神戸学校

神戸学校はフェリシモが主催する「神戸発 生活デザイン学校」です。

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「今そこにない悩みの話」



<第1部>

「今」

(合掌)

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小池さん:
「今、そこにない悩みの話」というふうにタイトルをいただいたのですが、「そこってどこだろう?」って思い、「ここ」っていうふうに勝手に書き直させていただきました。悩みというのは、今ここに心がない時に生まれるものです。今自分がやっていることに心がぴったり貼りついていたら、「これから先、あの人がいやなことを自分にしてくるんじゃないだろうか?」と警戒する気持ちがある時にイラッとするし、「これから自分がやっていることが失敗するんじゃないだろうか」と思うと不安になります。もしくは、昨日言われた失礼な言葉を思い出して反芻していたら、心は不愉快な思いになるし、前にした自分の失敗のことを思い出して「また失敗したらどうしよう」と思ったら心は苦しみを感じます。私が、今しているのは、こうやってみなさんの前でお話をしていることですが、メールを書いている人であれば、そのメールを書いてることそのものに専念していて、それを「送ったあと相手がどう思うだろうか」とか、前に相手が送ってきた内容がよくないものだったとか、意識が過去に行ったり、未来に行ったりせずに、ただ無心に今書きたいことを一所懸命書いている時、悩みや苦しみというのはないものですし、このしゃべっている最中に「これからちゃんとしゃべれるのだろうか?」、「失敗したらどうしよう」、「さっき自分はどんなことをしゃべっていてうまくいったかな」とか思い始めると、心がもじゃもじゃとしてきますけれど、そういったことは何も患わずにただ今に専念して、ただ話すことに心がぴったりとくっついていられれば、悩み、苦しみ、不安は自ずからなくなってしまうものです。心が今の中にいなくて、未来の中にさまよっている時か、もしくは過去を思い起こしている時に、私たちは今という時間が充実しなくなって、しんどくなるんですね。
ふと思い出したのは、講演の直前にスタッフの方々と一緒に食事をさせていただいていたのですが、みなさんと談笑している最中なのに私は目を閉じて、もくもくと味わうことに集中していました。ゆっくり食べるので、一定時間に全部食べきれなくて残しちゃうんですけど、「昔からそんなにちょっとしか食べないんですか?」と質問を賜りまして、「昔からじゃないなあ」と思い出していたんです。昔は、食べ始める動機そのものでストレスが溜まったから、そのストレスを解消したくて食べる。そもそも食べ始めがそんな具合であることが多かったものです。高校、大学生のころです。食べている最中にも自分がイライラしたこと、落ち着かないことが思い出されてきて、そのイライラした気分をおいしい、気持ちいいという感覚で押さえつけるごとく、フォアグラのごとくどんどん食べるんですね。詰め込んでいくんですけど、今この瞬間、味が舌に入力してきて脳に送られているという情報の伝達を、真剣に受け止めていないというか、今この瞬間、今ここにおいて生じている情報の入力をちゃんと感じ取っていなくて、それよりも、あのストレスから逃げたいという気持ち。そして食べ過ぎると気持ち悪くなるんです。こんなぜいたくすぎる不幸を体験したことがあるんじゃないかと思うのです。気持ち悪くなるために食べてしまったら、皮肉なことにストレス解消したと思いますよね。このストレスから逃げたいというような気持ちが、そして食べ過ぎたら気持ち悪くなるんです。多かれ少なかれ現代人は食べ過ぎると気持ち悪くなるというぜいたくすぎる不幸を体験したことがあるんじゃないかと思われますけど、それを何回か体験してクセになってくると、まだ食べ過ぎることになる前から、恐れが生じます。「またあの時みたいに気持ち悪くなるくらい食べてしまったらどうしよう」と心配したりします。そうやって、未来のことを考える、皮肉なことに「お腹がいっぱいになったらどうしよう」というのがまたストレスです。そのストレスを解消したくなりますよね。解消したくなるから、結果として、自分の恐れた方向にどんどん近づいてしまって、また食べ過ぎて、「ああ苦しい」というようなことになる。過去の苦しみに引きずられて、そして未来への苦しみを予想して不安になって、それらの苦しみを……。
快感ですね、タンパク質とか糖質とか脂質というのが舌にふれたなっていう情報が送られると、脳はドーパミンと言われる快感を伝達する神経伝達物質を分泌して、一時的にとっても気持ちよくなるようにできています。糖分、タンパク質、脂質というのは高エネルギーが含まれていることの指標になっているからでしょうね。昔食べ物があまり手に入らなくて飢え乾いていた状態で脳みその基本構造というのがつくられているので、食物が足りないことを前提に設計されていて、高カロリーのものが舌にふれると気持ちよくなるように設計されている。高カロリーのものをたくさん摂りなさい、そうやって生き延びなさいというプログラムとして組み込まれているのですが、食べ物があふれるような時代になってしまうと、かえってそれは生存をおびやかすような方向の食べ過ぎやカロリー過剰な方に働くというような暴走を十分する余地のあるものであるということです。

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食べ物の話に深入りし過ぎたので、巻き戻します。そうやって「過去がどうだった」というストレスと「これからああなったらどうしよう」、「こうなったらどうしよう」という未来のストレスゆえに、食べても味は一応していますよ、でも受け取るのは、実際にそこに入力している情報の100分の1とか200分の1とかの情報量になっているんです。
という時に、心が今ここにないという状況が現出していて、この今ここにないというのを繰り返しているうちに、人間の一生というのがすり減らされていって、「この仕事をがんばって終わったらこうなりたいな」と思っています。仕事が終わって楽しんでいます。楽しんでいる時も、けれどもそろそろ明日は何をしなければいけないな、次はどういうプロジェクトをやろう」「次は何に手を出してみようかな」と考えながらしていたり、遊んでいる最中ですら先のこと、ほかのことを考えていたりしますから。遊び終わったら次はあれをしなきゃ、次はこれで成功しようって思っていますから、常に心は未来と過去に引き裂かれていて、遊んでいる時も十分に気持ちがそこにとどまっていなくて、その情報を脳に十分伝達されていない。で、次の仕事の時間がまたやってきたら、また過去のことと未来のこと、というのを繰り返しているうちにだんだん人生のあっというまに過ぎていく時間があっというまにすり減ってしまって、気づいたら「今」というのが一瞬もないままに常に過去と未来だけがあって、気づいたらもう死ななきゃいけない、というふうになりかねないというのが実は人間の一生というもので、「それは死んでいるようなものだ」というのが仏陀の視線なんです。そうやって未来と過去に心をさまよわせながら、ぼーっと100年生きるよりも、1日でいいから今に意識が専念していて、今を十全に味わって自分の体の中にしっかり感覚がある状態で1日生きる方が価値があるというふうに「ホクギョウダムパダー」という言葉の中で書かれていたりする次第です。

