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「家族とのつながりの中での私について」



<第1部>

元旦に、息子から「おめでとう」の電話。
今年8月に家族がひとり増えました。

家族というのはすごく大きなテーマ。僕もこれまでに長きに渡って小説に書いてきた、ひとつのテーマなんですね。今年はわが家にとって、記念すべき年なんです。今年6月に僕は60歳になりました。還暦ですね。1月1日の元旦に、サンフランシスコで暮らしている息子から電話がかかってきて「父ちゃん、おめでとう」って言うんですね。まあ、還暦になることをいうんだろうなと思ったんですけど「本当のおじいさんになるよ」って言うんですね。「えっ、何だ? それは」って言ったら、つまり、こどもが生まれるというわけなんですよ。それが1月1日の電話だったんで最初はかなり驚きました。全然予期もしなかったことなんでね。
「あ~そうか。孫が生まれるのか」と思いました。8月が予定日だったんですけど、その生まれる2~3日はすごくそわそわしていました。僕がそわそわしてもしょうがないんですけどね。で、やがて連絡が入って「男の子が生まれたよ」って。僕から見たら3代目につながったかと思ってですね。何とも言えない不思議な安堵感と、うまく形容できないんだけど、期待と不安っていうんでしょうか、そういう気持ちを感じました。

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自分のこどもが生まれたとき、僕は最初に「これで簡単には死ねないな」って思ったんですよ。大袈裟な話かもしれないんですが、ただ、僕は非常に狼藉者で、若いころから交通事故であるとか、よくケンカをしてました。頭を叩かれて意識不明になったり、そういうバカなことをずいぶんやってたもんですから、初めてのこどもが生まれたときに、本当に「生きていかなきゃな」っていうのを思いましたよ。自分でも、ものすごく意外なことだったんですが。孫のときは、そこまでは考えないんですね。ただ、もうちょっと元気で生きていきたいなって思いましたね。
おもしろいもんで、ちょうどその息子が結婚する年に、娘もイタリア系のアメリカ人と結婚しました。グリーンカードとか、いろいろな問題があって、その年にわりと早めに結婚したいって言うんで「じゃあ結婚しなさい」って言って……。僕も妻もその年、外国旅行がすごく多くて、結婚式のときには、僕は南米の端っこに、妻はチベットの端っこにいたものですから、お互いに行けなくて、娘は両親不在で結婚式をしました。で、結婚した娘夫婦とは1年間ぐらい会わなかったんですが、ようやく1年目に会いました。その年は、いっぺんに息子と娘が増えて、さらにもうひとり増えてしまったという……。新しい家族が増えるということはいいなあということを、この数年で実感しているんですね。

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僕にとって家族とは不思議で
流動的なものでした。

考えてみると家族というのは不思議なもの。すごく流動的なもんだなということに、だいぶん前に気がつきました。これは自分の家族がそうだったんです。僕は東京の世田谷区の三軒茶屋で生まれたんですね。父親は公認会計士をしていて、当時、5人家族でした。で、父が連帯責任か何かの負債を負ってしまったんです。それで、世田谷を逃げるようにして千葉に移住したんですね。世田谷といえば山の手と言われていて、千葉は地の果てのような所。僕が小学校に入る直前に移ったんですけど、兄や姉たちはすごく不服そうでした。街を歩いてる人もすごいんですよ。裸足で歩いてるんですね。夏なんか下駄がもったいないからだと思います。信じられないかもしれないけど、温暖な千葉はそうだったんですよ。僕、世界中あちこち行ってますけど、世界にはまだ裸足の国はいっぱいあります。今年もいっぱい見てきました。日本もそれに近い時期があったんですね。お祭りとか入学式とか、そういうハレの日には靴を履いて行く時期に引っ越したんです。当時は東京との文化的落差がすごかったんです。それで姉なんかはすっかりいじけてしまって、ずっと無口になっていたのをこども心に記憶しています。でも、僕はうれしかったんです。近くに海はあるし、川があるし、山があるし、こどもにとってはワンダーランドで、こんないいとこに越して来れてうれしいなと思って、あちこち走り回っていたんです。父親は、都落ちというんでしょうか。しかも借金背負って、千葉に流れたわけですから、病気になって寝込んでしまって、僕が小学校6年のときに、亡くなってしまったんですよ。

