神戸学校

神戸学校はフェリシモが主催する「神戸発 生活デザイン学校」です。

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「神戸から続く物語 ~震災20年の神戸から伝えていきたいこと~」



<第1部>

竹下さん:
今日はみなさん、どうぞよろしくお願いいたします。

フェリシモ:
竹下さんはどのくらいの頻度で神戸にいらしていますか? 

竹下さん:
実は私、阪神・淡路大震災前の神戸はほとんど知らなかったんですね。実際に復興支援コンサートとして詩の朗読と音楽のコンサートが始まりましたのが1999年でしたので、それ以降、毎年1月17日、もしくはその近辺で1泊2日くらいでしか来られなかったんですけれども、毎年寄せていただいておりました。

フェリシモ:
本日1月17日は、阪神・淡路大震災がおきた日ですが、震災があった日、竹下さんはどこにいらっしゃいましたか?

竹下さん:
東京の自宅におりました。2人子どもがおりますので、朝は何かと忙しくて、時計代わりにつけていたテレビで、まずその震災のニュースは目にしました。最初は情報が十分に伝わらない状態。まさかこれほどのことが、そのあとの余震も含めて大きな火災があったり、町や道路が寸断されて……というようなことは、徐々に分かっていったわけです。それでも1日じゅう、その日はニュースに釘付けになって、その被害の大きさが時間を追うごとに、大きくなっているというのが、現実のものとは思えない印象でした。

フェリシモ:
阪神・淡路大震災の復興支援として行われていますメモリアルコンサートについて教えてください。始められたそもそものきっかけは何だったのでしょうか?

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竹下さん:
震災から4年経っていましたけれど、友人から「自分たちも復興支援コンサートで元気になりたいし、被災されたみなさんにも元気になってほしい」ということで、私に朗読の依頼があったんです。被災していない私に何ができるんだろうという思いはあったのですが、それよりも何よりも阪神・淡路大震災そのものが、当時みなさんがまったく予想をしていなかった。当然私もそうですし、まさかこんなことが神戸、淡路島で起きるということが信じられなくて。たまたま神戸で起きて、それは東京で起きてもおかしくなくて……。地球は、46億年の歴史を経て今があるわけですけれど、その長い長い歴史の中で大陸ができたり衝突したり、大きな自然の変化が繰り返し起こっているわけですよね。その一方で、私たちの祖先ホモ・サピエンスが誕生したのは今から20万年前くらいで、しかも今のような生活をするようになったのは、地球全体の歴史でいえばごくごくわずか。だから、どこで何があったとしても、これはそこに居合わせた方にとってはまったく不慮のできごとと言っていいと思うんですね。私自身そう思った時に他人事とは思えませんでした。でも、では実際に何をしたらいいんだろう、というところから踏み出せずにいたものですから、友人から誘いがあった時には何ができるか分からないながらも、「行きます! 神戸に」と申し上げました。全国から被災の体験はもちろんなんですけれども、それ以外にも夢、希望、勇気をテーマに作品を寄せてくださいと公募をしまして、 14年間で2500くらいの作品が集まりました。毎年、1回にご紹介できる作品は6~7編でしたが、作品を通して神戸のみなさんとお話させていただく中で、少しずつ神戸の町にも、それから住んでいらっしゃるみなさんにも近づいていくことができました。 私は、基本は女優ですので、フィクションを演じることの方が多いわけですね。そこに書かれているものをあたかもそこに本当に生きた人がいるかのように、演じるのが仕事なんですけれども、私が日ごろ目にしている言葉とはまったく違う、端的に言えば、もっと生な、もっと切羽詰まったというか、本物の言葉たちがそこにはあって、そこで気づかされることが多かったです。

フェリシモ:
実際にみなさまにもメモリアルコンサートを映像でご覧いただきます。今から流すのは2007年のメモリアルコンサートの映像となっております。

(映像)
「勇気の力」
神戸市立大山寺中学3年 中野 知沙子

全部変わって
全部変えられた日
人は何を欲したの
暗い今を吹き飛ばす

明るい 夢
今を乗り越えて見つけだす
新しい 希望
どちらも欲した
け れ ど
「今」を吹き飛ばそうとする
勇気があったから
「今」を乗り越えようとする
勇気があったから
夢と希望を探し出そうとする
勇気があったから
今の人々は
勇気に溢れて
生きている

忘れないで

受け入れる勇気があったから

覚えている勇気もある筈だから

竹下さん:
今ピアノを弾いていたのがピアニストで音楽家でいらっしゃる林晶彦さん。当時芦屋に住んでいた林さんから直接電話をいただきました。林さんの芦屋のお家も半壊状態だったんですけれど、まず自分たちが立ち上がろうということで声をかけてくださいました。

フェリシモ:
ピアノの演奏とともに、竹下さんの声で作品をいただいて、明日に繋がるような作品だったと思うのですが、竹下さん自身、作品を数多く読まれているのですが、作品に対して、どのように向き合っておられるのでしょうか?

