神戸学校

神戸学校はフェリシモが主催する「神戸発 生活デザイン学校」です。

  • 島尾 伸三さん(写真家)
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<第1部>

「一旗あげたい」
でも、本当に旗はあがっているの?

「一旗あげたい」そういうタイトルですが、旗があがっていないような気もします(笑)。私はいま、写真と文章で生計を立てているのですが、今年になって撮影の仕事は、先月末から始めた仕事と、詩の本のために女性の作家の人にくっついて歩いて写真を撮った、その2回だけです。そのときにもらったお金が5、6万円。いまやっているのがいくらかわかんなくて不安なんですけれど……(笑)。あとは、潮田さんとふたりで中国へ行くので、中国の写真はいっぱいあるんですよ。仕事で行くわけではなく、半分遊びで行くんですけど。
この際ですから、金額を含め具体的な話をさせていただきます。私たちは東京に住んでいます。

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住んでいるのは、家内の実家です。私と潮田さんは遊んでばかりいたので、潮田さんのご両親がとても心配をして「いつもこどもをほったらかしにして、ふたりで旅行に行ったり、踊りに行ったりしているけど、どうするの?」って。25~6年前のことです。私もまだ若かったんです。こどもが小学校に入ったので、潮田さんのご両親が心配して「うちからこどもを学校に通わせたらどうだ」と言ってくれました。ふたりともフリーターで仕事があまりなかったので「ラッキー!」と思って。こども部屋を用意してもらって、一緒に暮らすことになりました。「あんたたち、応接間を使いなさい」って、応接間もらったんですね。でも、ふと気づいたらですね、私と潮田さんとこども3人は、お父さんとお母さんの家の1階部分を占拠していました。これが本当に軒先借りて母屋を乗っ取るという……。そんなふうに生活しています。一旗あげる、じゃない話になっちゃった。
(会場:笑)

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高校は4年間、推薦は友だちに奪われ、
行きたい大学は潰れ、トホホな時代。
でも、そこでカメラに出会います。

私は熊本の高校を出ました。そのころは、何やっていいのかわからなかった……。ちょうどそのころに、アメリカの砂漠にフェニックスという実験都市ができたというニュースがありました。そのニュースによると高齢者の住宅と一般の住宅、芸術学校とか、総合病院とかがいっぱいの理想的な町を作ろうとした実験だったらしいんですね。そこに美術学校ができると聞いたので、おもしろ半分に案内を取り寄せたんです。案内を見ると、そこは自分で勉強したいコースを選んで自分で単位を決めて卒業できるということでした。そして、美術館や博物館、マスコミの芸術的なセクッションのアートディレクターを育てるという実験的なコースがあって、私はそのコースに行きたくなったんです。私は「お金がないけれど、どうやって学校に行ったらいいですか」と、学校に手紙を書いたんです。そうしたら「とりあえず来なさい。学校には寮があります。アルバイトもしていいです。学校はそういう仕事がいっぱいあります。来てから考えなさい」という返事が来たんです。すごいでしょ。それで、うれしくて親に相談しましたら、母が「行くな」と言うんですよ。私は勉強しなかったので落第して、高校に4年いました。その間に、アメリカに行きたいと思っていたので貯金してたんですよ。片道分18万円くらいかな。ところが未成年だから親の許可がないとパスポートの申請ができないんですよ。その学校に行けないってことになり、高校の先生に言ったら、「あなたみたいに勉強していない人は推薦しかないだろう」と上智大学に推薦をしてくれることになったんですよ。で、遊んでいたら、親友が「なぜ勉強しないで遊んでいるんだ」って聞くから「推薦決まった」って事情を説明すると、親友が先生に「自分の方が優秀だから自分にしてくれ」って言って、で、そいつになっちゃった。トホホでしょ。
(会場:笑)

