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「いのちのバトンタッチ~映画『おくりびと』によせて」



<第1部>

青木 新門さんと本木 雅弘さんとの出会い
写真集から映画『おくりびと』まで

日々静かに暮らしていきたいと思っていたのですが、今年2月に映画『おくりびと』がアカデミー賞を取って、マスコミにあぶり出され、静かに生きるどころではなくなって面食っているわけでございます。
私が葬式の現場でご遺体をお棺に入れるという作業をしていたことを、『納棺夫日記』(文春文庫)にしたのが、いまから16年前の1993年。富山の社長ひとり、社員ひとりの小さな出版社からほんのわずか刷っただけでした。
その年の11月ごろに、本木 雅弘くんから電話がありました。インド・ガンジス川の縁のベナレスを旅してきたときの写真集を出したいので、その写真集にぜひ青木さんの『納棺夫日記』の文章を引用させていただけないでしょうかと、そんな電話でした。わたしの本を本木くんが目にしていたことに驚きました。「どうぞ。どこでも自由に使ってください」と言って電話を切りました。
それから次の年の春、1冊の本が送られてきました。本木くんの写真集です。その中の1ページに、この写真がありました。

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ガンジス川です。本木くんは手のひらに、沙羅双樹の葉っぱの上にろうそくをのせて、それを川に流す……、インドで送り火って言うんですけど、日本の鐘楼流しみたいな風習です。そんなポーズを彼がとっています。横の文字が私の本から引用された文章です。

「何もウジの掃除までしなくていいんだけど、ここで葬式を出すことになるかもしれないと思い、ウジを掃き集めていた。掃き集めているうちに1匹1匹のウジが鮮明に見え始めた。そして、ウジが必死に逃げようとしている、中には柱によじ上っているやつもいる。ウジも命なんだ。そう思うとウジたちが光って見えた」

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真夏に警察から「お棺を持ってきてくれ」と言われて届けたところ、部屋中ウジだらけになっている。真ん中にある布団をはぐった途端、ドキッとしました。内臓が全部ウジに食べられて肋骨まで見えている、そんなご遺体でした。お棺に入れて医科薬科大学法医学部まで運びました。その後、その家のウジを掃き集めていたときに、私が実感したことを書いた文章なんです。大変驚きました。日本中の人からアイドルと言われてちやほやされた26歳の若い青年がよりによって「ウジたちが光って見えた」という文章を選んだことに驚きを覚えたんです。ウジって気持ち悪いし、いやなもんです。仏教で言うある境地における視点を持たないと、光って見えない。あらゆるものが差別なく輝いて見える世界、という目を持たないと見えないわけです。26歳の本木くんの感性の素晴らしさに感動を覚えました。
半年ほどして、本屋に行ったら『ダ・ヴィンチ』(メディアファクトリー)という雑誌が目に入りました。表紙の本木くんがソファに座って本を持っている。その本が私の『納棺夫日記』なんです。私は驚いて、買って帰りました。中を見て、またびっくりしました。その中には「インド・ベナレスで見た光景は、生と死が当たり前のように繋がっている、そんな世界であった」そんなことを彼は書いているんですね。
ベナレスはビンズー教の聖地、5000年前のバラモン教の時代からそういう所なんです。インドは9割方ビンズー教。そのビンズー教の人たちはここで火葬されてその遺灰をガンジス川に流されることが、最大の願望、夢なんです。ですからインド全土から集まってきて、そこで火葬されたいと事前にお願いしているんです。それでも、すぐ死ねるわけでもないので、そこに座っている……。死にに来た施しを受けている人がたくさんいるんです。そこでは、1日に100体、だいたい24時間あちこちで火葬していて、もうもうと煙が出ている。風向きによっては異様な匂いがする。その煙の中にそういった人たちがいて、中には物売りの少年、裸で走っている少年、牛、猿がいたり、犬がウロウロ。上は煙、下には牛の糞、その糞と糞の間に聖者がヨガをしている……。そんな生と死が混沌としているような場所。その場所のことを本木くんは「ここでは生と死が当たり前のように繋がっている、と感動した」と書いていました。そして「飛行機に乗ったときに、スタッフのカメラマンが持っていた『納棺夫日記』を読み、『ウジが光って見えた』というところに感動を覚えた。なんとしても、本を映画化したいと決意した」と……。
びっくりしました。それで、すぐに本木くんに手紙を書きました。「映画化したいと言ってますけど、お棺とか死体とか納棺を真正面から取り上げて映像化したら、暗くて重い映画になるんじゃないでしょうか。(中略)しかし、本木さん、あなたがベナレスで生と死が繋がっている、しかもウジが光って見えたと、そういう視点でつくられるんだったらいい映画ができるかも知れませんね。しかし、監督とか脚本とかいろんな人が混じってくると、どうしても違ったところへ行きますから、どうでしょう。著作権は誰にも渡しませんからあなたがライフワークとして生涯かけて何十年かかっても結構ですから、ひとりでやられたらどうですか? チャップリンの『ライムライト』のように……」と書いたんです。
本木くんは、すぐに返事をくれました。「ありがとうございます。しかし私は一介の俳優。監督、脚本なんてとてもできません。しかし、青木さんから映画化を許可していただいたと、私は受け止めました。ですから、あらゆる映画関係者に働きかけて、必ず実現したいと思います」と。

