神戸学校

神戸学校はフェリシモが主催する「神戸発 生活デザイン学校」です。

  • 藤 浩志さん(美術家)
  • 藤 浩志さん(美術家)

プロフィールを読む

現在表示しているページ
フェリシモ
> 神戸学校
> 藤 浩志さん(美術家)レポート

「キラリと輝く表現の瞬間―違和感から始まる表現と活動について―」



<第1部>

美しさとは何なんだろう?
模索していた20代前半に出合った
パプアニューギニアの痩せ犬が
藤 浩志の美術に対する思いを変えた

僕は美術やアート、町とアート、もしくはそれが表現するのは何なのかを日常考えて過ごしています。例えば素晴らしいもの、いい町、いい絵、そのいいっていう価値観について、いつも考えいろいろな実験をしています。僕の思ういい物とか、いいという価値観は、誰と見るかっていう相手によっても変わります。つまり、みなさん、いまここで、藤 浩志の話を聞いていますが、誰と聞くかというのは非常に重要なことになってくる。それによって意味が変わってくるんじゃないかと思っています。

(スライド)
まず最初に、痩せ犬について話したいと思います。これは痩せこけた犬です。20年くらい前、僕はいわゆる美術というものに疑問を持ちました。それで、美術大学の先生に「美術っておかしい。権威づけである。美しくないものをなぜ美しいと言わなければいけないのか」と言ってけんかをしたことがあり、一度その世界から離れます。
それで、パプアニューギニアという国に逃げていきます。原始的な生活の、“美術”というカテゴリーがない中で、人間がどういう営みで、物事の形をつくっていくのかと、そういうことに興味を持ち勉強しに行ったんです。その国の田舎には必ず痩せこけた犬がいました。その犬が、その後の僕の人生を変えてしまいました。その犬が、僕にとって美術の美という美しさとは何だということを教えてくれた、そういう存在の痩せ犬の話をしたいと思います。

(スライド)
これが痩せ犬です。ニューギニア人が飼っているわけでもなく、周辺に勝手に住んでいる犬です。病気でハゲハゲだったり、ブツブツできていたり、尻尾や耳がちぎれてたりするんです。だいたい病気を持っているんですね。寄ってくると病気がうつるっていうので石を投げられたり、迫害されて暮らしています。パプアニューギニアは、1920年代まで外国人がひとりも足を踏み入れなかったという非常に特殊な地形の地。そこは、まだ昔からの生活、土器のない、農耕のない、いわゆる狩猟の生活が続いていました。原始的な生活風習がいまだに山の方では残っていたんです。1920年代に飛行機の冒険が始まり、この国に初めて外国人が入ってくる、そういう国です。
僕はパプアニューギニアにある芸術大学デザイン科でグラフィックデザインやイラストレーションを教えるという、青年海外協力隊の仕事で赴任していました。そこへ、たまたま文化人類学者の日本人が来て、彼らの調査している奥地に一緒に入って行ったんです。訪ねて行くと痩せこけた犬がいるんですよ。「なぜこの犬は野生でいるの?」って聞いたら、学者が「地元で祭事、儀式があるときに、豚を使う。その野豚を捕まえるために、その痩せこけた犬が働くんです」って言うんです。「そんなことないな」と思っていたんですけど、あるとき、たまたま僕が、彼の調査している村に遊びに行って数日したら、お婆さんが亡くなったんですね。学者としては本当の葬式の儀式を見ることができるので「やったー」という感じ。それで「藤君、野豚狩に出かけるぞ」と言うから「これはもしかしたら痩せ犬たちが働くのを見られるのかな?」と思って一緒について行くことにしたんです。

