神戸学校

神戸学校はフェリシモが主催する「神戸発 生活デザイン学校」です。

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「言葉が与えてくれるもの」



<第1部>

穂村さんと短歌との出会いは
ひんやりカビくさい図書館の奥

フェリシモ:
短歌は学生時代から始められたと伺ったのですが、当時のことを教えていただけますか?

穂村さん:
僕の大学時代というのはちょうど、80年代。バブルに差しかかって行くころで、みんなテニスとかサーフィンとかダンパとか、そういう世界でちょっと僕にはきびしかったんです(笑)。いまはわりとすみ分けができてると思うんで、みんながテニスしなくてもいいんですけど、80年代は、みんながスキーとテニスはしないといけないという感じがあって……。それがちょっときびしくて、そうじゃない自分の性格に合ったものをやりたいなっていう気がして。
当時の大学の図書館に行ったら、図書館ってわりとひんやりとしていて暗い雰囲気で、ちょっとカビくさいような。それでどんどん、その図書館のいちばんひんやりしていていちばん暗いところに入って行ったら、短歌の雑誌のバックナンバーが置いてあったんです。それを開いたら、お配りした資料の短歌が載ってたんですね。林 あまりさんという方の短歌なんですけど、

「きょう言った「どうせ」の回数あげつらう男を殴り
 春めいている」

「なにもかも派手な祭りの夜のゆめ火でも見てなよ
 さよなら、あんた」

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この2首が載っていたんです。それまで短歌って『百人一首』とか『万葉集』とかそういうイメージだったので「これが短歌なんだ、意味わかるじゃん」ってなって……。
ひとつめの歌は、恋人同士だと思うんですけど、女の人が「どうせ」という言葉を言うと男の人がうんざりした感じで「おまえ今日『どうせ』って9回言ったから」って言って、それでムカついて殴ったみたいな、そういうコミュニケーション。「どうせ」の回数をあげつらうっていうところがいかにも、ありそうな感じだったり。
次の歌は、恋愛の終わりの歌だと思うんですが、本当の祭りじゃなくてふたりの恋愛が派手な祭りの夜のゆめみたいなものだったという一種の比喩で、この「火でも見てなよ」という捨て台詞がとってもいいですね。「火」じゃなくて幻の火みたいなものを「私がいなくなったあと見てればいいさ」という感じと、言葉が現代風というだけじゃなく、関係性とか女性像が新鮮な感じがしました。

フェリシモ:
歌の中のイキイキとした女性像が響かれたということですか?

穂村さん:
そうですね。こういう気の強い感じの人が好きで、イメージが新鮮で、これならつくれるんじゃないかと思いました。

フェリシモ:
それから、どのように短歌を極められていったのでしょうか?

穂村さん:
購買部に行って、トランプよりちょっと大きなカードを買って、そのカードに授業中とかに短歌を、五七五七七の言葉を書きつけていました。でも手応えがないんですよね。まわりに短歌をつくるような人いないですし、何をしていいのかというのもわからない。これで意味があるのかなという気がすごくするんだけど、でもほかに何をしていいかわからなかったし、でも、何かしたいという感覚だけはあって、いまでいう自己実現みたいな概念が生まれたころだと思うんです。自分が何者かになりたいという思いこみ、脅迫観念みたいなものがあって。
テニスとかスキーをやっていると楽しいんですけど、自分の場所じゃない感じ。でも、短歌をやると「これが俺の道だ」と思うかというとそうは思えなくて。こんな地味なことやっていていいのかなって。
当時、短歌をやっている友だちがひとりいたので、その人に「短歌なんてやってて意味あるのかな?」って相談したら「でも、米粒に字書く人もいるんだぞ」って言われて(笑)。僕はそれで結構説得されて……。虚しいと思うとそこで話が終わっちゃう。
80年代くらいから何が素敵で何がイケてるかということが一元管理されるようになったんですね。昔はみんなもっと虚しいことをバラバラでやってて、平気だったような気がするんだけど、僕らのころからスキー、テニスとダンパは素敵なことで、短歌はダサいという、強烈なバイアスが発生していて、すごい騙しっていうか。そうすると虚しいと思っちゃうでしょ? みんながダンスパーティーしてキラキラいるときに、カードに五七五七七を書きつけて大丈夫かな?ってわりと思いやすくて、その虚しさとの戦いがずっと続いているような気がしますね。