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それから5、6年間いろいろな人に相談したけれど、誰ものってくれなかったということでした。
また何年か経ち、ひとりのプロデューサーが動き始めました。それは、6年経っても7年経っても映画化を諦めなかった本木くんの熱意にほだされて、動き始めた方。最近では『たそがれ清兵衛』という映画をつくっている中沢 敏明さん。彼が動き始めて、そうそうたる企業がお金を出し合って制作委員会ができ、脚本を小山 薫堂さんで進められました。
やがて、脚本が送られてきました。仮題で『納棺夫日記』とあり、『原作・青木 新門』と明記されていました。
(略)
(脚本では、納棺夫はお金がたくさんもらえるような書き方がされると感じたこと、最後は残された人の悲しみや苦しみをいやすという形で終わっていて、亡くなった人がどこへ行ったかわからない書き方がされていました。人間、どこへ行くかわからないというのがいちばん不安なんで、私は納棺の現場でそういうことがわかって、それを書いていたのですが、その部分がカットされていました。そこで)直してほしいところを書いて手紙を出したんです。すぐ、手紙が来ました。「制作委員会の決定事項だから、一切直すわけにいきません」と。そこで私から「それでは題を変えていただきたい、そして『原作・青木 新門』というのは外していただきたい。本は本としてとっておきたい」と伝えました。
(略)
しばらく経ったら中沢さんが家までやってきました。「私は、こことここを直してもらえたらそれでいいんです。どうしても納得できないんだ」と、平行線のまま別れました。
それから、6ヵ月経ったころ、本木くんから直接電話がありました。「一度お目にかかりたい」と富山のホテルから電話してきてるんです。富山まで来ているなら、会うしかないなと思いました。本木くんとホテルの近くの小料理屋で会いました。本木くんは、離れた所にきちっと座ってるんですよ。「もう足を崩してください」って言うんですが、全然近づこうとしないんです。あんな礼儀正しい男がいるものでしょうか。「映画は始まっているんでしょう。映画は映画でお作りになったらいいじゃないですか。妥協しましょう。名前だけは外してください。本は本としておきたい。それでいいでしょう」と言うと、彼はやっと近づいてくれました。
わたしと本木くんの間にそういうことがあり、それから1年間、また音沙汰がなくなります。その間撮影をされていたんだと思います。
去年6月、本木くんから1通の手紙が届きました。「完成試写会が東京の有楽町でありますので、ぜひ観にきてください」と。観にいきました。そして、目を皿のようにしてクレジットを見てたんですけど、私の名前は出てきませんでした。そしてタイトルも『おくりびと』になっていました。約束守ってくれたな、と思って観ました。それもさることながら、いい映画になったなと思いました。私が帰ろうとしたとき、本木くんが駆け寄って来て「いかがでしたでしょうか?」って。「いい映画になったね。ここまでいい映画になるとは想像もできなかった。ごめんね。何よりも俳優さんの演技力はすごいもんですね。脱帽しました。また、わたしの名前を抜いてもらって本当にありがとうございました」と言って帰ってきました。

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それから、3ヵ月後に、全国公開。カナダのモントリオールとか中国の映画祭とか、映画祭という映画祭の賞を取って、たくさんの人が観に行かれました。そのころも、わたしの名前はまったく表に出ていませんでした。
そして、今年の1月23日に本木くんから突然電話がありました。「アカデミー賞にノミネートされました」って。そして2月23日3時半ごろ本木くんから電話があり「取りました!」と電話がありました。わたしは「おめでとう」って言いました。そんな風に、わたしと本木くんの間には裏話はあるわけです。
友達は「ばかじゃないか。こんなにヒットしたんなら、仮に1%契約していたらいまごろは、1億くらい入ってきたのに」と私に言いました。しかし、お金に代えられないんです。それほど、私にとって重大なことなのです。
ひとつの例を挙げせていただきます。昔、比叡山に源信という僧侶がおりました。その方は『源氏物語』の中に横川の僧都という形で登場します。紫式部も法然さんも親鸞さんも尊敬しておられた源信さんが、15歳のとき村上天皇の前で、仏法を説く講師に選ばれているんです。やがて比叡山を背負って立つほどの秀才です。その彼が、法話して大変ほめられ、褒美の品・反物をいただきました。それを奈良に住むお母さまに送ったそうです。そしたら、しばらく経ったらその反物が送り返されてきました。そこにお母さまからの和歌が添えられていたんです。その和歌がすごいんですよ。
『のちの世を渡す橋となると思いや この世を渡る僧となりたるは悲し 誠の具像者になってたもれ』
どういうことかと言うと、私が安心して死ねるためにのちの世を渡す橋になってほしいと思って、あなたを比叡山にあげたのに、この娑婆をうまく渡って僧に成り下がったのか。母は悲しい。本物の僧になってたもれ、と。
私がさきほど言いました。いまからどこへ行くかわからないというのは、不安なものです。いま、不安なんです。明日どうなるかわからないというのは、今日不安なものなんです。それと同じように、その後がわからないまま安心して生きれない。だからこそ、のちの世を渡す橋になってほしいと思って、あなたを比叡山にあげたんだとお母さんは言っておられるのです。彼ははっと我に返って、出世街道を行くのをやめて、比叡山の隅の横川に移り住み、そこで書いた書物は『往生要集』と言います。わたしもそういう考え方でいるので、それを『納棺夫日記』の中で書いたんだけど、全部カットされている。そして残されたものの悲しみや苦しみをいかにしていやすかということ、いやしの世界で終わっているんです。根本的な解決じゃないんです。いやしは一種のその場を繕う、匂い消しみたいな感じ。その程度で終わっていることが、わたしはどうしても納得できなかった。それにこだわるようになったのはどうしてかを、いまからお話させていただきます。

