神戸学校

神戸学校はフェリシモが主催する「神戸発 生活デザイン学校」です。

  • 上大岡 トメさん(イラストレーター)
  • 上大岡 トメさん(イラストレーター)

プロフィールを読む

現在表示しているページ
フェリシモ
> 神戸学校
> 上大岡 トメさん(イラストレーター)レポート

「毎日新しい私になるために」



<第1部>

漫画を読みふけった小学生時代
少女漫画家にあこがれた中高時代を過ごして……

“Switch=Timing”。今日のテーマは「スイッチ」。「スイッチ」についてお話していきます。私は1965年に生まれて、今年39歳。39年間振り返ってみて、カチッとスイッチが入った瞬間っていうのは、あんまりないんですね。調光器をちょっとずつ回して、明るくなっていったなっていう感じがいま思うとしています。
小学校時代はひたすら漫画を読む漫画少女で、そのころから絵を描いていました。いまだったら紙ってたくさんありますが、当時は紙が貴重だったんです。父が会社からもらってくるいらない書類に、母が穴を開けてくれて、黒い紐で縛ってくれて、その裏に絵を描く……、そんな少女時代を過ごしました。中学のときにアニメーションブームが来ました。ちょうど『ガンダム』が登場したのが中学のとき。『ガンダム』のほかに『銀河鉄道999とか『宇宙戦艦ヤマト』『キャプテンハーロック』など、松本 零士さんのアニメもありました。高校のときには、真剣に漫画家になろうと思っていました。なんとか高校の3年間で投稿してデビューしたいなって……。というのも漫画家は、みんなデビューが早いんですね。がんばろうと思っていたけど、高校では吹奏楽部や、文化祭、体育祭に夢中で、結局漫画は1本しか描かなかったんです。そんな感じで、中学、高校時代を終えていきました。

ページのトップへ

人生のターニングポイントには
人との出会いがありました。

(ボードを指して)ここに“Switch=Timing”って書いたんですけど、私の場合、いままでの人生を振り返ってみてターニングポイントが何ヵ所かあります。“T・O・U・S”ここがターニングポイント。私のターニングポイントは、人との出会い。それで、いまの私がいるという感じです。そのことについて、お話しようと思います。

PHOTO

漫画家になれないまま高校時代を終え、大学に進みます。大学は工学部建築学科を選びました。高校の3年間で漫画家になれなかったので、大学の4年間に私はかけました。「この4年の間にデビューしよう」って。でも、建築学科ってものすごく忙しくて、課題をこなすのに精一杯でアルバイトもできないくらいでした。結局、それを理由に4年間で1本しか描かなかったんですよ。それじゃあ漫画家になれないですよね。高校時代、大学時代を通して、漫画家になりたいという夢はあるけれど、どんどん先延ばしにしていくという嫌な人生のスタートでした。
結局、漫画家になれずに卒業。卒業後には、ふたつの選択肢がありました。ひとつは設計事務所に行く、もうひとつは建設会社に行くという……。私が建築学生のときにあこがれたのが、安藤 忠雄さん、丹下 健三さんら一線で働く建築家さん。そういう人たちと一緒に仕事をしたいと思ったら設計事務所に入るのがいちばんいいんですね。そこで自分の実力を磨いていくということなんです。でも、設計事務所っていうのはとにかく忙しいし、プライベートな時間はないし、実力を試される場所。それに比べて建設会社は、仕事が9時~5時だったり、ちょっと緩め。現場から離れているから仕事的には物足りない感じなんですね。私は、本当は現場近くで働きたいという気持ちがあったのだけれど、ものすごく忙しいというのと自分の実力を試されるということに、腰が引けちゃったんです。で、結局、建設会社を選ぶんです。
ここでも、ちょっと人生の嫌ーな流れができていたんですね。やりたいことがあるのに、いろんな理由をつけて違う方に行って、結局文句を言っていたんです。自分で選んだ会社なのに、自分の思い通りにいかないと周りのせいにして……。20代前半は、そんな感じ。
私がイラストの仕事を始めたのはちょうどそのころ、建設会社に入って1年ぐらいのときでした。漫画家というのは大変なんです。ストーリーを考えて、1本描いていくというのはすごく時間が掛かるんです。でも絵を描きたい、一生続けられる仕事がしたいという気持ちが、私の中にあったんですね。「イラストなら、ちょこちょこっと描いて、漫画家より楽だよね~」なんてことを思ったんですよ。いま思えばとんでもなかったです(苦笑)。でも、その軽い気持ちのおかげで、いまの自分があるからそれも良かったかなって思います。