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『万葉集』や『百人一首』を読めなくても
楽しめる穂村 弘さんの短歌ワールド

フェリシモ:
短歌って、私たちはどうしても『百人一首』などのイメージが強いので、穂村さんが表現されている短歌だったり、今回ご用意いただいた資料と比べながら、どういうふうに異なるのかを教えていただけたらと思います。

穂村さん:
短歌って、ひとつには伝統詩なんです。1000年以上前から続いてきた世界的にも稀なケース、それは素晴らしいことなんですが、そこをあんまり意識すると、じゃあ『万葉集』とか読めなきゃいけないのかってすごく不安になるんですね。
もうひとつは定型詩、伝統を一旦考えなければ、誰でも五七五七七にすればつくれるだけで、例えば、(用意した)資料の『短歌ください』(メディアファクトリー)は、僕が雑誌『ダ・ヴィンチ』のなかでコーナーをやっていて、読者の方から短歌を募集してるんです。
だいたい10代から20代の方が送ってくれるんですけど、彼らは当然古典としての短歌の知識はないわけです。

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「最後だし「う」まできちんと発音するね ありがとう さようなら」
ゆず

別れの歌だと思います。我々日常では「ありがと」「さよなら」は、完全には「う」を発音しないですよね。だけど別れのときだから、最後はきちんと「ありがとう」「さようなら」って言って別れるっていう、言われた方は逆に切ない。高校生くらいの女の子の歌だと思うんですけど、感覚がおもしろい。これでも短歌だと思います。
「なりけり」とか「枕詞」を使ってなかったり、古典文法にはのっとっていないですよね。完全に日常の時間に即して詠っているんだけど、何か新鮮なところをついていると思うし、魅力的な女の子って気がします。

「コンビニで聞こえた遅刻の言い訳が「尾崎にバイクを盗まれました」
チョビ

これは10代の男の子の歌だったと思います。これは尾崎 豊の歌に「盗んだバイクで走り出す」っていう有名な歌詞があって、当時はそれが青春で「ちょっと悪いことする俺」みたいな盗んだ側に感情移入して聴く人が多かったんですけど、盗まれた側もいるわけで……(笑)。「コンビニの言い訳」というところも妙にリアル。これを短歌的に見ると一種の本歌取り、先行する短歌作品、この場合は尾崎 豊の曲ってことになりますけど、それをふまえた歌だから、あの曲を知らないと意味がわからず「尾崎って誰?」みたいな話になる。無意識か意識的かわからないけど、この人は自分の感受性の中で短歌をつくって、自然に本歌取りみたいなことをやってしまっています。

フェリシモ:
ぜひ私たちも短歌を詠めるようになりたいと思うのですが、穂村さんの短歌を紹介しながら、つくり方、歌い方などについてお伺いしていきたいと思います。

(映像)

「サバンナの象のうんこよ聞いてくれ だるいせつないこわいさみしい」

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フェリシモ:
穂村さんの言葉をお借りすると「煮えた感情を腐らす前に歌を詠む」ということ。それをどのようにこの歌に込めたのかを教えていただけますか?

穂村さん:
これはもうずいぶん若いころにつくったもの。「だるい せつない こわい さみしい」ってネガティブな感情なんだけど、そういう感覚になることが実際僕はよくあるっていうことなんです。それをそのまま出すと、当然そんな話は誰も聞きたくないし、そんなこと言われても困る。そして、それを表現するにしてもそのまんまってことはないだろうっていうのが常識としてあるんです。短歌のセオリーとして「かなしい」「さみしい」という言葉を書いてはいけないっていうのがあって、そういう言葉を使わないで、かなしいとかさみしいを伝えなくちゃいけないんです。これを書いたときは若かったというのもあって、そのセオリーを逆にして書きまくったらどうだろうというのがありました。あえて、それをそのまんま出したらどうだろうって。
あともうひとつ、それを誰に向かって感情をぶつけ、その感情を聞いてくれる人って、例えばこの世で誰なんだっていう話になって。人間じゃないだろうっていうか、非常に自分から遠いところにあるものだけがそれを聞いてくれるっていうことですかね。距離的にも心理的にも遠いもの。だから「サバンナの象のうんこ」なんです。
あと短歌が優雅な伝統詩だっていう感覚からすると「うんこ」とかは言っちゃいけない言葉。でも、下の句も言っちゃいけないことを言うから、じゃあ上の句も言っちゃいけないことを言おうと、理屈でいうとそんなふうに感じたんだと思います。実際には頭では何も考えていなくて、衝動的につくったという感じです。

フェリシモ:
こういう歌を詠まれるときっていうのは、何度も考えられて言葉を選ばれるのですか? それとも思いにまかせてつくられる感じですか?