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「8歳のときの原体験が、
私の生と死を繋げたものでした」

私は富山県の黒部平野で生まれました。5歳で父母に連れられて満州へ行きました。終戦を迎えたのが8歳。父は終戦直前にシベリア戦線へ行ったきり。母と私と3歳半くらいの妹とその下に弟がいました。親子4人が逃げまどっているうちに、収容所に入れられました。収容所に入って、すぐ弟が死にました。しばらくして、収容所のなかに発疹チフスが大流行しました。毎日誰かが死んでいくという悲惨な状態になりました。やがて母が発疹チフスにかなり、隔離されました。わたしと妹は、知らないおじさんやおばさんの間に取り残されました。ある朝、目が覚めたら枕元で妹が死んでいました。抱きかかえて、死体を焼いているところへ妹をポンと置いていきました。誰かが焼いてくれるだろうと思って置いてきただけです。そんな体験がわたしにあります。

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これは、わたしが満州で7歳のとき、小学校に入学したときの写真です。

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これは、実はわたしではありません。これは昭和20年9月長崎の原爆の後に撮られた写真です。アメリカの日本へ初めて上陸したアメリカ軍の従軍カメラマン、ジョー・オダネルが撮った写真です。ジョー・オダネルはアメリカに帰ってから、ホワイトハウスの専属カメラマンになりました。彼がいまから18年前、軍の機密に違反して撮った写真を隠し持っていたんです。それを定年になってから現像したら、広島と長崎の悲惨な写真がいっぱいありました。その中に、この写真がありました。 (略)
いまから15年前、彼は日本で初めて写真展を開きました。私は見に行きました。見に行って、この写真の前で動けなくなりました。この写真の横に文章が添えられてありました。
「この少年は弟の死体を背負って、仮の火葬場にやってきた。そして弟を静かに降ろし、熱い灰の上に置いた。少年は兵隊のように直立し、あごを引き締め、決して下を見ようともしなかった。ただぐっと噛んだ下くちびるがすべての心情を物語っていた。火葬が始まると、少年は静かに背を向け、その場を立ち去った」
私はそれを読んでいる間に、涙が出て嗚咽していました。そうしたら、ジョー・オダネルと通訳の方がやってきて「どうして泣いているのか」と聞かれました。「私、この子と同じことを満州でしてきた。妹の死体を抱えて灰の上に置きました。それを思い出して泣いているんです」こう言いました。彼は私を抱き締めました。私は、オダネルさんの胸のなかで嗚咽して泣きました。そしてこの写真をいただきました。

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「少年時代の原体験から一歩も出ていない、
それが人生に何か影響を与えたんじゃないかなと思っています」

そういう少年時代の原体験が私にはあり、そこから一歩も出ていないと、いまそのように思っています。それが人生に何か影響を与えたんじゃないかなと思ったりもしています。やがて日本に帰れるということになりました。引き揚げの2日前、痩せこけていまにも倒れんばかりの母がわたしの前に現れました。わたしは母の手を引いて日本に帰ってきました。帰ってきて、じいちゃんとばあちゃんと一緒に暮らし始めました。(中略)父もいないし、母はすぐ家を出て行ってしまいました。最初はよかったけど、しばらくしたら金がなくなったんでしょうね、働くところもない田舎です。じいちゃんは家にあるものを売って、生計を立てました。そんな生活の中大きくなり、早稲田大学の政治経済学部に入ることになりました。でも、お金がないんです。本家のおじが屋敷を田んぼにしてご近所の方に貸して、そして私に入学金をくれました。そこまでして学校に入ったのはいいんですが、すぐ60年安保があって、友だちに誘われて単位は取らず学生運動ばかりやっていました。
虚無感の中でアパートにいたとき、富山の駅前で飲み屋をやっていたおふくろから電報が届きました。帰るとおふくろは入院していました。おふくろが入院している間、私が店を開きました。店をやっているうちに恋人ができたりして、大学にも行く気がしないので、そのまま中退です。
(略)