PHOTO

早朝起きてブッシュの中に野豚を探しに出掛けるんですね。現地の人と5、6人でジャングルに入って行きます。歩いていると、うしろから犬が5、6匹ついて来るんですよ。「ついて来てるなー」と何となく見てたんです。でもやっぱり、僕らを見ると逃げていくみたいな感じなんですね。山の中に入って野豚の糞を見つけて、「この辺に野豚がいるぞ」って、現地人が落とし穴を掘り始めるんです。「あとは犬たちが野豚を見つけて、ここに追い込んできて落としてくれる」って言うんですよ。「適当なこと言ってるんだろうな」と思っていたんですよ。ところが、暫くして瞬間的に痩せこけた犬たちが「ワン。ワン。ワン」と吠えながら一斉に狼のように走り出したんです。犬たちがワッと走り出した瞬間に、僕は涙をカッーと流してしまったんです。犬たちの姿が美しくて涙がこぼれたんです。感動しちゃったんですよ。
このとき、僕は「これだ!」と思ったんです。5、6匹の痩せ犬が1頭の野豚をどんどん追い込んで落とし穴に入れる。見事に成功した姿を見たとき、こう思いました。「日常の何でもないもの、例えば社会的に低く見られているとか、価値のないものとか、迫害されているもの、誰も見向きもしないもの、社会的に意味のないもの、そんな現在の社会的意味のない存在が、ある瞬間、エネルギーに変化するんです。変化してすごいものに変わる。すごいことになっちゃう。迫害されて病気でヨレヨレのガリガリの痩せ犬が、狼みたいになる」。その瞬間の変化とエネルギーを僕は美しいと思いました。
20代前半、そのころの僕は、美しさとは何なんだ、どういうふうに捉えて何を美しいとしてそれを立ち上げていくか、それを形にするかということをちょうど悩んでいた時期でした。そんなとき、痩せ犬に出合って、これが美しさなんだと感じ、それからの僕自身の活動のベースが痩せ犬になっています。
とにかく痩せ犬に対して自分は関わりたい、もっと深く知りたいと……。何でもないものがすごいものに変わるというのを、自分の記憶に留めるために痩せ犬を自分の体の中にインプットしないといけないと思ったんですね。美とは、ある状態からある状態に変化するエネルギーであり、その変化するエネルギーをつくっていく技術。術っていうのが美術だと思っています。何かを立ち上げていく、価値をつくっていく技術なんです。

ページのトップへ

自分が感じる違和感・ズレ=“モヤモヤ”を
イメージし、形にすることが
僕の表現なんです。

今日の話の中心は、もうちょっと別のところにあります。
僕の仕事はイメージをつくる、イメージを立ち上げることだと思っています。問題なのはイメージが立ち上がる瞬間の、前と後なんです。何かがあってイメージが立ち上がる。みなさんは意外とこの立ち上がったイメージに注目して、そのイメージがどういうふうになっていくかに興味があるかもしれません。じゃあ、イメージになる前の状態は何なのか、僕はそこにずっと向かい合っているのかもしれません。イメージになる前、これがわからないわけです。イメージになると、もう形になっているから、そこにあり、意識化されています。その意識化される前の状態は見えないしわからない。わからないものを何か形にする、それを何と呼んでいいか……、いい言葉が見つからなくて、便宜上“モヤモヤ”と呼んでいます。“モヤモヤ”というのは、違和感から来ています。
こどものときに、初めて幼稚園とか保育所とか小学校に行くころに感じていた、周りの人との違いであるとか違和感とかズレですね。何かが違う、何か違う……。僕は砂場でひとり遊んでいるタイプだったらしいんです。だいたい絵を描いたり、物をつくったりする連中ってそういう傾向が強いですね。こもりがちというか……(笑)。周りに対する違和感、兄弟に対する違和感、僕には姉が3人いて、末っ子の長男なので、姉たちに対する違和感がすごくあるんです。あと、親父は高度経済成長期にガンガン働いている世代、僕はそのお金を稼ぐ、成長するということに対する違和感も持っています。僕が生まれたのは1960年、その‘60年~‘70年にかけて町がどんどん変化していきます。スーパーマーケットができて古いものが壊されていく、そういう塗り替えられていくことに対する違和感。この違和感は何だろうということを表現しようとするんです。僕自身は、この“モヤモヤ→イメージ”の部分に興味があるわけです。
いちばん興味があるのは、地域や社会が持っている“モヤモヤ”です。それをイメージにし形にして、流通させていくという、そんな仕事をしている人がいます。企業であるとかデザイナーであるとか、いまの社会の常識になる前の常態をつくっているのが“イメージ→ビジョン”であるというのです。つまり“モヤモヤ→イメージ”は常識的ではないんですね。非常識じゃないかと言われると嫌なので“超常識”という言い方をします。つまり常識的ではない常識を超えたレベル、何かを立ち上げる、こういう表現行為なのではないかなと思っています。どう非常識だったのかというのを軽く説明します。