穂村さん:
最初は、思い、思いこみみたいなものがないと何も出て来ないんですね。
だけど、一旦言葉にしたあと、これが「こわい さみしい だるい せつない」じゃダメなのかとか「こわい せつない だるい さみしい」じゃダメなのかとか、そもそも「だるい」より「つらい」の方がいいんじゃないかとか……。いろいろ組み合わせや語順の問題が出ますよね。これ衝動的に詠ってるんだけど、同時に一旦言葉になったあと、それを推敲するっていう作業があって。最初に雑誌に載ったときは「つらい せつない こわい さみしい」だったと思うんです。それを本にするときに「つらい」を「だるい」に変えたんです。「つらい」より「だるい」の方が自分の感覚に近いのかなっていう感じがしたんです。どっちが同情の余地があるかというと「つらい」方が同情の余地があるように思えて、それでより同情の余地がない方を選びました。

フェリシモ:
穂村さんは「歌を詠んできらめきとして残していく」とおっしゃっていますが、残したことで自分が変われたとか、自分の気持ちが上がったようなことはあったのでしょうか?

穂村さん:
どうですかね。もしそういうことがあると、短歌を10首くらい詠むとその人は、幸福になって短歌をつくる必要もなくなると思うんですよね。別にこのジャンルだけじゃないけど、クリエーターって基本的につくってもつくっても幸福にならない人たちで、その限りにおいてずっとつくる必然性があるっていうことだと思うから、おっしゃったような意味では、何も自分は別に変わらないんだけど。

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今日はお客さまにも短歌を
つくっていただきたいと思います

フェリシモ:
本日はみなさんにも短歌をつくっていただき、第2部で発表させていただきたいと思います。短歌のテーマは「時間」。「時間」がテーマの歌を一首、穂村さんの著書『短歌ください』のなかからご紹介させていただきます。

「一秒でもいいから早く帰ってきて ふえるわかめがすごいことなの」
伊藤真也

穂村さん:
「時間」を詠むときのポイントって、多分時間が目に見えないっていうことだと思うんですよね。「時間」があることはみんな知ってるんだけど目に見えないから何かで、例えば、髭が延びるとか、その分が時間だっていうこと。この男性は、水に漬けると増量するわかめがどんどん増えて、この感じからすると家を押し潰すくらい、多分6畳のダイニングキッチンは完全に埋まって、いま最後の砦の寝室まで来ている、そんなイメージだと思うんです。もちろんオーバーに言ってるわけなんだけど。もうひとつは関係性。これは呼びかけだから、何となく新婚さんのような感じ、何でそう思うのかわかんないんだけど、このかまととぶりというのは結婚数カ月レベルの感じって言うんでしょうか。増えるわかめが6畳いっぱいになるとは知らなかった人の歌っていう……。
いま僕が言葉で言うと、そういう感じが見えてくると思うんですが、多分これを詠んだときなんとなく感じるんだと思うんです。これは普通の増え方じゃないとか、ちょっと抜けてて、でもかわいい主人公の感じとか、その関係性のイメージとか。あと、平仮名でこれ全部書いているでしょ。わざと詠みにくくして、頭で変換することで、読者が参加するっていうのかな。わかめって平仮名っぽいじゃないですか。へろへろした感じが。あと増えてる感じも、漢字だと固い感じがするから。衝動と思いつきでつくってはいるのだけど、結構ていねいに推敲されてつくられているなと思います。

フェリシモ:
料理をつくり慣れていない女性が詠んでいるのかと思ったら、男性が詠まれていますね?

穂村さん:
何となくこういう奥さんに対するあこがれがあるんじゃないかな?

フェリシモ:
再び穂村さんの短歌の話に戻りたいと思います。穂村さんの作品をご紹介させていただいて、歌のことをお尋ねしたいと思います。

「終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて」

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穂村さん:
これはステキな情景って言うんですかね。関西もバスの「止まります」っていうランプ、紫ですよね? あれってすごく印象的な色で、キレイとも言いきれないなんかちょっと妖しい色ですよね、特に夜とか見ると。それがなんか気になっていて、イメージとしては最後部座席に恋人同士が眠っちゃってるような感じ。暗いところであのランプが灯ると取り囲まれるような感じになる。ふたりだけで、どこまでもそのまま行って「降ります」っていうランプに取り囲まれて、でも寝てるから降りられないじゃないですか。で、どこまでもどこまでも行ってしまうようなイメージの歌です。

フェリシモ:
これは、見たことのある光景だったんでしょうか?