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お葬式というのは、こどもにとって、そんなに激しく悲しいもんでもないんですね。いろんな親戚の人が寄ってくるし、おいしい料理もいっぱい出るし。父親が死んだのはつらいかなっていう気はしたんですけど、心からつらくなかった。正直言って僕は父親とあまり仲よくなかったんです。いま思えば父親はちゃんと僕を愛してたんでしょうけど、僕はこどものころからものすごく反抗的で、事件ばっかり起こして、いつも父親に怒られていたんです。それで「きっと、オレは父親に差別されてるんだ」とか、そういうふうに思い込んでいて、あまり話もしたことないんですよね。
父親が亡くなったときに、いろいろな人が弔問にやってくるんですが、その中に、僕の5人兄弟のいちばん上の兄によく似た男が3人やって来て、僕の頭をさわって「これが誠か」って言うんですよ。何かいやに馴れ馴れしいというか、えらそうな人でした。あとでわかったんですが、僕にはもっと兄弟がいたんです。異母兄弟が4人いたんですね。男3人女1人。だから合計で9人いるということがわかったんですけど、どこからどこまでがどの人のこどもかわからないという怪しいところもあるんです……。
それが「家族って変だな」ということに、こども心に気づいたひとつの時期です。新しい兄弟を知っても、その人と一緒に住むわけではなくて、まあ先妻のこどもですから、先妻の家に帰って行くわけなんです。そのときに親や兄たちは知ってても僕には教えてくれませんからね。「何か怪しい家だなあ。秘密があるなあ」と思ってたんですけどね。

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で、母親は未亡人になったわけですけど、日本舞踊をいつの間にか覚えてきてお師匠さんになって、家を改造して舞台をつくって弟子をとって、それでチャンチャカチャンチャカ踊りをしょっちゅうやってる家になっていったんですよ。僕が学校から帰ってくると、おしろいをつけたおばさんたちが、十何人も出入りしていて、太鼓の音がドンドコドンドコ、三味線の音も聞こえていた大変賑やかな家になってました。そんな母のいいところは僕に「勉強しろ!」といっさい言わないところでした。自由放任っていうんでしょうか、めんどくさかったから放っておいたところもあるんでしょうけど。とにかく、そういう家になっていったんですよ。
そのころ、こども心には気がついていたんですが、昔は父親が帰ってくると兄弟たちは玄関に行って、頭下げて「お帰りなさい」って言わなきゃいけないような家だったんですよ。ごはんを食べるときも父親がはしをとるまではこどもたちははしをとらないというしつけをされていたんですが、父親が亡くなって、そういうのがなくなっていったわけですね。それはこどもにとってうれしいことだったんですけど「父親がいたときっていうのは、やっぱり規律があったんだなあ」という、とり返しのつかない何かに気がついたときには、もう親はいないんですけどね。

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家族で過ごす時間は意外に短いと気づいて……
だから大切にしたいですね。

そして家族が全員そろって、両親がいて、一家全員でご飯を食べるっていう時期はほんとに少ないんだなあっていうことに気がついたんですよ。物心がついてからしか記憶がないですからね。千葉に移ったころからしか記憶はないので、5歳ぐらいからの記憶でしょ。父親は小学校6年のとき、死んでますから、自分が育った家族と一緒にご飯を食べられる時間というのは10年あるかないかなんですね。それに気がついたのは、だいぶたってからだったんですよ。気がつかないうちに僕はその家を出て、東京の江戸川区の小岩というところで、大学生活を始めました。それからは僕の生まれた家族とずっと離れたまんまになっちゃったんですね。で、やがて結婚して、冒頭でお話した、いまニューヨークに住んでいる娘とサンフランシスコに住んでいる長男が生まれました。で、はっと気がついたらまたふたりになっていたんですね。子育てが終わったので、我々は非常に自由になりました。あるとき、妻と話しました。「我々は、これまで、まあいろいろあったけども、一応なんとかこどもたちも育ったし、それぞれお互いに好きなことをしようではないか」と。で、お互い干渉しないことにしようと。何をしてもいいという約束をしました。お互い旅が大好きなので、好きな所に旅しています。そういう時期に、また家族が再生産されてるんだなってことを、今年初めて実感したんですね。冒頭で言ったように孫が生まれたときに思ったのは、やっぱり彼らの家族を遠くからだけども、ある程度見守っていきたいなっていう気持ち。これはね、初めて感じるものでした。よく孫っていうのはかわいいって言いますけど……。生まれて半年目ぐらいにアメリカに行って会ってきましたけども、本当にいいですねー。ここから、バカじいさんののろけ話になるんですけど(笑)。