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それでも試験受けなくちゃいけないから、東京に試験受けに行きました。勉強していないから落ちますよね。で、貯金の18万円、「一気に使っちゃえ」って、飲み歩きました。で、「まあ、いいや」って思って、両親が住んでいた奄美大島に帰って百姓のまねごとをしていました。そんなある日、父が「寿司を食べに行こう」って誘ってくれたんです。タクシーに乗ったら父が「運転手さんはどこで修行したの」って聞くんです。運転手さんは「大阪です」って、「タクシーの勉強は大阪だね」とか言って……。寿司屋に行ったら、ご主人に「どこで修行したの」って聞くんです。ご主人は「東京に行きました。3年やってきました」って……。で、父が私に「とりあえず都会に行って勉強して来い。それから、農業するでも、船に乗るでもいいよ。とにかく専門学校でも何でもいいから行け。お前が勉強するんだったらお金は出すから」と言ってくれたんです。
私は「1年都会で遊べるぞ」って思って、都会に行くことにしました。東京に出て来て、探したら多摩美術大学で造形学部をつくるという発表がありました。造形学部というのは私が行きたかったアートディレクターズコースと似たようなカリキュラムがあったんです。そこに申請したら、学校に呼び出されて「造形学部を受ける人は定員以下なので合格なんですが学生紛争で、その学部は潰されました」って言われて……。「ええーっ」と思ってね。しょうがないから似たような名前の東京造形大学に行きました。学校では映画を撮ってたんですが、映画は団体行動だから嫌になって行かなくなって、ブラブラしてたら友だちが「お前みたいなちゃらんぽらんな人間は写真がいいんじゃないか」って言われて。で、写真を勉強するようになりました。

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写真にのめり込んでいった社会人時代。
そして、潮田さんと出会います。
潮田さんは、私の写真の先輩であり奥さんです。

それから、新聞広告を見て小さな現像所に入りました。そこで2年くらい働きました。そのとき、一緒に暮らしていた女の人が「入社式だから背広を着ていけ」って言うので、背広を着て行ったんです。そしたら、「お前、背広持ってんのかよ」って、営業にまわされたんです。暗室で技術を覚えたかったのに「あ~あ」って感じです。営業にまわされても、写真の楽しさを捨てきれなかったですね。会社にもカメラを持って行って暇があると、何か撮っていました。

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私が行っていた営業先が日本でいちばん大きな広告代理店だったんですが、その会社の偉い人が集まってる所によく呼ばれていたんです。どうしてかと言うと、会社に申し訳が立たない会合は、みんな営業である私に払わせるわけです。それで、みんな下品な話をして「なんとかちゃんどうだい」とか言って……。あるときに、その会社のおっさんたちと5、6人で「どこどこのビールはおいしい」とか「マズイ」とか言いながらビール飲んでたときに、「いま俺はこんなことやってるけど、俺はいまの自分じゃなかったはずだ」って言うんです。「俺はやりたくないことをやって生きてきたんだ」って言い始めたの。私のように下請けの会社の人間にしてみれば、年収もいいし、家も所沢とか下北沢に一戸建て建てて、車は2台持ってて……。奥さん以外に好きな人がいてもバレずにうまくやってるとかなのに、そんなこと言うんですよ。私は「あ~。私が一所懸命がんばって、本社の人になっても30年たったら、私もそういうことを言うのかな」と思ったんです。
それで、辞めました。やっぱり自分の好きな写真をやりたいと思って、辞めちゃった。ばかですね。私はそのとき、子連れの女の人と暮らしてたんです。こどもを育てなくちゃいけなくて、お金が必要だったんですけど、辞めちゃったんです。お先真っ暗ですよ。それからずっといままでフリーターなんです。何か信念があればやっていけるとかってことでもないような気がするし、常識的なことをやっているからっていうことでもないような気がするし、何て言ったらいいかわかんないけど……。
私の父が小説を書いているので親の七光りではないかという疑いもかけられるんですが……。私が大学に入って夏休みになる直前、教務課から呼び出しがあったんです。入学金と学費が入っていないと。「えっ、お父さん、勉強するんだったら教育費ぐらいは出すよって言ったじゃない」と思ってたんだけど、入ってないんですよね。お父さん、すごくいい加減だったんです……。
(会場:笑)

