神戸学校はフェリシモが主催する「神戸発 生活デザイン学校」です。
<第1部>
今日はお招きいただきありがとうございます。みなさま、お初にお目にかかります。山口 晃と申しまして、ふだんは絵描きをいたしております。
(略)
いくつか私の絵をご覧いただきながら、つたない話におつきあいいただけたらと思います。題は「日本はどこへ?」。「どこへ?」と言われても、それが分かれば総理大臣でもやっておるんですけど、なかなかそうもいきませんで……。
あの、だいたいいつも、こういうときに、事前に申し上げるんですけど、一本筋の通った話を最後まで通すということができないたちでございまして、寄り道をした角をちょっと曲がって、元の道を忘れるというような話し方をしてしまうもんですから、
(会場:笑)
「あの話のオチはどうした?」ということが多々おこると思うんですけど、ちょっとその気持ちわるさを我慢して最後までおつきあいいただけたらと思います。
「東京圖 六本木昼圖」(2002年)。東京に六本木ヒルズという素敵なビルがございまして。そこを絵にして売り出そうみたいなことでお話をいただきました。ただ絵にしてはつまらないというので、下の方に瓦屋根とか、赤いのはトタン葺きですね、バラックみたいなもの、そういうものを新しい都会の新しいスポットに併設させています。昼の六本木を描いたんですね。ダジャレでございますよ。
(会場:笑)
画面上の方にビルの低層階が描いてありまして、そのまわりにレストラン・ミュージアムショップ・昔の大名屋敷の池があって……。左上の方には、近代化の遺産の洋風建築があったり、浅草あたりにあるような建物もあって、それ以前の寺院建築のようなもの、この大名屋敷は本当にあったんです。毛利家の下屋敷(しもやしき)か何かがあって、そこの跡に建てたらしいんですけども……。そこへ金雲(きんうん)を、日本の屏風とか古い絵をご覧になった方はおわかりかと思いますけど「なんでここに?」っていう低いところに、金雲がモコモコってあるんですね。そういう様式を描きながら現代のモチーフを……というふうになっています。
「ダクト圖」。飲食店からの煙を抜くダクトですね。それが絡みあって大きな樹木のように絡みついているのが、近代都市の雑界(ザッカイ)であるというような絵であります。
「根津神社」。御遷座(ごせんざ)300年大祭、神輿巡行の図ですね。文京区にある神社で、そこが隣の町から移って300年になるというので描きました。例によっていろんな時代を描きまして、ここら辺は昔、遊郭があったから入れてみたりとか、昭和の商店とか、いまはないんですけど都電を入れてみたりとか。
どの絵でもその土地の古い地図とかを調べて、実際あったもの、なくなってしまったものと今あるランドマーク的なものを取り合わせて、地域によっては100年とか、400~500年をぎゅーっと1枚の絵に圧縮して描くというような描き方をしています。この描き方は、東京だからできるんですね、東京は新しい街で、新しいわりにはめまぐるしく変わっているんです。こういう描き方を京都でやっても普通に見えるんですね。ビルの横に300年、400年前のお寺が普通に建ってたりしますんで、こういうことやっても普通に見えてしまいますから。
「百貨店圖 日本橋三越」(2004)。三越百貨店という、もとは越後屋が東京の駿河町に店を出して、さらに維新を迎えて、デパートメントストアをスタートさせて100年たったときの記念の行事の際に描いたものです。(略)三越さんに「山口さん、暗いのはあきまへん」と言われまして、賑やかに描きました。これも日本橋のいまはないビルから、昔あった魚河岸(うおがし)などを全部ごちゃっと描きました。消失点を変えて富士山を描いたりもしました。江戸の通りというのは、やっぱり景観を大事にする、江戸に限らず昔の日本の都市計画というのは、結構景観を大事にするところがありました。ですので、こういう通りのとば口に立ちますと、通りの向こうの方に必ずいい景色があるんですね。そういう景観をアイストップと言うのですが、東京だと富士山がアイストップに使われていたことが多かったようです。こんなふうに空中電車なんかも描いてみて、空想と歴史と近未来とがごちゃまぜになっているような絵です。
こんな絵を描いているのはここ10年くらいです。(中略)いきなりこんな絵を描いてたわけではございません。「なぜにして、此の絵柄」ということですね。それを今日 「日本のクリエイティビティ」と結びつけるわけでございます。単なる「お絵かき少年」がいかにして、このクリエイティビティを論じるまでになったかというのを、こう、ブーメランを投げて、1時間半後に僕がうまくつかめれば、拍手をしてください(笑)。
家柄にもよるでしょうけど、小さいころから油絵セットを買ってもらって、ドガだ、ピカソだと言って絵を習う人間は限られていると思うんですね。ほとんどの人間は広告の裏にロボットを描いてみたりするんだと思います。元気のいい、こどもらしいこどもは1枚の紙にひとつの主題を大きく描けるんですね。僕はケチくさいこどもでして、ここに(広告の隅っこに)1個描いたら、次ここに……というふうに、ちまちまと描くようなこどもでした。さっきの絵を見てもわかりますでしょ?