ページのトップへ

会社の先輩“T”さんに言われた言葉
「目の前のことに手を抜いてたら
チャンスが来たときに、100%の力が出ないよ」

当時、建設会社に勤めながら、大好きなアイスホッケーの試合を見に行っては選手の似顔絵を描いていました。それを「こんな絵を描いているんですけど、雑誌に使ってくれないですか?」って雑誌社に売り込みに行ったんですね。1年ぐらい待って、お仕事をいただけたんです。忘れもしない、いちばん最初にイラストレーターとしてもらったお仕事でした。読者のイラスト投稿コーナーの扉の絵、いまから15年前のことでした。でも、マイナー雑誌だったし、1カットだけの仕事だったので、全然先が見えないんですよ。そして、建設会社の仕事も中途半端な感じだったので、ふてくされたんですね。何をやっても思い通りになんないっていう……。そんなときに “T”さんに言われた言葉があります。1989年24歳のときでした。その先輩がある日、私に「目の前のことに手を抜いてやってたらチャンスが来たときに、100%の力が出ないよ。目の前にあることを一所懸命やってたら見てる人は見てるから、絶対チャンスをつかめるよ」って言ってくれたんですよね。「確かにそうだな」と思ったんですよね。それで、とりあえず目の前にあることを一所懸命やろうって思いました。

PHOTO

そしたらね、ちょっと変わったんです。1ヵ月に1カットしかなかったイラストの仕事もがんばって、さらにいろいろな情報、ネタを入れたりしました。また、自分から売り込んでいったり、提案もどんどんしていったんですね。そしたら「今月から見開き2ページ、好きなように使っていいよ」って言われたんですよ。すごいラッキーでした。「自分で企画して、自分で取材して描くという、いちばんやりたかったスタイルだったんです。それで毎月、アイスホッケーの試合に行って、こんな観客がいたとか、ちょっと裏ネタをマンガと文章にしていきました。いまのスタイルの基本をつくれるようになっていったんですね。

ページのトップへ

フォトグラファーの“U”さんの言葉
「海外旅行に行くには、飛行機に乗ればいいんだよ」

連載を持って、どんどんイラストの仕事がおもしろくなってきて、ただ絵を描くだけじゃなく、自分で企画して描いていきたいという気持ちが大きくなっていきました。建設会社を4年ぐらい勤めたとき、そのときは一級建築士の資格を取って結婚もしていたんですが、やっぱりフリーのイラストレーターになろうと思ったんです。建設会社もバブルのころだったので、給料は良かったんですよ。生温いお湯に浸かって、我慢していればわりとお金はもらえるから、生活的に悪くないんですね。でも、気持ちの中ではやっぱりイラストを真剣にやりたいっていうのがあって、ものすごく揺れていたんです。安定した収入も欲しいけど、でもイラストも描きたい。どうしよう、どうしようみたいなときに、フリーフォトグラファーのUさんが私に言ったんですよ。「トメさん、海外旅行に行くにはどうすればいいと思う?」って。「えー何だろ?」って言ったら、「飛行機に乗ればいいんだよ」って言ったんですよ。そりゃそうですよね。飛行機に乗ったら行けるんですよ。でもね、飛行機に乗らなかったら行けないんですね。空港に行ってもウロウロしてるだけだと、いつまでたっても海外に行けないんですよ。それがそのときの私。ウロウロ、ウロウロばかりしてる。飛行機に乗ろうとしないから次の所に行けない。それを聞いて、「不安だけど会社辞めよう」って決めました。

PHOTO

そして、なんと辞める3ヵ月の間に妊娠が発覚。そこで、私の計画は大きく狂うんです。フリーになってがんばってやっていくつもりが、いきなり妊娠。妊婦が営業に行ってもあんまり仕事がないんですよ。編集部だって、初めて来た人が妊婦だったら、仕事を頼んだときに産気づかないか? みたいな…… 気持ちになるでしょ。妊娠して会社を辞めて、営業に行きながらも全然仕事はなく開店休業のまま。不安でした。「私はこれで終わるんだろうか?」って。そんな状況で、ひとり目を産み、そのあと……。

