神戸学校

神戸学校はフェリシモが主催する「神戸発 生活デザイン学校」です。

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「自分に勝つということ~陸上人生20年を振り返って~」



<第1部>

(映像)



かけっこが好きなこども時代
スポーツは楽しみながらするのがいちばん!
遊びの延長にスポーツがありました。

フェリシモ:
朝原さんがスポーツにのめり込んだ魅力とは何でしょうか?

朝原さん:
「遊び」ですね。遊びの延長がスポーツでした。坂道の多い神戸の北区に育ち、毎日何して遊ぼうかと、年の違う友だちと一緒に過ごしていました。鬼ごっこやドッジボール、草野球、草サッカーをしながら、「これはスポーツだ!」とは思わなくて、「楽しいな」という思いでやっていました。とっかかりは楽しくないとね。

フェリシモ:
朝原さんが陸上と出合ったきっかけは何ですか?

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朝原さん:
僕は、そもそもオリンピック選手を目指して小学校のころから英才教育を受けていたわけではなく、普通に神戸で育ってきました。かけっこは好きで、運動会ではまあまあ活躍していました。中学ではハンドボールをしていたんです、そのあと高校から陸上競技を始めました。

フェリシモ:
ハンドボールでは全国大会まで出場した経歴をお持ちですね。そのような経歴があるにもかかわらず、高校で陸上をやるようになったきっかけはありますか?

朝原さん:
中学のハンドボールには、もうコリゴリというか……(苦笑)。燃え尽きてしまったんですね。よくバーンアウトって言いますけど。中学のときは、毎日練習、練習試合、試合で休みがなくて、すごくきびしいクラブ活動だったんです。「水を飲んではいけない」「しゃべるな」「笑うな」という昔にありがちなクラブだったんですけど、それを終えて、僕たちのチームメイトには、ハンドボールをやろうということで高校に進んだ人もいましたが、僕はもうこれ以上ハンドボールはいいやと思って……。実は僕はずっとサッカーがしたかったんですね。中学にはサッカー部がなくてハンドボール部に入ったんです。高校では、ちょっと自由で緩い(笑)部活動に入りたいと思いました。部活動は楽しくないといけないんじゃないかと思っていて、高校ではまずサッカー部に仮入部。でも、思い描いていたのとはちょっと違っていて、同じクラスに陸上をやっていた友だちがいて「陸上部を見に行こうぜ」って言われて見に行き、顧問の先生にも誘われたりしたんですね。で、部活動の雰囲気、先輩後輩が仲がよく、さわやかでキラキラしていたんですね。それで入部したんです。

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当時の彼女がメダリスト
それが起爆剤となり、僕もオリンピックを
目指したいと思うようになりました。

フェリシモ:
大学でも陸上をされ、大学時代の100メートル走で日本新記録を出されました。「オリンピックに出たい」と思われたきっかけがあったのでしょうか?

朝原さん:
僕が大学1年生の、1991年に東京で世界陸上の大会があったんですね。そのとき、世界を目指しているなら東京国立競技場まで生の選手を見に行ってるはずなんですが、僕はまだ世界に目が行ってなくてテレビで、世界にはこんな強い人もいるんだなと思って観戦していたんです。徐々に意識が変わり始めたのが、翌年の大学2年。バルセロナオリンピックがありました。僕は代表の座を射止められなかったんですが、当時おつきあいしていた奥野 史子というシンクロナイズドスイミングの選手、いまの妻なんですが……。
(会場:笑)

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彼女だから、僕も応援してたんですけど、彼女がメダルまで獲ってしまって……。自分の彼女がメダリストって、結構ショッキング。内面は複雑な思いです。彼女がメダリストになって、自分のレベル、舞台とはまったく違う別の世界に行ってしまった……。競技者としてはヤキモチ、彼氏としても不甲斐ないなぁという気持ちもあって……。そこから、せめてオリンピックという同じ舞台で戦いたいなぁという意識が芽ばえ始めました。

フェリシモ:
海外へ視線を向けられたきっかけはどのようなところにありますか?