穂村さん:
あのランプの存在感がすごく印象的で。あとは、恋愛に対するあこがれがあって。あとは、推敲の話でいうと、これも細かいことなんですけど、本当は「降ります」って書いてなくて「止まります」なんですよ。でも「止まりますランプ」じゃ、どうもダメな気がして。音数の問題もあるんだけど「降りますランプ」と読み替えても意味はわかりますとね。あとは「取り囲まれて」っていう、途中でふっと終わるっていうんですかね、倒置法のような終わり方をしていて、それが、この先どうなってしまうかわからないっていうような感情と結びついている、そんな感じですかね。

「こんなにもふたりで空を見上げてる 生きてることがおいのりになる」

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穂村さん:
これは確か「生きてることがお祈りになる」って誰かが言ったんだと思うんです。それを僕覚えてて、すごく印象的な言葉だったから、それに合わせるように上の句をつけたんだと思います。最初は何か具体的なものを合わせようとしたんだけど「生きてることがお祈りになる」という言葉があまりにも印象が深すぎて、ものを持ってくると合わないような感触があって、だから「こんなにもふたりで空を見上げてる」ってほぼ意味のない言葉じゃないですか。どんな状況かよくわからない、天気を心配しているのかなにか。短歌って不思議なんだけど、意味が明確であればいいわけじゃなく、この歌って全体を詠んでも意味がわからないんですよね。でも、すごくふたりで生きている切実感みたいな感じと、あとは広い意味での愛みたいなものでしょうか、恋愛より広い感じがするんだけど。そういう切実感を詠おうとした歌です。

フェリシモ:
歌を受け取った側はいろいろな風景を浮かべて、いろいろな解釈ができますよね。

穂村さん:
いま詠むと東日本大震災のイメージにもとれますよね。だけど、それよりもずっと前につくった歌だから、もちろんそういうことはないわけなんですが……。
言葉って、そういう直線時間で見ると、この歌が先にできていて、我々につらい事件が起きたわけだけど、短歌の中の時間ってなんか円環構造みたいになっていて、記憶のようにも詠めるし未来予知のようにも詠めるっていうか。いまたまたま何かが起きた後なので、その何かと結びついて詠める、そんな気がなんとなくします。
あと、ポイントは「こんなにも」だと思います。「こんなにも」って言われても「どんなにも」かわかんないじゃないですか。すごい上の方を見てるってことなのか、あるいは長時間見てるってことなのか。この歌には何か「こんなにも」っていう言葉が必要な感じがします。

フェリシモ:
いつも歌で表現されている穂村さんですが、そんな穂村さんを歌以外のところでも見ていきたいと思います。

(映像:伊藤園のペットボトル)

フェリシモ:
穂村さんの著書に「おーい」の「お」と「お茶」の「お」の字が違うことについて、書道の先生が途中で切り替わったんじゃないかっていうお話が、あったんですが……。そんなふうに身近にあるもので「おや?」って感じたりしたことについてお話いただけますか?

穂村さん:
僕がよく言う例だと、信号。昔の信号は個体差があったと思うんですね。ちょっと暗い信号とか緑っぽい信号とか青に近い信号とか、個体差があったんですよね。元気のない信号とかあったと思うんですよね。あれは、青でさえあれば、元気な青だろうと、元気のない青だろうと関係ないし、社会的な役割としては問題ないんだけど、人によってはその色の差が気になる人がいるんです。そういう人は会社ではうまくいかない人が多い。僕もうまくいかなかったですけど(笑)。要するにデジタルに慣れれば慣れるほどうまくいかない。前働いていた会社の部長さんは「女の人はみんな赤かピンクが好きだ」って信じててね。「でも、ペパーミントグリーンの好きな女もいるんですよ」って言うとびっくりするんですよ。「女なのにかよ」って。これ、すごくキメが粗いじゃないですか。だけど彼はすごい仕事ができた、迷いがない。多分、創業社長とかにはなれないんだけど、営業部長として優秀で、そのキメの粗さで、すごい攻めて攻めて攻めまくるんですね。当然僕はついていけないんです。繊細だから(笑)。