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入学金の20万円は夏休みにバイトしまくって払いました。だんだん学校行かなくなってバイトばっかりでした。それでも、写真にはのめり込んでいきましたね。学費を払ったとき、お金がちょっと残ったんですよ。その残ったお金で香港台湾のツアーに行くことにしたんです。台湾3日、香港3日でした。隣の国にこんなおもしろいものがあることを初めて知り、それからは夏休みにバンバン働いて、学校も休んで働いて旅費と学費を作るようになって、冬休みはどこか東南アジアに旅行するようになりました。
そんなこんなで、27、8歳くらいになっていました。そのころは、恥ずかしいんですけどガールフレンドをつくるのが楽しくてしょうがない時期でした。でも、旅行に連れて行った女の子はみんな「臭い」とか、「ご飯が食べられない」とか「市場が怖い」とか言って、アメリカとかヨーロッパとかきれいな所ばかり好きって言うんです。「もう誰も一緒に旅行してくれる人はいないんだなあ」とあきらめかけていたんです。でも、ひとりで行ってもつまんないし誰かと一緒の方が楽しいので、しょうがないしオカマになっちゃおうかなみたいにも思ったんですよ。そんなとき、潮田さんと出会ったんです。潮田さんと一緒に旅行すると、どこに行ってもビビらないし、豚を路上で解体しても喜んで写真撮ってるし、「何かいいなあ、好きになる可能性あるな」と思って……。3ヵ月後に2回目の旅行に行ったときは、もうお腹に赤ちゃんがいたんですね。

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潮田さんは「自分が勝手に育てるから
こどもを産んでもいいか」って言うんですよ。
そういう人がいたのかってちょっとうれしくてね……。

それで、こどもが生まれたんですよ。すごくうれしくてね。それまで私のこどもを産みたいって人はひとりもいなかったんです。いい加減な男だし、仕事もないし……。私、人を好きになるのは勝手にできるんだけど、人を愛することは下手だったらしい。だから、誰も私のこどもを産みたがらなかった。潮田さんは「自分が勝手に育てるからこどもを産んでもいいか」って言うんですよ。そういう人がいたのかってちょっとうれしくてね……。で、こどもは、籍に入れないと幼稚園や学校に行くときこどもが苦労するよと言われたので、潮田さんのお父さんに「こどもだけでも籍に入れさせていただけますか」と言ったら、待ってましたとばかりに、「いいよ、じゃあ書類は自分が準備するから」って、準備してくれたんですよ。「島尾さん、この書類と印鑑を持って千代田区役所に行けば全部終わりますから」って、見たら、婚姻届まで入っていました。一杯食わされたんですよね。「まあいいか」と……。その潮田さんと生活をして26年たちました。潮田さんはずっと写真を撮っている、私の先輩にあたる人です。なんか自分の半生記を語るような感じですね……(苦笑)。
1年くらい前に、私とこどもと潮田さんと3人で話してたんです。「勉強した記憶ある?」って聞いたら、潮田さんは「ない」って言うんです。私も「ないな、落第したり、いろいろして勉強してない」って。こどもは「中学校の一時期だけ勉強したような気がする。あとはない」って。こどもが「一応大学行ったじゃない」って聞くから、「勢いだよ」って。潮田さんは「勘だよ。勘で勉強した。勘で答え書いた」って。僕の場合、運ですね。たまたま知ってることが、ひとつかふたつあったんですよね。それまでデザインとか何も知らなかったので本屋に行ってデザインの本を1冊見たんですよ。それにいろいろ書いてあって、それが出たんですよ。本に載ってるそのまま書いたんです。私、他に工夫できない。で、通ったんですよ。だから3人とも勉強してないんですよ。それがいいとは言いませんけども。まあ世の中にはそういう人もいるということです。
私は親の七光りではないかと思われているんですが、私の父を知ってるとか、私の父と仕事をしたとかいう人とは基本的に私は仕事をしません。いままで父がらみの仕事を手伝わされると、例えば「お母さんの本をつくる作るから写真を貸してください」とか、「撮ってください」とか、「お父さんの本のことをするから年表を整理してください」とか……。