竹下さん:
こうやってステージで朗読する前に、作品を寄せてくださった作者にお目にかかって、お話をその都度伺うようにしてきたんですね。私は事前に目を通しているのですが、みなさんのそれぞれの体験を伺うと、それはそれは私の想像など軽く飛び越えてしまうような、さまざまな経験をされていて、その思いの一つひとつが結晶のように言葉に結実しているように感じました。 1つ覚えているのは、若いお母さんから、震災当時赤ちゃんだったお子さんが幼稚園か小学校に上がるころ、突然、震災の絵を描いた、という話を伺いました。小さい人たちの心の中というのは、大人が推し量ることはふだんでもなかなか難しいと思うのですけれど、そんな小さい人たちの心の中にも、あれだけの大変な出来事ですから、ご本人がどこまで自覚していたかは分かりませんが、何かがきっかけでわっと、まあ全部が本人の記憶ではないにしても、まわりの方から聞いた想像が混じっていたにせよ自分の手で絵を描いたという、改めてこの震災の深刻さ、大きさを感じました。それから大切な家族と引き裂かれた方の痛み、苦しみ、悲しみは、震災から10年、20年経っても決して癒えないということも、やはりお子さんを亡くされたお母さまから伺って、言われてみれば確かにそうなんだなと……。みなさん、徐々に生活は取り戻していらっしゃるわけですけれども、でもその心の奥底には変わらない悲しみがあることも教えていただきました。と同時に、もう一回がんばるぞ、というのもこのコンサートの会場で毎年顔を合わせていく中で聞かれた声でもありました。

フェリシモ:
1999年からメモリアルコンサートは行われているのですが、今では東日本大震災のあった東北でもメモリアルコンサートが行われています。そういった中で作品の変化など、ございましたか?

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竹下さん:
1999年に最初に朗読をした時は、被災の体験がほぼ全部でした。会場がシーンとなって、時には涙ぐんでいる方の気配とか息づかいが痛いほど伝わってきて、その場の空気、こういう辛い体験を思い起こすことは耐え難い、と思われる方もいらしたと思うのですけれど、まず会場まで足を運んでくださって、その場を共有してくださるみなさんとの一体感がとても強かったんですね。そういう会を毎年続けていくことによって、次第にさっき映像が流れた中学生の作品のような未来に向けての自分の思いを綴った作品が増えていきました。その後、震災から10年経つ頃からでしょうか、やはり風化が心配されるようになりまして、特に東京では、阪神・淡路大震災の情報が少なくなってきて、忘れてはいけない、と。いつまで続けられるか分からないながらも始めた復興支援コンサートだったんですけれど、後年メモリアルコンサートに名前を変えて、この場に足を運んでくださるみなさまの気持ちにこちらも少しずつ寄り添っていく形で、そしてまた若い人たちにもこの震災の一つひとつの記憶というものを受け取っていただきたくて、続けるようになりました。 そして、今のところ最後という言い方をさせていただきますけれど、12年の1月17日で神戸では一区切りということで、その年の3月に同じ作品を持って仙台に行きました。この東日本大震災の翌年の神戸のメモリアルコンサートは、初めて神戸に来た時とすごく空気が似ていたんですね。ですから、あの東日本大震災でみなさんの心に中にもう一度あの、今年で20年を迎えた震災の記憶がもう一度甦った、というのがステージの上にいてもひしひしと伝わって来て、第1回目と最後になりました14回目のコンサートでの朗読は忘れることができないですね。

フェリシモ:
メモリアルコンサートは東日本大震災の復興のために、12年から東北、仙台で行われるようになりましたが、東日本大震災は地震のほかにも多くの問題が絡んでいると思います。竹下さんご自身は、どう感じておられますか?