何に対する違和感であったのか、もしくはどういう活動をしてきたのかを見ていきましょう。

(スライド)
これ‘82年です。演劇空間をつくる仕事は、僕が昔演劇をやっていたからということもあります。そのころやっていたのは表現に対する違和感です。美術大学とか、着物の染色、工芸、日本画、絵画、そういうジャンルに対する違和感を持っていました。また、お寺とか仏像とか好きなので、昔、天井に素晴らしい空間がつくられていたお寺とか、そういうものに対して何か自分自身が関わろうとしていました。ところが‘80年代前半の状態ではなかなか自分自身の活動と社会的な価値観がずれていて、いくらやっても個人的なものにしかならない、そういう違和感も持っていました。

(スライド)
これは京都の三条の鴨川です。僕自身が鴨川で何か表現したいと思っていました。鯉のぼりは、そもそも空を泳いでいるもの。それを川に泳がせる状態をつくることが自分自身をずらすこと、自分が感じている違和感を解決してくれるんじゃないかと思って……。当時、学長だった梅原猛さんから「鴨川は、阿国歌舞伎の発祥の地であるとか、日本文化にとって非常に重要な場所だ」と伺っていたので、僕も鴨川で、何か作品を展示したいと思ったんです。で、企画書を書いたけど、川に展示するのにどこに許可を取ったらいいのか知らないわけですね。これ無許可でやっちゃったんです。‘83年のことです。それで、次の日の新聞に“鴨川を泳ぐ鯉のぼりが夢のある悪戯”って載っちゃったんです。

PHOTO

(スライド)
これ僕のデビュー作なんですけど、このあと京都府の土木局が拾得物で撤去するという事態が起こります。「やっぱり川って管理者がいたんだ」って初めて知るわけです。次の日、大学から電話がかかってきて「大変なことになってる」って先生が言うんですよ。どうなったかっていうと、鴨川に鯉のぼりを流した作品の件について京都府の土木局が無断で撤去した、その件について京都市が京都府に対して正式に抗議するようにという事態が起こったんです。僕の大学は京都市立芸術大学で京都市の観光課の中にある大学、学長が梅原猛さんという力を持っている人で、「京都市というところは文化芸術の活動をつくっていかなきゃいけない、古い伝統文化も守っていかないといけないけれど、新しいものもつくっていかなきゃいけない」という考えを持たれていました。それで「うちの学生が川に展示している作品を京都府の土木局が無断で撤去したっていうことはけしからん」ということで、梅原さんが教授を召集して会議を開いて正式に抗議しようということになったらしいんです。僕はてっきり怒られると思って京都府の土木局に行ったら、奥に通されてお茶菓子が出てきて……(笑)。そのときに個人としては、自分自身が何をやっていいのかわからないという状態から、町の中にある空間にはその属性があると法律があって所有者がいて、それに対して自分自身がどういう関わりをつくっていくのかっていうのをちょうど知り始めるきっかけになりました。

(スライド)
ゴジラの着ぐるみをつくりました。これだったら身につけているわけだから文句は言われないだろうと思って、これを着て、観客の反応を見ながらうろうろ歩いていました。このころは、結構真面目なことを考えていたんです。「美術って何だ。美術って裸の王様の洋服みたいなものじゃないか」とか、「権威って何?」、「エネルギーって何?」とか。自分がエネルギーをいっぱい持っていましたから、それをどういうふうに使っていいのかわからないっていうのが実際のところだったと思います。