朝原さん:
僕は小学校5、6年生のときに、洋楽に目覚めてるんですよ。ちょっと変わった小学生でした(苦笑)。姉が洋画に興味があったのでその影響が大きくて……。あと、なぜかわからないですけど、幼少時、朝原家の朝食タイムにはカーペンターズがかかってたりしたんですよ。
(会場:笑)
あとは、親父に連れられて神戸港にクイーンエリザベス号を見に行ったりして、「これで、どこか違う国に行けるんだ」とか、こどもながらに思い過ごしてたんです。文集に夢を書くときには、ツアーコンダクター、通訳など、何かしら海外に出て仕事がしたいというのを書いていました。
で、100メートル走で日本記録で注目されて、そのあとに世界に通用する走り幅跳びの8メートルの記録を越えて、そこで僕の視界がぱーっと広がりました。それで、選択肢も広がってきました。大学4年生のときにヨーロッパ遠征に初めて行き、「ここに住んで練習したら、どうなるだろう?」と考えながら帰ってきて、「やっぱり僕はヨーロッパでやろう」ということで、ドイツの知り合いを頼って、施設やコーチを探してもらいながら、留学を許してくれる企業を探し就職しました。

フェリシモ:
陸上競技をするうえで、日本だときびしいのでしょうか? 

朝原さん:
日本にはすぐれたコーチもいらっしゃるし、施設も日本の方がいいかもしれない。でも、僕は、小さいころの「海外に出たい」という思いがあったので、別の形ではありましたが、陸上競技を通して海外に出て、仕事というか競技ができると……、これは一石二鳥なんじゃないかということで海外に行ったんです。

フェリシモ:
海外に行かれて、そこから見た日本はいかがでしたか?

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朝原さん:
いろいろあります。考え方の違い、生活習慣の違いもあります。競技に対する姿勢も違っていました。ヨーロッパは、陸上競技の中心地。夏にグランプリという試合が行われます。それはすべて賞金レースで、プロの選手が集まってくる試合なんです。いまでこそ、日本でも行われる試合にお金がつきますが、そのころは日本にはありませんでした。ヨーロッパで驚いたのは、すべてのプロ選手が生活をかけてやっているということで、それはレベルが高く、みんな必死なわけです。その本物の環境に身を置くことが、僕にとって刺激になりました。

フェリシモ:
朝原さんご自身、いろんな大会でプレッシャーも感じてきたと思うのですが、プレッシャーをどのように励みにしていましたか?

朝原さん:
プレッシャーというのは気にするからプレッシャーになるんですね。プレッシャーに打ち勝つというよりは、結局は気にしないということ(笑)。若いころは、(それが)むずかしかった。怪我をしたり、マスコミにいろんなことを言われたり……。でも、年を重ね、いろんなことを克服すると、人が言ってることがどうでもよくなってきました。それは人が判断することであって、自分がそういうふうに思えばそれでいいんだと割り切れるようになってきたんです。それがプレッシャーとうまく共存してやっていく方法じゃないかなと思います。

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日本代表として北京オリンピックへ!
お互いに信頼し合って走る
銅メダルを獲得。

フェリシモ:
北京オリンピックでは日本代表として、日本を背負って戦うことは、極限の状態に追い詰められることに近いのではないかなと思いますが、それはどういった感覚でしょうか?

朝原さん:
若いころは体力にも自信がありますし、この試合にピークを合わせる、となったら、そういうふうにパフォーマンスができていたので、日本代表でもふだんと同じことをすればいいとできる自信がありました。でも、北京オリンピックの場合は、36歳という年齢もあり、僕はオリンピックに向かう前に、ちょっとだけ怪我をしていたんですね。その怪我の影響で、自分の計画していた練習をこなせなかったんですよ。そのまま北京入りして、案の定、100メートルでは、2次予選で敗退してしまいました。走れてはいるんですが、本数がもしかしていけないんじゃないかっていう不安がどこかにあったんです。リレーというのは、予選と決勝2本なんですが、予選で走ったスピードよりも決勝で走る方がもっと早く走らないといけないし、しかも今回全体の3番目で予選通過して、その順位をキープしないとメダルを獲れない……。オリンピックを見ている国民のみなさんは、普通にいったら銅メダルを取れるだろうと思っていたのも確かだと思うんです。それを僕たち選手も知っていました。僕は僕で、最後のレース、最後のチャンスだと思っていたので、ここで不甲斐ない走りをしたり、失敗すると、一生引きずるだろうと思いました。だから、予選が終わって、決勝まで24~25時間だったんですけど、その時間は、もうすごく重たい気分でした。リレーメンバーもちょっと変になって……。奇声をあげたりですね、テーブルの上に転がっていたリンゴに落書きを始めたり……。
(会場:笑)