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ちょっと時間が空くとね、僕、すぐアメリカに行っちゃうんですよ。まあ9時間あればアメリカへ行けちゃいますからね。それで行って3日ぐらい息子の家にいて、それでまたバッと帰ってきて、ついでにアメリカを足場にして、どこかに行くってことも多いんですけども、そういうふうな日々がこのごろです。
そして来月12月14日に初めて孫の風太くんが日本にやってくるんですね。じいちゃんはいまからそれが待ち遠しくてですね(笑)、そわそわ、そわそわしているんですね。僕の家は、地上3階建てで、地下があって、屋根裏があって、屋上があるという細長い家なんで、階段がすごく多いんでね。この階段を落ちずにどうやって上がらせるかとかいろいろ研究してたら「もう階段は自分でよいしょよいしょと上がるようになったよ」なんて言うんですね。「そうか、じゃあ手すりをどうしようか」といろいろ考えてるとこなんですけど……。
ただ今度アメリカ大統領選挙っていうのも、やっぱり家族にもろにかかわりがあることなんでね。すごく気になって、あの選挙の行く末を見てましたね。というのは、娘はもうグリーンカードを取っているのでアメリカに永住することになると思うんですけど、孫はアメリカ国籍と日本国籍を持っているんですよ。で、20歳のときに自分でどっちかを判断するんですね。アメリカはものすごく反動的な方向に入ってますので、果たしてアメリカにいていいんだろうかっていう気持ちも老婆心ながらあります。それからああいうこどもたちが大人になったときに世界はどうなっているんだろうか。多分僕はもういないだろうけども元気でやっていけるんだろうかなんてことも、国際レベルで考えるようになりました。
(中略)

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学生のころは、一緒に暮らしてきた
友人とのつながりが強かったですね。

家族についての前提が僕の中にはあるんですが、今年60歳までね、振り返ってみると僕はやっぱり、人とのつながりの中で自分をこしらえてきたんだなあって、強く感じます。人間が形成されていくのに何が必要かといろいろ考えていくときに、我々はすぐ勉強っていう大きな項目が入ってきます。僕は勉強はあんまりしてこなかったんですね。小学校6年までは、勉強ができたんです。小学校6年で父親が死んだときに、僕は勉強をほとんどやめたんですよ、これは積極的に。中学校は少ししましたけど、高校ではまったくしなかったですね。高校の成績は、下から10番目ぐらいのとこ。ただ柔道部に入っていて、強かったんで学校は辞めさせられませんでした。で、大学に入れなくて1浪して、そのときさすがに、これではいかんと気づいて、勉強をして、なんとか学校にもぐり込みましたけど、すぐやめました(苦笑)。ただ、その大学生のころに友だち4人と一緒に2年半共同生活をして、そのときに自立していく男っていうことを感じました。ちょっと格好いい言い方ですけどね。やっぱり親元離れるとご飯を自分で炊かなきゃなんないし、味噌汁も作んなきゃなんないですよね。そういうのを覚えてくんですよ。4人とも親元にいたんで、ごはんの炊き方もわかんなくておかゆみたいになっちゃったり……、カリフラワーとかブロッコリーも丸ごと茹でちゃったり……。ツマミ菜を洗剤で洗っちゃったものですから、なかなか泡がとれなくて困ったりしましたけど、そういう試行錯誤を経てなんとかなっていくんですよ。だから男の子を持った母親は、できるだけ息子はつき放しなさい。いちばんいけないのは、いつまでもからみついている母親。これが息子をダメにしますね。いかに親が格好よくすばやく冷酷に子離れするかっていうのが、わが国に求められてる第1番目の大きな問題ではないかと思います(笑)。