(スライド)
これは‘84年前半の作品。すごく地味な作品ですが、僕の中ではいちばんいい作品だと思っています(笑)。千葉県の沼の横に空き地がありましてそこに看板を立てて“手賀沼周辺開発記念碑ナマズの群像建設未定地”って看板を立ててナマズの群像を建てるふりをするという……(笑)。その土地に対して何もつくる予定のないものをつくるふりをすることを……。

(スライド)
これは僕の大学院の修士作品。「ゴジラとハニワの結婚離婚問題」ということで、僕が司会をやっています。これは美術に対する違和感です。なぜおもしろくない作品に価値があるのかずっとわからなかったんですよ。それで「お前らが言っている工芸品の価値なんて嘘じゃ」って大学の先生にぶつけてるんです。「君たちは美術というハニワを被っているだけで中身は何もないんだ」と言い、教授たちと大げんかになりました。

(スライド)
ニューギニアで学校の先生していて、イラストレーションを教える授業で学生とスケッチに行ったんですね。ここで戦闘機に出合うんです。ニューギニアの島のひとつにラバウル島っていうのがあるんですよ。その島の一部というのは日本が占拠して日本軍の要塞がありました。日本にいると日本の戦争の歴史とか既に塗りこめられていて見えなくなっているんです。ところがニューギニアに行って初めて、日本のその当時の姿が、そのままの状態でジャングルの中に残っていたのを見たんです。そこに「こどものころ、日本軍を手伝って日本語を学習したんだ」と日本語を話すおじさんがいて、喜んで案内してくれたんです。この戦闘機っていう十字架的なものがその後の僕の余韻の中にずっと残っていくんです。そして、その後ごちゃごちゃした表現活動していきます。

ページのトップへ

表現することを個人から地域社会に
みんなで協力し合う“美術”が
あってもいいんじゃないかなって思ったんです

自分がやってきた表現形態について話をしようと思います。

(スライド)
ニューギニアに行って、痩せ犬や戦闘機、そういう宝物を持って僕は日本に帰ってくるんですけど、そこで僕自身が決めたことがあるんです。それは、いわゆる美術という権威のあるものとお別れすることでした。美術史の美術なんて関係なく、自分の表現活動をやっていこうと、ある意味で理想を求めようとするんですね。ニューギニアで痩せ犬のように、何でもない状態のものからすごいものを生み出す、それがすごいんじゃないかと思って、その中で自分はどういう形で表現に関わっていくのかっていうことを考え始めたんです。
僕は「何を扱おうか」と思ったとき、地域社会に対して何かイメージを描くことができるんじゃないかと思いました。鴨川に鯉のぼりを流すのも、川という地域、そういう素材に対して鯉のぼりを流すっていうことで、あるイメージを立ち上げることができる、そういう感じです。ゴジラが歩くっていうこともそう。学生のころから、実験的にはやってたんです。でも、もっとちゃんとした形で地域社会にイメージを描くことができないかな、と考え始めました。そして、それは、自分ひとりで描くより、みんなで協力しながらやっていくことができればその方が感動がより大きいんじゃないかと思ったんですね。
僕が協力隊に入るころっていうのは、“適正技術”ということが言われ始めた時期でした。その地域にとっていちばん持続でき、容易に素材を供給することができ、しかもランニングも運営もやりやすい技術というものを導入すべきだと。しかも地域でやるというものですから、地域の素材を使い、地域の技術を使い、みんなが協力して何かイメージをつくっていく、そういう美術っていうのがあってもいいんじゃないかな。こういう表現があってもいいんじゃないかなというのを考えて、僕は1988年に日本に戻ります。