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僕たちは、“銅メダル”っていう言葉を出さなかったんですね。みんな「獲りたいな」というのは共通意識なんですけど、ここで「銅メダル獲りに行こうぜ」って言っちゃうと、メダルがどこかに逃げて行ってしまいそうで……。だから、黙っていたにもかかわらず、メンバーの中のひとりがリンゴになんと“金”って書いたんですよ。
(会場:笑)
「おい、金って!」って言うと「これは“キン”じゃない“カネ”だ」って言ってましたけど……、それくらい頭が変になってました。

フェリシモ:
そこまで極限の状態に追い込まれながら、見事、銅メダルを獲得されました!

(会場:笑)

朝原さん:
アハハ! ナイスフォロー!

フェリシモ:
リレーでは最年長ということで、朝原さんはチームを引っ張っていく存在だったと思います。ふだんはライバルの選手たちと一団となり巻き込んでいく力はどういうふうに持ってたのでしょうか?

朝原さん:
僕が長く続けていて、ヨーロッパにひとりで武者修行に行っていたことは、若い選手たちも見てきてくれています。昔、僕を目標としていた選手がリレーメンバーに入ってくるくらいの歳まわりなんです。3走の高平 慎士くんは同じネズミ年、12歳下なんです。1走の塚原 直貴くんは13歳下、末続 慎吾くんは、ライバルとしてともに走った人。それが最後の最後には仲間になって走らないといけない。リレーというのは、ある意味変な競技ですよね。一応チーム競技なんですが、ラグビーやサッカーのように同じフィールドでアシストしながら点を入れるというものとは違って、自分の責任で、自分のベストの体調で走る、バトンをパスするというところではつながりますが、結構孤独なんです。あと、9万人のスタジアムに入る前っていうのは4人集まっているんですが、入っていくときには1走、2走…… とそれぞれのところに連れて行かれるんですよ。中に入ると誰も助けてくれない。あとは、自分がやるしかない競技なんですね。それだけ、孤独。あとは、再現性、自分の確固たる感覚をいかに持っているかが大事なんですよ。そのときに「4人がつながってる」という気持ちがものすごく大切。ちょっとでも不安があると、ああいう場面では力が発揮できなかったりするので、つながり、連携が大切です。そういうのはどういうところから生まれるのかというと、やはり選手間の尊敬する気持ちであったり、信頼関係だと思います。
さっきVTRにも「朝原さんにメダルを!」というスローガンがありましたが、合宿をしているとき、「ひとりずつ何かお話してください」ということになり、「日本はもうずっとメダルを獲れると言われながら、決勝にずっと残ってきた。ほかの外国で途切れずに決勝に残ってきた国ってないんです。日本だけなんですね。でも、メダルが獲れていない。リレーメンバーの顔ぶれを見たら、そろそろ獲れるんじゃないか」というふうに僕は話したんです。「じゃあ、今回メダルを獲りにいきましょう」ということで僕が決起宣言をしないといけないところ、なぜか僕は本音と言いますか「僕最後の試合なので、引退する前にメダルをください」って後輩の選手たちにお願いしちゃったんです。
(会場:笑)
それがいい方向に進んで、「朝原さんは、最後だから獲らせてあげよう」という気持ちになってくれて……。それもひとつのチームワークになったと思います。

フェリシモ:
朝原さんご自身、オリンピックの重責に耐えられるかどうかと言ったら、いかがでしょうか?

朝原さん:
フフフッ。耐えられないから辞めたんです。
(会場:笑)
もう若い選手にバトンタッチしました。

(略)

フェリシモ:
オリンピックに出場できる人は、一握りだと思います。出場できる人とできない人の違いはありますか?

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朝原さん:
まあ、運もありますよね。オリンピック代表にはなかなかなれないけど、世界陸上には出れるっていう選手もいます。両方出られても、オリンピックではなぜか結果が出せないという選手もいます。人間のバイオリズムがあって、それにピタッと合ったりしないとなかなかオリンピックに出れないというのもあります。
僕は中学のときにハンドボールをして、そのあと強豪校で揉まれることなく、陸上をやってきた……。環境的に自分で情報を集めて工夫しながらやるというスタイルを確立したんですよね。それはたまたま。もし僕が陸上の強豪校で揉まれてやっていたら、途中で潰れているかも知れない。だから、人との出会いとか、あと人生の流れというのも大きな影響かも。才能だけではないと思います。

フェリシモ:
時期を見て、ベストな感覚を残していくことが大事だと思うのですが、肉体をマネージメントすることの楽しさを教えていただけますか? メモを取られているということが著書の中に書かれていましたが具体的には?