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どれも一所懸命やっても私にはお金が入らないんです。つまり、一人前の人間として認めてくれないのでやらないんです。それと、私はまだ大人になりきってなくて、反抗期がまだ続いているんですよ。親が嫌いなんですよ。親が私に「髭それ」とか、「床屋に行け」とかうるさいんですよ、いまだに。「好きにやらせてよ」って。旅行に行こうとすると、「いま中国はサーズがはやってるから危ない。行くな」とか言うんです。そう言われると、「どうしても行ってやる!」と思うんですよ。言うくらいだったら金くれ~とか思うんです(笑)。と、いうわけで七光りはむずかしいです。本当に。
私のこどもが、1ヵ月くらい前に私がらみで何か仕事をしたらしいんですよ。でも、ギャラが来ないんですよ。一人前じゃなくて一部分にしか考えられてないから、一人前の人間としてお金くれないんです。だからこどもに言いました「私の世界は貧乏人の世界だから、つき合わない方がいいよ」って。親がらみで仕事をやるときは警戒心を持って、ちゃんと自分を一人前として認めてくれるような人じゃないといい仕事はしづらいです。絵を描くのでもいくら絵が上手でもお父さんの絵の手伝いなんかしてるとお父さんの目が見えなくなるとお父さんは自分の筆としてこどもを使いますからね。「山はああ描け、こう描け」って言って、目の見えないお父さんより上手な絵をこどもが描いたりする……、そういう話を聞いたことありますよ。こどもはお父さんの絵を見てるから描けるんですって。で、その絵が入選するんです。それはそれでおもしろいんですが、ひとりの人間としては合点がいかないと思うんですよね。親が心配してこどもを拘束するのは仕方ないですけどね。1回きりの自分の人生ですからね。親の言うこと聞いて上手くいかなかったからって親の責任ってわけにはいかないでしょ。何を話してるのか、だんだんわかんなくなってきた……(苦笑)。

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自分であるってことがトホホですけども
自分であるということは大事ですよ。

それで私は潮田さんと一緒になって楽しい日々が続いたんで、気持ちに余裕が出ました。みなさま、もしおうちに犬とか猫とか小鳥がいたらすごくかわいいと思うんですよね。仮にペットがですね、帰ったら「おかえりなさい」って言って電気をつけて「お部屋を暖かくしましょう」って言ってくれたらうれしいでしょ。しかも、それがペットじゃなくて、人間の形をしてたらもっとうれしいでしょ。永遠に生きているわけじゃないですからね。死ぬ日から逆算すると自分の生きてる時間なんて、「死ぬまで、あと何日」とかってオリンピックみたいにカウントダウンしたら1日1日が大事になりますよね。私いま56歳ですけど、仮に70歳まで現役だったとしても、あと14年ですよ。
夜中お酒飲んで帰って来て、潮田さんにちょっと甘えて寝て、翌日11時くらいまで寝てたりする日もありますからね。起きてゴロゴロして夕方みたいな。あっという間に1週間。「金がねえから外にも行けねえ」みたいなことを平気で言って。
でも、潮田さんや家族のおかげで私は自分の好きなことに熱中できるんです。写真オタクの友だちと、画廊を作っちゃ潰し、作っちゃ潰しで……。潰れるときはいつも赤字になってますから醜い争いが生じるんです。「家賃は誰が払うんだ」とか、「印刷所にお金払ってない」とか、「このままトンズラしようぜ」とかね。でも、そんなことになっても、好きなことをやっているので嫌いになったり、死にたくなったりというのはないですね。自分なりの生き方とか作風とか作品というのは偉い人の言うことを聞いていたらダメです。人が認められないところに自分の価値があるわけですから、みんなが「いいよ」って言ってくれたところはみんながわかる。でも、それはみんなにもできることなんですよね。「わかんない。これ、何やってんの?」って言うのは、多分誰もが理解できない、自分だけが発見した新しい何かなんですよ。