竹下さん:
東日本大震災の特徴は、一つにはとても広域に渡っているということがあります。阪神・淡路大震災のように都市部で起きた地震とはまた様相が違っています。もう一つ、どうしても避けて通れないのが原発の問題です。放射能は目で見えないし、匂いもありませんから現状を把握することもむずかしいですし、今後10年20年経った時に、はたして東北がどうなっているか、そこで生活しているみなさんの健康がどうなっているかということもずっと一緒に見守っていかないといけない。これも一つ大きな問題ですよね。 阪神・淡路大震災は今日がちょうど20年の、ある意味節目ですけれども、神戸の町は年に一回私が通う中、どんどんキレイになっていくのが目に見えて分かりましたし、その一方で、なかなか心の復興が進んでいない方たちの、現状が見えにくくなっているということもあります。でも神戸から、一緒に手を携えているんだよ、という思いを届けることで、東北の方たちともまた新しい出会いと繋がりが生まれたわけですね。東北には東北の抱えている問題がありますので、これはさらに長い視野で関わっていかないといけないと思っています。

フェリシモ:
今回は神戸学校でも、実際に詩の朗読をしていただけるということですが、お願いしてもよろしいいでしょうか?

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竹下さん:
「あれから今は」
三川 範彦

地が盛り上がった
屋根が落ちた テレビが飛んだ 箪笥が倒れた
私たち3人の上に土が覆った
私と妻は土を除けて空を見た
娘だけが棟木の下になって亡くなった
なんと悲しかった事か涙の日々だった
あれから12年悲しみは虚しさになって

昨日のように思い出す
娘は32歳おとなしい子であった
化粧も殆どせず、イヤリングもしたことがない
高校は県立 大学は公立に入って奨学金で

私に何一つ世話をかけなかった
私は病気で何一つしてやれなかった
娘は私夫婦の希望であった
皆さんにはよくして頂いた
プレハブを建て今も暮らしている
全国からの救援物資 ボランティアの暖かい心に癒された
さみしさは続く 夢も希望もない
碁石に行くそこには人が居る仲間の1人が言った
「家でテレビを見ていてもテレビは返事をしてくれない」名言だ
病気で寝込むと碁石も行けない私ももう80歳を越えた
地下鉄サリン事件 神戸の酒鬼薔薇聖斗 大阪の池田小学校の殺傷事件が続いた何と忌まわしい事が続くのか
神戸の平面的であった町が壊され高いビルがニョキニョキと建った
人はビルの枠の中に入った 人の繋がりが疎遠になった
今度は子どもの殺傷事件が続いた
親が子を殺す 子どもがいじめで次々と亡くなっていく
胸を締め付けられる思いで「もうやめてくれ」と叫ぶ
娘の親友が主人と共に毎年子どもを連れて訪れてくれる
もうすぐ子どもが中学1年生 小学4年生、そして4つの女の子
孫を見るような気持ちで喜んでいる
この子たちが禍なく幸福になるように

フェリシモ:
ありがとうございました。胸にぐっと来るような……。

竹下さん:
切実な思いにあふれている作品ですね。

フェリシモ:
つながりが大切だと感じられますよね。

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竹下さん:
この三川さん、こういう心境になるまでに12年。長い間、大変な心の葛藤があったと思うんですね。深い悲しみを負った方がご自分の言葉を綴るまでが実はいちばん大変で、書くという作業を通して、ご自分の気持ちに整理をつけて、そして応募してくださっています。その気持ちを私たちはご当人の気持ちに寄り添って、その上で、できるだけたくさんの方に受け止めていただいて共感を持っていただければと祈るような思いで毎回朗読しています。こういうふうに言葉になったことで、ようやく人と出会ってつながっていけるんですね。そのことがとても大きいと思います。

フェリシモ:
竹下さんにとってメモリアルコンサートはどういったものになるのですか?

竹下さん:
毎年、一年はメモリアルコンサートから始まる。毎回、気持ちがまっ白になって新しい出会いが生まれる大切な場。神戸の皆さんとは『また帰ってきました』と、ふるさとに帰るみたいな懐かしい気持ちでもありました。コンサートでは、私自身は被災の経験がないので、みなさんのお話してくださる内容、綴ってくださった言葉の一つひとつを噛み締めながら、みなさんの気持ちを私なりに想像したり。私のような立場の者が簡単になぐさめの言葉などかけられないですね。こういう場で読ませていただくことで、その場が少しでも安らげる場になったり、また来年ここに訪ねて来たいと思っていただけるのであれば、そのことは私たちにとっても、明日に向けての一歩になりますし、1人じゃないんだということを作品を寄せてくださった方々をはじめ、会場のみなさんにも、ぜひ感じ取っていただきたいと思って、そのために毎年通わせていただいていたような気がします。

フェリシモ:
日本では大きな地震が今後も予想されていますが、自然災害に対してふだんから私たちはどのように考えることが大切だと思われますか?