朝原さん:
メモは、僕が大学1年のときからつけています。始めは、練習日誌だけつけていたんですが、練習中に思ったこと、感じたこと、あと生活していてパッと閃いたことを書き留めたりしてきたんですね。人が見てもよくわからないと思います。というのは、僕が思っている感覚を自分のために書いているわけですから。陸上競技というのは再現性を求める競技です。再現性というのは、ただ1回の練習のときに、ものすごいスピードで走れても、それがもう一度試合で行われないといけないということ。その再現性を求めるときに、自分の頭の中だけで考えていたら忘れてしまうんです。「これ、どういう感覚でやってたっけ?」と、そういうことをメモに書いてたんですね。練習しながら、走り方、感覚を忘れてしまったときに、そのメモを見ながら「そうそう」と思い出すという……。

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疲労骨折をきっかけにリセット
ブレない感覚を持っていたから
怪我以前以上のパワーを発揮。

フェリシモ:
1999年に足首を疲労骨折されました。スポーツ選手として、骨折する前と後では、再現性の不安もあったと思います。怪我をしたことによって、考え方で大きく変わったことはありますか?

朝原さん:
本場のヨーロッパにいて、ものすごいハイレベルの試合を繰り返しやっていたんですね。自分の競技レベルも上がり、体の感覚もものすごい研ぎ澄まされてきます。だから自分の培ってきた感覚を失いたくない、囲い込みたい、失うのが怖いという気持ちが芽ばえていて……。自分の体のもっと奥深いところの狂いとかもわからなくなってきたんです。そこで、いちばんはじめに筋肉の怪我をして、そこで1ヵ月くらい休めば怪我は治ったはずなんですが「感覚を失いたくない」という気持ちがあり、休むことができなくて、スポーツドクターに痛み止めの注射を打ってもらってまた練習をする、ということを繰り返し、結局バランスを崩して疲労骨折をしてしまいました。
骨折をするまでは、もがき苦しみました。なかなか怪我が治らない、「何でだろう?」と。自分が持ってきた感覚、成績が遠ざかっていく、気力も自信も失っていく中で、ポキッと骨が折れたわけです。
そこで、僕は、すっきりしたんです。というのは、もう休むしかない。そこからリセットして、ゼロから新しい僕のスタイルをつくっていこうっていうふうに前向きな気持ちになれました。骨が折れたことは、選手にとって致命傷なんですが、のちのちの競技人生を変えるできごとになりました。

フェリシモ:
常に自分をマネージメントされているんですね。自分の体の経営者のように感じられたんですが、自分の姿を想像できなくなったり、見失ったりするときはありましたか?

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朝原さん:
僕は高校のときから癖がついていて、いろんなことをやってみて、取捨選択しながら自分に取り入れて、メモも取ってるし、何が良くて何が悪い、自分に合う合わないがだいたいわかっていて……。練習の方法でぶれるんですが、元に戻れるセンスを持っていると思います。
(略)

フェリシモ:
常に自分自身の感覚を持っているということなんですね。朝原さんには、お子さまがいらっしゃいますが、父親として自分の仕事、働いてる姿を見せるということは、子育てにおいてどういった影響があるとお考えですか?

朝原さん:
こどもにも真剣に接する気持ち、仕事でも何でも、親が一所懸命それに向かって没頭する姿を見せることは非常に大事なんじゃないでしょうか。僕は2007年に大阪で行われた世界陸上で、僕が試合で走っているのを娘に見てほしいというのもあったんですが、その前の、僕がどういうふうに試合に向けて本気で向かっていってるのかっていうのを見せたいというのがありました。試合そのものよりも過程で何か感じとってくれるんじゃないかなと思ってやっていました。そのときはメダル、獲れなかったんですけど、家に帰ると娘が金メダルをつくってくれてたんですよ! 

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100メートル走でいうと
いま40メートル地点
まだまだ加速中です!

フェリシモ:
いままで競技者として感動と夢を与えてきてくださった朝原さんですが、今後の活動はどのようにお考えですか?