(スライド)
この心が現在にないというあり方について、仏陀がこのように……。これは「ケンゼンイッキキョウ」という教典の中で説かれている言葉を引用して翻訳しました。
過去を追わず、未来を願いゆかずなんとあらば、過去はすでに過ぎ去ったものであり未来のことはまだ存在しないものであるから。で、その過去と未来に心をいかせる代わりに、今この瞬間に実際に目の前にある現象している感覚に、「タッタタッタビパッサティ」と言うのですが、その瞬間、その瞬間に、目の前に現れる現象を「ビパッサティ」、ありのままに受け止める、ありのままに見つめる、そのことにおいてなんの心に悩むことがあろうかということです。「今やるんじゃなかったら、いつやるんだ」というような発言が世の中にありますけれど、それは明日じゃなくて昨日、昨日じゃなくて今日やろうという言い方をして、よく現れますが、仏教の場合、明日じゃなくて今日というような時間単位ではないんです。1時間後っていうのも未来の話であって、今この瞬間に何が起きているのか、ということを見つめるということはあとからできるのです。この見つめるというのは、最初にご紹介いただいた中で「自分の内面を観察して、自分の内面を見つめてみましょう」というお言葉がありました。仏教には適している言葉だと思います。今起きている現象について「これはどういうものなんだろう」、「どういう価値があるんだろう」、「いいんだろうか」、「悪いんだろうか」。例えば食べている情報に専念していると充実してくるということも申しましたけれど、じっくり噛んでいるその味の感覚や舌が食べ物にふれている瞬間の感覚にじっと意識を集中していくという、「これはどん味なんだろうか」、「おいしいんだろうか」、「どれくらい甘いんだろうか」、「これは辛いっていうことなのかな」というふうに考察を加えるというのは、さきほど申した「ビパッサティ」、ありのままに見つめるということとはちょっと異なります。というのは実際に、起きている味に対して、おいしいとか辛いとか甘いというのは、頭の中で合成された概念にすぎなくて、現実そのものではないからです。
細かい話になりますけれど、食べている真っ最中に舌が口の中で、あっちこっち動き回って、ぐるぐる回転しています。ふだん意識していなかったら自分の舌が回転していることすら知らない方がとても多いと思うんです。つまり、自分の中で何が起きているかよく知らないで、私たちはうっかりすると生きているもの。それに意識を向けてみると、例えばご飯を噛んでいるとだんだん唾液が出てきて分泌していきます。ご飯粒がだんだんバラバラになっていきます。歯で噛み砕かれて、バラバラになっていって、唾液がだんだん分泌されてきて、するとだんだん甘くなってきます。特におかずとかと一緒に食べずに、ご飯粒だけをずっと30回も40回も噛んでいると、じわっと甘くなってきます。じわっと甘くなり始めると、もう少し甘くなってきたな、もっと甘くなってきたなっていう段階に変化がありそうですよね。でも、そのじわっと甘くなってきたというのともっと甘くなってきたという「甘い1」と「甘い2」の中間はないんでしょうか。仮に考察して、これを「甘い1」と名づけよう、コレぐらい甘いのを「甘い2」と名づけよう、と考えたとします。「甘い1」と「甘い2」の間に中間もあって「1、5」とか名づけりゃいいんでしょうけど、それは脳から削除されちゃうんです。もっと言えば、ふだんみなさんが甘いって概念で表現する時に、1も1、5も2も3も4も全部消去して、すっごく甘いかまあまあ甘いかぐらいのとても雑な概念で処理してそのうちの中間はもうなかったことに、脳の情報からデリートされてしまってるんです。いちいち「甘い1」、「甘い2」とかつけていっても無意味そうなのがおわかりいただけますよね。そう考えてみると、言葉っていうのは全然役に立たないですね。物事をありのままに感じるというような、一瞬一瞬噛み砕かれていって、唾液が混ざっていって、口の中で消化が始まって、ちょっとずつ味が変わります。今は口の中で情報がめまぐるしく変わっていく時に、それにいちいち言語を貼りつけていたら、まったく間に合わない。その間に合わないことをごまかすために全部なかったことにして省略しちゃう、というようなことを言っているんですけど、その省略をなくしちゃう、ただ、じーっと言葉抜きで考え抜きで、観察する、見つめるっていうことですね。

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今、話の流れ上、食べるということで説明してきましたが、例えば「歩く」いうことを例にとってみても、私たちは舌が動いているのをよく知らないのと同様に、漫然とこれからどこに行こうって考えていたり、これから自分のやる仕事のことを考えていたり、本を読みながら歩いていたりしたら、今この瞬間自分の右足が動いているのか左足が動いているのかということも知らないでいる可能性がありますね。その状態からちょっと意識を、今この瞬間に向けてみようとすれば、まず自分の「右足なのかな?左足なのかな?」ということに気づきを向けてみます。その気づきがまずは向くようになったら、次はその足が「今どのあたりにあるのかな?」、「地面にくっついているのかな?」、「空中に動いているのかな?」というような意識で追いかけてみるようにします。すると、地面にくっついているというのも概念とおおざっぱに表現していますけど、くっつき始める時とくっつき終わる時がありますよね。ある程度慣れてきたら、それくらい細かく、自分の体がどう動いているか、というところにちゃんと意識を向けてみる、というクセをつける。すると、歩くことそのものが、仏教の修業に近づいてきちゃうんですけど、今この瞬間自分の体が確かにここにあって、そこには確かに感覚があるという、今この瞬間の身体のリアリティに心が立脚するようになります。 「そんなことしていたら、これからする仕事のことが考えられなくなって損するじゃないか」とか、「さっきあった失敗のことを反芻して反省するチャンスがなくなっちゃうじゃないか」と思うかもしれません。ところが、そうやって今自分がしていることに意識をのせずに、「次こうしたい」「次ああしたい」ということばかり考えているせいで、心がいつも次のことへと急かされていて、無意識的に常に緊張状態、ストレス状態に置かれています。その状態で考え過ぎ、考え過ぎ、考え過ぎ・・・・・・、メールを打って、文字を脳に送り込んで考え過ぎ、ネットの情報を携帯電話で眺めながら、文字が頭の中を常に流れていて、今の自分の体の中に、心はいない、という常に急かされている脳の情報処理に急かされている状態で、その無意識的なそれでも一見ハッピーそうに生活していてもなんだか急かせれているような感じ、緊張感があり、落ち着かない感じがあり、ゆったりリラックスして平和なティータイムが持てないとか、つい急いで食べてしまって「あ、もう終わりか、また次のことをしなきゃいけない」、いやいやいや15分くらいゆっくりお茶飲んで、お菓子をじんわり味わって、「おいしいういろうですね」とか、「おいしい大福ですね」とか言って過ごせたら、とても満足感のある休憩がとれて、リフレッシュしてまた仕事に戻ったりもできようところが、それができないくらいに常に自分を高いテンションの状態に持っていかせるような、そういった社会状況になっていると思われます。ところが、今この瞬間、自分の足が動いていて確かに自分は生きていて、そこに感覚がある……。その感覚の臨場感の中に心を引き戻してやるクセをつけていくと、情報処理と考えごとでギスギスになってパンクしそうになっていた頭の中がとても軽い状態に戻ります。軽い状態に戻ってくれると、その後は仕事をするなり、本を読むなり、考えるなり、頭の冴えた状態で取り組むことができるものです。