(会場:笑)
絵は好きだったんです。親も好きだったので、たまにピカソ(の展覧会)だとかに連れてってもらうんです。で、「今日はどの絵がいちばんよかった?」って聞かれるんです。どの絵も何も、わかんないわけですよ。「泣く女」とか見せられて、「女の人はヒラメじゃない。眼は両側についてるだろう」とか思いましたけどね。
(会場:笑)
「片側に目があっちゃいけないなぁ」と思いながらも、「えーっと、コレ」とかなんか言ってですね、親の期待に応えるわけですね。なんか変だなあと思いつつも嫌ではなくて、でもやっぱり漫画とか、オバQを見たりするのも好きでした。(略)
ピカソとオバQを同列に論じるようなメンタリティの少年時代でして(略)そんな少年が、「美術大学」を志すわけなんです。受けようと思ったのが油絵科。それまで水彩しかしたことのない人間だったので、地元の画塾で細々と勉強するんですが、なかなか上達はしないんですね。じゃあ、東京の予備校に行ってみたらどうだ、となり……。
予備校の勉強は、僕のやりたいこととまったく違っていました。僕はただ絵がうまくなりたかっただけなのに、なぜいま、ドガの画集を見てるんだろう、デクーニングの筆法をまねしているんだろうと……。いつのまにかそういうことになんの疑いも抱かず、むしろ絵画史、技法の勉強をするとベーシックな力が身について、絵描きを苦もなくできるんじゃないかという希望的錯覚まで起こしていました。そんなこんなで、絵画というものを日本においていかに正当な在り方として存在させるか、日本で油絵をまっとうに描くのはどういう方法があるか、というようなことばかりを考えるようになっていました。
油絵を習い始めたのは偶然だけれど、これをきちんと内発的な、必然としての絵のひとつに結びつけられないかと考えるようになりました。「日本でだからこういう油絵が描けた」とか、「同じ油絵でありながら本国の人はやりもしなかったことはなんだろう」と模索しました。それには「当の油絵を知らなければいけなかろう」と思い、予備校を出て私立の大学に1年間より道してる間に、グレージング的な古い絵やらキュービスティックな絵やら追試的に描き、そして、東京芸大に進みました。
そして「当の日本と(油絵を)合わせてやってみよう」と、大いに発奮して、描いた絵が
「洞穴(どうけつ)の頼朝」(1990)です。前田 青邨(まえだ せいそん)画伯の「洞窟の頼朝」に大いにリスペクトして(笑)。もちろん画材は油。顔は19世紀的な描き方があるかと思うと、グレージング、日本の型ぼかしをキュービスム的にやっていると。混ぜればいいのかっていう絵なんですけど(苦笑)。よくわからないけど混ぜてみたらどうだろうと。いまから思うと簡単な思いつきなんですけど、これを描いた当時は「どうだ!時代が変わっちゃうよ!」くらいの感じでしたが、なかなかそう甘くはございませんで。先生方に見ていただいたとき、最初先生方がポカーンとした表情をしていて、しばらくするとやさしそうな顔で、「山口、こういうのはだな、もうちょっと年とってから描くといいんだよ」とか言うんですね。どういう意味だろうと思ったんだけど……。
(略)
これは、近代100年で、油絵がやり残したことはなんだろう、「和魂洋才」、「洋才和魂」、「洋魂和才」……いろいろあって、そういう組み合わせ、描き方はひょっとしてされてないんじゃないかと僕なりに考えて描いた絵だったんですけど。単純なハイブリットというか配合、かけあわせというんじゃなく、底に流れているものが徹底して足りなかったんですね。油絵科の生徒が描いた“和風”なもの、“風”でしかないんです。この“風”が取れるにはどうしたらいいかというのに、僕は気づかなかったんです。“和”に合わせる自分というものは自然とあると思っていたんですね。僕は日本人だから、何もしなくたって、“和”の要素は持っているだろうと思っていて。
それでもう1枚の「落馬」、これは大学2年のとき描きました。このとき、もう苦しくてつまんなくてしようがなかったころです。“日本風”のものっていうと、黒澤 明かお侍くらいしか浮かばないんですね。考えたくはなかったんだけど、自分の日本人としての素養が薄っぺらで、オバQを見てゲタゲタ笑っているような日本人だということに気づいたんです。「もう駄目だ、油絵プラス日本みたいなのはなし!」と逃げ出しました。