(会場:笑)

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まったく言語が通じないんです。「どんな文字でも『お』は『お』だろ」って言われてしまう。そこがつらいところで、会社ではそっちの方が価値感として優位なので、非常にきびしかったですね。だから会社ではだめでしたね。

フェリシモ:
資料に『絶叫委員会』(筑摩書房)の抜粋がありますが、これも「おーい お茶」のように、毎日の「おや?」が詰まってると思います。ご紹介いただけますか。

「でも、さっきそうおっしゃったじゃねえか!」(会議の席上で)

これ会議で、こう言っちゃった人がいたという話なんですけど。大人同士の会議って、誰がどういうふう偉いのかっていう立場が明確で、これは明らかに偉くない人が偉い人に向かって言った発言ですね。内心はめちゃくちゃムカついていて、「さっき言ったことと話が違うだろー」って巻き舌でムカついてるんだけど、それは言えない。「でも、さっきそうおっしゃった」までがんばって、最後にがんばりきれなくて「じゃねえか!」って言っちゃったっていう話。これは社会人としてはNGですよね。
でも僕的にはGOOD。我々はみんな本当はこうなのに、そうじゃないってことをがんばりにがんばってる。みんな絶叫していいって行ったら8割が絶叫すると思うんですよね。

「この花火はぐろぐろと回ります」(中国製ねずみ花火の注意書き)

中国製のねずみ花火の注意書き。惜しいですよね。もうちょっと巻けば「る」に なったのに。これも素晴らしい。

「日本人じゃないわ。だって、キッスしてたのよ」(どこかのおばさんの言葉)

下北沢の町を歩いていたら、すれ違いざまにおばさんが強い口調で言ってたんです。それに感銘を受けました。そのおばさんの頭の中では、街角でキッスする人は外国人なんです。日本人はしないんです。
もうひとつのポイントは「キッス」の「ッ」。いま我々は「キス」って言うじゃないですか。この小さい「ッ」におばさんの世界像のすべてが表れている。 僕、自分がこのおばさんを説得する係じゃなくてよかった。「多分、それは日本人だと思いますよ。最近は日本人でも街角でキスするんですよ。ちなみに「キッス」じゃなくて「キス」ですけどね」とか言い始めたら大変で、でも通りすがりのおばさんだから。

そのほか……
「猛犬にっこり」(近所の貼り紙)
「糞を持ち帰ってくれてありがとう」(近所の貼り紙)
「エリベザステーラー猿と婚約」(スポーツ新聞の見出し)

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<第2部>

いっぱい、たくさん、いい短歌があります
今日のお客さまは、直感的にわかっていらっしゃる

フェリシモ:
では、お客さまのつくってくださった短歌をお時間が許す限り紹介したいと思います。

「もうこんな年齢なのかミック・ジャガー 自分もそれだけ年をとってる」

穂村さん:
自分だけは変わらないようなセルフイメージだけど、他人を見て自分の歳を感じる、その場合ミック ジャガーって、ロックの象徴で、永遠に若いようなイメージだけど、実際にはおじいさんになっている。ミック ジャガーの具体的な人名が効いていると思います。

「新フロア タイムカードが進んでる その一分で化粧がしたい」

穂村さん:
部署変わったんですかね。「化粧がしたい」という言葉がリアルですね。一分の重みがうまく出てるなと思います。

「後れぎみの私の時計を 狂いぎみの君の時計にあわしたあの日」

穂村さん:
そもそも、これって歌じゃないと思うんですよね。時計って言ってるんですけど、後れぎみに対して時計の狂いぎみっていうのは、現実の時計としてはちょっと……。時計って遅れるか進むかだから。これは、人生のことっていうか、メンタリティのことだと思います。人に対してポジティブじゃなく、後れぎみな自分を、ポジティブなんだけど狂いぎみの君に合わせて生きていくみたいな。いいんじゃないかなと思いました。

「いちぴょうてもいいからぱやくかえってきて ぷえるわかめかすこいことなの」

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穂村さん:
一瞬読めなくて、焦りましたよね。それがこの歌の価値で、一瞬非日常であり得ないものを見たという感じがします。本歌取りと言えば本歌取り、さっきの歌を点を脱落させたり、マルをつけたり、非常にセンスのある方だなあと思いますね。
無意味なものに価値があると言いましたけど、期待以上の無意味感を出してくださいました。