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学生のころから今日まで友人というのに僕は育てられたかなって、いう気がすごくするんです。よく大学の恩師がいて、あるいは先輩がいて、学閥とかいろいろなルートがあってね、引き立てられたなってケースをよく友人たちの話に聞きますけどもね、僕そういうの、ゼロなんです。まったくないんですよ。悲しくなるくらい。まあ勉強しませんでしたからね。学閥もなにもないわけですけどもね。おもしろさを同一にする仲間たちとずーっと暮らしてきたっていいますか、ヤツらと一緒にやってきたっていうのがね、ボクの人生かなっていう気がするんですね。世代はずいぶん上と下には離れていきますけども、それはいまだに変わらないです。そういう友人たちの話を聞いて何か自分の方向づけとか自分のポジションを見てるところがすごくあります。友人っていうのはある意味、反面教師になりますし、それからあるときには本当に心から支えてくれる人になりますしね。それから親に言えないようなことも友人なら言えるってことはたくさんありますからね。ですから友人を大事にする親であったり家族であるっていうのはすごく大事なような気がしますね。で、僕は家族たちを見ますとこどもたちっていうのは、やっぱり友人がいちばん大事で、特に息子は横のつながりの友人たちでアメリカの生活をしているようです。息子が結婚したのも友人の中から紹介でいい人が見つかったからなんですよね。

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僕の妻・おっかあも友だちのひとり
一緒に暮らしていた友だちが紹介してくれたんですよ。

僕の結婚した相手も友だちの知り合いです。学生のころに小岩で自主的な下宿をしてたときに、いま弁護士をしている友だちの高校の同じクラスにいた女の人と結婚したんです。それは不思議な出会いだったんです。ちょっと気恥ずかしい話ですけど、人生の夢みたいなものを、青年ですから持ってますよね。僕はそのころ、スヴェン・ヘディンというスウェーデンの探険家の世界にあこがれを持っていたんです。『西域探検紀行全集』なんかの中心的な著者で、シルクロードとかチベットとかモンゴルとか中央アジアの、あの辺一帯を探検して歩いた人なんです。この人に傾倒していてその関連でスタインとかブルジュバルスキーとかいう当時の探検家の本をたくさん読んでいました。そして、その人の『さまよえる湖』っていう本が、僕の人生においていちばん大事な本だったんです。「さまよえる湖」っていうのはタクラマカン砂漠にある「ロプノール」っていう湖なんです。高校生のころにいちばん好きな本だったので、本の話になると、友人たちにその本の話をするんですけど、誰も知らないんですよ。ところがあるとき、友だちが紹介してくれた女の人に喫茶店で会って「どんな本、読んでるの?」って聞かれて「こんな本読んでる」って言ったらば、その人が「あ~、私も好きで読んでます」って言うんですよ。僕はびっくりして「え~っ、女の人が何でこんなの知ってるんだろうか? この人は嘘を言ってんじゃないかなあ」と最初は思いました。