竹下さん:
日本は島国で山と海がとても近く、水害も起きやすいですし地震も多いですよね。それに加えて、地球温暖化の影響でゲリラ豪雨など私の小さい頃に比べても異常気象が増えているように思います。自然災害を0にすることは不可能ですけれど、神戸で小さなお子さんが防災訓練に一生懸命参加したり、また繰り返し地震や津波にあっている東北でも、先人たちの言い伝えが教訓となって今の人たちに受け継がれていれば、被害も小さくてすむんですね。『釜石の奇跡』と言われた事例もあるように、みんなが日ごろから訓練を重ねて防災への意識を持っていれば、災害は0にはできないけれど、救える命は必ず増えていく。常に防災の意識を持ち続けるのは実際には大変ですが、例えばこういう機会に家族で話し合ってみるとか、我が家では、転倒防止策とか、防災グッズを揃えるとか、大きな地震が来たら、うちで集合しようね、など時折話をしています。まずは震災の経験を忘れない、そこから私たちは教訓を得ることができたわけですから。それを次の世代に生かしていく、その方法はそれぞれですよね。 私もさきほどNHKの生番組で「しあわせ運べるように」の歌をいろいろな形で、神戸の小学校から生まれた歌がほかの被災地でも、その土地の小学校の子どもたちが自分達の歌として歌っているのを知って大変感動しました。歌を通して当時に思いを馳せたり、また思いを共感することも防災減災につながります。そうやって若い人たちの間でも震災を忘れないで、生命の大切さや未来を考える上で一つのきっかけになっていくと思います。

フェリシモ:
ありがとうございます。メモリアルコンサートで竹下さんが伝えていきたいこと、もう少し詳しくお伺いしてもよろしいでしょうか?

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竹下さん:
改めて考えるのは、20年経った今だからこそ見えてくる問題がありますね。心の復興、地域のコミュニティ、お年寄りの問題、さまざまあるわけですけれども、この20年みなさん本当にがんばってがんばってこられて、これからは若い人たちにも参加してもらって、そのお手伝いを私たちもする中で、さらに新しい力を得て、明日の神戸、明るい未来に向かって歩いていっていただきたいと思います。震災を忘れないということ、それからそれをきっかけにみんなが出会ってお互いを知ることで気づきが生まれて,つながりあっていく。町は人が創っていくものですし、人がイキイキとして賑わいがあって活気があって、安らぎもあってみんなが笑顔になれる町。それが幸せな生活であると思います。そんな町づくりを神戸のみなさんは他に先駆けて日々努力を重ねていらっしゃいますし、そういった神戸の歩みに勇気を貰っている人たちが実はたくさんいます。これからも、1人ひとりの力は小さいですが、手を取り合っていくことで一歩、一歩進んでいければと思います。その1つがメモリアルコンサートだと思います。

フェリシモ:
地域での取組みが人のつながりを大切にしないといけないということを今回の震災で気づかされることになりましたね。それでは、続きまして、竹下さんの幅広い社会活動についてお伺いしたいと思います。竹下さんは2010年より国連WFP協会の親善大使として就任されていますが、そもそもこの団体はどういった団体なのでしょうか?

竹下さん:
国連にはたくさんの機関がありますが、WFPは世界食糧計画と言いまして、飢餓地域への食糧支援を行っています。私が最初に視察に参りましたのが西アフリカのセネガルです。2011年から大変な干ばつで、作物が穫れない上に、穀物の価格が高騰して飢餓に陥りました。ほかにも、自然災害における被災地ですとか、紛争地での難民キャンプですとか、それらの地域にいち早く食糧を届けるのがWFPの仕事です。その他にも、大きな災害がありますと、被災地には各国の支援団体が集中するので、WFPは最初に現地に飛んでそれらの団体がスムーズに仕事に就けるよう交通整理もするんです。ですので、やるべきことはたくさんあって……。 私は一昨年がセネガル、去年フィリピンに参りました。日本での公式な窓口がWFP協会ですが、ご存知ない方がまだまだ多くて。多くの方々に知っていただきたいと思うのですが、宣伝にかけるお金があれば少しでも多くの食糧を届けたいので、私達がいろいろなところに出向いて1人でも多くの方にWFPの活動を知っていただきたいと思って活動しています。

フェリシモ:
実際、竹下さんが訪れた時の写真がございますので、ご覧いただきながら詳しくお話を伺います。

(スライド)

竹下さん:
こちらはセネガルの母子栄養支援センターです。「センター」と言っても広場のようなところに仮設でスペースをつくりまして、生後6ヵ月から5才未満のお子さんやそのお母さん、妊婦さんに栄養指導もかねた食糧支援をしています。子ども達の健康診断も行っています。災害弱者である女性や子どもたちは、いざという時に最初に被害を受ける人たちですね。食べることは即、生命に直結すること。母子栄養支援はとても重要な支援です。

フェリシモ:
物資としては、どういったものをお渡ししているのですか?

