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「100年後にも、感動してもらえる仕事がしたい」



<第1部>

久住さん:
こんにちは、左官職人の久住有生です。よろしくお願いします。今日は左官のことをいろいろお話させていただきたいと思いますが、まず自己紹介を兼ねて、これまでのさまざまな人との出会いや自分が生まれ育った環境について少し聞いていただきます。僕は今、いろいろ考えてものを作って左官の仕事をしているわけですが、人との出会いや生い立ちが僕の作るものに大きく影響していると思います。その後に、左官の伝統的な仕事、そして新しく考えている表現方法などをスライドを見ながら知ってもらおうと思っています。

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生い立ち

僕は淡路島出身で、左官の三代目です。祖父の代から左官屋をやっていて、僕は3歳ぐらいから左官の修行をさせられました。家で壁を塗る練習をしないと父にご飯を食べさせてもらえなくて、毎日畳一枚分ぐらいの壁に土を塗りつけては剥がすということをしてきました。小学校に入る頃になると、夏休みなど弟と二人で現場に連れていかれて、この舞台いっぱいぐらいの砂山を一週間で全部篩っておけと言われて、朝から晩まで砂を篩っていました。子どもで体が小さいので押し入れに入って押し入れの壁を塗っておけと言われることもありました。この頃は左官の仕事が大嫌いでしたが、父が恐いので言われたとおりにお手伝いをしていました。父は『巨人の星』の星一徹のようにスパルタで思い込みが激しくて、僕たちは「養成ギブス」をはめられているような感じで、小さい時から父親が買ってくるお土産は鏝(こて)という左官の道具でした。父は嬉しそうにそれを持ってきて、「どうだ、お前らの友達でこんなものを持っている奴はいないだろう」と得意げに言うのですが、僕たちは全然嬉しくないと心の中で思いながら鏝をもらっていました。夏休みで本当は学校の宿題をしなければならない時にも、広告の裏に竜の絵を百枚書いて来いとか、千羽鶴を作れとか、要するに手先が器用になるような訓練なら何でもやらされました。おかげで手先だけは器用になりましたが、左官が嫌いで嫌いで仕方がありませんでした。  中学ぐらいになると、僕は普通に学校へ行きたいし恋人もほしかったのですが、父に「お前、学校へ行かなくてもいいから左官をしろ」と言われました。自分ができることをちゃんと作って社会に出ないと左官にならされると思ったので、僕は中学の時からいろいろなバイトを始めました。高校の時に同級生三人とケーキ屋さんにバイトに行くと、僕は手先が器用なのでケーキがすぐ作れるようになって、「学校を辞めてうちに来い」とオーナーに言われました。結局学校を辞めないといけないのかと思いましたが、学校は辞めずに「ケーキの修行をして、卒業したらケーキ屋になります」と言っていました。

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左官になる決意

高校三年の夏休み、進路を決める時になって、「ケーキ屋になりたいから専門学校へ行きたい」と父に言ったら、「お前みたいなのは学校へ行ってもアホになるからダメだ」と言われました。学校へ行ったらアホになるという意味はよくわかりませんが、「旅をして来い」と二十万円渡されて、高校三年の夏休みにヨーロッパへ行って一ヵ月半ほど一人でうろうろしました。二十万円で一ヵ月半は少し大変で、野宿したりしながら、最後はパリの日本庭園でバイトして帰って来ました。スペインのアントニ・ガウディのサグラダファミリアや、ドイツのケルンの大聖堂など、父に言われたところを見て回りました。これは父の作戦で、子どもが見るとびっくりするだろうなというようなところを選んでいたのです。その時サグラダファミリアは制作開始百年目で、何の知識もない高校生ですから、「左官って、こんなことができるんや」と思って震えました。人ってこんなものが作れるのかと思い、左官もいいかなと初めて思いました。それでもケーキは美味しいし作りたかったので、最後の冬休みに「やっぱり僕はケーキ屋になりたい」と言うと、父は「ケーキは食べたらなくなるけれども、左官の仕事は死んでも残る」と言いました。子どもだましのような話ですが、まだ18歳だったので、「そうか、左官は残るのか」と思いました。今考えると、食べるものは食べた時に感動して同じものをまた伝えることができるので同じように残るのですが、その時は「たしかに、百年前の人の作ったものを見て感動しているのだから」と左官の道に入ることを決めました。
父は天才と言われるほどの左官屋でした。左官になると決めたからには父にだけは負けたくないと僕は思いました。小さい頃から父を見ていて簡単に追いつけないこともよく分かっていたので、修行して30歳までにはなんとか日本一、世界一の職人になりたいと思いました。毎日最低20時間働けばひょっとして30年ぐらい縮められるかなと思い、寝る間を惜しんで、ご飯は5分、お風呂も3分と縮められるだけ時間を縮めて、左官以外のことは何も考えず、名人になるためにひたすら訓練しました。子どもの時から左官の仕事をやらされていたので、ご飯を食べる時に箸の使い方を考えないように、僕は道具を持つと考えなくても、オーバーに言えば目をつぶっていても、壁をまっすぐに塗れるのです。それぐらい道具が体の一部になっていて、成長とともに体にしみ込んでいたので、仕事を覚えるのも早くて、若いうちから京都の有名な文化財の仕事にも呼んでもらえました。僕が初めて京都御所を塗りに行ったのは20歳の時でした。普通は40年、50年やった名人が塗らせてもらえるようなところで、最初はお試しで塗らせてもらったのですが、結果的に綺麗に塗れました。自慢のようになりますが、それまで何もできなかった自分でしたが、若い時からずっと頑張ってきて、サラブレッドみたいな感じでちやほやされるようになりました。