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でも、確かに詳しくよく知っていて、そして、僕がなかなか買えなかった白水社の当時750円もした『西域探検紀行全集24巻』を全部読んだって言うんですね。嘘じゃないかなと思ったんですよ。世の中にそんな人いないですから。で、あるとき、うんと親しくなってその人が「私の母に会ってくれませんか」って言ったんです。「母に会ってくれないか」ってのは相当意味が深いような気がして、一瞬ちょっとおののいたんですが、でも家に遊びに行って、彼女の部屋を見せてもらったら本箱があって、そこに本がいっぱい入ってて、そこに本当にまさしく白水社の『西域探検紀行全集24巻』が入ってるのを見てビックリしました。「うわぁ、本当だったんだあ」ってね。それで、もうすっかりその人と仲よくなりました。で、結局その人と結婚したんですね。結婚すると、あの『西域探検紀行全集24巻』の権利が半分はボクのものになると(笑)。
結婚する時の要因っていろいろあると思うんですけどね、照れくさい話なんですけど、どこかそこへ行きたいと夢を持ってるとね、やっぱり夢というものはね、かなえられなければかなえられない。で、ず~っと抱いていることができますからね。夢を持って夢に結婚する。夢を合言葉に結婚することはいいと思いますよ。現におっかあは4日前までね、言ってたように毎年必ずチベットに行って、ある大きなことを向こうでしてるんで、長期で行ってるんですけどね。やっぱりそれは僕は子育ても終わってることだし、お互いに自由にしようという契約をしましたんで全面的にバックアップをして、送り迎えもちゃんとしてるんですよ。

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とりあえず僕が待ち遠しいのは来月14日。そわそわしながら成田空港に行くと思うんですけどもね、いや、ほんとね、1週間に1回くらい電話がかかってくるとね、電話でお話をするんですが、お話たって、向こうはワーワーワーワー言っているだけなんですけどね。ああいうのはやっぱり息子が親に恩返しになるんでしょうかね。で、逆に考えていくと僕は父親に対して何も恩返しはできなかったなあって……。もっとほんとは会話したのかもしれませんが、覚えてないってことは悲しいですね。そして冒頭で言いましたように家族と一緒にいる時間というのは思った以上に少ないんだっていう……。これはみなさんもそうだと思うんですね。その思った以上に少ないそのひとつひとつの時間っていうのは瞬間、瞬間にはものすごく充実している時間なんですよね。

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家族でごはんを食べること
そんな日々が大事だと思います。

例えば僕の記憶の中では、家族でご飯を食べていた、それは最初、卓袱(ちゃぶ)台を囲んで食べたんだけど、やがて居候のおじさんとおばさんが来て、家族もどんどんどんどん増えちゃったんで少し洋風にしようっていうことになって……。おじさんが、ちょっと大工ができるもんですから畳の部屋を板張りに変えて、そしてテーブルと椅子をつくってくれたんです。ただ、プロの大工さんじゃないもんですから、全員がそろって座ったときに、ガーッて倒れて、全員が横倒しになって……(笑)。あれが僕の壮絶な楽しい記憶。みんなで腹かかえて笑いました。あの笑ってる瞬間ってのは実にいい時間だったんだなあって……。そのときはわからないんですよね、それがある意味悔しいですね。人生、年を経ないとわからないということなんでしょうかね。
いま、みなさんがどういう形態で食事をしているのか知りませんけれど、家族で、もし食事をしてるんだったら、いま現在の日々がすごく大事だと思いますね。でも、いま日本はそういうことをおざなりにすることがすごく多くて、親と一緒にご飯を食べるなんていやだなんて言うバカな娘や息子がたくさんいますし、すぐ家から出て行っちゃうということもたくさんおきてますし、そういう意味では、僕は恵まれすぎた先進国日本ということのリスクと悲しさみたいなものを感じます。アマゾンの近くに住んでたとき、僕はジュワキンサンっていう族長の21人家族の家に1週間いたんです。10畳ぐらいのひと間の家に娘夫婦、息子夫婦含めて、0歳から80何歳までの21人が一緒に住んでいるんですね。で、ひとつの家、ひとつの部屋でハンモックをつって寝るんです。