PHOTO

日本に戻って、まず地域社会について勉強しなきゃいけないと思ったんです。僕は美術大学で染色科だったので染料については知っていますが、地域社会については全然知らないんです。そこで、まず東京の土地について勉強しようとします。当時地上げ屋が流行っていて東京はどんどん再開発され、木造住宅が取り壊されていっていました。そこで僕は、その木造住宅を使って何かできないかなと思いました。たまたま週刊誌に載っていた地上げ屋の社長のところに行って「就職させてください。給料はいらないんで取り壊される家に住まわしてください。自由に使わせてください」とお願いしました。地上げ屋に就職したんです。ところがバブルの絶頂期で地上げ屋はすぐ解体、そのあと都市計画事務所に行って土地の勉強とか不動産の勉強とか建築基準法の勉強とかしながら、地域についてのプラクティスをやっていくというのが僕の80年代前半でした。
そのころ、親父は65歳くらい、実家の鹿児島で仕事を辞めようかどうしようかっていう感じのときでした。僕は東京で働き始めましたから、鹿児島に戻って両親と会話するというのもなかなかできなかったんです。まあ、帰省しても親と会話する内容がないというか会話するテーマがないものだから会話しないんですが……。ちょうど技術、協力、適正技術などを考え始めたところだったので、親兄弟と一緒に何かできないかなと思ったんですね。

(スライド)
この写真は‘89年の6月です。‘89年の1月から6ヵ月間かけて鹿児島の自宅を改装して「Eスペース」という店をつくります。僕と左官屋のおっちゃんと2人でやったんです。床から壁、テーブルもつくりました。テーブルは世界地図の形になっていて世界地図の上でお茶を飲むみたいな感じで、その地球=EARTHのEで「Eスペース」で「いいスペースだね」というそういう単純な名前にして、ここで経営を始めます。サラリーマンをやりながら家族のプロジェクトです。このときが、両親と一緒に何かをやるということを始めた最初です。そこでは写真家の人が写真展やったりライブやったりとか彫刻家の人が展覧会やったりだとかいわゆるそういうアートスペース的なことをやっていきます。家族とやった家族との違和感表現でした。

(スライド)
近年ずっと感じているのは、カップ麺のカップなどビニールプラスチック、家庭から出る廃材、ビニールプラスチック類に対する違和感。これを使って何かできないかなと考えています。

(スライド)
リキシャに興味を持っています。都市の交通手段です。なぜ車中心の社会なのか、これはいまのわずかな歴史だと思っていて、低速車専用道路、もしくは人力車の専用道路が町の中心部を占める時代が来るだろうと思っています。そういう新しい価値観を立ち上げたいなと思っています。そのためにインドでリキシャの実験やっています。

(スライド)
灯篭です。灯篭を使って地上に絵を描くというデモンストレーションです。地域の人たちがその地域の使われていない現場をいかに使っていくか。空いている場所とか暗い場所とか何か怖い場所であるとか、そういうところに地域の人たちみんなが関わりを持って手を入れるということです。みんなでもっと使おうよっていう活動がもっとできるんじゃないかなと。

(スライド)
廃材系です。ペットボトルとか日常から出るもの、もっと使えるんじゃないかな。これ、ペットボトル3000本でつくった海亀です。こどもが30人くらい乗っても沈みません。あとは何でこんなにおもちゃって多いの?っていう、プラスチック類に対する違和感です。僕が生まれたときにはなかったんですよ。ところが‘70年代からブリキのおもちゃが全部プラスチックに変わっていった。でも、ビニールプラスチック、ポリエステルやペットボトルも含めてこれは30年後にはなくなると思ってるんです。なぜかというと環境悪だし、原油からつくられてるというのもあるし、もしくは流通が変わっていくだろうと……。いまのコンビニ、スーパーから別の形態に変わっていくだろうと、もちろん通販っていうのもありますし宅配みたいなのが進んでいきます。となると、素材はもうちょっと違う形に変わってくるんじゃないかと思います。