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どこの国の誰にも私にはなれない。少し下アゴのヒゲが白くなって、頭が少しハゲかかって髪がバサバサの日本人で銀行に貯金通帳は1千万もあるような顔してるけど定期預金はできないので1万ちょっと、胸にはパソコンで打ち出した名刺がちょこっと入っているだけ、ブランデー飲んでも靴下は臭い。そういう私には、誰にもなれないでしょ。自分であるってことがトホホですけど、自分であるということは大事ですよ。その自分を基準に環境とか、作品とか、ものの考え方を発展させた方が早いし、強いし、ウソをつかなくていいような気がするんですよね。もし私にいっぱいお金があったらですね、茶髪にして、金のネックレスもするでしょう。ローレックスとかはめちゃうかも。風邪ひくくせにベンツのオープンカー乗るかも。体力ないくせにマンション買って愛人囲っちゃうかもしれないし、バッグもスーツもヴィトンになるかもしれないです。いや~な男になっていますよ、きっと。しゃべりかたも変わって偉そうになるんですよ、私が弱いから。でもラッキーなことにまあ適度に貧乏なのでそこまでの根性が生まれてこないんですよね。そういう自分が私は好きにならないと安心していられません。
違う自分になろうとするのがよいとは限らないですね。出世しようとか、あんなふうになりたいというのも大事かもしれませんけど、自分にはどういう道具が備わって、どういう能力があって、どういう環境にいるかっていうことも大事にした方がよいと思います。

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私が一旗あげてるかどうかは微妙だけど、
潮田さんがいれば、
私は好きなことを続ける勇気が出るんです。

私が一旗あげてるかどうかは非常に微妙なんですけど、経済的にはあがってません。賞はひとつももらってませんから、そういう意味でもあがってません。免許も車も持ってません。家もありません。いま住んでる所は潮田さんのお母さんの家なので、お母さんが亡くなったら潮田さんの兄弟3人で3等分すると思うんですよね。私はその家を買い取るだけのお金がありませんから追い出されると思います。私は潮田さんに「どこのアパートでもいい、物がなくてもいい。私はあなたさえいればかなり楽しいのでよろしくお願いします」と言っています。潮田さんがいれば私は好きなことを続ける勇気もあるし気持ちの余裕も出るんです。
帰ってきたらいつも当り散らすお父さんとかおじいちゃんがいたら悲しいですよね。顔見ると「勉強しろ」って言われるとつまんないですよね。せっかく帰ってきたんだから、あったかいお風呂であったかいお布団でやさしい言葉で、ウソでもいいから「学校楽しかった?」って言ってくれればいいじゃん。お母さんが、「あーしろ、こーしろ」ってうるさいと、お父さんが怒ってばっかりいるとこどもは親の希望にこたえようと思って一所懸命ですから混乱するんですよね。放っといてほしいんですよ。好きなようにやらせてくれると嫌いにならないですよ。おうちの中がそうだといいんですけどね。

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私、東京に住んでいるんですが、震災の前のときに11月ごろかな、朝5時ごろ、珍しく早起きしてちょっと散歩しようと思って出かけたんです。東京って広いようで狭いですよ、歩くと。いつの間にか品川駅に着いてて、ポケットを見たら珍しく1万円近くお金が入ってたの。ちょっと電車に乗ろうと思って、駅一区間の160円の切符買って、電車に乗ってたら翌日の夕方か2日後に、自分が生まれた神戸の六甲山口の山の下の家の前に立ってたんですよ。酔っ払った頭で行ったみたい。「あ~これ僕が生まれた家だ。4歳までこの家にいたんだ」と思って。家を見て、またフラフラと帰って……。しばらくしたら地震があって屋根に穴が開いたんです。偶然だと思いますよ。奇跡とか。誰かが呼んだとか思ってませんけど……。潮田さんはそれでも怒らないんですよ。私がブラブラ遊びに行っても、夜何時に帰っても、3~4日家を空けても怒らないんですよ。そんなやさしい家だと帰りたくなるでしょ。「お父さん何してたのよ」とか、「遅いじゃない」とか、「心配したのよ」とかガンガン言われるとうるさいなあと思うじゃないですか。物わかりのいいじいちゃんになりたいから、そういう自分にさせてくれる家はいいですよ。居心地がよいんですよ。多分潮田さんのお陰だと思います。お母さんがそういうふうにおおらかだと家族は和みますよね。「一旗あげよう」とどこでつながるかな。