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そのころから、詩を書くようになりました。詩を2、3篇書いたら、仲間の詩人たちにほめられました。詩人気取りで恋人とつきあいながらおふくろの店を手伝っているうちに、おふくろと経営方針についてケンカになり、飛び出して自分で昼は喫茶店、夜は飲み屋というような店をやりました。ある日、店に吉村 昭という作家が来ました。彼はなぜか名刺を置いていかれました。私は、その名刺を見ながら「小説というのは金になるかもしれんな」と思い、小説らしきものを書きました。戦後15年間一度も働かないで家にあるもの全部売って、最後に仏壇まで売ったじいちゃんのことを書いて、「なんとかなりませんか?」と手紙を付けて、吉村さんへ送りました。
3ヵ月くらいたったとき、1冊の本が送られてきました。目次を見るとわたし私の名前が載ってるんです。びっくりしました。そして、一度東京に出て来いと書いてあったので、勇んで東京に行きました。その本を出しておられたのは、丹羽 文雄さんでした。丹羽先生が戦後の若手の作家を育てるために、自腹を切って出しておられた同人誌でした。行きましたら、吉村 昭さん、津村 節子さん、三谷 晴美(瀬戸内 寂聴)さんとかがおられるんです。そうそうたる作家の方が参加している同人誌に、私の初めて書いた小説が載って舞い上がってしまいました。富山に帰って、原稿用紙を山のように買って、作家気取りで書いていました。(中略)そのころから、女房とケンカするようになりました。女房が「ドライミルクが買えない」とかなんとか言うんです。「ドライミルクくらい小説が売れたら1トン車にいっぱいくらい買ってやる」って、ケンカになるんです。ある日、テーブルがひっくり返るくらいのケンカになったんです。女房が私に投げつけた新聞がポンっと下に落ちたときに、ふと求人欄が目に入ったんです。そこに「新生活互助会社員募集」と書いてあるんです。何の会社かまったくわからないんですが、住所を見るとうちのすぐそば。見に行くと普通の民家で、会社ってもんじゃないなあと思ったんだけど、ドライミルクでケンカばかりしているのもかなわんと思って履歴書を持って行きました。戸を開けると、机がふたつあって、その机に橋を渡すようにしてお棺がひとつ置いてあったんです。これは大変だと思って、戸を閉めようとした瞬間、お棺の横に座っている男と目が合って、なんとなく入って行かざるを得なくなって……。履歴書を出したらすぐ採用。次に日から行きました。行っても葬式も入ってこない「お棺でも作っておきなさい」と言われ、お棺ばかり増えていって、葬式はひとつも入ってこなくて……。そのうちに葬式が出たと言って、葬儀の現場に連れていかれるようになります。
私がこの世界に入った昭和20、30年ころは、まだ自宅死亡が90%という時代でした。ところが今日の社会は、病院、施設死亡が90%。逆転ですね。当時は、自宅で着ているものを脱がせて体を拭いて、経帷子、あるいは白衣をお着せして、手を組んで、数珠を持たせてお棺の中に入れるという、湯灌、納棺の作業は、100%親族がやっていて、人に依頼することは一切ありませんでした。(中略)人間死ぬと革袋に水を入れたようなもの。袖を通すのに曲げたりすると、もう鼻とか口とか穴という穴から血の混じった汚らしいものが出てくるんです。
おまけに、その湯灌をしているのは、素人の親族です。また横から長老みたいな人が「ああでもない、こうでもない」って言うんです。お棺を届けて、見ていて、なんてひどいことをするんだろうと思っていました。で、つい口出ししてしまったんですよ。「こういうふうになさったらいかがですか?」って上手にされていた家のやり方を思い出して言ったんです。そうしたら、「お前よく知っているのなら、手伝え」と言うんです。手伝っているうちに誰もいなくなって、私ひとりだけになってしまったんですから。汗をかきながら、やっとの思いでやりました。それを見ていた親族にまた不幸がありました。その方が会社まで来られて「ぜひあの人に来て欲しい」と言われました。100%親族がやっている時代ですから、それが印象深かったんでしょう。そしたら、会社の男が「お前そこまでやってくれていたのか。知らなかった」と袖の下から金一封くれて……。だんだん深みにはまっていくんですね。
(会場:笑)