朝原さん:
ひとつ言えるのは、僕は感動と勇気を与えるために競技をしていたわけではないんですね。結果なんです。がんばった結果を見て、みなさんが感動してくださっているんですね。今後は、自分が2児の父親ということもあり、こどもたちに夢を持ってもらって、好きなことに没頭できる環境をつくりたいです。陸上競技に関していうと、日本陸連の日本代表のリレーチームの強化スタッフに今年からなっています。今年すごく調子がよくて、8月にはベルリン大会がありますので、ぜひ応援していただきたいなと思います。あとは、トップアスリートだけでもダメ、裾野だけ広げてもダメなんで、両方を通して、全般的にスポーツを振興していきたいというのが僕の目標です。
(略)

フェリシモ:
スポーツをしていく中、企業とスポーツはどういった関係がベストだと思われますか?

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朝原さん:
いま大学院でいろいろ研究しているんですが、やはり1企業でスポーツ選手を丸抱えして支えていくというのはむずかしい時代になってきました。国全体で、企業、地域社会、行政、学校、みんなが連携してスポーツ選手を育てていこうという流れにならないと、うまくいかないんじゃないかなと思います。でも、ネットワークを広げるだけでいいのかというとそうでもなく、やはり国がイニシアチブを取っていかないと……。いまスポーツ省とか立ち上げるという話が進んでいるようですが、そこが統括するとスポーツ選手、こどもたちのスポーツなどすべてマネージメントできる環境が整うんじゃないかと思います。

フェリシモ:
常にパイオニア、第一人者として走って来られた朝原さん、引退後もスポーツと企業との関わりを引っ張っていく第一人者になっていかれるのではないかと感じています。

朝原さん:
まあ、いちばんになってやろうと思っているわけではなくて……(苦笑)。でも、いちばんになるって気持ちいいですけど。いまは、メダルも獲り、名前も結構知られているのでチャンスですよね。競技者なので、いちばんになりたいというのはありますが、僕は挫折もあり、まわりの人たちにも支えられてきましたので、恩返しというとちょっとくさいんですが、何か還元できればいいなと思います。

フェリシモ:
朝原さんが最近着目していることは何ですか?

朝原さん:
(苦笑)……着目ですか? いま、内閣府の教育再生委員をさせていただいているのですが、教育は大事だなと思っています。
(略)

フェリシモ:
引退前といまの生活で変わったところは?

朝原さん:
飲み会が増えましたねー。
(会場:笑)
あとは、体を動かす機会が減りました。あと陸上教室などがあるのですが、だいたい「見本を見せてください」って急に言われるんですよ。普通、選手ってウォーミングアップをして準備ができて、やっと思いっきり走れるんですけど、一般の人って、陸上選手はいつでもどこでも走れると思っておられるんですよね。「じゃあ、朝原さん、どうぞ!」って言われますが「いやいやいや……」って。そういう機会が増えました。

フェリシモ:
ふだんの生活でちょっとした心掛けで、体幹を感じられるようなトレーニングってありますか?

朝原さん:
体幹を感じるのはむずかしいですよ。やっぱり、中心から体を動かすというのは、非常に大切です。何にでも共通しています。ゴルフでもウォーキングでも、陸上もそうです。立ち位置っていうのも、頭の先や足の先ではなく、おへその下のど真ん中を意識するのが大切です。

フェリシモ:
失礼かと思うのですが、その立ち位置の姿勢を見せていただけますか?

朝原さん:
はい。

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(朝原さん:実演)

なかなか言葉で説明するのは難しいのですが、自分の足を地面にぴたっと吸いついている状態で立つというのもそうなんですが、いちばん考えないといけないのは、お腹の中心のところが前に行き過ぎても後ろに行き過ぎてもダメなんです。お腹の中心の位置をキープするのが結構むずかしいんです。ある程度、持ち上げるように意識して立つ、高めにキープしながら立つ、歩くというのが大事です。

フェリシモ:
100メートル走でご自身の人生を例えられたときに、いま40メートル地点だと、記事で拝見しました。残りの60メートル、どのように駆け抜けていこうとお考えですか?