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ここで、島尾さんの写真集の一部を
ご覧いただきましょう。

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これは去年の6月に東京から奄美大島まで12日か13日かけて行ったときのものです。菱形に見える変な階段は東京大学の建物の一部分で私が5~6歳のときに母が病気で東大病院に通っていたときの思い出の場所です。

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こっちは東京の中央線の、飯田橋かどこかのホームです。終戦直後のホームの形がそのまま残っていますので撮りました。この本は、飲み屋で飲んでいて「島尾さん、何かおもしろい企画しましょうよ。ふたりで酒飲みながら旅行できたらいいですね」って言って、「じゃあ“母を訪ねて3千里”で行こうぜ」ということになり、東京から鹿児島までを各駅停車、鹿児島から奄美大島を船に乗って行くという旅行計画を立てました。11,000円で東京から鹿児島まで11日間各駅停車乗り放題って切符があったんです。その切符を買って、旅行しながら写真を撮っていきました。

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これは父と母が住んでいた茅ヶ崎という所の海岸です。途中下車してこの海岸を見に行って、父と母が住んでた家を見てその隣の駅の平塚で一泊したのかな。茅ヶ崎でお酒飲んでヘロヘロになって……。

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次は茅ヶ崎の町の中と、このボロボロの屋根みたいなのは当時すごいお金持ちだったパチンコ屋の人の自宅です。パチンコ屋が潰れたようで廃墟になっていました。その隣が教会です。私の父はカトリックに帰依して、本気かどうかわからないけど、教会に行ってひとりでお祈りしていました。家が嫌で飛び出して気持ちを静めていたのかもしれないですね。

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これは修善寺に行く電車の中から線路を撮ったものです。三国の駅でボーッとしていたら古い形のまま電車が走っていたので、昔よく学生のとき、「修善寺の電車に乗ってみたいな」と思ってたのを思い出して、ちょっと路線をはずれてこの電車に乗って修善寺に行きました。6月末でシーズンオフだったらしく、修善寺で降りたらどこの宿も閉まっていました。「土居というところまで行くとやっているはずだ」って言うんで、バスに乗って土居に行って立派な旅館に交渉して15,000円で泊めてもらうことにしました。そこで飲んで、騒いでお金がほとんどなくなりました。

(画像)
神戸に着いたら夕方で、六甲山に行ったらケーブルカーが動いていて、乗ったら……。その次のページに写っていると思いますが、人がいなくてね。ガラガラのケーブルカーにひとりで乗って上に登ってみたのはいいけれど何にもなくて「神戸の夜景は1万ドルやおまへんで」みたいなことを運転手さんは言ってるし……。
(中略)
(お金がなくなって)鹿児島で、しょうがないから親戚の家に電話をして行ったんです。そしたら家の様子が変なんです。おばさんと娘さんが出て来て「よく来たね。お父さんの命日覚えてくれてたんだね」って言うんですよ。1年前のその日に死んでたんですね、おじが。偶然とも言えなくてね「お葬式には来れなくて……」なんて言って、部屋に通され……。「他の人は誰もこないのよ」「遠いからね」「市内にいっぱいいるのよ」なんて話ながら、ごちそうになって感激されて、あっちこっち案内されたりしました。
鹿児島に3日くらい滞在したんですけど、指宿に行ってブラブラ歩いていたら畑からおばさんが声を掛けてきて「先生の息子さんじゃないですか?」「はい、そうです」「うちのお風呂に入って行きなさい」って、殿様湯って温泉に連れて行かれて、入って、ごちそうになったりしていました。