絵というのは、自分の内からふつふつと沸いてくるものでないと描く気がどんどんなくなるんですね。で、この薄っぺらな人間に残された日本というのはなんだろうと真面目に考えてみたら、こどものころに描いていたラクガキだったんですね。そこに日本的要素が果たしてどれくらいあるんだろうか? まったくわかりませんでしたけれど、そのころ日本で作られていたアニメーション、漫画、日本のお父ちゃんが言ったくだらない冗談とかそういうのが混じったいい加減な文化、それが僕の根っこのところだと気づきました。
「大師橋圖畫」、橋を描いた絵です。
これは油絵を使いませんでした。紙はキャンバスでなくクラフト紙という荷物を包むような安い紙に、サインペンで描きました。さんざん油絵をやってきたけれど、結局、僕がやっていたいのはこれじゃないのかと……。同時に、これを描いたとき、「もう芸大の油絵科ではやってけないな」と思いました。まず油でないし、絵が趣味的だし……。「もう先生から口をきいてもらえなくなるな」「僕は油で飯は食えなくなるな」と思いながら、これを出しました。ところが、僕の以前の絵をくさした先生がほめるわけです。「いいねぇ君、おもしろいよー」って。
(略)
不安な時におほめの言葉をいただいて真に受けまして、それで、ここから始めようと、日本も西洋もやり直せばいいんじゃないかと、どっちにも憧れ、素直に両方に接することができるようになりました。
それで次に描いた絵が「十字軍」。これはもっと趣味的なところ、本当にこどものころにやっていたラクガキのまんまです。馬がいて、馬の下半身がオートバイになっていたり、骸骨の中が全部メカになっていたりとか……、こういうのは僕は学校で描いちゃいけないと思っていました。(略)
こういうところからやり直し、いろいろな古い絵を見始めたんです。ちょうどそのころ東京であった「大和絵展」を見に行きました。屏風とか襖の古い絵、花鳥風月のような絵がいっぱいありました。見たこともない絵でした。今まで遠近法で整った油絵を見ていたのが、薄っぺらな雲がぺたっとそこらへんに湧いてて、竹がのっぺりと切り紙で貼ったようにあって……。「何だろうこの絵は? まったくわからない」。同じ国の人間がやっているのに。でも、うれしくてしょうがなかったです。そうか僕はこれを知らなかったから駄目だったんだなと思いいたりました。「知らないことだけど、そうは言っても自分の国のご先祖さんがやっていること、これは僕がルネッサンスのまねをして描くよりも、至極まっとうな気もする、何だかやりがいがあるぞ」と思いまして、古い絵を勉強しようと思ったんです。
今度は図をミックスするのはやめて、昔の人間の心持ち、こういう絵を描いた人の心持ちっていうのは、どうやったら知ることができるだろうと考えてました。もう社会自体が変わってきていますから、心持ちはわかんない。じゃあ残っているこの絵から、何ができるだろうと考えました。そうすると型稽古(かたげいこ)っていうことを思いつきまして……。
「古い絵に共通しているのはなんだろう?」と考えたとき、必ずしも全部にはないんですけど、さっきご覧いただいた絵のように、例えば、雲に代表されるような空間自体を雲によって仕切っていく、雲によって画面に緩急をつけていく、雲を境に遠近法をつけるとか、そういう恣意的な空間の区切り方とか、あと、透視図法でない、画面の手前と奥でほぼ同じ大きさでものが見えるような描き方とか、そういうのをやってみようと……。始めると、空間に対する見方が違ってくるんですね、全部俯瞰になるというか、一度概念化するんです。(略)建築のパースに近いような感じでしょうか。いままで見えていたものに縛られてた空間構成の意識が、逆に意識優先になっていくんです。
こういう絵を描きたい、こういう空間にしたいというところから、どんどんものを置くことができ、さらに雲が助けてくれて、もっと俯瞰、もっと遠くの絵を描きたい、というとき、まったく違う遠近法の図を描けてしまえる。さらに、近くなのにもっと遠くのものを描いてもいいとか、物語に時間を入れるときに雲で遮ると、この絵の1年後も描けてしまう。すると現在の空間しか描けなかった絵が、時間と空間を自由にはみ出しはじめるんですね。それが描いていてびっくりしたというか楽になったところ。