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それでも、こどもたちはすごくイキイキとした目をしていました。こどもたちに「何をしたい?」って聞いたなら「勉強したい」って言うんですね。こどもたちが勉強したくても、学校のある所まで船で2日間かかるんです。ですから寄宿舎に入らなければ勉強できない、でも寄宿舎に入るお金がないわけですよ。ふだん、サルを食べて暮らしてるんですから。そうすると、日本でいま普通に言われている不登校なんて言葉が、いかに甘ったれた文明国でしか言えないような言葉なんだということが見えてくるんです。彼らはね、不登校たって、学校に行けないんだから不登校のしようがないわけですよね。あるいはひきこもりなんて言葉が日本にはありますけど、彼らは10畳ひと間の家に21人住んで、どこにひきこもりゃいいんだみたいなことですよね。
いま自分がしていることの素晴らしさとか、あるいはむなしさとか、あるいはとてつもない横暴であるとか、危険なことであるとか、そういったことを自覚できないのが現実なんですね。ただそれを自覚するってことが僕は教育であり文明であるというふうに思ってるんです。
僕が最近いろいろなことがわかるようになってきたのは体験なんですね。そしてもしかしたら、僕は本を結構たくさん読みますので、本と会話の中から見つけているような気がするんです。いま現在もいろいろなことに興味を持っていますけども、それが次の活力になっていくんだなあと、いま思っています。ますますあちこち動き回っていろいろなことを見聞きしていきたいと思っています。

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<第2部>

お客さまとのQ&A

お客さま:
おふたりは旅行が好きということですが、一緒に旅行されることがあまりないようですね。おふたりで行くと何か危険なことがあるのですか?

椎名さん:
いい質問ですね(笑)。この間、友人が「お前は冒険家だなあ」って言うんですね。「何でだよ?」って言ったら「お前、イチエ(おっかあの名前)と一緒にチベット行ったんだって? 冒険家だなあ、お前は」って。「おっかあとふたりっきりで1ヵ月も海外旅行ってのは大変なことだぞ、お前。こんなに恐ろしいことはないじゃないか」って言うんですよね。ああ、そうだなって思いました(笑)。
でもね、おっかあがそんなに毎年毎年行くチベットってどういう所なのかなって思ったんですよ。「見に行きたい」って思って2~3年前に一緒に行ったんです。そしたら、旅しているおっかあは、別人でした。これはおもしろかった。中国辺りまでは外国人と英語で話してるんだけど、チベット圏に入ってくると、いきなりチベット語で話し出すわけです。びっくりします。それは違う人みたいで、一緒に並んで歩いたらいけないような気になって、ある意味では尊敬といいますか、感動しました。

お客さま:
ずいぶん稼いでいると思いますけど、何に使いますか?

椎名さん:
立ち入った質問ですね(笑)。たかが作家ですから、たいして収入なんて……。まあ、どんくらいあるのかなんてわかんないですけどね。事務所がやってますからね。株式会社椎名誠事務所ってのがあるんですよ。そこに社長がいるんです。社長が全部やってますから、僕はそこのタレントみたいなものなんですよ(笑)。最終的には年末に何か見せてくれますけど算数が全然わからないんでね。「うまくいってんの? ダメなの?」って聞くだけ。そうすると頭のいい秘書が「まあまあです」とか「昨年並みです」とか言ってくれますよ。「また来年も同じようにやればいい?」って言ったら「いいです」っていうと同じようになってるだけの話なんですね。あんまりね、お金は使わないですね。あんまりないんです、本当に。何に使ってるのかというと本代かな、本をよく買います。あとは、旅行代。それから飲み代ですね。これはもう圧倒的に。やっぱり体育会系でリーダーになるとバンバンおごるって世界にいましたんで。いま僕が仲間の中でお金があるだろうから何でもおごっちゃうんです。どうせ残したってしょうがないですからね。昨日も、20人ぐらいにバーンとおごってましたから。いくらかかったかわかりませんけど(笑)。それが多いかな。

お客さま:
2歳のこどもがいるのですがかわいくて、かわいくて。過保護にはしたくないのですが、いつごろからつき放せばよいでしょうか?