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そのうち会社も2、3人だったのが10何人になって毎日葬式に出るようになりました。(中略)私は、ほかの仕事を全部外されて、いつのまにか納棺専従社員ということになったんです。そして、納棺のない日はお休みになったりするようになりました。そんな特殊な社員になっていたんです。
そのころ、富山県はまだ火葬場で働いておられる人のことを穏坊さんと名付けてとてもさげすんでいました。差別していたんです。その方が住んでいる村の、その方となんの関係もない隣のお嬢さんがお嫁に行けないくらいに差別された、そんな時代がありました。死に携わるだけで非常に忌み嫌われる、まして納棺専従社員なんていうことになると、穏坊さんが嫌われたと同じように嫌われる、そんな時代でした。やったときは意識もしていませんでした。ところが、ある日突然分家のおじがやってきました。大学の入学金まで作ってくれたおじです。そのおじが「恥ずかしいやないか。すぐやめろ。おれたち親族は街も歩けない。やめないなら、絶交だ。親族の恥だ」と言うんです。わたしは、あのころゆがんでいました。父を恨み、母を恨み、社会を恨み……。そんなときおじに絶交を言われて、私もせいせいしたんです。(略)
でも、それから私は意識するようになりました。社会全体から白い目で見られているような気になって、誰とも会わなくなったんです。いまで言うひきこもり。道を歩いていても、誰か来ると路地に隠れたり……。そんな生き方になってくるんですね。ある夜、女房に近づこうとしたら「死体に触った手で触れられるとその気になれない。汚らわしい」と言われました。そして「娘が小学校を出るまでは納棺夫の仕事をやめてくれ。小学校の先生に『お父さんのお仕事は何ですか?』と聞かれたとき『納棺夫』と言うわけにはいかない。」そんなことを女房が泣きながら言ったので、わたしも辞めようと思いました。私自身、卑下しながら隠れるように生きている、そんな気持ちを娘に味わせたくない、そう思い辞表を書きました。そして、会社に行き、その日の仕事が終わったら渡そうと思っていた日に事件がありました。その事件のことを本に書きましたので、読みます。
「今日の家は行き先の略図を渡されたときは気づかなかったんだが、玄関の前まで来てはっと思った……(中略)。私の全存在がありのまま認められたように思えた。そう思うとうれしくなった。この仕事をこのまま続けていけそうな気がしてきた」
納棺夫として、昔の恋人のお父さんのご遺体に会うことになるとは……。運命のいたずらみたいなもんですけど。昔、母の店を手伝って、大学を中退したコンプレックスのかたまりのときに、彼女に「お父さんに会ってくれ」と言われて……。彼女のお父さんは老舗の製薬会社の社長でした。私が納棺を始めたとき、彼女は私の横に座ってお父さんの額を拭いたりなでたりしながら、ときどき私の汗を拭いてくれました。その瞳が、私がやっていることも含めてまるごと認めてくれているように感じました。人間追い詰められて行き場がないとき、何かにまるごと認められると生きていけるんじゃないかなあとこのとき思いました。

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そのあと、私は会社の近くの医療機器店に行きました。これまでは、納棺夫の仕事を汚い黒い埃だらけの服でいやいややってたんです。しかし「どうせやるなら……」という気持ちになりました。お医者さんが外科の手術をするときに着る白い服を一式買いました。往診用の鞄も買いました。自宅葬のときにお坊さんが着替えるようにわたしも納棺のときに真っ白い服に着替え「ただいまより納棺をさせていただきます」と、いままで言ったことのないようなことを言って、礼儀礼節もきちんとしてやりました。同じことやっていても、いやいややっているのと、ぴしっとやるのとでは雲泥の差ほど社会的評価が違うことを私は現場で学びました。汚い服でいやいややっていたときは「通夜が始まってるのに、何やってるんだ。早く帰れ」と追い出されるような感じでした。ところが白衣を着るだけで、先生さまと呼ばれ「私のときもお願いします」と予約まで入れてもらいました。
(会場:笑)
仕事は忙しくなりました。忙しいけれど友だちに会っていない、親戚とも会ってない、作家になる意欲も失っていました。何のためにやっているのかわからなくなりました。いつも悶々としていました。そんなとき、日記をつけるようになるんです。「今日は疲れた」「こんなことがあった」「辞めようかな」とか。20年後に、その日記をまとめたのが『納棺夫日記』です。

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「死者はみんないいお顔をしてるんですよ。
死を受け入れるとき、輝いて見える世界があるのだと思います。
生と死が繋がっているんです」