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竹下さん:
子ども達には主にピーナツで作られた高カロリー食を食べてもらいます。一袋で500キロカロリーあります。

(スライド)
こちらの赤ちゃん、小さいですね。実は、もう1歳を過ぎています。13ヵ月の男の子です。日本の赤ちゃんの半年くらいの大きさでした。でも、このプランピーサップという高カロリー食をちょっと口に当てたら、びっくりするくらいの力強さで、もう一所懸命おっぱいを吸うようにチューチュー吸って、そういう姿を見ていると『ああ、この子は一所懸命生きようとしているんだ』と、生命の源を見るような思いでした。飢餓と戦っている子どもたちへの支援によって、健康に成長した彼らは、やがてこの国を支える力になります。

(スライド)
学校給食の現場も視察しました。保育園を併設している小学校です。64人の保育園児がいて、全体で803人の子どもが通っていました。小学校といっても飲み水も井戸まで20分かかって汲みに行かなくてはいけないようなところでした。セネガルは60年代に独立するまでフランス領だったので、彼女たちの着ている民族衣装はカラフルでおしゃれさんなんですね。高学年のお姉さんたちが朝食のお粥を小さな子どもたちに配るために準備をしています。このレッドカップはWFPのシンボルになっています。給食は当番のお母さんたちが作っています。お粥はトウモロコシと大豆の粉です。

(スライド)
保育園の子どもたちにはちょっと大きめのマグカップ。一所懸命食べていますね。学校給食がなぜ大切かと言いますと、飢餓地域では、小学生くらいの小さな子どもでも、労働力として働かされてしまうことが多いんです。畑で採れた野菜とか、お父さんが獲った魚を売りに行くという時に、子どもがその担い手になってしまう。そうなると、いつまでも貧困のスパイラルから脱出できません。でも、学校に行けば、少なくとも1日1回はお腹いっぱい食べられる、だから親は学校に行かせますね。子どもたちは喜んで学校に行って、給食も食べるし、お腹いっぱいになれば勉強にも集中できるし、そして友だちもできて夢を語り合うようになる。将来に向けて前向きに生きていくことで負の連鎖を絶ち切ることができます。こちらの小学校の、2012年の修了率が98%と言いますから、かなりいい結果が出ていると言えると思います。 給食支援は、継続が必要な支援です。

(スライド)
こちらは小学校の教室ですね。給食の時間、大きなお盆の上のお昼ごはんをみなで手づかみで食べます。セネガルの主食は実は日本と同じお米です。こちらの給食では大豆とトウモロコシを水煮にしたものを食べていました。

(スライド)
最後に子どもたちと記念写真を撮りました。写真が珍しくて、子どもたちが「撮って」「撮って」と寄って来てすぐ人垣ができるんです。先生が民族楽器の太鼓、ジャンベをポンッと叩くと、いっせいに踊ってみせてくれました。リズム感がすばらしくよくて、陽気で活気にあふれた子どもたちでした。

フェリシモ:
印象的な出会いはありましたか?

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竹下さん:
この国でも女性たちはみな働き者です。さきほど給食をつくっているのはお母さんたちだと申し上げましたけれど、赤ちゃんを負ぶって畑仕事をしたり、たくましいです。また他の村では、一人のお母さんが、歓迎とWFPの支援への感謝の意味をこめて踊りを披露してくれました。私も一緒に踊って、その村の村長さんから、名誉な名前を頂きました。嬉しかったです。

(スライド)
こちらは昨年参りましたフィリピンです。フィリピンでは、一昨年11月8日に巨大台風が国の東部の島々を襲いました。台風の経路も以前とは変わってきているようで、もともと台風のコースになっているところなら、それなりの備えもあるのですが、レイテ島、サマール島は従来の通り道から反れていたため甚大な被害がありました。フィリピンの7人に1人の割合、およそ1400万人が被災しました。これはココナッツ畑です。もう全部、上の方が吹き飛ばされて、まるでマッチ棒のようになっています。これらの島はバナナではなくココナッツが主要産業なんですね。今すごく体にいいと評判のココナッツオイルの原料がヤシの実ですが、畑が元に戻るには少なくとも7~8年かかるそうです。政府が苗を配っているのですが、復興には時間がかかるだろうということです。

(スライド)
母子栄養支援センターです。手前にバスケットゴールが見えますね。屋内のバスケットコートでした。台風で壁は吹き飛んで、屋根も一部しか残っていないので、青空教室のようになっています。ここに約300人の生後6ヵ月から5歳未満のお子さんとお母さんに集ってもらいました。賑やかな集会になりました。こちらでも高カロリーの食糧を配給しました。