PHOTO

不幸なことにこのビニールプラスチックが発生してなくなる時間と、僕が生まれてから死ぬまでの時間がちょうど重なるんです。僕1960年生まれで、10年後に死ぬとして2016年没ですから大体同じ時期にビニールプラスチック製品が出てきてなくなると……。これを1000年後の人が、ある地層を掘っていくと特に日本の西の端、九州にビニールプラスチックがやたらと出土されるんです。「何だろう?」と紐解いていくと「20世紀後半から21世紀前半にかけてはビニールプラスチックの時代だったらしい。じゃあビニプラ期と呼ぼう!」とか、何かそういうことになるんじゃないかなという話を思い描きながらおもちゃの収集、おもちゃを使った地域活動をやっています。

ページのトップへ

<第2部>

お客さまとのQ&A

お客さま:
藤さんの作品は、社会に対するとか勤めていた会社の社長とかに対するアンチテーゼであるとか抗議というか、そういったことを含めた社会のテーマに対してエネルギーがあって、その活力から作品を生み出していくイメージがあり、見ている僕らもそれにインパクトを与えられ、強さを感じます。最近の若いアーティストの作品は、非常にきれい、うまいなあと思ったり、巧妙だなとかテクニックを感じることがあるんですが、社会に対するメッセージや強さをあまり感じません。これは社会的な時勢なのでしょうか? 藤さんはどういうふうに感じられていますか。

藤さん:
いっぱい答え方があると思います。まず僕自身は、自分と自分の周辺との関係なんですよね。親がいたり兄弟、妻、こどもがいたり、会社の上司、友人がいたりとか、という地域社会ですね。
僕の中で、まず大きい意味での社会に対してのイメージというのは実は希薄です。ただ自分の延長線上に社会があります。
例えば、自身はアフリカ飢餓の問題に対しては関係してないけれど、うちの会社の社長がアフリカの飢餓問題に関係してたことによって僕自身がそれを考えなきゃいけないという関係とか、鹿児島で石橋反対運動というのをやっていたんですけど、僕自身撤去反対というよりも、その地域のことをちゃんと考えていきたいという関係ですね。
それとまたちょっと話が別の視点になるんですけど、もうひとつは未完成さ。これは、地域にしてもそうかもしれないし、商品開発にしてもそうかもしれない。この未完成さをどういうふうにデザインするか……、これも多分重要になってくると思うんですよ。つまり完成されたものがそこにある、完成されたものっていうのは、ある意味で力とか強度を伴います。完成されたものには力があるんですけが、完成されたものには“関わりしろ”がないんですよ。「ああすごい!」で終わるんです。
僕自身は完成させようとするんだけど、下手なのと考えていることがあまりにもたくさんあって時間が足りない、お金がない……そんないろいろな要素があって、どうしても途中の状態、未完成な状態にいるんです。ところがこの未完成な状態っていうのは、未完成であるがゆえに、ここに関わりができてくると。未完成さが魅力になってくる、未完成なものの方が関わりたいと思うかもしれないんです。これに関わることで何かできるんじゃないかな、可能性が見えてくるんじゃないかな。それが何かひとつのおもしろさをつくっていくんじゃないかなと思っています。僕はすごくそういうのが大事なんじゃないかなと思ってるんです。

PHOTO

それとさっきのキーワードの中に出てきた、きれいっていう価値観これは既存の価値観だと思うので、既に立ち上げられた価値観なんです。何か僕らがいままで見た価値観の中で、「これはきれい、美しい」と認められた過去の価値観でもあると思うんです。だからおそらく本当に新しいものに出会った場合は、「きれい」と思う前に「何じゃこりゃ?」って思うと思うんです。そう思わせるものが実はすごいものだと僕は思っています。きれいなものというのは見慣れたものなんです。自分の価値観の中で「きれい」というのは、ある意味で心地いいんです。心地よくて入りやすいですし、もう流通もしてますからいいわけなんですけど、ただきれいなだけものは流して見てしまいます。ある意味もう既に見たことがあるものなので、新鮮さがないんです。逆に見たこともないものに出会ったときが、すごいんじゃないかな。僕はこの“関わりしろ”というのを大事にしたいと思います。