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「渇愛」「有愛」

これは「セツイサイグブ」という仏教とは異なる部派の教典です。仏陀がここでこのように説いています。

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愛するがゆえに憂鬱になり
愛するがゆえに不安になる
愛する対象はうつろい変わるがゆえに
この心をかき乱す。

愛するというのは文字どおり「この人が好き」というようなことも含みますが、「こうしたい」、「こうなりたい」ということも含みます。愛する、欲するっていうことですね。例えば、私が原稿を執筆している最中であれば、「うまく書きたい」とか「いい感じに書き終わりたい」「満足した書き終わりにしたい」とか、仕事をされている方も似たようなことを考えると思います。単に終わらせるだけじゃなく、「人より早く終わらせたい」とか、「普通の人だったら3日かかるところを自分だったら1日で終わらせたい」とか。そういうことも含めた「こうなりたい」、「ああなりたい」、「こうしたい」、「ああしたい」、「あれを手に入れたい」、仏教で渇愛という言葉があります。渇愛には3種あると言われていて、そのうちの1つは素朴な「あれがほしい」、「これがほしい」というもの。もしくは「あれが見たい」とか「これが聞きたいとか」そういった五感にふれる感覚を心地よくしたいという素朴な渇愛です。そういった素朴な渇愛は、現代日本みたいに、やたら無意味に物質的に豊かになっていたら、簡単に手に入っちゃってハードルが少なすぎてつまらないので、そんなに強く燃え上がりはしないものです。
手に入っているものをほしいと思うことは人間の心はありえないものです。すぐ目の前にあるものより非常に手に入らなさそうなものの方をほしくなるという精神的な問題点を抱えているのが脳みそというものでして、より手に入りにくいものが何かというと、五感にふれる物質的なものというよりは、「こういう自分になりたい」とか「このように扱われたい」とか「こんなステキな自分でありたい」とか「立派な自分でありたい」とか「優秀な自分でありたい」とか「できる人間でありたい」とか、自己存在に関わるような欲望です。この欲望のことを、仏教では有愛というふうに呼ばれています。有愛というのは、有るという状態への愛です。省略せずに言うと、有渇愛というのですが、有への渇愛、こういう状態でありたいということに飢え渇いている、「なりたいなりたい」という衝動のことです。
私たちに心が今ここにいられなくなる理由の最たるものは、現代においてはこの有愛なのではないかと思われます。できる自分であらなければならない、とか、いついつまでに終わらせられるすぐれた自分でありたいとか、相手にぺこぺこされる、大事にされている自分でありたいとか、自分は相手によくしてあげないけれど、それなのに相手が自分にとてもよくしてくれる、そういった状況で、相手からとても大事にされている自分でありたい、そういう欲求とか。あるいは怒鳴りちらすことで相手を萎縮させて、自分の方が優位に立っている、俺の方が上なんだぞっていうような、会社の上下関係なんて上の人が無意味に下の人を抑圧するようなことって、表面上実際に怒っている理由があるにはあるでしょうけれど、その表面上の理由よりもその人がやたら怒る理由って、怒って威圧して俺の方が上なんだという自分でありたい欲望で動いていたりするものです。なぜそういうふうにしたくなるのかというと、もちろん、今自分がそうでないことを心の中で知っているからです。自分が優秀ではない、自分が上ではない、自分はできる人間ではないということを心のどこかで知っています。知っているから、そこから抜け出そうとして必死にもがいて、こうなりたい、ああなりたい、こうじゃなきゃだめ、もっと立派じゃなきゃだめ、もっとステキじゃなきゃだめ、もっときれいじゃなきゃだめ、いやいや、みんな老いさらばえていきますよ。年より若く見えなきゃだめ、そんなこと言ってもやがて50、60歳になるじゃないですか。いつまでも現状を受け入れないつもりでしょうか。体もだんだん動かなくなってきますよ。衰えていくということが、老いが気に食わないんです。自然の理法、自然の法則に従って、私たちの体も心も変化していくんですが、それに逆らおうとする。変化していくことを仏教用語で無常と言うんですが、この心は無常に抵抗しようとして常であろうとします。無常というのは変化していくことでありますから、常という変化を否定し固定しようとする心の作用です。
つっこめば、つっこむほど、暗い話になりますので、暗い嫌な話を聞かせてくれるなあっていうふうに思うかもしれません。たまには、必要です。心が浮かれて、人生ってそこそこ楽しいなあって思い込んでいるところに、無常を徹底的に突き詰めていくと、実はこんな悲惨な人生を自分は歩まされていたのかという気分にもしかするとなるかもしれない。ですけど、生きるっていうのは、事実はこんなふうになっていたのかと知ってみると、心がしーんとした気分になるかもしれません。この心をしーんとさせるのが、仏教の効用のひとつでもあると言えるのです。ちょっとした清涼剤、浮かれている心を鎮める、それについてはあとで戻って参りましょう。