ページのトップへ

メジャーデビューのきっかけは
たまたまイラストレーターを探していた
後輩のだんなさま“O”さんとの出会い

1993年にOさんとの縁があります。建設会社の後輩です。その後輩のだんなさまが雑誌の編集者だったんです。『たまごクラブ』『ひよこクラブ』という雑誌の創刊のときで、Oさんのだんなさまが、イラストと文章を融合したものを描けるイラストレーターがいないかって探されてたんですね。それで、Oさんが私を紹介してくれたんです。そうしたら即決! 『たまごクラブ』は妊婦が読む雑誌で、自分も妊婦だったし、出産の経験もあるからネタは家の中にいくらでもあるんですよ。ほんとにラッキー。取材に行かなくても家で取材すればOK! みたいな感じでした。それがメジャーデビュー。それを見た他誌の編集者からも声が掛かるようになり、ようやくイラストレーターとして軌道に乗りました。その後、赤ちゃんのいるお母さんが読む『ひよこクラブ』、1歳ぐらいになるこどもがいるお母さんのための『たまひよこっこクラブ』のお手伝いをさせていただくようになり、合計で6~7年連載させていただきました。

ページのトップへ

自分を嫌いになりかけていた30代前半
落ち込んで、落ち込んで……。そして半年後
「このまま終わってなるものか」と起死回生!

そこまでは、イラストレーターとして軌道に乗っていた感じ。連載もたくさん持っていたし、コンスタントに仕事も来ていました。ところが、転機が来ました。夫の転勤です。最初の転勤は大阪府堺市。そのあと、いま住んでいる山口県宇部市へ行くわけですよ。最初のころは、続いていた連載もあったんですね。でも、山口に転勤になったため、大きな連載がひとつなくなっちゃったんです。ほんとに悔しくてねー。でも、夫について行くって決めたのは自分。夫に文句も言いたくないし。当時の私の立場からいうと、東京を離れることは、プラスではないんですよね。こどももまだちっちゃいし、フットワークも悪く、自分で企画を立てて取材に行って、漫画を描くっていう仕事が全然なくなってしまって……。「私、このまま終わってしまうの?」と不安な気持ちでした。

PHOTO

そんなときに、追い打ちをかけるように、ある友だちに「あんたってデリカシーないよね。すごい傍若無人だよね」って言われるんですよ。私はその友だちを、すごく大事にしてたから、ものすごい気を遣って、大切に接してきたつもりだったけど、その友だちはまったく逆に感じてたんですね。自分が知らないうちに友だちを傷つけていた……。すごくショックでした。それが33歳ぐらいのときのことでした。
1999年です。もともと、クヨクヨしない方なんですけど、その友だちの言葉は本当に響きました。それで、私は、人に会うのが怖くなってしまうんです。また知らぬ間に誰かを傷つけちゃうんじゃないかなぁーと思って、軽い引きこもりになりました。一応仕事もしていたけれど、かなり生気のない絵を描いていたと思います。とにかく、大切な友だちを傷つけてしまった自分が大嫌いになっちゃったんです。もうどんどん落ち込んでいきました。
でも、半年ぐらいたったとき、ちょっと元気になってきました。ふと「このまま終わってなるものか」って思ったんです。というのも、その半年間が本当につまんなかったんですよ。人にも会えないし、自分の顔を鏡で見るのも嫌だし、こどもたちもつらかったと思います。そのとき「自分のことが嫌いだったら、好きになるように自分を変えればいいじゃん」と思ったんですよ。同時に気がついたのは周りは絶対変わらないってこと。引っ越すわけにもいかないし、人間関係を変えるわけにもいかないし、家族構成を変えるわけにもいかないから、自分を変えるしかないと思ったんですよ。