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椎名さん:
2歳? まだつき放すの早いよね(笑)。よく反抗期って言いますよね。僕は反抗期じゃないと思ってるんですよ。うちのおっかあもそう言ってるんですけどね。あれは、自立期ですね。完全に、自立するか、別な価値観でからみつくものが嫌になるんですよ。だから親にこどもが逆らうようになったならば、この子は自我を持ったんだと思うべきなんですよね。それを反抗期みたいな言葉でいうのは、間違えてると思いますね。
いま日本って、いろいろな意味ですごく危険になってます。例えば、交通安全運動なんかあるときに、横断歩道に旗を持ったおばさんが立ちますよね。あれにちょっと疑問持っていますね。どうしてかっていうと、旗のおばさんがいると、そのおばさんの指示に従って渡ったり渡んなかったりするわけでしょ。でも、その子の前にいつも旗のおばさんがいるわけではないですよね。その子の人生で、これからどんどんどんどんいろいろなところに直面しなきゃなんない。で、自己判断ってことがすごく大事なんですよ。まずこどもにとって、最初の試練ってのは、この道が安全かどうかってことを判断しなきゃなんないわけ。これは常に自分で判断しなくちゃいけない性質のものなんですよ。そのおばさんがいることによって自己判断する能力がそがれるっていうか……、本当に社会の過保護のような気がするんですよね。あんなのいらないですよ。かえって危険だと思う。こどもはきちんと話しをすれば自分で判断できますからね。こういう社会ですから過保護なんですよ。ただ自意識を持っているときは母親に対して、ひとこと言い出しますから、そのころから注意して見ていくことでしょうね。

フェリシモ:
椎名さんはご自分の家庭をモデルにしてたくさんの小説を書かれていますが、その中で小説家としての椎名さんはどんなことを伝えようとされていますか?

椎名さん:
むずかしい質問ですね。私小説ってわかります? 私小説は日本文学の原点なんです。いまはミステリーとかホラーとかエンタテインメント系の小説がすごくたくさん売れてる時期で、私小説っていうのはすごくマイナーなジャンルになっているんですね。僕が作家として興味があるのは、本当のことかとんでもない嘘。とんでもない嘘はサイエンスフィクション(SF)と言われています。で、その中間の小説ってあんまり好きじゃないんです。例えば殺人事件とか熱海湯上り全裸殺人事件とか(笑)。私小説というのは、日本の二葉亭 四迷以降始まった日本の文壇の中の初期のころ、趨勢(スウセイ)を占めていたんですよ。僕は小説好きだったからずいぶん読んでいたんですが、みんな内容が暗いんですよ。離別があったり、病気だったり、あと不倫。作家三重苦と言われまして、作家とはそういうもんじゃないと作家になれないという時代があったんですけど、明るい私小説があってもいいんじゃないかなあというのが、僕が『岳物語』を書き出した動機だったんですね。子育てといいますか、自分のこどもが素材。放っときゃ何かおもしろいことやるわけですから、その通り書けばいいんですよね。
で、いまの質問で言いますと、僕は自分のために書いたんです。誰に読ませようという気はまったくなかったんですよ。いまだに、もしかするとそうかもしれないんです。私小説を、つまり自分の周辺の本当にあったことを見ながら文章にして書くってことは、自分とは何なんだろうかっていうのを、そこで問うてるんです。僕が問いかけようとしてるのは「ある家族の、ある物語ですよ」という程度。ただその中には本当のできごとを題材と会話にしてますのでフィクションではない。隣によくあるような話だということになるでしょうか。まあその程度のお答えしかできないんですが……。

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Profile

椎名 誠(しいな まこと)さん<作家>

椎名 誠(しいな まこと)さん
<作家>
*プロフィールは、ご講演当時のものです。
1944年東京都生まれ。1979年より、小説、エッセイ、ルポなどの作家活動に入る。これまでの主な作品は、『犬の系譜』(講談社)、『岳(がく)物語』(集英社)、『中国の鳥人』(新潮社)、『黄金時代』(文藝春秋)など。最新刊は『風のまつり』(講談社)、『まわれ映写機』(幻冬舎)、『笑う風ねむい雲』(晶文社)、『走る男』(朝日新聞社)、『ばかいじ南海作戦』(新潮社)。エッセイは、週刊文春連載中の、赤マントシリーズが10年以上続いている。旅の本も数多く、モンゴルやパタゴニア、シベリアなどへの探検、冒険ものなどを書いている。趣味は焚火キャンプ、どこか遠くへいくこと。

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