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依然、意識は常であろうとする自分にとって好ましい状態で固定したいというふうに思います。誰か好きな人ができていい感じにしてほしいと思っていたら、いい感じを固定したいと思います。相手の心が固定できるわけないじゃないですか。相手の気持ちが冷めてしまう。大げさな話ではなくて、今日はちょっと相手の機嫌が悪いとか、今日は仕事に失敗して相手がいつもみたいにやさしくないとか……。でも自分は固定されたものと思っていますから、相手の変化を受け入れられないんです。現実の変化と自分の脳が勝手につくり出す願望ですね。脳は常に現実とは違うものを願います。新しい自分にとってより望ましい状態こういうビジョンを脳は描いて、そこから未来をつくり出す、今はこうでしょうという現実を受け入れない。そこに現実と脳がまぼろしとの間に衝突が生じて、それが全ての苦悩の元なんです。 脳がつくり出すバーチャルな願望と現実との間に差があるから。現実は動いていくんですが脳は固定しやすく、自分にとって都合のいい画像が見え続けていてほしい、都合のいい相手の笑顔がずーっと固定されていてほしい。自分の感情についても固定しようとします。快感や喜びが生じたら、この快感や喜びが続いてほしいと固定したくなります。でも固定できないんです。移り変わっていきます。自分の業に従って心は移り変わっていきます。自分の変化が受け入れられずに苦しみます。相手の感情や表情も固定しようとしますが固定できずに苦しみが生まれます。でそういったものを私たちの場合において黒幕として操っていると思われるのが「こういう自分でありたい」という欲望です。相手によくしてもらえている自分でありたいとか、もしくは心地よい喜んでいる自分が維持されていなければ気がすまないとか自分に対しても他者に対しても期待値が高くなっているとでも申しましょうか。考えてみると現実の自分はそうではないんですよね。いつもステキではいられないし、いつも立派ではいられないし、いつもやる気満々ではいられないし、仕事が絶好調ではいられない。いつもそうでありたいと思っている、そこからそこまで振り返ると心はいつも背伸びしようとしているんです。
私自身の恥をさらしますと、数年前に私はお寺で働いていた仕事ですとか、カフェをやっていたこととか、一旦そういうのは全部止めて、このぶっ壊れた自分をなんとか多少真人間にしたいと思って、「かなりの変化の中でも、元の生活には戻らんぞ」というちょっとした決心をして、ちゃらちゃらした長い髪をばっさりと剃って、修行を始めてあちこち転々としながら、1年ぐらいの間瞑想をひたすらやっていたんです。その時にある1つの節目として自分の心の中のことが全て見渡せてどんな感情が沸き上がってきても、それをじっと見つめていることにおいて、どんな考えにもどんな感情にもとらわれない、もう自分の問題は解決したというふうに思う感触があったんです。錯覚だったんですけど、その時はそう思い込んでしまい、自分が一通り完成したなというふうに思ったんです。ですので元の生活に戻っても、前のように心乱れたり、苦しんだり、悩んだり、人とぶつかったり、そういう目に遭わずに生きていけると思い込んでいたんです。そういう状況下で、確かに最初のうちはそうでした。そういう状況下で私の出した本がたまたま多くの人に受け入れられるようになり、その結果として、今自分はパワーがみなぎっている、瞑想も集中力もクリアでどんなに働いても疲れない、特にストレスも感じない、感情のムラもない、人に誉められても浮き足立つことなければ人に非難されても受け流せる、もう問題ないと思ってました。もろさはもう大丈夫だって、偉そうな俺様モードの感情があるのをそのままほったらかしにしていました。そのうち瞑想の時間が減っていきました。仕事の時間が増えていって、いつもカリカリしていて、だんだん肩が凝るようになり、そして周りの人が、よかったとか悪かったとかコメントをくれたり、話しかけてくれたり、賞賛の手紙がきたり、非難の手紙がきたり、なんて嫌な本なんでしょうと言われたり……、そういったものは気にならないつもりでいたんですが、やがてだんだん、心がジワジワと気持ちのいいものを求めて不快なものを嫌がる状態に戻っていっていました。ところが私はいい具合に自分が変わった自分でいたい、そういう状態でありたい、それをプライドの支えにしていたようなところがありますので、自分の瞑想のレベルが衰えていてだんだん集中できなくなってきていて、自分の内面を見つめることが曖昧になってきていて、そして俺様は結構すごいんだ、仕事もできるし、どれだけ仕事をしても大丈夫だみたいな感情になってることも観察しないぐらい雑な状態になってしまっていて、それを続けている間にあまりに仕事を詰め込みすぎたせいで心がだんだん乱れ、だんだん心が元気じゃなくなってきました。そのぐらいの時に早く認めればよかったんですが、そんなに立派じゃないでしょ、そんなにステキじゃないでしょ、そんなに偉そうにできる人物じゃないでしょ、そんなもんだからいいじゃない、自分を認めて自分の状態を受け止めていたら、ああそうか、ありがとう、君がそう言ってくれるんなら、それでいいのかって、自分の現状を俯瞰できていたら、もう少し早く切り返すこともできたと思うんです。ところが「自分はいい状態でありたい」、「ステキな状態じゃなきゃ許さんぞ」っていうふうに見張り、「ちゃんとしてなきゃ許さないよ」って心の中に鳴り響いて……。自分の弱体化していることは認めることができないままに突っ張っていたら、体調を壊しました。おかげで自分のやっていることはおかしいっていうことをシグナルとして聞き取ることができました。

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結局のところ自分が何者であるのかというのを自分の内面が何を感じているのかというのを俯瞰していると私たちは自分を苦しめることができてしまいます。ただ、その苦しめる母体になっているという環境というのは「よい自分でありたい」、「ステキでありたい」、「気持ちいい自分でありたい」と思っているんです。皮肉なことに気持ちいい自分でありたいと思って、背伸びしよう、背伸びしようとするせいで、背中や腰が痛くなったりして自分が苦しみます。
さっき、いくら考えても概念が積み重なっていくだけで物事をありのままに受け止めることに必ずしもならないと申しましたが、自分について、こうなるべきか、ああなるべきか、あれが正しいんだろうか、これが正しいんだろうか、あれは間違っているんだろうか、考えることがあまり大切にならないならいいんですがどんどん袋小路に陥っていき、いくら考えても結論が出ないんです。そうではなく今の自分の状態がどうなっているんだろう、今はこれを感じている、今はここが痛い、今はこのような苦しみになっている、今はしんどい考えを持っている。ということをただ見つめる、ただそれに気づいて、今自分がそうなっているでしょという情報を脳に伝達してやるだけでいいんです。それが仏教の気づきと呼ばれる心の作用です。ただいま自分がこうなって苦しくなっているという情報を純粋にそれがいいも悪いもなくただ脳に送ってやると、そうしたら、これが問題ならこういう解決策があるということを勝手に出してくれます。頭で考えて出す結論とずいぶん違って「こうだからこう」、「ああだからああ」という結論ではなくて、とにかく今苦しいから「これが解決策だ」と、ずばっと答えが出る、苦しいから「解決するのはこれだ」というふうに出るんです。私の場合でいえば、編集者のみなさんやカルチャーセンターで講義をもっている担当者の方々に、「とっても偉そうにふるまってきたけれど、申し訳ありません。実は私はこういう自分というのが現状で結構弱体化していて、もう少し持ち直したい、ここから出直したいというとふうに考えております。今自分のキャパシティを明らかに超えた仕事量になっていますから、これはやめさせてください」と申して仕事の量を減らします。仕事の量を減らすということ自体は、表面上のことでその背景にあるのは自分というのができない人間、ダメな人間だと、自分で認めなきゃいけないというハードルが1つあり、そしてそれを人にも見せなきゃならないというハードルもあります。今の自分の、慣れ親しんでいる周りの人からの視線、扱い、期待値、そういうのを裏切ったら、相手に悪いんじゃないかと考えるかもしれません。でもそれは言い訳。相手に悪いなんて嘘ですよ。人間というのは、相手のことなんて大事にしながら、生きてますかね。本当の感情というのは、相手が自分に対して持ってくれている期待値があって、それを切り下げてしまうと自分のプライドが傷つくというのが実情ではないでしょうか。少なくとも私の場合はそうだと思います。ほかはきれいごとでごまかそうとするんですよ。相手を困らせるとかわいそうだから、そうではなくて相手を困らせたら、相手の表情がゆがんだら、自分の評価が下がったりするのが怖いだけなんです。そういう弱い自分なんだというところまで掘り下げて、自分の中に気づきを見せてあげると、力がふっと抜けます。「こう思われたらどうしよう」いや、思われた方がいいんです。なぜなら、それが本当のありのままの自分なんですから。そうじゃない状態の評価があっても、何の役にも立たないじゃないですか。ところが、それでも私たちの頭は、そうやってのびのびとする感じよりも、よりよく見せようと、よりよい自分でなきゃだめと自分を責めることが多すぎるみたいですね。自分の弱い部分、自分の弱さを認めること、できない点、美しくない点、きれいではない点……、そういったことに気づいて認めてあげること、ありのままの自分に気づきを向けてあげること、これが自分だね、しょうがないね、わかったよ、というふうに現実を受け入れてあげることですね。すると脳の働きが、一変します。これは通常の人生においてまず起こらないことなんですよ。なぜなら常に現実を否認して、別のデータに置き換えようとする脳の基本構造がある。それをストップする。「これが現実だ」、「ただそれだけだ、終わり」と自分を受けて入れている時に、実はものすごい意識が冴えます。