PHOTO

それで、何をしたかっていうと、本屋さんに行って、自己啓発本や成功哲学の本を片っ端から読みました。松下 幸之助さん、船井 幸雄さん、本田 宗一郎さんとか、マーフィーとか、いろいろ。もともとイラストレーターとして、ただ絵を描いているだけじゃダメだというのはわかっていたんです。例えば、自分の絵を持ち込みに行くとき、どういうタイミングで、どういう雑誌に、どういう企画を持って行かなきゃいけないかっていう戦略を練らないといけないと思っていました。だからそういうビジネス書を読み、成功哲学セミナーにも行ったりしました。
セミナーって、行くと確かに変われそうな気がするんですよ。「昨日までの私とは違うのよ」みたいに、そのときは思うんです。でも家に帰ると、いつもの毎日が待っている。こどもが「母ちゃん腹減った」とか、「母ちゃん汚しちゃった」とか、編集者さんに「締め切り過ぎてますよ」って言われちゃったり……。そうすると、また日常に流されていくんですよね。セミナーに行ったときは「変われそう」、でも家に帰ると「変われない」。本読むと「変われそう」、でも日常生活になると「変われない」。もうジェットコースターでした(上がったり下がったりの手振りをしながら)。いけるいける、ダメダメ、いけるいける、ダメダメ、みたいな……。このダメダメになったときに、また自分を責めるんですね。「私はダメなのよ、変われないのよ」って。で、また嫌いになっちゃいそうになるんですけれど、「がんばれ」って励まして……。こんな日々を続けているうちに、ひとつの言葉に出会ったんです。

ページのトップへ

イチロー選手も言っていました!
「大きい変化は、小さい変化から」

それが「大きい変化は、小さい変化から」という言葉。これはイチロー選手も、去年記者会見のときに言ってたんです。「“大きい変化は、小さい変化から”。劇的な変化を求めるんだったら、毎日小さいことをコツコツやるしかないんだ」って。その会見を見たとき、テレビの前でガッツポーズしましたよ。「そうだよね、私も思うよ!」って。この言葉を聞いたとき、劇的にガラッと変われることを望むのは、大変なことなんだと気づきました。ハードルが高いなって。何年も運動していないのに、いきなり1m80cmのハードルを越えようとすると、怪我しちゃいますよね。だから、まずはハードルを下げて、それを越えられたら、だんだん高くしていけばいいって思ったんですよ。その言葉が「日常から自分を変えよう」と思ったきっかけでした。そして、まずは、昨日と違うことをしようと思いました。そんな大それたことをしなくてもいい、昨日と違う何か、「昨日まで右から靴を履いていたのに、今日からは左から履こう」とか「右手で持っていた箸を、左手で持とう」とか、その程度。ほんとにちっちゃいことだったんですけど、やっていくと「あれ? 何か気分がいいじゃん」と思うことが出てきたんです。

ページのトップへ

『キッパリ!』の編集担当“H”さんは
なんとなく“ピン”ときた私のキーパーソン

そして、いまから4年前。Hさんと出会います。Hさんは幻冬舎の編集担当なんですよ。当時、彼は違う出版社にいました。しかも、その出版社をあと1週間でたたんで自分はフリーになって会社を興そうという状況のころに出会いました。私は『キッパリ!』(幻冬舎発行)の元となる企画書を持って、彼がいる出版社に行きました。
Hさんには、私が東京に行って営業する7日間のうちの最初の日に会おうと思ったんです。なぜかというと、最初に会っておいたら、もし企画がよかったら営業期間の後半でもう1回会えるかなって……。何かそのとき、ピンときたんですよ。それで、Hさんに最初の日に会いました。そしたら、帰る前の日にHさんから電話がかかってきたんです。「友だちが新しい雑誌をつくるので、そこで連載させてあげます。もう一度会えますか?」って。そして新雑誌での連載が決まり、他にも営業したウェブサイトの連載やもう1冊、別の雑誌の連載が決まりました。

PHOTO

で、その三つで展開することになりました。Hさんとはそれ以来、年賀状をやりとりするぐらいで、全然連絡はしていなかったんです。そして、2年前にHさんが「幻冬舎に入りました」と連絡をくださったときに、「もう1回行ってみよう」と思いました。貯まったネタをHさんに見せたら、2ヵ月後に電話がかかってきて、「本にします」って言われたんです。当時、出版業界は冷えこんでたので、本の企画はなかなか通らないんですね。当時、私は無名だったし、自己改革の企画をやりながらも、自分は変わったっていう感覚もなかったし……。だから、Hさんから「本にしますよ」って言われたときは「ウソやろー」って。でも、それから1年後、本になったんですね。
『キッパリ!』が出版され1年がたちますが、出版に至るまでは山あり谷あり、いろいろなことがありました。7月28日の発売日の前日にHさんから来たメールは、一生忘れないと思います。「トメさん、いよいよ明日発売ですね。売れるかどうかすごい心配です」って。
(会場:笑)
それを見てね、ガーンってなったんですけど、その返信に「私も手売りでがんばります」みたいなことを書いたんですね。でも、発売3日で増刷がかかりました。信じられないくらい、それこそ飛ぶように売れました。1年たったいまでも増刷がかかっているという、ほんとに考えられない状況になったんですね。
たった1年なんですけど、この1年ほんとにいろいろなことがありました。自分は全然変わんないのに、周りが激変したんですね。いままで仕事は拾ってでもやろうとしていたのに……。仕事の依頼がすごいんですよ。初めて仕事を断りました。仕事を断ったときは、もうこれで仕事がなくなっちゃうんじゃないかと思うくらいの勇気を使いました。