(スライド)
また、緊急支援として、日本などからお米が配給されました。このお母さんは5人家族で、1人当たり5キロの配給だったので25キロ。持ちきれない人には、ボランティアさんが運んでくれます。こんなふうに人から人へ手渡しで支援が行われています。今回のフィリピンの巨大台風では、支援国の第1位はアメリカ政府。日本は第3位です。援助の第2位は各国の個人、企業、団体のみなさんからの寄付によるものでした。心強いですね。日本のみなさんは自分たちが支援を受けた、その恩返しをしたいと思ってくださる方が多くて、緊急支援にはすぐ手を差し伸べてくださいます。私もフィリピンのWFPオフィスでお礼を言われて感激しました。 それともう一つ、阪神・淡路大震災でも東日本大震災でも、被災された方たちが、秩序を守って実に辛抱強く困難を耐えしのんでいたことを、外国のみなさん本当に驚きをもって賞賛しています。「すばらしい」と言われます。 東日本大震災で、私たちははからずも支援する側から支援される側になったわけですけれども、震災直後に行ったイギリスでも、多くのメディアが日本の震災を取り上げていました。日本のメディアがまだ公表していない内容もありました。その新聞の中に、日本の子どもたちを救おうという意見広告がのっていて、それを見た時に私は胸が詰まって、不遜なことに、それまで私たちは支援する側でしかあり得ないと勝手に思い込んでいたことに気付きました。世界の人々が震災直後から支援の手を差し伸べてくれていました。 WFPも東日本大震災では、食料や、テントなどを送りましたけれど、そういう記事を見ると、私達1人ができることはわずかですが、そういったみなさんの善意が1つ1つ繋がっていくことで、ともに前を向いて歩いていける。被災された方々の辛い経験を同じ思いで受け止めてくださっている方たちが世界中にいらっしゃいます。

フェリシモ:
実際に竹下さんがセネガル、フィリピンに訪れて、日本の人たちに伝えたいことはございますか? 

竹下さん:
日本に暮らす私達は物質面ではるかに恵まれています。お水一つとっても分かりますね。そういう国ばかりではないことを世界に出てみて気づきました。その一方で、途上国に生きる人々は貧しいながらも、自分達の伝統文化の中で明るくたくましく生きています。一体どちらが幸せだと言えるのでしょうか。困難に直面すると、みな生きていくことは辛いですが、日ごろから人と人とが出会って、つながりあい支え合うことで困難は乗り越えていけると改めて思いました。

フェリシモ:
ここからは俳優としての竹下さんのことを伺いたいと思います。本日公開の映画『神戸在住』になります。竹下さんは被災された主婦の役を演じられました。ご出演されていかがでしたか?

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竹下さん:
『神戸在住』は、父親の仕事の関係で神戸に引っ越してきた女子大生の目を通して、今の神戸を描いています。震災の経験がない若者達が4割を越えたというニュースを耳にしましたけれど、この映画に登場する若者たちは震災を知らない学生さんたちです。彼女たちの目に映っている今の神戸で、実は、20年前には大変なことがあったんだということを彼女は町の人々とふれあうことで知っていきます。私はそこで出会う1人の女性、決して多くは語らないのですが、もし神戸という町が人として生まれ変わったら、私が演じたこんな人かな、と。言葉をかけてくれさえすれば、そこからあふれてくる思いがある。でも、そのことを声高には語らずに日々を静かに暮らしている人。このロケ地が東遊園地でした。今朝も5時46分にはたくさんの方が黙祷を捧げていらっしゃいましたね。祈りの場、追悼の場としての東遊園地は、今までニュースで見ていましたが、今回のロケで訪れてみると、初夏の気持ちのいい風が吹いていて、木漏れ日の中で語り合っている人たちがいたり、通学の学生さんたちが歩いていたり、ふだんは生活の憩いの場なんだなと発見しました。また少し、神戸と近くなれたかなという思いもありました。ぜひご覧いただけたらと思います。 そして、こちらをご覧いただく時に、もう一つ、山田洋次監督の『男はつらいよ』シリーズ48作の最終作、最終シーンが神戸の長田で撮影されています。実は、15日に山田洋次監督さんとお話する機会があったので改めて見直したのですが、この2本の作品を見比べてみると、神戸の町がどれほど素晴らしく立ち直ってきたかということがよく分かります。ぜひ両方をご覧いただいたらいいんじゃないかしら? それで、神戸についての話題がまた広がっていったらいいですね。

フェリシモ:
ほかにも神戸を舞台にしたと言えば、昨年『お家さん』という舞台にも主役としてご出演されましたよね。神戸の反映の礎を築いた鈴木商店の女主人鈴木よね役として竹下さんが出演されましたが、出演してみていかがでしたか?

