って言うので行きました。
僕はなかなかかっこよく踊りました。その番組はその日が最終回でした。それでみんなが「どうもお疲れさま」って、だから僕も「お疲れさま。」と元気よく言いました。自分の踊りにも非常に満足していました。
でも終わってスタジオの外に出て行くとき、こう思いました。
「24歳で仕事をして27歳まで仕事がなくて。ここでわずか何秒か踊って。僕は満足して、このドアを出ていくと、この先、僕には次の仕事はいつくるんだろうか?」、悲しい思いで出ようとしたら、後ろから声がかかりました。
「ちょっとこっち来てください。いまあなたのダンスを拝見していましたけど、あなた、タイプですね、僕ね、(あなたみたいな人を)いままで探していたんですよ。あなたを次の番組の司会者にしたいんですがどうでしょうか?」
「ええっ!?」
ものすごい幸運に巡り合う芸人の話がここに起こったと思ってびっくりしました。
「NHKの夕方6時代の青少年向けの音楽番組の司会にあなたがとてもいいと思うんですけど、どうでしょう?」
大喜びで引き受けました。心臓が喉から飛び出るほどの緊張の中で、カメラテストを受けました。受かりました。僕は何年かの失職の後に、天下のNHKの夕方6時代の1時間の音楽番組の司会役を仰せつかった。それはうれしかったですね。

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そのときに、『夢千代日記』をお書きになっている早坂 暁さんと、もうひとり芸術賞などたくさんの賞を受賞されているスギヤエイコさんという振付師、おふたりとも優れた方なのですが、このおふたりが僕の面倒を見てくれることになりました。
「『高見 嘉明(タカミ ヨシアキ)』っていうのは本名でしょ? だから芸名をつけなきゃいけない。どういう芸名にしようか」
「いくつ?」
「27歳です」
「27歳か。もう若くないね」
「『高見 嘉明』ってのは芸名じゃないからな。『高見 ジュン』作家にいるからまずいか」
「でも『ジュン』っていうのは響きがいいから、純粋の『純』」
と言いながら僕を見て、
「27歳でしょ? 純粋の『純』って歳じゃないな」
「そうかぁ。そうだ『高見 鋭(エイ) 』、『鋭い』」
と言いながら僕を見て、
「『鋭い』ってタイプでもないよな」
(会場:笑)
「これから映像の時代だから高見『映』にしよう」
「ちょっと待てよ。だいたい、人はこれをなんと読むだろうか」
「『エイ』っていう読み方はなかなかできないから、これだったら『ヒカル』さん?」
「どうもぴったり来ないな」
「『ハユル』さん?」
……2時間すったもんだして、僕がこう言いました。
「芸名なんてどうでも『エイ』からいいよ。『高見 映!』」
いま後悔してますの。
(会場:笑)
ほんとに後悔してるの。その後にきた“ノッポさん”がありますから、芸名なんて誰もまともに呼んでくれませんし。名前をつけてもらってテロップで流れるときに母親が言いました。
「変な名前つけたわねぇ。何て読むの?」
「もうどうでも『エイ』って言って、『エイ』ってつけちゃったんだ」
「ヤな子ねぇ」

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さぁ、司会が始まって、よかったですよ。「みなさん、また来週」って言ってタ~って音楽が鳴るとですね、ここへラスベガスのショーみたいに羽根だのなんだので飾った女の子が3人くらいついてですね、(踊りながら)僕は真ん中に立って、「バイバーイ」って言って。で1回目の放送の後すぐ、NHKから電話がありました。
「うちの番組ではあんなラスベガスのショーみたいなのをやってもらっては困るんです。あれは言ってみれば、屈辱ものです。局の恥です」
「ええっ?!」
それはその次から真ん中へ立って「それではみなさま、また来週。さようなら」そんなの似合いません、全然。こんな番組が長続きするわけありませんから、なんとその番組は半年で終わって、また失職の時間が始まりました。
そうすると見るに見かねたひとりのディレクターが
「君! 君の司会をやっていた番組の最後の台本は、自分で書いたでしょ?」
「ハイ」
「歌も書いたよね? だったらこの次のこどもの番組に『月の歌』っていうのがあるから、ひと月に一遍の詞を書いてくれたらいくらかお金をあげられるよ、書いたらどう?」って……。
そのころの歌のギャランティはどういうふうになっているかというと、偉い人は一遍いくらかになりますけれど、新米は1行いくらかなんです。多分300円かそのくらいだったと思います。それでも僕はうれしかったんです。他に仕事がなく収入がない貧乏な作詞家がどんなふうに作詞をするかというと、歌の行数を増やすことに全力をかけるんです。
「北風ぴゅーぴゅー」という歌を書きました。本来なら「ぴゅーぴゅーぴゅー」と1行で書けばいいんですけど、貧乏ですから、「北風がぴゅー」もう1行「ぴゅー」3行で「ぴゅー」とこれで1、2、3行。3行×300円で900円なんだな。
そういうふうにやってましたら、ある日著作権の方から呼び出しがかかりました。
「あなたの歌は、『ぴゅー』が3行になってますけれど、これは1行になると思いますがいかがでしょうか?」
ここはほら立派なもんですよ。文学的センスは大変なもんですから。
「そういう言い方もあるでしょうけれど、確かに『ぴゅーぴゅーぴゅー』と1行で吹いてくる北風もあります。ですけど、私の北風は3行に分かれて吹いてくるんです。『ぴゅーぴゅーぴゅー』これは1行で書くのと、3行で書くのとでは大違いで、僕の北風は3行に分かれて吹いてきます」
やさしかったんですよこの人は。
「そうですか。3行ね。じゃあ1番に関しては認めます。2番も『ぴゅーぴゅーぴゅー』とこれはリフレインとして同じですから、これは勘定はいたしません」
「違うんですね。1番目の北風はですね、田んぼの上を吹いてくる北風ですよ。2番目は川面を吹いてくる北風ですよ。『ぴゅー』は『ぴゅー』でも田んぼの上を吹いてくる北風と川面を吹いてくる北風は違うんですよ。ですからリフレインにはならないと私は思います」
「そうですか」
「そうです」
この人は最後にニコニコ笑いながら「いいでしょう」と言ってくれました。この方にはほんとに感謝しています。