ページのトップへ

『キッパリ!』ができあがって
いままで、落ち込んだり悩んだことがムダじゃなかった
と、自分を肯定できました。

『キッパリ!』を書きながらも、「変わりたい」と思ってる自分がいたんだけど、「ほんとに変われるのかな?」って、ずっと迷ってたんですね。「著者がこんなに迷って書いてる本を、読者は果たして読んでくれるんだろうか?」って。でも途中で「この本が売れなくても、私がこの1冊を書いて変われたらみっけもんだよね」って考えが変わりました。「本が形になっちゃえば、またそれを持って営業に行けばいいじゃん」って、すごく楽になったんですよ。『キッパリ!』が売れるっていうのは予想だにしなかったうれしいことでした。
実は『キッパリ!』を書いていた最後の2ヵ月ぐらいの記憶がないんです。家で書いてたんで、こどもたちも夫もいたんですけど、「あの人たちは何を食べて生きてたんだろう?」って(笑)。私は、ずっとパソコンの前で原稿書いたり絵を描いたりしていて、空が薄暗くなってくると、それが朝なのか夕方なのかわかんないぐらいだったんです。そういう時間を過ごすことで、「人間っていうのは可能性があって、火事場の馬鹿力あるんだな」って思ったんです。『キッパリ!』を書くことによって、そのことに気がつけてよかったなと。とにかく、それが財産だと思いました。

PHOTO

20代のころ、人生雲行きが怪しくなるような生き方をして、途中で地方に移り、「ほんとにこの道でいいんだろうか?」って、ずっと迷って「こんなことやっててムダじゃないのかな」って思ったこともたくさんあったんですね。いま思うと、そういうムダだと思ったことは、ムダになってなかったんですね。いまここにいるために、すべて必要なことだったんですよ。転勤で東京を離れたことも、友だちの言葉で落ち込んじゃったっていうのも、全部いまの私に必要だって思えるようになったんですね。
なぜそう思えたかというと、“目標を持つことの大切さ”でした。「自分の作品を本という形にして出したい。とにかくそれまでがんばろう」っていう目標があったんですね。ひとつの到達点まであきらめずにきたことが、全部自分の血となり肉となったんだなぁって思いました。

ページのトップへ

自分の枠を決めつけず、可能性を信じてみましょう
尾ビレのないイルカ・フジのように

最後に可能性ということについて、イルカのフジの話をしたいと思います。沖縄の美ら海水族館にフジというイルカがいます。そのフジが尾ビレが腐ってしまう病気になってしまいました。それで、命が危ないということで尾ビレを切断するんです。イルカのいちばん大事な尾ビレです。尾ビレがないと、ドルフィンキックできなくなっちゃうんですよ。で、尾ビレを切断したフジは、毎日毎日水槽を漂ったまま、全然動かなくなって、ごはんもだんだん食べれなくなっちゃって、衰弱して……。それを見た飼育員さんたちは、「フジをもう1回なんとか元気に泳がせてあげたい」って思い、フジの義尾をつくろうということになります。飼育員さんが、タイヤメーカー・ブリジストンに行ってお願いするんです。ブリジストンさんは、最初「イルカのヒレなんてつくったことがないから、絶対無理」って思ったんですって。でもね、飼育員さんと話しているうちに、飼育員さんがフジのことを「もう1回この子を泳がせてあげたい」と言っていた、その“この子”っていう言葉にすごく心を打たれて、やってみようってことになったんですって。尾ビレは、タイヤの原料のゴムでつくるんですが、イルカって体に自分のものじゃない異物がつくと、デリケートに反応しちゃってダメなんです。だから、ひもをつけたりちっちゃいものをつけて、徐々に訓練していくんですね。で、最後に義尾をつけるんですけれど、1回目はフジの尾ビレの付け根を傷つけちゃってうまくいかないんですね。