(会場:笑)

「6時間早く20歳になりました ロシア留学の双子の姉より」

穂村さん:
こんなのよくあの短時間でつくりますよね。素晴らしい。地球の時差を考えて詠ってるんですよね。

「やっと届いたベッドなんです 組み立てれるかな寝るまでに私が」

穂村さん:
時間との戦いなんですよ。ベッドが届いて、でも組み立てはしてもらえなくて、自分でやらなきゃいけない。寝るまでに組み立てないと寝る場所がない。これまさに時間の可視化ですね。

「一日のうちの半分を 笹食べてるなんてどうかしてるぜ」

穂村さん:
この歌のポイントは、パンダだってどこにも書いていないところ。パンダって笹を食べるってことが前提になるんだけど、パンダって書かない方が、本当の心の中のつぶやきっぽいですよね。

「今日もまた 顔を洗う 白髪をみつける 7時11分うちを出る」

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穂村さん:
この歌のポイントは「7時11分」というところ。非常に厳密で、あと「11」って目で見ると棒みたいじゃないですか。それが白髪がキラキラッと光る感じと繋がっているんだと思います。非常にセンスのある方だなと思います。

「賞味期限切れの卵と麺で 明日のわたしのカラダをつくる」

穂村さん:
いいですね。これ、時間が2種類あって、ひとつは賞味期限切れ、もうひとつは明日。ここが素晴らしいですね。これが「賞味期限内の卵と麺で明日のわたしのカラダをつくる」では全然ダメなんです。そういう小さな違和感、アンラッキー、そういうことがちゃんとあります。ごく微量のマイナス、ネガティブが含まれている、それを「明日のわたし」に転換する力になります。次の歌もそうですね。

「携帯の電池が切れているときは 元気でいてねと指輪見つめる」

穂村さん:
愛の歌ですね。携帯で実際に励まされるのもいけれど、こういうのもいいと思います。

「あなたの目見れるようになってきた ストローの紙ギザギザギザギザ」

穂村さん:
「ギザギザギザギザ」って無意味じゃないですか。普通だとここで意味のあることが書きたくなるのですが、でもそれじゃダメで、わずか31音しかないの中に「ストローの紙ギザギザギザギザ」って入れることで「あなたの目を見て話せるようになってきた」その感覚が立ち上がってくるっていうか。でもこういうふうに書くことって勇気がいるんですよね。ふだん「生産性や効率を求めよ」というプレッシャーの中で生きているので、突然「その逆をやれ」って言われてもできないんですよね。
でも、今日出していただいた短歌を見ていると、みなさんすごく無駄なことに対する意識がオープンで、会社では大変そうな人が多いのかもしれないですね。

(会場:笑)

そのほか……
「オレ実は ミッキーの中の人なんだあと20年誰にも言えない」
「どさくさに下の名前を呼んどいて 勝手に照れるな目を見てもっかい」
「50年前の ブーブークッションの恨み忘れじ90の母」
「次の1本で終わりもうやめる 星空ゆらゆらベランダ1人きり」

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お客さまとのQ&A

お客さま:
穂村さんの足もとにあるかばんが気になっています。せっかくですから、この舞台で彼にも仕事をさせてあげてください。

穂村さん:
ここに来るみなさんはかばん持って舞台に上がらないんですか? なんか不安なんですよね。いろいろ入ってます、あとで見せてあげます。でも、靴下とかパンツも入ってるけど(笑)。今ペンも握ってるんですけど、なんか不安なんです。なんでしょうね。いつものものがあると安心するということでしょうか。

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お客さま:
穂村さんはおなかから声を出すとどうなりますか?

穂村さん:
「口元でしゃべってる」ってよく言われますね。ネットとか自分の名前で検索すると、そういうことを書いてる人がいますね。あと「なんか揺れてる」とか……。
(会場:笑)
なんででしょうね? わかんないですけど。前、大阪でパネルディスカッションしたときに、僕がしゃべった直後に「声が聞こえません」っておばさんに5回くらい言われて……。しばらく大阪のおばさん恐怖症になりました。普通5回も言わないじゃないですか。もうあの人はダメなんだった思えばいいのに。諦めればいいのに。教育してくれようとしたみたい。もう遅いですよね。

お客さま:
最近起きた楽しいニュースがあれば聞かせてください。

穂村さん:
なんかあったかなあ。神戸に来たことが楽しかったですかね。いま東京は緊張感があって……。雨とか降っただけで、すごいプレッシャーなんです。神戸に来て、そういうものから解放された感じがすごくしました。さっき控え室にいたんですけど、ここに住みたいと思いましたもん。

お客さま:
日常でスルーしがちなできごとを拾い上げてクスッと笑えるハプニングにしてしまえる穂村さん。気持ちに余裕がなければ、なかなかそのスタンスを貫くことはむずかしいと思います。不景気で不安な世の中だけど、その中から穂村さんのように笑いのさざ波を生み出せる人間になりたいのです。穂村さんは日々の暮らしの中で、ワクワクすることはありますか?