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そのころ、飯沢 匡(いいざわ ただす)さんという大変な作家が僕のことをとても気に入ってくれて、ブーフーウーさんのオオカミさんの役をくれました。それから以後、小さな人向けの「とんちんこぼうず」とか「ダットくん」、そういうものの着ぐるみの中に入る役を何年間かやりました。ある種の中に入って動きながら、「俺の動きはな。日本一だもんな」ってそういう自負で動いていました。けれど1年経ち、2年経ち、みんなは誉めてくれるけれども、顔の出ない状況に落ち込み始めました。着ぐるみ、ぬいぐるみ、それから戯曲があまりにもよくできているから、その中でいくら上手に動いていたとしても、これは僕じゃなくてもこの番組は充分に成立するんだろうなと思いました。ここで第1のスランプが訪れました。
「僕じゃなくてもこれは大丈夫なんだ。僕は一体何なんだろうかなぁ」
正直言うと辞めなければならない、でも辞めて何かをする当てもない。この世の中からいなくなっちゃった方がマシとまで思いつめていました。
そうしたある日、
「あの新しい工作番組を作ります。いままでだったらおじさんとかお兄さんが手順を教えるんだけど、そういうことではなくて、ものを作るその楽しさ、喜びを要するに画面いっぱいから向こうに知らせる。そういう新しい番組に君がいいと思うんですよ」。それも前編音楽で通す、台詞はなし。それを聞いたときに「あぁ、これはきっと僕にぴったりかも」と思いつつも、自信を失っていた僕は心底からは喜べませんでした。でも、それから試作番組ができて、それを小さな部屋で試写をしました。映写機の白い壁に映った画面の中で、ひょろひょろっとした僕が音楽にのりながらとてもうまく動いているように見えました。そのときに「うわぁ~まんざらでもないなぁ」と思い、一遍にスランプは去りました(笑)。いや、人間って、こんなもんですよ。いままで死のうと思ってたのが、その、小ちゃい画面の中でカタカタカタカタッと動いている姿を見て「まんざらでもないなぁ」って思った瞬間、スランプは去ったんです。いま言った「まんざらでもないなぁ」っていうのは非常に謙虚な言い方です。「努力すれば、案外いけるかもわからない」っていうのを込めての“満更”。これは歳をとっても、自分の口癖です。