竹下さん:
玉岡かおるさん原作の小説の舞台化です。私は原作を読むまで、鈴木商店のことはまったく知りませんでした。鈴木よねさんについてもです。個人商店が明治から大正、昭和にかけて、世界に向けてどんどん進出していった、神戸という場所だったからこそそんなことができたんだなあ、というのが最初の印象です。ヨーロッパの国々とも対等に渡り合って当時の日本を牽引していった。実際に仕事の面で鈴木商店を取り仕切っていたのは大番頭さん達なんですが、そういった人たちを見いだして、一流の仕事人として育て上げる、嫁を持たせて家族ぐるみで一生付き合う、お家さん自身は暖簾の奥に引っ込んで雑巾を縫っている、そういう大きな所帯の大きなお母さんです。つくづく偉いなあと思いました。

フェリシモ:
鈴木よねさんは芯を持った女性ですが、竹下さんとは重なりますでしょうか?

竹下さん:
全然違います(笑)。

フェリシモ:
『お家さん』の思い出深いシーンはありますか? 

竹下さん:
お家さんが実の娘のように育てる珠喜という女性が登場します。珠喜は自分の意志をはっきり主張する新しいタイプの女性です。当然、お家さんと衝突もするんですが、最終的には、お家さんは新しい人たちの生き方を認めた上で、自分は雑巾を縫いながら、縁の下の力持ちとしての生き方を貫きます。とても感動しました。

フェリシモ:
最後に竹下さんがこれから叶えたい夢、目標はございますか?

竹下さん:
おかげさまで、今まで自分が好きだと思うことを仕事としてきました。たくさんの方とも出会いましたし、本業以外でもまた多くの出会いがあって、その時々の発見や気づきがありました。それらのことを、これからは一つひとつ精度を高めていくと言いますか、自分の中で、どちらももっともっと自分なりに納得のいくようにしていけたらいいですね。

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<第2部>

お客さまとのQ&A

お客さま:
今社会人2年生です。好きなことを仕事として続ける中で、やはり好きだけでは乗り越えられないことが出てきました。竹下さんにはそのようなご経験はありますか? またそのような時どのようにしてそれを乗り越えられますか?

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竹下さん:
そうですね。私は中学、高校の部活が演劇部でした。当時テレビにとても興味があって、部活の延長で高校2年生の時にNHKのドラマに出演したのがきっかけで今の仕事に就きました。本当に恵まれていて、気がついたら仕事の現場にいたというような、のどかな時代でもありました。ですので今まで特別な考えもなく、楽しいなという思いだけでやって参りましたが、確かに想像していたのとは違う現実が、どんな職業でもあると思います。私たちの仕事は「これでよし」というのが、実は、あまりなくて、例えば舞台で40回公演があっても、今日はなんだか良くできたみたい、と思えるのは1、2回あるかないかです。毎日同じ事をしているようで、お客さまとの呼吸等、微妙に毎回違うんです。なかなか満足はできません。逆に、それが私を駆り立ててくれるモチーベンションになっているとも思います。 それとやはり、壁にぶつかることもありました。満足な演技ができなかったり、ですね。これはまず殆どの場合、私自身に原因があります。そういう場合は、すごく無責任なんですが、自分一人で考えるのはやめます。考えて結論が出るのであれば、とことん考え抜いた方がいいと思います。ですが、一日考えたくらいでは結論が出ない問題、そういう時は寝ます(笑)。答えになっていますでしょうか?迷ったら友達とか先輩とか、心を許せる誰かと話題を共有するのもいいですね。がんばってください。辛い経験はいつか必ず糧になりますよ。

お客さま:
71歳の男子です。ボランティア活動に人生の後半の3分の1をかけたいと思っています。特に心がけることはありますか?

竹下さん:
ボランティアにはいろいろな入り口があると思います。70代でいらっしゃるということは、これまでにさまざまな経験を積んでこられて人脈も豊富でしょう。それからお仕事以外でもご自分がお好きなもの、得意な分野がおありになると思うんですね。それらのいわば知的財産を生かして積極的に活動しているシニアのボランティアさんはWFP協会にもたくさんいらっしゃいます。有り難いことです。よろしければWFP協会でもお待ちしております。

お客さま:
これからも東北以外にも神戸にも来ていただけるのでしょうか? 