朝原さん:
36歳まで競技を続けるというのは、結構長い方だと思います。自分が何歳で死ぬかわからないですが、でも、まだ半分もいってないかな……。なんで40メートルかというと、スタートして60メートル地点くらいが、世界のトップランナーのトップスピードの出るポイントなんです。40メートル地点は、スタートから加速の局面なんです。その局面から徐々に足の回転が上がり始めるんです。軌道に乗るところなんです。そこで僕は銅メダルを獲ったと思いたいんです。もしそれが60メートル地点だと思うと、あとは「メダルを獲った、おめでとう、じゃ、さよなら」と下がっていくしかないんですね。世界のトップランナーも60メートル地点ではトップスピードだけど、そこから徐々にスピードが落ちていくんです。そのスピードをいかに落とさないようにするかが100メートル走の勝負なんです。銅メダルを獲ったことは僕はしあわせで、いろんな方に祝福してもらったんですが、それで終わってしまうのが嫌なんですね。これをひとつの起爆剤っていうのもへんですが、銅メダルを獲ったことで、人生のピークをそこからさらに努力して、なんとかトップスピードに乗せたいなと思っているところです。

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<第2部>

お客さまとのQ&A

お客さま:
朝原さんの誠実なお人柄が大好きです。私は中学校の教師をしていますが、こどもたちとはありのままの気持ちで接しようと心掛けています。でも、教師同士の人間関係に疲れやすいです。朝原さんが、人と関係を築いていくうえで心掛けていることはありますか?

朝原さん:
そうですね。僕はいたって、素です。はじめから弱いところも見せます。そのままの自分を出してしまうのがいちばんいい方法じゃないかなというふうに思います。始めにカッコつけても、どっちみちボロが出ることになるので、自然体で接するのが自分自身にもストレスをかけないからいいんじゃないかな。

お客さま:
いままでにいちばん心に残った言葉は何ですか?

朝原さん:
とにかく自信過剰で育ってきたんです。根拠のない自信というのがいつもどこかにありました。なんであるのかなと考えると、昔から僕の母親が僕を叱るとき、例えば僕がテストの点が悪かったりすると、普通は「何でこんな点を取るの」と、その点数自体に怒ると思うんですが、僕の母親はどちらかというと「なんでしっかりしないの? やったらできるのに、なんで勉強しないの?」と怒ってきたんですよね。で、しまいには「あんたは、できるように産んであるんだから、やりなさい」と……。
(会場:笑)
それもね、すごい話なんですけど、こどもがそんなふうに言われて育つと、「僕はもしかしてできるんじゃないか?」と思ったりするのかなーと。もともと楽観的な性格なのかもしれませんが……。

フェリシモ:
朝原さんの実際のお子さまにも?

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朝原さん:
芽を摘むようなことはしたくないですね。些細なことでもできたら、しっかり褒めてあげるようにしています。自分に自信がなかったら何も始まらないじゃないですか。一歩踏み出すときには自信がある状態がいいと思うので、こどもに自信を持たせる育て方はしようかなと思います。

お客さま:
さまざまな場面を一歩ずつ乗り越えて来られたと思います。もう限界だなと思ってから、それを乗り越えることは可能なのでしょうか?

朝原さん:
僕も何回も辞めよう辞めようと言って引退宣言をすると思いきや続行宣言をしてしまったりしていたんです。やはり、自分の意志だけではむずかしくて、巡り合わせもありました。目の前に大きなモチベーションがないと、人って動けないと思うんですよね。僕は、くじけたあとにはそれに向かっていく大きなモチベーションがあったんです。もちろん、くじけるときもあります。「もう限界かな」と思ったときもあるんですが、なんかうまく、それがなくても違う目標設定をすることによって、モチベーションを掻き立てるというか……。やはり気持ちが前に向かないと体も動かないので、モチベーションですね!

お客さま:
100メートルを走ってるときは何を考えていますか?

朝原さん:
「この試合終わったら、どこに飲みにいこうかなー」とかではないです。もうスタートのときに、ほとんど勝負は決まっていて、スタートしたときに変なスイッチを押してしまうとずっと引きずって走ることになります。だから、始まって、いかにいい動きでゴールするかというイメージを確立させておくことが問題なんです。ある程度のイメージを持っているので、走るときはそのイメージを追って、走っています。そのイメージが明確で無心でいるときが、いいタイムが出ます。答えとしては無心ですね。

お客さま:
休日の楽しみは何ですか?