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編集の人は、「こんないい加減なオヤジがこんないい思いをしているってどういうことだ。自分は一所懸命働いているのに靴が破れたり、服が破れたり、叱られたり、予定がくるって混乱しているのに、何だ、コイツは!」と思ったみたい。船に乗って奄美大島に着くころにはそいつもお金がないですから、電話して上司に来てもらうことにしたんですね。彼の上司は奥さんなんです。で、私も潮田さんにこの状態で旅が続くと永遠になってしまうので、奄美大島に迎えに来てもらうようお願いしてふたりがたどり着いたときには、奥さんがあたたかく迎えてくれるという……。で、帰りは飛行機で楽しく帰って来ました。
それを本にしたんです。「これでいいのかな」と思われるかもしれませんが、帰りに覗いてみてください。素晴らしい名前なんですよ。『東京奄美大島損なわれた時を求めて』と言います。フランスの何か「失われた時を求めて」をパクッただけなんです。
旗があがったかどうかわかりません。まあそんなもんですね。でも、私はイヤイヤやっているわけじゃないんです。適当と言えばそうかもしれないですけど。言い放題で逃げるのはまずいので、第2部で質問してください。なるべくウソの少ない内容にします。

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<第2部>

お客さまとのQ&A

お客さま:
自分が思っている自分と他人に思われている自分のギャップはありますか。もし過大評価されているとしたらラッキーですが、酷評されたときはどう立ち直りますか。

島尾さん:
過大評価はうれしいですけど、同じことをまたやんなくちゃいけなくなるプレッシャーを感じます。その誉められた自分に自分を近づけようとしてしまう。だから過大評価も酷評も同じくらいつらいもの。なので人が言っていることはとり合えず聞き流します。例えば「島尾さん、今日の話めっちゃよかったですよ」「あっそう」って。「なんやねん、さっきの話」と言われても「あっそう」ですね。そうしないと違う自分になっちゃって、自分が保てませんから。というのが私流です。

お客さま:
写真家として、写真を撮るときのこだわりがありましたら、教えてください。また、潮田さんから見た島尾さんの魅力を、聞かせていただけると、なお島尾さんのことが理解できるかなと思います。

島尾さん:
まず、写真のこと。こどもの写真を撮っているんですが、そのときに気をつけているのは、あまりかわいらしくないように普通に撮ろうということです。かわいらしい顔だけ撮るのは避けました。実際、かわいいからね(笑)。それとはやりのものは画面の中に入れないようにしました。はやりのものを入れると時代が見えてしまうので普遍性がなくなっちゃう。キャラクターが写っていたり、流行の洋服とか写ってたりすると、その時代にこどもだった人は感情移入できるけど、そうじゃない人は感情移入できません。だから、時代を感じさせるものは取り込まないようにしました。気がついたら画面からカメラを動かして違う方向を向くようにしました。
私の人柄についてですけど、ものすごくかっこよくいえば、私はベン・シャーンのような写真の撮り方、潮田さんはウォーカー・エバンズのような写真の撮り方です。私が家康だったらあの人は信長でしょうね。本人に聞いてもらいましょうか。

潮田さん:
私から見た島尾は、なかなか複雑な人で超がつくくらいウルトラわがままな人です。けれど、何かツボを心得てるんですね。わがままで自分勝手なところがあるんですけど、やさしさも人一倍ありますし、何よりおもしろいですね。しょっちゅう頭に来ることがたくさんありますけど、でも話としておもしろかったりしますので、まあまあ…… という感じで聞いています。私自身が懐を深くするというか窓口を広くしている方がいろいろなことがわかって、おもしろい人生が送れるんじゃないかなと思っています。人生いろいろなことがあります。いいことも悪いことも含めての一生ですから、そういうのはたくさんあった方がおもしろいんじゃないかなと思うようになりました。と言うか、そういうふうにうまく仕向けられたんじゃないかなと最近は思うようになりました。それは多分、島尾の教育のお陰だと思うし、私がそれを学習したんだと思います。

フェリシモ:
潮田さんは、島尾さんのどこがいちばん好きですか?