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竹下さん:
毎年はむずかしいかもしれません。でも神戸の有志の方々と一緒に毎年東北に通っていますし、神戸と東北の繋がりは私にとっても大事です。また機会を見つけて帰って参りますので、その時はぜひよろしくお願いいたします。

お客さま:
竹下さまご自身を見つめて、もし震災というものがなければ生き方やボランティア活動などへの関心は違っていましたか? 家族への接し方も含めて……。

竹下さん:
違っていたと思います。生命との向き合い方、私にはおそらく今でも想像してもしきれない、さまざまな思いをされてみなさん今ここにいらっしゃる。1つ1つお話を聞かせていただく中で、生命の大切さ、人と人とのつながりの大切さ、またそういった事を次に伝えていく、世代を越えて繋げていくことの意味、たくさんのことを神戸で教わりました。神戸の町がステキだなと思うのは、山と海が近くて、気候もおだやかで美しい。そして、海の彼方へ、世界へ出ていこうという志が今も空気の中にはあって、私がふっと立ち寄ってもみなさんあたたかく迎えて下さるんですね。そのことがとてもうれしいです。活気が戻って来ている地域もありますし、まったく元のとおりでなくても、以前とは違う新たな賑わいを生み出して、明るい町、優しい幸せな空気が流れる町になっていってほしいと思いますし。神戸は今までも十分にがんばってきて、これからもさらにみんなに愛される町にきっとなっていくだろうという予感があります。私もまた、みなさんと一緒にいろいろなお話をしたいと思いますし、神戸に「ありがとう」と申し上げたいです。

お客さま:
お忙しい日常だと思いますが、竹下さんの健康、美貌の秘訣はなんですか?

竹下さん:
がんばり過ぎたら休むことです。繰り返しになるかもしれませんが、私は40年以上好きなことを続けてこられました。それが今も健康でいられる一つの理由だと思います。仕事に限らず、何か好きなこと夢中になれることを見つけられたら、細胞がイキイキするのではないでしょうか。今は毎朝、うちの愛犬と一緒に、花や樹々の香りとか風の匂いを感じながらの散歩ががとても快適です。旅も好きですし、オンとオフ、どちらも充実した時間が過ごせたらいいですね。

お客さま:
どんな未来を将来望まれますか? 将来は未来の少し手前にあるものかなと思います。未来はその将来の向こう側にあるものではないかと思っています。ちなみに私はいじめのない社会を将来に望みます。未来には戦争のない世の中、戦争をしない国を望みます。

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竹下さん:
おっしゃるとおりですね。それがしあわせな国だと思います。日本ではこの70年間、戦争は起きませんでした。この平和は、先の戦争から大きな犠牲を払って私たちの親やその前の世代の人々がかち取った大切な、そして素晴らしい財産です。でも将来も変わらず今のような平和な日本である保証はありません。いまだかつて世界中で戦争のなかった時代はないそうですから、世界の平和を私も夢のように願います。今の日本は戦争こそありませんが、いじめが深刻な問題になっていますね。いじめによって生命が犠牲になる、ましてや若く未来のある生命が失われるのは堪え難い悲しみです。どの国であっても生まれた生命は健康に健全に育っていって、自分の国で自分たちの力で希望を持って生きていってほしい。そのためには、まず私たちが相手のことを思い、相手との違いも認めた上で、1人ひとりと繋がっていくことから始める必要があるのではないでしょうか。言うほどに簡単ではないと思いますし、日本の内外を問わず私たちを取り巻いている環境は複雑になってきていますが、それを言い訳にはしたくないですね。私はどこか楽観的というか暢気なところがあるので、私たちの親も大変な戦争という時代を生き抜いて私たちを産み育ててくれましたし、人間の英知というのは、どんなに大きな絶望に襲われたとしても、そこからまた希望を見出していく力があるのではないかと信じています。

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Profile

竹下 景子(たけした けいこ)さん<俳優>

竹下 景子(たけした けいこ)さん
<俳優>
*プロフィールは、ご講演当時のものです。
1953年生まれ。名古屋市出身。東京女子大学 文理学部社会学科卒業。NHK「中学生群像」出演を経て、1973年NHK銀河テレビ小説『波の塔』で本格的デビュー。映画『男はつらいよ』のマドンナ役を3度務め、『学校』では第17回日本アカデミー賞 優秀助演女優賞を受賞。2007年、舞台『朝焼けのマンハッタン』、『海と日傘』で、第42回紀伊國屋演劇賞 個人賞を受賞。テレビ・映画・舞台への出演の他、2005年日本国際博覧会「愛・地球博」日本館総館長をはじめ、「世界の子どもにワクチンを日本委員会」ワクチン大使、国連WFP協会親善大使、C・C・C富良野自然塾でのインストラクターなど幅広く活動している。

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