おばから知らされたのですが、絶交をしていたおじが末期癌で入院していました。絶交していたから知らなかったんです。今晩か明日が峠だという夜、おじに会いに行きました。私は、またおじに何か言われたらやだな、会いたくないなという思いもありました。
おじの期待を裏切って納棺夫に成り下がった自分があさましかったんです。(中略)一時的に意識を取り戻したおじは、震える手を私に差し出すんです。おじの目から大粒の涙が流れ落ち、口が動いて……。私の耳に「ありがとう」と聞こえました。その瞬間、私も涙があふれ「おじさん、ごめんなさい」という気持ちになりました。その日は、泣きながら帰りました。帰ってすぐ、おじは亡くなりました。
(略)
これは、井村病院の息子さんの闘病日記を私の友人が文章を直して自費出版して関係者に配った本です。あまりにも素晴らしいので東京の出版社から、『アスカへまだ見ぬ声』という本になって映画にもなりました。その本を読み始めたとたん、私、涙で読めなくなりました。井村先生が癌の手術をして治ったかなと思って検査に行ったら全身に癌が転移していた。こんな文章です。
「癌が肺に転移したとき、覚悟はしていたものの私の姿は一瞬氷つきました。その転移はひとつやふたつではないんです。レントゲン室を出るとき、私は決心しました。歩けるところまで歩いて行こう。その日の夕暮れ、駐車場に車を置きながら、私は不思議な光景を見ていました。世の中がとっても明るいんです。スーパーへ行く買い物客が輝いて見える、走りまわる子供たちが輝いて見える、犬が、枯れ始めた稲穂が、雑草が、小石までもが光って輝いて見えるんです。部屋に戻って見た妻もまた手を合わせたいほど尊く輝いて見えました。」
全身に癌が転移していた。そんな日の晩に、いい文章を書こうとかかっこよく書こうとか、日記は書かないと思いますよ。この文章は井村先生が、自分が見た光景をありのまま書いておられると、私は信じて疑いません。私は、この文章を読んだとき宮沢 賢治の『銀河鉄道の夜』を思い出しました。これは、チュウイン、49日のことを書いているんですね。下は北上川、上には天の川、星が輝いている。そんな中汽車が上がっていく。上がっていく瞬間にこんな一行があります。窓から見える光景に「川原のススキが光り川原の小石が水晶のように輝き」という文章が宮澤 賢治の文集にあります。「ここではあらゆるものが差別なく水晶のように輝いている」。私、ハッと思いました。生と死が限りなく近づくか、あるいは生きていながら100%死を受け入れたとき、井村先生はここですね。歩けるところまで歩いて行こう、と……。これは死を受け入れた瞬間の言葉なのです。
あの絶交を言い渡したおじが変わったのは、おじも死に直面したときあらゆるものが輝いて見えていたんじゃないかなと思います。それは我々生きているとき、死を受け入れようともしないときには見えない世界。しかし、空にジェット機が見えなくてもジェット雲があればジェット機が飛んでいたというのは間違いないと思うんです。それと同じように、おじの顔も捉えました。
そのころから、私は納棺に行ってもお顔ばかり気にしてみるようになりました。そして、多くの顔を見ているうちに気づいたことがありました。死者はみんないい顔をしている。特に亡くなってすぐのお顔はどんな死に方をしていてもいいお顔をしています。ですから、死後すぐのお顔を見た方と、死後しばらくたったデスマスクを見た方では、死の捉え方がまったく違うと思います。例えば、マザー・テレサは行き倒れの人を抱えていて、死の瞬間を見ています。
アメリカの精神科医キュボラー・ロスの『死ぬ瞬間』という本です。彼女が死の臨床の現場で死の瞬間ばかり見て書いた本です。あるいは宮澤 賢治もそうです。妹、トシ子の死ぬ瞬間を見ています。そんな死の瞬間に宮澤 賢治が書いた詩の中で最高傑作といわれているのが、『永訣の朝』『無声慟哭』『松の針』という死の現場で生まれた詩です。私は、死の現場にいた人といない人は全然違うということを申し上げたいんです。
その典型的なのは平成9年に大変な事件を起こしたサカキバラセイトという14歳のA少年。供述調書の中にこんな文章があります。
「君はなぜ人を殺そうと思ったのですか?」という捜査官の質問に、A少年は、「僕は家族のことなんか何とも思っていなかったんですが、おばあちゃんだけは大事な人だったんです。そのおばあちゃんが僕が小学校のとき死んでしまったんです。おばあちゃんを奪い取ったのは死というもんです。僕は死というものが知りたくなり、最初はカエルやナメクジやネコを殺していたんですが、町内のネコを何匹殺しても死とは何かわからないので、やはり人間を殺してみなければ本当のことは分からないと思うようになっていったんです」。
この供述調書が事件の動機だとするならば大人社会が死を少年たちに見せまい、見せまいとして育ててきたつけではないだろうか。このように思われてなりません。
もうひとつ例を挙げます。
その中のA少年と同じ年代のお孫さんの作文が私、大好きなんです。ちょっと読み上げます。
石田ヒデカズ、14歳
「僕はおじいちゃんからいろんなことを教えてもらいました。特に大切なことを教えてもらったのは、おじいちゃんが亡くなる3日間でした。いままで人がテレビなどで死ぬとまわりの人が辛そうに泣いているのを見て、なんでそこまで悲しいのだろうと思ってました。しかし、いざ僕のおじいちゃんが亡くなろうとしているところにそばにいて、僕はとても寂しく、悲しく、辛くて涙が止まりませんでした。そのときおじいちゃんは僕に本当の命の尊さを教えてくださったような気がしてなりません。それにどうしても忘れられないことがあります。それはおじいちゃんの顔です。おじいちゃんの遺体の笑顔です。とてもおおらかな笑顔でした。いつまでも僕を見守ってくださることを約束してくださるような笑顔でした。おじいちゃん、ありがとうございました。」
そんな作文です。私が何を言いたいかと申しますと、このふたりの少年がどうしてこんなにこんなに違ってくるのかということを言いたいんです。
宮沢賢治は『永訣の朝』という詩にもあるように妹としこの死の瞬間に会っています。私は、死の現場にいた人といない人は全然違うと思います。いまの社会には死の現場がないんです。核家族化、仕事の関係、医者の延命主義、廊下に親族を待たせてICUにいる病人をモニターを通して見ている、そんな世界が今日の社会。全部頭で考える死なんです。本当に死を見た人は違うんですよ。宮沢 賢治なんてよだかが死ぬのでさえ「よだかがぐにゃっと首を曲げてにっこり微笑んで死んでいました」と書いています。賢治の書く童話は全部にっこり死んでるんです。あるいはアンデルセンの『マッチ売りの少女』。少女は光の中のおばあちゃんの中に入っていく、次の日の朝、少女はほっぺを真赤にしてにっこり笑って死んでいました。アンデルセンも死の真相を知っていたんですよ。
我々は現場をないがしろにして頭で考えるようになってしまった。しかもふたつをわけて考えるようになってしまった。生にのみ価値がある。それを裏付けるのは経済であり、お金なんですよ。でも死は隠すんです。
小学校3年生の男の子の詩です。
「僕は今日、学校の帰りにトンボをつかまえて家に帰ったら、お母さんがかわいそうだから放してあげなさいと言った。僕はトンボを放してやった。トンボはうれしそうに空高く飛んで行った。それから台所へ行ったら、お母さんがほうきでゴキブリを叩き殺していた。トンボもゴキブリも昆虫なのに。」
という詩です。
少年はトンボもゴキブリも差別がありません。しかしお母さんは差別があります。なぜか、ヒューマニズムに育ったんです。
もし、おじの臨終の場に行ってなかったら、いまでもおじを憎んでいたと思います。しかし、おじの臨終の場に行くことができ「おじさんごめんなさい」と謝ることができました。そんな現場から生まれた詩がこの詩です。