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これは自分を愛しなさい、自分を好きになる呪文を唱えなさいとか、私は私が好きと100回唱えるとかそういうスピリチュアル系の発想と似ているけれどずいぶん違うと思っていてください。人間は好きになるか嫌いになるかどっちかしかできないと思い込んでいる節があって、「あ、じゃあ、好きになればいいんだ」と思うかもしれませんが、好きになるというのもちょっと違います。好きになるというのは快をもたらしてくれる、気持ちいいものを好きになる。それは、条件付きということですね。「あなたのこと好きだけど、気持ちよくなかったらやだよ」っていう感情ですから、自分が常に気持ちいいってありえないじゃないですか。都合がいい時は好きになれるけれど、都合が悪かったら嫌になってイライラしてきます。好きになるっていうのとは都合の悪い時のことを込みで好きになることの感情ですから、自分を抜本的に受け入れるということの解決にはなりません。好きか嫌いかという問題ではなく、ただ気づくだけ、それだけです。ただそれだけ、否定しない。ただし別にべたべた好きにはならない。自分の心の底は実はこういう感情で動いていたんだとか、実は人の目が怖くて背伸びしてたんだ、というふうに、現実の自分の心の中で起きている煩悩の情報をただ脳に伝達してやるのが気づきの力で、それが、自然に……はっと気づくんです、「ああ、人目を気にしていたんだな」って。「実は弱い人間だったんだね」って、受け止めてやると「自分の中にはこういう問題があったんだね」って自然に緩みます。好きになるということは、そのままでいいんだと……。やわらかく見守ってあげると、こわばっている氷が溶けて行きます。それは流れ去って行きます。

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「快」と「不快」

これは「スッタニパータ」という仏教の経典の中で言われる中の仏陀の言葉です。後世になってからつけ加えられた節も文献学上あるんですが、後半は、もっとも古いものであるというふうに言われています。その後半の部分から引いた言葉です。ずいぶん自由に訳させていただいています。

「五感への情報の
接触に打ち負かされて、打ち負けて、
生存の輪廻に飲み込まれ道を踏み外すものにとって
束縛から離れることは、
遠くはなれている」

さきほど五感への接触に基づいて、快、不快が生じると申しました。暑い、寒い、眠い、痛い、かゆい、きれいだ、醜い、ステキだ、美しい、香ばしい、くさい、おいしい、まずい、つらい、酸っぱいとか、そういう感覚の接触と、もしくはそれ以外に考え事を通じても当然快、不快が生じます。あれはよかったな~と思い出したり、ああなったらどうしようと不安になったり、あの人はどう思っているんだろうとか、いいことを考えると快が生じて、やなことを考えると不快が生じます。そんなふうにして脳みその中で、考え事をすると快、不快が生じます。何かが見えると、快、不快が生じます。

(スライド)
何かが接触すると快、不快が生じます。快が生じると、脳内でドーパミンと言われる情報を伝達する神経伝達物質が分泌されます。不快が生じると、ノルアドレナリンと言われる神経伝達物質が青斑核という場所から分泌されます。不快な情報を伝達していきます。不快な情報を伝達して、戦闘態勢に入ります。「問題を生じた、大変だ!」ストレス反応を司る神経回路ですね。接触すると、感受作用が動きます。快か苦、もしくはドーパミンかノルアドレナリンかの感覚が走ります。感覚が走ると快に対して、もっと欲しい、気持ちいい、好きだという感情が生まれます。感情のことを仏教では愛と言います。不快なものに対して、嫌だ、嫌いだ、大嫌いだ、逃げたい、やっつけたいという感情が生まれます。触、受、愛と心は流れます。そして感情が生まれると執着が生まれます。つかみ取る、しがみついて離さない、不快なものに関して、海馬にその情報が強く、蓄えられて似たようなものを次に見たり、聞いたりするととにかく、強く嫌だって思うように強く記憶するということです。あるいは、これは好きだというものを感じると、反復、何度も味わいたくなる、もっと、もっとというふうになるという執着が生じます。執着が生じると自我が生じます。この有と書いているのが、おわかりでしょうか。有愛、存在への愛、こういう自分でありたい、ああいう自分になりたい、こうでありたいと……そういう存在。例えば仕事に成功すると気持ちいい自分に生じて、もっとそれを繰り返したくなる、もっとがんばろう、もっと立派な自分であれることの快楽がほしい、それが執着となり形成された時にそれをアイデンティティとする自分が生まれるということです。仕事がちゃんとできた自分というイメージ、自我アイデンティティが生じます。私たちは何かの感覚が接触すると、常に快か不快を感じて、それを好き、嫌いかということを感じて、それが執着になって、そういうふうに感じている自分、これを嫌いだと思っている自分、これを好きだと思っている自分、というものとして生まれ直します。この生まれ直すということが「生存の輪廻に飲み込まれる」ということです。