潮田さん:
日本の男の人には珍しく誉めてくれるんです。その誉めることはちゃんと策略に入ってますから。私の方は話半分と思って、押さえて聞いておりますけど、わりにそういうのを照れずにちゃんと言ってくれます。ご飯がおいしければ、「これ、おいしいよ」と言うし、「この洋服は似合う」とか、ちゃんと言ってくれるし、行動で示してくれますので、そういうところはとてもいいと思います。

フェリシモ:
島尾さんは、潮田さんのどこがいちばん好きですか?

島尾さん:
一緒になってしばらく15年くらいで2、3回潮田さんが私に「私のどこが好き」って聞いたことがあるんです。そのたびに私は「おしり」って答えていました。潮田さんは傷ついてました。私は人を好きになるってことがわかんなかったんです。潮田さんと一緒になって、少しずつ学んだというか、わかったというか、だからだんだん好きになったんです。年月とともに人格というかそういうのが好きになってきたんですよ。ある人が「古女房は戦友だよ」って言ってましたけど、何かそんな感じ。親友って感じ。信頼できるんですよ。若いときに盛り上がって大好きって言うのもしあわせかもしれないけれど、ゆっくりだけどだんだん相手がわかるっていうのもいいのかもしれないですね。

フェリシモ:
最後に神戸学校事務局からの質問です。以前私が読ませていただいた本に島尾さんが潮田さんと出会われる前に自分を見失っていたというような内容のことが書かれていたのですが、そのように自分を見つけたくて悩んでいる人のために島尾さんからメッセージをお願いします。

島尾さん:
嫌な人とは早く別れた方がいいです。嫌な人とは付き合いを遠のけて、嫌なことからは少し距離を持つようにした方がいいですね。親兄弟、親子の関係でも相性っていうのもありますし、似た者同士でけんかすると根が深くなるのでそういうのは避けた方がいいですし、会社の中でも嫌な上司がいたらなるべくお世辞を言わないで距離を置くように。好きなものっていうのは何が好きかわかんないとか、どうやって遊んでいいかわかんないとかあると思うんですが、私たちは何をやっても自由なんですよ。どうやって生きようかと悩むよりも今日何ができるか、明日何ができるかっていうふうに考えるのもいいんじゃないですかね。そうじゃなくてジャンプしてすごいことやる人もいますからね。それがよい場合もあるし人によりけりですよ。とりあえず自由の国にいるんだからもったいないですよね。しがらみとか嫌な所にいて自分じゃない自分になっているというのはもったいない気がします。

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Profile

島尾 伸三(しまお しんぞう)さん<写真家>

島尾 伸三(しまお しんぞう)さん
<写真家>
*プロフィールは、ご講演当時のものです。
1948年生まれ。奄美大島で育つ。1974年東京造形大学造形学部 写真学科卒業。1978年潮田 登久子と結婚。ともに中国、香港の庶民生活のリポートを始めて今日にいたる。著書に『香港市民生活見聞』(新潮社1984年)『絵本中華食三昧』(旺文社1986年)『季節風』『生活』(みすず書房1995年)『月の家族』(晶文社1997年)『星の棲む島』(岩波書店1998年)『ひかりの引き出し』(青土社1999年)『ケンムンの島』(角川書店2000年)『雲を呑む龍を食す』(NTT出版2000年)『まほちゃん』(河出書房新社2001年)共著『中国庶民生活図引(全3巻)』(弘文堂2001年)最新の作品にかつて少年時代を過ごした奄美への各駅停車の旅を綴ったロード・エッセイ『東京~奄美損なわれた時を求めて』(河出書房新社2004年)がある。

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