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みんなも誉めてくれました。日本人にしてはすごく不思議な芸人さんが3チャンネルに現れてきたっていうんで、特に玄人筋が誉めてくれました。そして全く知らない人たちが僕に声をかけてくれるようになりました。僕は24歳で初舞台を踏んで誉められて、わずか2回の公演で27歳まで失職して、27歳で手に入れた番組を半年で失って、そしてその次の細々としたぬいぐるみ・着ぐるみの仕事に関して自分で自信を失って……、ここでほんといなくなっちゃおう、死のうかと思うほど。そして手に入れた次の仕事は、僕にピッタリの仕事と自分に思えて、なおかつこれを玄人筋が誉めてくれたんです。
そして、僕は手に入れたこの仕事を失いたくないあまり、これ以後いっさいの冒険をしなくなりました。他から来る仕事を全部断るようになりました。それが30歳のとき。そして40歳のとき、次なるスランプが来ました。
40歳になったある日ですね、僕が言い始めました。
「みんなは『ノッポさん、ノッポさん』って、誉めてくれるけど、君はノッポさん以外になんかあるの? 人がいうほど君自身はノッポさんを気にいってるのかねぇ」
ノッポさんの僕が答えました。
「でもさ、みんなが『いい。いい。』って言ってるんだからそれでいいじゃない」
それでまたここで僕が言いました。
「いや、『いい。いい。』って言ってるけど、自分のことをよーく見てごらんよ。ノッポさんはいいけど、ノッポさん以外に君はもっと何かできたんじゃないの?」
するとノッポさんの僕が言います。
「いや、余計なことはやらないの。僕はこれがいいと思ったらこれ一筋。食べるのに少々不自由しても、僕はこの仕事をとても大事にする」
「大事にするのはいいんだけど、他をがんばる余力がないの?」
この結果、僕とノッポさんの僕が毎日喧嘩するようになりました。
僕が言うんです。「あんたには何もありません。『ノッポさん。ノッポさん』っていうけど大したことありません」
するとノッポさんの僕が、
「たいしたことなくったって、これでいいじゃない」
僕は「いいえ」と……。

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僕はノッポさんをやりながら、自分が何者かということに関して2年間ほどひとりで悩みました。つらいつらい日々でした。考え込み、自問自答の繰り返しました。
ある朝のこと、この文句をつけた僕がこう言いました。この人がとても優しかったんです。そりゃだって自分ですからね。
「これまでのことはおいといて、君はもしかしたら一生懸命やったら何かある人かもわからないから、結果は恐れないで一生懸命やることですよ。だって君の手に入れたノッポさんなんて大した事はないんだから。いいですか?」
ノッポさんの僕が答えました。
「そうか。僕はチャレンジを恐れている人だったんだなぁ。ノッポさんはとても大事な仕事としてとっておいて、いままで恐れていた他の仕事にチャレンジしよう」
「そうそう。覚悟を決めたら、あなたはそのチャレンジを全力で行わなければなりません」
「わかりました。結果は恐れません。そして一生懸命やります。その結果に関して人が文句を言おうが、そのときは『そうですね。僕が至りませんでした』って、自分に言い聞かせます。それでいいでしょ?」
「いいですねぇ、いいです。君はなかなかいいですよ」
次の日から僕は、それまでこうやって捨ててきた新しい仕事に対するチャレンジを始めました。いま思うととても残念です。なぜかというと、本を書く仕事、台詞をしゃべる仕事、芝居を書く仕事……、いままで断ってきた仕事を引き受けて、それがまずくいくよりも、うまくいくことの方が多かったんです。
そして思いました。
「あぁ、なんてことだろう。こんなことならもっと若いころからいろいろなことをやっていればよかった。僕はいままで何をしてたんだろう。一生懸命やってだめだとなれば、そのだめな責任は自分が負えばいい。そしてそのとき『そうですね、僕は力が足りませんでした』って素直に言うだけ。これからは、失敗は恐れず、経過を大事にしよう。言い訳はなし」と。

だから申し上げます。若いときは恐れずにチャレンジしてください。そうするともしかすると、あなたの望んでいる才能が自分の中に眠っているかもわかりません。もしかすると見つかった才能が自分の気に入らないものかもしれません。でもそれはそれですよ。気に入った才能に巡り合えるっていうのはそういうことです。たくさんやるってことです。そして一生懸命やらなくてはならない。歳をとって一生懸命やるのはつらいです。でも僕はやりました。「まんざら捨てたもんじゃないよ」っていうのを自分へのはなむけの言葉としながらがんばりました。
何でもやってください、それも若いうちに。何もやらなければ何も巡り会えません。機会を逃さずに、恐れずに、結果を恐れずに何でもやる。これがこの歳になって「あぁ、私はだめなおじさんだったなぁ」と、そう思う人のお話の帰結でした。

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<第2部>

お客さまとのQ&A

お客さま:
『できるかな』をこどものころ大変楽しく見ていたのですが、やめたいと思ったことはありましたか?