PHOTO

それで、立体アーティストの方にお願いして、フジの尾ビレとの接続の部分を手で触って再現するんです。それが2回目。でも、それもうまくいかなくて……。でも、なんとフジは、義尾がなくても、泳げるようになったんです! 尾っぽをつけても泳げるようになるし、尾っぽがなくてもジャンプできるようになっちゃうんですよ。すごいでしょ。なくてもできちゃったんですよ。人間たちが、自分をなんとかもう一度泳がせてくれようとしているっていう気持ちがフジに伝わったんだと思います。
みんな、自分で枠を決めちゃってるんだと思います。スイッチを入れたり、入る瞬間ってのがわかるかどうかっていうのは、人それぞれだと思うんですね。私の周りでスイッチを入れて、ガラッっと変わった人もいるんですね。ただ、スイッチを入れるのは自分なんです。ですから、もし、自分の中に何かスイッチがあるんだったら、今日を境に、パチッと押してもいいですし、私のように調光器をぐりぐりっと回してみてください。今日のお話が、そのきっかけになればいいなと思います。

ページのトップへ

<第2部>

お客さまとのQ&A

お客さま:
今日は自分の意識の持ち方で、夢にも近づけたりするってわかったんですけど、自分の意識だけじゃなくて、夢の実現のためには他人の協力がどうしても必要なときってあると思います。トメさんはいままで、どういうふうに自分の味方にしてこられましたか。

トメさん:
私の場合は家族がいるので、家族の協力っていうのは不可欠なんですよね。家族には、本気という姿勢をみせました。とにかく、最初はそれですね。本気なんだ「オーラ」、「モード」をガンガン出して、あとは「協力して」って言いました。それ以外には、直接言いました。「こういうことをしたいんだけれども手伝ってくれないだろうか」って。そこで、「うーん、ちょっとね」と言われちゃっても、「じゃあ私、がんばるから見てて」と言ってがんばっていると、最初は手を貸してくれなかった友だちが「この人本気なんだ」と思ってだんだん手を貸してくれるようになるんですよ。だからやっぱり最初は、自分が本気でやりたいっていう姿勢を見せることだと思います。

お客さま:
トメさんにすごく影響を与えた人を挙げていただきましたが、その中にご主人は入ってないのでしょうか?
(会場:笑)

トメさん:
あー、いいとこつきましたね。一応ここに挙げたのは、私の仕事上でのターニングポイントを与えてくれた人なんです。夫はものすごく生活を支えてくれていました。おっしゃるとおり、代表してここでは何人かを言いましたけど、それ以上にものすごいたくさんの人との出会いがあって、たくさんの影響を受けてますよね。気づかせてくださってありがとうございます。

お客さま:
だんなさまとどのように出会われたのですか?

トメさん:
自分の作品で、夫のことをあまり書かないんですよねー。なので、私を母子家庭だと思っている人が、ものすごい多いんですけど(笑)。夫はひとりいるんですよ。どこで知り合ったかというと、大学なんですね。大学の同級生ですねー、よくあるパターンです。

お客さま:
いまはトメさんが『キッパリ!』で書かれていらっしゃることが自然な形で受け入れられるようになっています。日々、周囲への感謝を忘れず小さなラッキーに気づける人でありたい。でも、ときどき自己中心的な自分が顔を出します。トメさんもそういうことありますか? どんな自分をも受け入れられる人になるためのきっかけやヒント、スイッチの入れ方のご提案をお願いします。