(画像)
この写真は柏です。柏の葉っぱというのは新芽が出たのを見届けてから散るそうです。大好きで写真を撮りました。

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人は必ず死ぬのだから
いのちのバトンタッチがあるのです

死に臨んで先に行く人が
「ありがとう」と云えば
残る人が
「ありがとう」と応える
そんなバトンタッチがあるのです

死から目をそむけている人は
見そこなうかもしれませんが
目と目で交わす一瞬の
いのちのバトンタッチがあるのです

こんな詩をつくりまして、今日のお話のタイトルにさせていただきました。
マザー・テレサが自叙伝にこんな文章を書いています。
「健康な人や経済的に豊かな人はどんなウソでもつけますよ。飢えた人、貧しい人は握り合った手、見つめ合う瞳に本当に言いたいことを込めるんです。私、それがわかるんです。死の直前にある人でもかすかに震える手でありがとうと言っているのが」
最後にマザー・テレサがノーベル平和賞を受賞したとき、インタビュアーの質問に対してパッと答えた言葉が、
「あなたが家にお帰りになったら、ご家族に『ありがとう』とやさしい言葉をかけてあげてください」
でした。すごいですね。原点はここにあると思いました。

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<第2部>

お客さまとのQ&A

お客さま:
2年前に父を亡くしました。青木さんの今日のお話で、病を憎んで死を恨まずと感じました。毎日の生活が続くと父の死がだんだん薄くなっています。どのようにあのときの気持ちを鮮明に残していったらいいのでしょうか?

青木さん:
お客さまは実際に死の瞬間に立ち会われましたか? 立ち会われた方と、そうでない方では違ってくるんです。

お客さま:
半年間介護をしまして、最後を看取ることができました。

青木さん:
私が何を言いたいかと言うと、さきほど本木くんがインド・ベナレスで生と死が交差する瞬間に見た世界、それが「ウジが光って見えた」という世界なんです。それは、私の昔の恋人であってでも、私をまるごと認めた、と私は思った。だけど、あの恋人と道で出会ったのだったら目を背けていただろうと。大好きだったお父さんの死の現場にいたから、彼女はそういう目をできた。あるいは、私のおじが「ありがとう」と言ったのは、おじ自身が自分が死と直面していた、生と死の瞬間にあったわけです。生と死が瞬間にあった世界から見た世界というのは、雑草も小石もゴキブリもあるいはウジも光って見えた世界。その光というのは私が見たのは、妹を捨ててきたときに見たんですね。8歳のときです。それを仏教では大悲といいます。大きな悲しみというのは、いっぺん向こうがこちらをつかんだら離れないんですよ。それを仏教では、摂収不捨と言います。阿弥陀さまはつかんだら離さないという捉え方をするわけですが、光の方が離さないんですよ。

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その悲しみに出会うと今度はやさしくなるんです。同時に、それを大悲大慈と言います。9歳くらいまでに大悲大慈に出合った者は、本当は実業をやったらだめなんですよ。虚業か宗教に入るべきなんです。なぜなら、例えば、明恵さん、道元さん、親鸞さん、そういう人たち全部、9歳までに父と母と別れたり、比叡山にあげられたり、法然さんなんかは目の前で父親が殺されたりという、そういう人たち、あるいは、詩人でも、井上 靖さんとか……。だから、やさしさを持って相手のことを思いやって商売なんかできないですよ。
(略)
幼い日に大悲に出会う、いつかまたそれに出会うと思います。あなたがおっしゃっているように気持ちを維持していくのはむずかしいですね。
例えばお釈迦さまがなぜえらいかと言うと、29歳で仏教の世界に入られて45年間変わらず進まれたから偉いんです。
(略)
宮澤 賢治の詩に「目にて言う」と言う詩があるんです。