遠近法がつかなくてどこまでも同じ大きさですから、ちょっと漫画に近くなっていくんですね。これが、こどものラクガキと驚くほど類似していて、「これは僕にぴったりだ!」と、自分の意識が改変されていきました。
ひょっとしたら当時の絵師はそういったことをやっていたかもしれない、と思わぬ発見をしたり、なんかこうイリュージョニスティックなことがあったらどんどんやっちゃう、妙に伝統を守ろうとはしていないんです。だから、僕も伝統というのは最低限の素養として捉えました。例えば伊藤 若冲(いとう じゃくちゅう)は、変な絵を描いているというんで異端と言われていますけど、あの人ほど古典を勉強した人はいないんですね。裕福な問屋のお坊ちゃんでしたから、いろいろなお寺から絵を借りてきたり、中国の古い絵を持ってきたりして、いろいろ写して、その上で「もっと違うものを描きたい」ってんで、ああいう変な絵を描き出すんです。
古典というのは、守るべきもの、踏まえるべきものではあるんですけど、それが積み重なっている高いところから、ぴょんと跳ぶためにあるんであって、下から後生大事に守ってるものではないんです。ぴょんと跳んだここ(と言って山口さん、手で少し上を示す)が次の人たちのいちばん平面になるわけですよ。過去のことを学べば、次の人はここからジャンプできる、という……。
水墨画にしたって中国発祥のもの、言ってしまうと中国発祥のものがほとんど日本に渡ってきています。「何だ日本のものなんてないじゃないか」というのは簡単。でも例えば漢字は中国発で、そのころ日本には文字もなかったけど、「あ、これはおもしろい」といじくりまわして気がついたら本家中国にもないものを作り出してる、それが日本なんです。作った中国もそれはすごい、けれどそれをこねくりまわす日本の才能も、またすごいんですね。こねくりまわす、こねくりポイントを見つけ出すのもすごい!ってわけなんです。「絵画はこうあるべきだ、こう描くべきだ」ということも大事かもしれないけど、僕はこんな場あたり的な感覚も大事な気がするんです。投げやりに決めるということではなく、こうしようと思ってたのとはまったく違う変な事態が起きたときに、その場にあたってその場の持ち駒で最適な方に行ける能力があること(略)、こういうことが文化において大事。もちろん、「場あたり力」を生む素養は、個人の資質であったりするんですけど……。
いま問題なのは、日本の伝統がなくなるってことよりも、個人に関する素養ですね。ものすごい勢いで全世界のものが次々に入って来ると、しっちゃかめっちゃかになってしまう。こういうときに何ができるかというと、こねくるんですね。それまで何人かで、ある時代の地域でやっていたことを、意識的な個人が、自分の中で反芻(はんすう)するんです。僕は僕で昔のものを踏まえてちょっとでも高い段を次世代に伝えていけばいいかなと思っていて、それに賛同してくれる人がいればいいし、いなくても僕はひとりでもやっておいて、それをずっと後でもいいから、誰かがみつけてくれればいいなと思っています。樹木の枝葉、根っこがいろいろな方に向かい、また戻ってきたりするんですね、そのときに、それを人が「こんなことやってくれたんだ、ありがとう」と言ってくれればそれでいいんです。そういう心意気でものを作る人、守る人がやっていって、見る人も片っぱしから見てやれ!と。そうすることで大いにものを作り、守り、育てていく助けになるんではないかなと思うのです。これが、日本のクリエイティビティではないかと思う次第でございます。
無理やり、あそこらへんにあるブーメランを取った感じですが、このようにごちゃごちゃやりながら、ああいった絵を描いている日々でございます。どこかで絵を見かけたら、ちょっと足を止めて見てやってください。
<第2部>
お客さま:
山口さんの、あの細い線はどうやって描いているのでしょうか?
山口さん:
細い線は「ピグマ」というロットリングみたようなペンの0.05ミリをよく使っています。
フェリシモ:
細い線はひとふでで、描かれるんですか?