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例えば私は、一昨日新しい本の執筆を完了しました。できあがった、乗り越えた自分の自我イメージが生まれます。そこに快感があって気持ちいいという感情が生まれています。心、脳は諸行無常ではなくて、固定できるんだったら、超ハッピーですよね。達成した、よっしゃ、素晴らしい、が永久に続くなら人生なんの問題もないじゃないですか。あるいは誰かを好きになって、女の人があなたのこと好きって言ってくれて、わぁ、うれしい、その感情をずっとフリーズドライして、それが消えなければ、もうなんの問題もなく残りの人生生きていけるじゃないですか。ところが、フリーズドライできない。にも関わらず、みんなフリーズドライにしようとして、写真、メール、手紙を残そうとしたりするんです。そんなのは色あせます。常に最新の情報が入ってきて、過去の残り香にすがろうとしたって、過去の快感は実はほとんど役に立たない、固定できない、脳の神経作用は常に移り変わっているんです。快感が生じたら、そのあと物足りなさが必ずやってくるようにできてます。ドーパミンという脳内物質の罠は快感が生じた後、脳が落ち着かない気分を必ずもたらすようにできているという点です。ですから五感の感覚に、何かがふれて、ああ、気持ちいい、ステキな自分になった、その自分に執着すると次に必ず失敗が待ち受けています。なぜなら、そのできる自分というイメージ、そのあと何もしなかったら維持できない。それを維持するためには、もう一回り苦労をして何かを成し遂げなきゃそれを感じられない。それをまた取り組むプロセスにおいては、「できなかったらどうしよう」とかまたずいぶんいろいろな苦しみを抱えながら、失敗するかもしれない自分とか、と不快をもたらすという点です。必ず失敗が待ち受けています。達成感に喜んでいた自分……、そして、また失敗した自分に輪廻します。仏教でいう輪廻転生というのは、文字通り、死んだ後来世どうなるという話も含んでいます。 狭い意味での輪廻の話をしますと、五感プラス意識の6ヵ所に情報が接触する、気持ちいい自分とか、不快な自分にしょっちゅう生まれ変わるんです。この諸行無常は、ひたすら輪廻します。ごはん食べておいしいなとか、仕事達成して気持ちいいな、とか思っても、必ず、そのあとは不快の状態、できない自分を意識させられたり、できなかったらどうしようとか、気分が悪くなったり「なんであの人はあんなんなんだろう」とか「自分に対してこういうふうにしかしてくれないんだろう」と不安になって、いい自分ではいられない。絶対にいやな自分に戻っていくようにできているんです。ところがこの脳は固定したがるんです。圧倒的な矛盾があると思いませんか? 真剣にみつめてみると、脳みそが求めているゲームというのは、絶対に負けるゲームをやらされているんだということになります。脳は固定したがっている、気持ちいい状態、気持ちいい自分、ステキな自分でありたい、という圧倒的な欲求があって、そうじゃなきゃいやだ、完全な幸福、完全な満足を味わっていたい、そういう状態になるとクリアだというゲーム、脳がやっているのはそういうゲーム。ところが、瞑想をしていると、いかなる快が生じても、必ずそれは、ちょっとの間に崩れ去り、ドーパミンの効果は永続しない、効果が切れる、必ず苦痛と苦しみがやってきます。身体的苦しみのあと、必ず心理的な苦しみが必ずくっついてくる、そのあと、その苦痛から解放されると一時の快が生じ、その快の機能が切れると、また苦がやってきます。心の原風景、ふるさとは快ではなく不快なんです。
不快から解放されたら快を感じる、で、また不快に戻る、というゲームをやらされているのに、ずっと快でありたい、というゲームだとしたら、クリアできないじゃないですか。 というような現実を見せつけるので、仏教は暗い印象がするかもしれません。この脳みそは人生明るいよ、楽しいじゃん、だからひたすら、アクセクしろよ、緊張して戦えよと命令するようできているんですが、それは事実を見ていないから。事実をありのままに気づきを向けていって、本当は必ずこのようになっていて不快な時間の方が長いんだな、快は必ず固定できなくて壊れるものである、無常なんだなと。気持ちいい自分になっても必ず嫌な自分に輪廻するんだな。そうやってひたすら生まれ変わるんです。

これは仏陀が菩提樹の元で解脱した際に述べた、自分の感動です。輪廻から解脱したということです。ひたすら、こういう自分でありたい、その自分が死んで、また生まれ変わる、またまた生まれ変わる、馬車馬のように人生のメリーゴーランドを駆け抜けていて、一生クリアできない、しあわせになりたい、なりたいというだけで、空回りするだけで、一生固定できない、心の平穏はないという苦しみから抜け出したというのが解脱です。解放されて脱出する、輪廻が終わったということです。究極的に自分は何者にもならなくていいし、自分は何者でもないというまま、何者かにならなきゃいけない、ステキじゃなきゃいけない、立派じゃなきゃいけない、こうじゃなきゃダメだ、ああだこうだ……それが一切消えた。なんだ、何者でなくてもいいんだ、となって、何者にもならなくなった。というのが解脱したということが文脈から言えます。その時の彼の言葉をちょっと短くして、訳させていただきました。

ある一生が終わった。かと思いきや、
またくるんと生まれ変わって、今度はこの一生が始まる、と
繰り返すのは大変すぎる。
まったくもって苦しみだ。私はこの輪廻の正体が見破れないまま
何度も生まれ変わってきた。
人生を輪廻させている黒幕よ
お前の正体は、ほしい、ほしい
足りない、足りないと
騒ぎ続けて、
こんな自分になりたい、あんな自分にならなきゃだめなんだ、
自分はもっと
足りない、足りない
と、騒ぎ続ける渇愛なのだと。
そのように私はもはや見破った。
自分の渇愛の正体を十分に見つめて、
自分の過去を見通した。
それによってもはや私が、生まれ変わることはないだろう。

もう生まれないということは、言い換えれば、どんな自分にならなくてもいい、ただただありのままの自分であるという事実があるだけで、自分に対して、いいとか悪いとか考えなくなった、自我意識が消滅してしまったということですね。

(スライド)
心の静まりを説いた言葉が、「ホクギョウダマパダー」において仏陀が述べている、自由に訳す前の言葉を申してみましょう。「諸行無常であるということを智恵によって、見るものが苦しみから、遠ざかる」というのが原点です。諸行というのは、諸々、心のつくり上げるすべてのものという意味です。諸行は固定しておくことができず、快になっても必ず不快に戻り、つまり当てにならないということです。頼りにならない、まったく自分の拠りどころになってくれない。拠りどころになってくれるだろうということから、私たちは緊張して巻き込まれてしまうんですけれど、それは当てにならない。執着、固執しようとするところから、心がしんと静まって離れてしまうということです。そして、無常である。よく、仏陀と弟子の問答に対して、こういう誘導尋問みたいな問答があります。問答って言っても、もう答えは最初から決まっているでしょと言わんばかりの代物です。
「心、体は常であるか無常であるか」
「はい、無常です、尊氏よ」
「そうであろう。ところで君たち、無常であるものは苦であるだろうか楽であるだろうか」
「そうであろう。ところで君たち、無常であるものは苦であるだろうか楽であるだろうか」
というように続くんですけど、脳は常を求めていますよね、気持ちいい常の継続、脳は固定化を求めています。でも、固定できない、ということになってみると、それが脳にとって気持ちいいことであるわけがなく、苦に決まっていますね。
「無常であるのは気持ちいいことです」というわけはないので「苦です。尊氏よ」と弟子たちは答えるでしょうけど、この苦という言葉の意味は、古いインドの言葉で「ドゥッカ」と言います。「ドゥッ」は苦痛、「カ」は空虚である、うつろであるという意味から成り立っています。この場合、どんな感覚も結局移ろい変わってしまうから、実質がない、実態がない、頼りにならない、当てにならない、空虚である、この「カ」に焦点を当てていると言えるかもしれません。何を味わっても心は絶対満足しないということですね。