「ダメでしょう。
止まりませんなあ。
ガブガブ湧いてるんですからなあ。
夕べから眠らず、血も出続けてるもんですから。
空は青くしんしんとして、
もう間もなく死にそうです。
けれども何といういい風でしょう。
もうテンメイが近いので
あんなに青空から盛り上がって湧くようにきれいな風がくるんですなあ。
あなたは医学会の帰りかなんか分かりませんが、
黒いフロックコートをめして、
こんなに本気にいろいろ手当てをしていただければ、
これで死んでもまずは文句はありません
血が出ているのにかかわらず、
こんなに呑気で苦しくないのは
コンパク半ばから、身体から離れたのですかなあ。
ただどうも血のためにそれを言えないのがひどいです。
あなた方のほうから見たら、ずいぶん惨憺たる景色でしょうが
私がみえるのは、
やはりきれいな青空と透き通った風ばかりです。」

これを読んで驚きました。と申しますのは、我々が死体とか惨憺たる世界に住んでいますが亡くなった人はきれいな青空と透き通った風ばかりですね。もしそうであるなら、死に行く人は安らかで美しく素晴らしい世界に行っているんですね。

お客さま:
今日は死の瞬間に立ち会うことの大切さを実感しました。私は17年以上前になるのですが、妹を亡くしています。私は、妹の死の瞬間に立ち会えなかったんです。それが、ずっと心のどこかにひっかかっています。妹に直接すごく愛していたことも伝えられていないし……。「ありがとう」と送り出し「ありがとう」と言って死んでいける、それができなかった人間はどうしたらいいでしょうか?

青木さん:
「ありがとう」と言って逝かれたと思いますよ。
「春の新緑は美しい。夏の緑も美しい。秋の紅葉も美しい。冬の木立も美しい」
という俳句、和歌を作った人たちでも青春は美しく、老いは醜悪で、死は忌み嫌うものという捉え方をする。私は「青春は美しく老いも美しく、死もまた美しい」このように思っています。

フェリシモ:
青木さんのお話を伺って、やはり亡くなる瞬間に立ち会うというのが、とても貴重な体験なんだなということがわかりました。それを体験されたお客さまもすごくその思いを胸に暮らしていくということがとても大切なんだなと思いました。

フェリシモ:
最後に神戸学校からの質問です。私は、生と死を分けて考えていたうちのひとりです。それは、日常の中で死の瞬間に直面することが少なく、生きているいまは実感できても、死のイメージを持つことがむずかしいためだと思います。命とは、いままさに生を全うしようとしている人から、これからを生きる人へのバトンタッチを経て、ずっと生死を繰り返し続けていくものならば、いまこの瞬間を生きる私たちに大切なこととはなんでしょうか?

青木さん:
我々は生から死へ移る、と心得ているんですね。生きていてやがて死が来ると、こういうふうに捉えている。しかし、道元さんは「生から死へ移ると思うは、これ誤りなり」と書いています。それを受けて、良寛さんは「裏を見せ、表を見せて、散る紅葉」という辞世の句を詠んでいます。生と死は、1枚ものだよということです。
死の概念を持っているのは人間だけなんです。動物たちは生という概念さえないわけです。その場その場を真剣に生きているわけです。動物たちは死の恐れがないわけです。ですからいい顔をしています。それと事故を起こした少年たちはいい顔しています。なぜかと言うと自我がないからです。
あと、僕が大発見したのは、何らかの形で死を乗り越えた人の生き方というのは明るいということです。これを言ったのは、ゲーテです。死の不安がある限り暗いと思います。私の女房が3年前に倒れて、半身不随になっているんですよ。そうなったときでも、ああ生きててよかったなと。心が離れていた息子も娘も帰ってきてくれて協力してくれますしね。私も変な酒を飲みにいかなくなりましたし、いいことばかりです。

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Profile

青木 新門(あおき しんもん)さん<詩人>

青木 新門(あおき しんもん)さん
<詩人>
*プロフィールは、ご講演当時のものです。
1937年富山県(下新川郡入善町荒又)生まれ。早稲田大学中退後、富山市で飲食店「すからべ」を経営する傍ら文学を志す。吉村 昭氏の推挙で『文学者』に短編小説『柿の炎』が載るが、店が倒産。1973年冠婚葬祭会社(現オークス)に入社。専務取締役を経て、現在非常勤監査役。
1993年葬式の現場の体験を『納棺夫日記』として著しベストセラーとなり全国的に注目される著書に『納棺夫日記』小説『柿の炎』詩集『雪道』童話『つららの坊や』チベット旅行記『転生回廊』などなお、『納棺夫日記』は1998年に米国で『Coffinman』と題され英訳出版されている。また2008年に『納棺夫日記』を原案とした映画「おくりびと」がアカデミー賞を受賞して再び注目される。現在は主に、著述と講演活動。

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