穂村さん:
旅行とか行くとき、例えば空港の本屋さんに入って、ちょっといつもと違った本を買ったりするじゃないですか。飛行機の中で読む本とかって。例えば「漱石の『夢十夜』って読んでなかったから読もうか」とか。あの感覚って、本当はふだんからそうしたいんだけど、ぎりぎりで追い詰められると……。例えばいつも月曜日の朝、会社で会議があったんだけど、こういうコップが出て水滴が垂れたりしてくるとなんかいやなんです。だけどベトナムとか行って、野外のカフェでマンゴージュースとか飲むと水滴ダラダラなんですよ。でも、それがすごいよく見えるんえす。キレイに見える。まったく同じ水滴のダラダラが、月曜の朝の会議室ではすごくネガティブなものに見えて、ベトナムだといい感じのものに思える。こちらの感受性の問題なんです。お月さまでも月曜の会社帰りの月と、金曜の会社帰りの月では全然違うじゃないですか。
働いている人は実感できると思うんですけど、月曜は余裕がないんですよね。月を見ても何とも思えない、でも金曜になると「もうこっちのもんだ」と思っているからお月さまがシンクロしてきれいに見える。理想を言えばいつもその感覚でいた方がいいってわかってるんだけど、でもそれはなかなかできないから。少なくても理屈として同じ人間でも変わると感じることも大切ですね。

フェリシモ:
最後に神戸学校を代表して質問させていただきます。穂村さんは、言葉で日常で感じるもやもやした感情をキラキラとした結晶に変身させているように感じました。私たちもぜひそのように持てるようになりたいと思うのですが、そのように変化させる眼鏡、レンズのようなものは、どういうふうにすれば持てるようになるんでしょうか?

穂村さん:
今日ずっとその答えを話し続けていたような気もするのですが。要は、一般的に、意味とか効率とか価値とかと見なされているものの逆に、オープンマインドになるっていうことですかね。無意味だったり、非効率だったり、ロスとか徒労。徒労とかみんな嫌うけど、徒労って結構重要。その逆に要注意なものは、コツとか。みんなすぐコツを聞くんですよ。本を選ぶときもコツを書いてる本を読もうとするんだけど、あれは地獄への道。だめですね。どうぜ死ぬと腹をくくって、徒労の中に活路を見い出すっていうことを推奨したいと思います。
本当はマグマのような喜怒哀楽で説明できないような生命力の中に、この瞬間も我々は生きているはずなんですけど、それが日常サバイバルする上でどうしてもある順番とか、序列がつけられてシステム化しないと社会的にうまくいかない部分が出てくる。それが悪だっていうんじゃないですけど、でもそこからズレているものを全部スルーしてしまうと、そもそも生きてる意味がなくなっちゃうんで……、それを意識化するってことはやっぱり大切です。
でも、今日の短歌を見たら、みなさん心配いらないですね。そういう気がします。

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Profile

穂村 弘(ほむら ひろし)さん<歌人>

穂村 弘(ほむら ひろし)さん
<歌人>
*プロフィールは、ご講演当時のものです。
歌人。日経新聞歌壇選者。1962年札幌生まれ。上智大学文学部英文科卒。1990年第一歌集『シンジケート』でデビュー。エッセイ、詩、評論なども手がける。著書に『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』『ラインマーカーズ』『世界音痴』『現実入門』『にょっ記』『もしもし、運命の人ですか。』『絶叫委員会』『ぼくの宝物絵本』等の他、ほむらひろし名義による絵本翻訳も多数。『短歌の友人』で第19回伊藤整文学賞、「楽しい一日」で第44回短歌研究賞、石井陽子とのコラボレーション「『火よ、さわれるの』」で2008年度アルスエレクトロニカ・インタラクティブ部門栄誉賞を受賞。

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