山口さん:
(苦笑)曲がらない線をぴーっと引けるまで、血の出るような筋を痛めるような訓練を……、いっさいしておりませんので(会場:笑)。やっぱり商売、早さがとても大事でございますので、無理せず定規を使うようにしています。
フェリシモ:
絵を描くときのテーマのきっかけはありますか?
山口さん:
昔は命題ありきでしたが、最近は逆。最近はビカビカッて思い浮かぶんですね。だんだん、命題選びが意識して身についてきていて、何となく思い浮かんだものがそういうのも含んでいるじゃないかという、言い訳ともとれる、都合のいい解釈のもとに、今はむしろ直感で描いています。普段貯め込んだものが、弾けている気がします。
お客さま:
絵の中に、ダジャレというか言葉遊びが入っていておもしろいなと思ったんですが、そのルーツとなるものはありますか?
山口さん:
こどものころから、気づいたらお墓参りの写真に白目むいて写っていたり、ね(笑)。でも、クラスで「いつもおもしろいことを言う子」じゃなくて、「あ、僕の番だ。みたいなときを逃したくない、でもそれ以外は自分からは絶対出て行きたくない。」そういうタイプの目立ちたがりなんです。それを表現するには、絵はぴったり。「見たい人は見て」という感じ、わざわざ自分からは「見てみて!」って言わないんです。同じダジャレも口で言うのと、ああやって絵に潜ませておくのとでは、僕は何となく絵の方が性に合うような気がします。もちろん口でも言ってしまいまして、初対面の方は仕方なく笑ってくださるんですけどね。
(会場:笑)
お客さま:
山口さんの創作エネルギーの源とはなんでしょうか?
山口さん:
大きい船ってエンジンかけて舵切って曲がるというのはとても大変なんですね。手漕ぎボートだと、こうくるっとやれば曲がるんですけど。ラクガキは手漕ぎボートみたいですが、絵を仕事にしてる絵描きは、自分の身ひとつだけど、何か大きい船を動かすようなところがあって、始終釜をたいていないといけない感じ。急に言われてぱっと描ける感じではなく、始終動いているから次々新しい景色が見えてきたり、こういう航路をとっているから黙っていても絵に関係あるものが向こうからやって来たりするんですね、絵を描こうと思っているとその日の新聞に題材が載ってたり、ということもままありまして……。初動の部分というのをあまり意識しないようにもっていくのが大事。
フェリシモ:
山口さんが考える日本の宝物とはなんでしょうか?
山口さん:
(略)日本は、本当に宝だらけという気がします。例えば、外国から帰ってくれば、日本のモイスチャーな気候がしっとりと肌を包み込んでくれますし、緑がやさしく目に飛び込んできます。フランスから来た留学生が「日本の梅雨が大好き!」って言うんです。「だって緑がすごくきれい!」って。あ、それって日本の宝なんだなって。
東京に出て何年か経って帰省したとき故郷の緑がこんなにきれいなんだとか、困っていたら声をかけてくれた人がいて「よそ様ってのはこんなにも親切なんだな」とか、「こんなおいしいお酒が……」とか、キリがないんですね。で、宝っていうのは、それ自体の価値というよりも、それを見出す力がとても大事で、もう、とんでもなく、見回せば見回すだけ宝のある国、それが日本。そういったちょこっとしたものを昔から身の丈に合ったところでいろいろ見つけてきた先達たちがいるわけですね。宝にあふれてる、なによりも宝を見つける目にあふれてる、それこそが日本の宝だと思います。
フェリシモ:
山口さんが見出す、日本の宝物は?
山口さん:
ごまかしたつもりだったんですけど……(笑)、誤解を恐れずに言うとすると、“日本のお嬢さん”でしょうか。(略)こう答えるとお客さまがさーっと引いていくので(笑)、言わないようにしようと思っていたんですけど……。
(会場:笑)
誰かの歌にもありましたが、いつの時代も、心の支えは男は女、女は男と……。いろいろ言いましたが、結局は人ですね。(略)人にわかってほしくて喜んでほしくて、いろいろ悪あがきをするので……。だから結局は人間で、広がっていくと人間のいる社会なんですけど、いちばん狭いところで言うと、宝物はやっぱり“人様”ですね。
今回の神戸学校では特別に山口さんから、5点作品をお借りして、エスパスのギャラリーに展示をしました。お借りした山口さんの作品は意外にもコンパクトで、お客さま、おひとりおひとり、熱心にひとつひとつを眺めておられました。 実は、作品の中に、時々、山口さんが描かれていることがあるそうです。また絵を拝見する楽しみが増えそうですね。