(スライド)
それが、実は「イッサウカイクウ」と仏教で呼ばれている言葉の意味の私の思うところ真実です。すべての心がつくりあげるものは何をつくり上げたとしても、それは苦痛であって、空虚であって、頼りにならない、当てにならない。当てにならないということへ結局心は不満足に戻るものに過ぎない。満足させてくれない、快は消えて行く。という意味で、すべての心がつくりあげるものは、苦しみだ。全部が苦しみだと言っているわけではなく、心がつくりあげるものに捕われた時、それは心が絶対満足させてくれず消えていくものだということを言っているのが「イッサイカイクウ」。「諸行無常」と同じ言葉です。
心でつくり上げるものだけでなく、
宇宙に関わるすべての現象は
思い通りにならないと
智恵で見るとき、
心は苦しみから離れる。

自分で支配できない、命令できない、ものであるということを知った時に、執着から手が離れます。いい感情だけで固定しておきたいって私たちは願いますが、絶対固定できない、支配できない、命令できない。自分の感情についてすら、常にご機嫌でいたい、と自分の心に命令しているはずが、逆に自己嫌悪に陥ったり、嫌な気分になったり、悲しくなったり、寂しくなったりしますよね。なのに命令しようとするんです。 もっとステキでいなさい、背伸びしなさい、それは無意味であり、人をこんがらがらせるだけだと知って、そうやって命令したり考えたりする代わりに、仏教はただ気づくこと、ただ見つめることへと、あるいはただ受け入れることへと、視線を変えることを提案しています。元気が出ない自分がいたら、「がんばれ」ではなくて、見つめる時間にしてあげることです。すると、勝手に変化が生じます。思い通りにしようとしないで、寄り添ってあげることで、この心は自然に変化します。

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最後、かなり深刻な話もしましたが、総じてお伝えしたかったことというのは、自分自身の現状に対して、「もっと」という今から先においてああなりたい、こうなりたい、こうならなきゃいけない、ではなくて、今こうであるという現実に立ち返って、背伸びをしていない状態、ほっと一息ついて、肩の力がちょっと抜けて、ばりばりになっていた背中のこわばりを抜いた上で、ある程度しゃんとした、すっと座れる自分になって……。というのはつまり、こういう自分なんだなと認めてあげて、自己愛なんてこの世界に満ち満ちているから世の中がおかしくなっているのだから、愛さなくていい、よしよしと受け入れて、あるいはまわりの人のことを固定しようとしても絶対固定できない、思い通りにならない、これは、無常のものであり、苦であり、しょうがない、ふっとあきらめると、心も体もやわらかくなって、すごく明るい気分になります。要は起きることを受け入れて、波に乗ってりゃいいんだ、あきらめよう、しょうがないね、と思うと明るくなります。楽になります。ハッピーになります。ハッピーになろうとするから、なれない自分が抑圧されて苦しくなる、その逆説、アイロニー、皮肉をちょっと意識してみてください。仮に自己愛に飲み込まれたとしても、さっき自己愛ってダメだと言いましたが、そう言われると、自分が大好きという感情が湧いてきた時に、自己愛ダメダメと想い始めると、また背伸びが始まるんです。そうじゃなくて、あ、自分が大好きで、自分、自分って思っている自分がいるんだな、ってことですね。自分の弱さを認めてあげる勇気を出すことによって、自分の中の氷が溶けていって、本当の意味で変容が始まるかもねというお話でした。

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<第2部>

お客さまとのQ&A

お客さま:
最近まわりから「バカだからしょうがない」と言われて気にしているんです。その言葉を認めたら、何か変わると思いますか。

小池さん:
認めたら変わると思います。認めるまでちょっとむずかしいかもしれません。一歩踏み越えてしまうと、行き過ぎてしまうと、かえって自分が固まります。いつのまにか何か失敗すると「どうせ自分はバカだから」と、いつのまにか自分を無常じゃなくて常に、「バカだから」「バカだから」とそこに固めようとする、固めることで、ある種の自分のアイデンティティにしようとするというか、「できない」という……。今日有愛の反対の無愛を説明したかったんですけど、反対の方に自分を固定するというのも、私たちにとって都合がいいので、でもそうやって固定しようとすると世界のリホンに反しています。無常に抵抗しようとすると、そこに必ず不自然さと緊張、こわばり、苦痛、なんとなく鼻持ちならない感じが、漂うので気をつけたいものですね。
その時その時の自分をやわらかく認めてあげて、ほかの人たちの「できないからしょうがないね」っていう笑うような視線をそのまま受け入れないでください。しょうがないよねって、ちょっと口角を上げるような感じ。実際に口角を上げてみてください。交感神経ばかりが刺激されて興奮状態に陥っているのが、ニコッてするだけで、ちょっと副交感神経が上がって、リラックスした状態で自分を受け入れてあげてください。

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お客さま:
自分のことを嫌う人とうまくつきあうには?

小池さん:
非常にむずかしい質問です。2つの選択肢があるでしょうね。その人とつきあわなきゃいけない、なぜ自分が思い込んでいるかをよく分析してみて。この問題は自分は小学生なのに、大学の微分積分という問題をいきなり与えられているみたい、あまりにもむずかしすぎる問題なのではないだろうかということがわかったら、その人との関係から撤退することです。 それは社会生活上できないと思い込んでいるだけで、いざやれば結構できます。 自分にとってその人とつきあうのがどれくらいハードルが高いかをまず見極めてみることですよね。 仏教ではこう言います。「どんなむずかしい相手であっても、問題はその人のことではなくて、その人のことをいやだと思い込む、その心の問題だから、その心を見つめて乗り越えれば、いやな人といることこそ自分の修業になって、自分の成長になる」ほほう、なるほど、立派な意見だ、仏陀ならそう言うでしょう。しかし、そんなことが本当にできるのか? いや、それは自分が小学3年生で中学校の2次方程式くらいなら、がんばって教えてもらえばできるでしょう。自分がイライラしがちでも、そのレベルをちょっと超えたぐらいの、自分を嫌ってくるくらいの人であれば、いい修業になるでしょう。ところが、あまりにもハードルが高い、自分が全否定されているような気分になって、毎回苦しくなる、毎回泣きたくなる、とか逃げたくなるっていうのを、修業だと思って毎回ぶち当たっていって、この気持ちを乗り越えなきゃいけない、成長しなきゃいけないって思って、それは小学1年生に絶対できない微分の問題をぶつけて、結局その子が壊れちゃうということに繋がりかねない。だから、むずかし過ぎる問題だと気づいたら放棄すべき時もあると思います。