お客さま:
いま大学の卒論で木造の家が立ち並ぶ古い町並み保存について考えています。私が考えようとしている地域では、地域の方が中心となって、これからどのように町並みを改修し保存していくかについて試行錯誤しています。藤さんがもし古い町並みをもっと人々に目を向けてもらえるようなものにするとしたらどのようになさいますか? また、藤さんにとっての家とは何ですか? 藤さん自身の家の本質についてお聞かせください。

藤さん:
町並みを保存するかどうかっていうのは、「なぜ保存するの?」と、まず言いましょう。どういうことかというと、その町並みをなぜ保存するかと言うと、これがある時代、ある時代を経て現在の価値観において新しい価値を生み出そうとしているという状態ですよね。多分、それを次の世代に伝えようという意味だと思うんです。まあ、ややこしい事は言いません。単純明解な答えは、町並みを保存する前のことを考えましょうということです。保存することを考えるということは、実は使うことを考えるということだと僕は思います。使いもしないのに保存して一体何のための保存? 使うことによってこの意味とか価値が出てくると思っています。使うことによって、「この街並みは本当にいいんだ」っていう意味とか価値をちゃんと知らなきゃいけないんです。
そういう意味でいうとこれは全く家もそうなんですね。
家については、いろいろな活動の場だと思います。僕がいまの家に住み始めたときに、こどもがちょうど小学校に入る前だったんですね。こどものことを考えて、僕は、ミステリアスな家を求めたんですよ。そのミステリアスというのは、怖い家、特に風が吹くと外が怖かったりだとか、トイレが昔ながらのエコロジカルトイレだったり(笑)。ですから臭いんです。でも、トイレが臭いっていう非常に基本的なことを、僕のこどもには小学校時代に体感してもらいたいなって思って、そういう家にあえて引越しました。古い家には、染み付いたものがあります。におい、歴史、そういうものに対して深い関係を探っていったりしながら、こどもが成長していくっていうのを求めて、いまの家で生活しています。

フェリシモ:
最後に神戸学校事務局からの質問です。フェリシモではこの春、特別な記念日だけではなく、何でもない日もキラリと輝く特別な日に変えてしまおうっていうキャンペーンをスタートします。藤さんはいろいろなものから瞬間の美を発見されたり、いろいろなものを変化させるような活動されていらっしゃいますけど、記念日を素晴らしいものに変えるような工夫とか、何でもない日がふとしたことですごい日に変わってしまったような体験がありましたらお聞かせください。

藤さん:
ないなあー(笑)。記念日というのはすごくいいことなんですよ。いろいろな記念日があって……。でも、僕苦手だなー。(中略)でも、生活の中で、ネーミング、名前をつける、プロジェクト化するといいかもしれないですね。

ページのトップへ

Profile

藤 浩志(ふじ ひろし)さん<美術家>

藤 浩志(ふじ ひろし)さん
<美術家>
*プロフィールは、ご講演当時のものです。
1960年鹿児島生まれ。美術家。
京都の伝統文化にあこがれて京都市立芸術大学工芸科に進み、染織を専攻。在学中はむしろ演劇やパフォーマンス活動に没頭。ありきたりの美術表現からはみ出すようなそのユニークな活動で「関西ニューウェーブ」の一翼を担う作家と目される。日本美術から距離を置くために志願した海外青年協力隊の派遣先であるパプアニューギニアでその後の活動の原動力となる数々の価値観の変更を経験し独自の美意識を確立。アートを「社会的に価値を認められていない存在を価値のある存在として再構築するテクニック」として捉え、協力・地域・適性技術の三つを表現の手法・素材としてさまざまな場所で美術活動を展開している。

ページのトップへ

その他のゲスト

ページのトップへ