高見 映さん:
あれだけ長く続きますと……。僕自身はあの仕事とっても大好きですから、ほんとはやめようとは思わないんですけど、周りにいるスタッフがだれてくるときがあるんですよ。それから、番組をプロデュースしてるサイドで、「これは長く続いているからどうしようか」なんて、理屈に合わないムードが漂うときがあるんですよ。そういうときって敏感ですからね。番組が最後の方にいくと、ゴン太くんといつもケンカしたりなんかしますよね? 競争したり、おままごとしたりね。それが終わったら、お風呂に入ります。ゴン太くんの中に入っている井村 淳さんという日本人形劇人協会の方とシャワーを浴びながら、僕がブツブツとつぶやくんです。「なぁ、お互いいい歳してさぁ、よくやるよなぁ、俺たちゃあ」って言うと、向こうは非常に寡黙な人ですから(静かに)「ハッハッハッハッ」って笑うんです。「もうさぁ、やっぱり来年くらい、やめなきゃいけないかなぁ」って言うとまた向こうがねぇ、小ちゃい声でね「ウン」って言うんです。井村さんは、「やめよう」とは言わないんですよ。僕のこともちゃんと考えてくれてますからね……。そういうときもありました。でもそれを潜り抜けてあれだけ長く続きました。
僕は自分の手がモニターに映るのを見て、この手がとっても汚く映ったらやめようと思っていましたけど、そんなにみっともなくなりませんでしたから、まだ続けられれば、とも思っていましたけど……。まあ、いろいろな事情があり、あの時期に終わりました。

フェリシモ:
あんなに器用そうに見えたノッポさんは、実は不器用だったというお話を伺えますか?

高見さん:
身内はみんな「ノッポさんのイメージが崩れるから、あなたは自分が不器用だってことを外で言わないでもらえる?」って言うんです。でも、人間は正直に生きなきゃいけないんです(笑)。それに、あの番組は僕がぶきっちょだったからこそ、あれだけ長く続いたんです。ぶきっちょな人間が毎回ほんとに一生懸命やってたから、小ちゃいお客さんは見てくれたんだ」と思います。一応ね、強がりですけど。でも私は楽しく見せることに関してはほんとに上手な芸人ですからねぇ(笑)。

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お客さま:
好きなことは仕事にしないで趣味にしておいた方がいいって言う人がいますが、できれば仕事にできた方がいいんじゃないかと思うんですけれど、どう思いますか?

高見さん:
好きなことは趣味にしておいた方がいいっていうのは、案外その好きなことで、仕事ゆえの苦しみっていうのがあるから、好きなことが嫌いになることを恐れるからそういうんじゃないかと思いますけれど、本当に好きなことだったならば、苦しんでも好きであり続けるっていう、そのくらい好きならば、そっちの方がいいわけですから。僕は、好きなものは趣味にしていいっていう、その好きなものっていうのは大したことじゃないと思います。だから本当に好きなことがあったら、それを仕事にまで昇華させることはそれはそれでとっても大事だし、それでもってその苦しみゆえに、好きなものが嫌いになったとすりゃ、それはもともと大して好きではなかった。だから好きなことをもし仕事にしたければそれでいいんじゃないですか。

お客さま:
人と接するときに高見さんが大切にしていることはなんですか。

高見さん:
自分に正直、誠実にということはありますね。術策は労さない。こういうふうにやるとこの人とうまく付き合えるかな、とかそういうことは全く思いません。自分のまんまで行きます。だからもし相手がそうじゃなければ、その人とは付き合いません。そういう意味では怖いかもしれません。でもこっち側がほんとに正直なところを言って、向こうがそうでなければ、僕はその人はいりませんから。これは、僕の歳だから言えるのかも。若いときはそこを我慢していかなきゃいけないから、まぁそれはそれで大変でしょうね。

フェリシモ:
最後に神戸学校事務局からの質問です。いろいろな経験をしてこられたノッポさんの、自分を探している人へのメッセージをお聞かせください。

高見さん:
歳とったのを悔やむ必要はないということかな。いずれにしても気がついたときにやり始めれば遅くはない。だって僕は40歳からだから。あぁ、でも苦しかったです。みなさんは、まだお若いでしょ。そのときに気がついて優れた友人、優れた先生、そういう人をもし学校や、仕事先で見つけられたときに、その人たちとお話をしながら新しいことにチャレンジしていただきたい。どんなに歳をとっても気がついたときに始めれば遅いことはない。ほんとは僕は遅かったのかもしれないなぁ。でもたくさんやりました。寝ないでね。寝ないで。すごかったなぁ。いまやってません、歳とったから(笑)。遅いことはありません。やらない人、ダメです。

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Profile

高見 映(たかみ えい)さん<俳優>

高見 映(たかみ えい)さん
<俳優>

*プロフィールは、ご講演当時のものです。
1967年から1990年までの24年間、NHK教育テレビの幼児向け工作番組『できるかな』のノッポさんとして超ロングラン番組に出演。その間、一言のせりふもなしで過ごしたことはあまりにも有名。絵本作家として活躍するほか、現在は台本から演出、出演までのステージ活動を精力的に行っている。主な著書は『ままのてえほん』(学研)、『ドクトルふくろうの処方箋』(丸善メイツ)、『紙芝居.丘の上の木』(世界文化社)など。

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