朝原さん:
いまはこどもと遊びに行ったりしています。本当は、ひとりになって大音量で音楽を聴きたいというのが本音です。ヒップホップやジャズとか好きですね。

お客さま:
いつもかっこいい朝原さんなのですが、ちょっとカッコ悪い朝原さんとか、最近奥さまに怒られた、なんてことがあれば教えていただけますか?

朝原さん:
いやいや、僕は結構だらしなかったりします。ほぼ毎日、嫁さんには文句を言われています。
(会場:笑)
整理整頓ができなくて、靴下脱ぎっぱなしとか、ドアを開けっぱなしとか、モノを元の位置に戻さないとか……、何千回と言われているのですが直らないんですね。あとは、普通にいろんな失敗をしています。

お客さま:
ご両親からのサポートはいかがでしたか?

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朝原さん:
食事でしょうか。母親がつくってくれる食事は、お弁当も含め、いま考えるとしっかり栄養素が詰まっていて、バランスがよかったんじゃないかなと思います。それ以外のことというのは、自由にさせてもらうっていうことがいちばんよかったと思います。

フェリシモ:
普通に考えると自由な環境ですと、怠けてしまいがちだと思うのですが……。

朝原さん:
基本的には楽しむスタンスなんですね。僕の中では、体をいじめることも楽しんだというか……、究極ですけどね。選手時代の後半は、自分の体を使って実験をしていたようなものなんですね。過去の選手で30歳以上のスプリンターがいなかったんで前例がないんですね。じゃあ、自分の体で、練習方法や食べ物、環境などをいろいろ試して、どうやって自分のポテンシャルを出していくかを楽しみながらやっていました。

お客さま:
長期にわたって、気持ちを維持していく方法があったら教えてください。

朝原さん:
モチベーションの変化というのはあると思います。競技のいちばんはじめ、楽しかったっていうのはタイムが出ることと他人に勝つことだったんですが、徐々にそれだけじゃなくなってきたんですね。選手として成長してきたら、じゃあ、どうやったらこんなタイムが出るのかなとか、途中のプロセスが楽しくなったり……。例えば10.15秒というタイムがあって、僕が10年前に出した10.15秒と辞めるころに出した10.15秒というのは、まったくアプローチが違うわけなんです。違うんだけど、結局同じ記録が出るというのは、若いころには気づかなかったこと、そういうのがわかり始めるのは選手にとってうれしいことなんです。ただ単に勝つ、早い記録で走れるという以外に、自分の成長している過程を見るとか、アプローチの仕方を楽しむとかがモチベーション維持につながるんじゃないかなと思います。

フェリシモ:
しあわせ社会づくりの主人公にちなんだ質問です。おひとりおひとりの人生を走り切るためのメッセージをお願いします。

朝原さん:
これから、僕もさらに新しい目標に向かって進んでいくわけですが、そのチャレンジ精神、とにかくやってみたら何かにつながっているんじゃないでしょうか? そのときは、失敗した、とか意味なかったということもあるとは思いますが、あとになって何かしらつながってくることはあると思うんです。僕はこれからももっともっと自分のわからない分野でも自分の勉強になりそうだったら、チャレンジしていきたいなと思っています。

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Profile

朝原 宣治さん(あさはら のぶはる)さん<大阪ガス株式会社・元陸上選手>

朝原 宣治さん(あさはら のぶはる)さん
<大阪ガス株式会社・元陸上選手>
*プロフィールは、ご講演当時のものです。
1972年生まれ。神戸市出身。高校時代から陸上競技に本格的に取り組む。走り幅跳び選手として高校3年時にインターハイで優勝。大学3年生の国体100mで10秒19の日本記録樹立。その加速力から「和製カール・ルイス」と呼ばれた。
大阪ガス株式会社に入社後、ドイツへ陸上留学し、ヨーロッパ競技会を転戦。アトランタオリンピック('96)に初出場し、100mで準決勝に28年ぶりに進出した。その後練習拠点をアメリカ、日本へ移して、コーチをつけずに練習。オリンピックには4回連続出場。世界陸上には6回出場。100mの日本記録を3度更新。自己記録は10秒02の日本歴代2位。2008年には自身4度目となる北京オリンピックに出場し、4×100mリレーでは、悲願の銅メダル獲得。同年9月競技生活引退。妻は、元シンクロナイズドスイミング選手でバルセロナオリンピック銅メダリストの奥野史子さん。一男一女の父親でもある。

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