お客さま:
親不孝をしたまま、父が他界してしまいました。来年13回忌を迎えますが、今も後悔、つらい時があります。こんな自分をどう受け入れ、認めたらよいのでしょうか。

小池さん:
諺にもあるように今から孝行はできません。ただある意味では、自分の心の中で、孝行をする方法というのはなくはないと思います。それは、「あの人に対してあれが足りなかった」と悔やむのではなく、その親不孝をしていたということ、恐らく、私もそうですけれど、生きている間は親のいやなところもいっぱい見てきたんだと思います。あそこが気に食わない、生意気な言い方をするところがいやだ、あの人みたいになりたくないとか、すぐ怒るのがいやだから自分はそうならないようにしようとか、ケチなところがいやだとか、そういういろいろな感情があって。でも死んでみたら、おいしいごはんつくってくれたなとか、毎朝おはようって言ってくれてたなとか、そう言えば親には嫌なところもいっぱいあったけど、がまん強いところがあったなとか、いっぱい困難があってもあれはやり遂げていたなとか、死んだ人の今ならいいところをたくさん取り出せるはずです。いない人について悪いところはあまり考えないものですから。近くになると、いやなところばかり見えるけれど、いなくなって見ると、いい感情が出てくるじゃないですか。その時に、そのなくなった方、よかった側面にじっと思いを馳せてみてください。遺伝子の情報を通じて、実は必ず受け継がれています。いいところも、「ああはならないぞ」というところも受け継いでいます。遺伝子情報を親からたくさんコピーして受け継いでいますから、親が自分の中に生き延びています。親の持っていたいい側面を思い起こしてあげると、やさしい気持ちになれます。それが、自分の中に流れていることも意識してみてください。まだ芽を吹いていないかもしれないし、芽を吹いているかもしれない。それを与えてもらってうれしい、ありがとうという気持ちになってください。まだ芽を吹いていないデータで、親の持っていたいいところを思い出すことができたら、まだ芽を出していないけれどもらってるんだなあということに意識を向けてみてください。これから、そのよい業の種として与えられているものを、水をやって育てていこうという気持ちになってください。そうしたら、種として持っていた親のデータを自分の中で、育てていくことができるじゃないですか。それが、最良の継承、孝行になると思います。やり直せます。

フェリシモ:
人にとってのしあわせとは、小池さんは何だと思われますか?

小池さん:
幸福になりたいという火事で道の左側は燃えています。右側は不幸でしょうがない、うっとうしい、いやだ、不快だという洪水であふれています。この洪水に巻き込まれることが、人間は結構好きです。「私って不幸だわ」って酔っぱらうことができるので。反対に「私っていい感じ」とか「大好き」みたいなハッピーだと思える快感がほしい、ステキな状態でいたい、気持ちよくありたい、いいものを身につけていたい、と「ハッピーだわ」と思ったら、必ず墓穴を掘るはめになっていて、それは長続きしないでいつのまにか、気づいたら洪水に引っかかっています。洪水に行けば行くほど、次に左側にぶれた時に超ハッピーになります。自分を追い込んだ後に抜けたら超ハッピーってなりますけど、その次また右側に来ます。昔の人、江戸時代はこういう(小さな振り幅)行き来でした。現代人はこういう(大きな振り幅)のが好きなので、超幸福のあと超ドツボ、超ドツボのあと超ハッピーみたいな……。これは、まったく幸福とは言えないのではないだろうか、というのが仏教の提案するところであります。

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快っていうのは毒針のようなもの。私もしょうっちゅうはまるんですけど、はまったらこの快、案外早く消えていくなと気づいてやることです。ちゃんと観察すると心が静かになって、静かになると、洪水と火事しかないような世界なんです。火事が終わったら洪水に巻き込まれ、洪水が終わったらハッピーって大騒ぎする、興奮状態ですね。でも「ハッピー」の興奮状態も、「イヤだ」の興奮状態もどっちも交感神経ばっかりが刺激されて、落ち着きを失ってあんまりやる過ぎると眠れなくなったり、落ち着きを失っていっちゃう。でもその洪水と火事の間に、ないかのように見えていた細い1本の白い道が実はあるんです。それを仏教では中道と読んでいます。快をそんなに求めてもしょうがないな、不快に溺れてもしょうがないな、不快なんてどうせ一時期の神経作用に過ぎないから、やがてまた消えていくものに過ぎないというふうに、一回一回みつめて観察し、快になったら、快はどれくらい続くかなって観察して、一瞬中道に立ちます。快を追い求めない、不快をいやがらない、不快になっても「まあ、そういうもんだな」と……。それを繰り返したい、その状態に留まらなくてはいけないと思わなくてもいい。そのための呪文をお伝えしておきましょう。ハッピーになった時に念じる言葉は「これもまた続かない」、「頼りにならない」、「当てにならない」、「無常」、「これもまた過ぎ去る」なんでもいいです。そうやって「これも一時的なものだ」と念じておくと、心が興奮状態から緩やかに静まっていきます。その時、快に執着せず中道に戻ります。するとそのあとドボッとこっちにはまらずに、緩やかなカーブで進んでいきます。心の平安さ、緩やかさが、幸福を求めないということが、そのことにおける緩やかなカーブ。仏陀の場合は、カーブなし、完全に中道です。それはなかなかむずかしいでしょう。私たちの目指したいところは、カーブを緩やかにして、比較的平安。それが仏教的に見るところの幸福かなと思うところであります。

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Profile

小池 龍之介(こいけ りゅうのすけ)さん<正現寺住職、月読寺住職>

小池 龍之介(こいけ りゅうのすけ)さん
<正現寺住職・月読寺住職>
*プロフィールは、ご講演当時のものです。
僧名は龍照。1978年生まれ、山口県出身。正現寺住職、月読寺住職。東京大学教養学部卒。2003年、ウェブサイト「家出空間」を立ち上げる。2003年から2007年まで、お寺とカフェの機能を兼ね備えた「iede cafe」を展開。 それ以後、「正現寺」(山口県)と「月読寺」(神奈川県)を往復しながら、自身の修行と一般向けに瞑想指導をすることに専念。主な著書に『考えない練習』『苦しまない練習』(ともに小学館)、『「自分」から自由になる沈黙入門』『もう怒らない』(ともに幻冬舎)、『超訳ブッダの言葉』『煩悩リセット稽古帖』(ともにディスカヴァー・トゥエンティワン)などがある。
<家出空間>http://iede.cc

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