PHOTO

トメさん:
まさしく昨日の夜の私がそうでした。というのは、今週からこどもたちを横浜に送っていて、夫とふたりだったんです。私は、昨日中に全部原稿を書き上げなきゃならなかったんで、今週ものすごくピリピリしてたんですね。で、昨日はラストの日だったんで、買い物に行く時間もなく、もうそのへんにあるものを食べて仕事をしてたんです。そのへんにあるものを食べてるときって、気分も落ちていくんですね。で、髪をふりみだしてずっと原稿を書いてたんですよ。昨夜は夫が、後輩と近所のお寿司屋さんに飲みに行く約束をしてたんですね。結構それにもカチンときてて「私はこんなに髪ふりみだして働いてるのにいいなぁー」って。で、夜11時ぐらいに夫が帰ってきて、「これ~、後輩からの差し入れ」って、お寿司を持ってきてくれたんですよ。でも、イライラ、カリカリしてたので、「そんなのいらない!」みたいな……。「もう今日は朝から忙しくて何も食べれないんだから」みたいなことで受け取りもせずに、机に置いといたんですよ。でもさすがに「せっかくもらったのにあの言い方はないよなぁー」って思って、台所でムシャムシャ食べて。で、後輩にお礼メールしたんですけど……。
精神が極限状態になったときは、ものすごい自分中心になっちゃうし、人にも嫌なことをしちゃうんです。でもね、気がつけばいいと思うんですね。聖人君子みたいな人には絶対なれないから、気がついたらフォローしようよってことなんですよね。自分が悪かったら「そんなことしちゃってごめんなさい」とか、「ちょっと締め切り前でカリカリしちゃっててごめんね」みたいなことを言えばいいと思うんですよね。いちばんつらいのは、自分を責めちゃうことなんですよね。気がついたらその時点で謝る。だんだん気がついていけば、自己中心になる回数っていうのも減っていくと思うんですよね。と、私はそう希望を持って生きています。

お客さま:
50歳で筋無力症という難病になりました。先日左股関節置換術という手術を終え、今日退院いたしました。55歳で、身体障害者4級になってしまったのですが、このような状況で上大岡さんなら、これからどのように生きていこうと思いますか?

トメさん:
私は実は病気の経験がないんですね。ですから、いまからいうことが軽いものになってしまうんじゃないかなと思うんですけれど……。やっぱり起こってしまったことは、くよくよしても戻らないじゃないですか。必然という言い方をするとものすごく重いし、簡単なことではないと思うんですけれど……。私の場合、何か新しいことをしようとすると絶対と言っていいほど障害が起こるんです。「この打合せは絶対はずせないぞ」というときに限って、こどもが熱を出して行けない状態になるとか、今日どうしても東京に行かなきゃいけないのに、台風が来ちゃうとか……。
それって神さまが試してるとしか思えないんですよね。本気かどうかっていうのを神さまが試してるんだなあと気づいたときからあわてなくなりました。冷静に対処して乗り切れたら、絶対次のいいことが待ってるって信じています。こんな言い方しかできないんですけれど、起きてしまったことは変わるわけではないので、それを自分で受け止めて自分の武器にするにはどうすればいいかなっていう、そういうふうに考えていくしかないんじゃないかなと思います。ごめんなさい、参考になるかどうかわかんないんですけど……。

フェリシモ:
神戸学校事務局からの質問です。人生を旅にたとえたら、トメさんはいまどんな旅をされていますか。また、これからどのような旅にしていきたいですか。

トメさん:
私は、人生はピクニックだと思っています。ピクニックって気軽な感じがするじゃないですか。楽しいし、途中でちょっと急な崖があってもピクニックだとおもしろいと思うし、途中で石に転んで膝小僧を怪我しちゃっても、ピクニックだと思えば楽しい。いろいろあるんだけど、最終的には楽しい。そういうふうに思えたらいいなと思っています。

ページのトップへ

Profile

上大岡 トメ(かみおおおか とめ)さん<イラストレーター>

上大岡 トメ(かみおおおか とめ)さん
<イラストレーター>
*プロフィールは、ご講演当時のものです。
東京生まれの横浜育ち。現在は山口で夫と子供2人と暮らす。「キッパリ!たった5分で自分を変える方法」(幻冬舎刊2004)が社会の反響を呼ぶ。現在メールマガジンShes net「5分で自己改革!」連載中。著書に幻の名著「ほげほげ」(ベネッセ刊1997)。新刊雑誌を中心に絵を描いている。ユニークな名前の由来は初めてのギャラの振込先が、富士銀行'上大岡'支店だったから。'トメ'はその場の勢い。30歳を過ぎてから、何故か体育会系に目覚める。 32歳で突如HIP HOP DANCE の魅力に取りつかれ、34歳で柔道を始める。小学校時代にできなかった逆上がりも、最近克服。

ページのトップへ

その他のゲスト

ページのトップへ