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技術職はいろいろなことをいっぱい知るというよりも、最初は一つのことに集中しないと覚えきれないのですね。父も偏ってますが、僕も偏った人間で、目の前の壁しか見えないというか、ただただこれだけを体に覚えさせていたという感じで、人と話していても随分ずれています。今でもずれているのですが、人とコミュニケーションをとるのも上手ではなくて、ただただ壁のことだけを考えていて、そうしているうちに月日が流れて行って、建築家やお客さんと出会って、いろいろな人と出会う度にどんどん自分の考え方やもの作りに対する思いが変わってきて現在に至っています。

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伝統的な仕事

どんな想いで自分がこういうものを作っているのか、スライドを通してご紹介したいと思います。まず見ていただきたいのが、伝統的な仕事です。専門的な話になりますので少し眠くなるかもしれませんが、伝統的な仕事をしたおかげで現在の僕の価値観があります。これは絶対美しいと思えるものは、古いものから来たものや自然から学んだものが多いので、それを見ていただいて、その後いろいろ新しいものも見ていただきたいと思います。

(スライド)
これはお茶室で、25~26歳の時に出会った物件です。お茶室のなかでも僕が初めて親方としてやった仕事です。お茶室は小さいわりには手間ひまかけて作られます。集まる職人さんも名人、つまり毎日毎日それだけをしてきた人たちが集まってようやく完成するものです。そのお茶室を僕のような若い職人が親方としてやらせていただいたのは大変幸せでした。木小舞(きごまい)と書いてありますが、まず柱が立って、屋根ができて、そこに僕らが竹を編んで土を塗るという作業で始まります。土を塗った後、何回も何回もいろいろな手間をかけて作られていきます。世の中にある近代建築や現代建築とは全く違って、たとえばプレハブメーカーは3ヵ月か半年で家を建てますが、四畳半のお茶室と三畳の水屋だけを作るのに2~3年かかります。僕らも小さなお茶室の壁を塗るのに3~4ヵ月かけました。

(スライド)
これは散り回り(ちりまわり)です。 髭子(ひげこ)というのですが、麻の繊維を釘に一本ずつ巻き付けたのを柱とか垂木に3センチおきに打つという地道な作業で、それを土で押さえ込んでいきます。本当に気の遠くなるような作業を延々と繰り返します。

(スライド)
これなんかもそうですね。もともとここに木の下地があるのですが、麻の繊維で巻いてある釘を一本打ち込んで土で埋めて、また打ち込んで埋める。今の壁だと10秒で塗れる面積を3~4日かけて下地だけをつくります。なぜかと言うと、今の建物は耐久年数が25~30年とか50年とかで、簡単に作られているので簡単に壊れるようになっています。でもこういうものは100年から200年もつように、壁は大変薄いのですが長持ちするように工夫されています。お茶室の壁は厚みが一寸二分、つまり3センチ6ミリしかありません。たった3センチ6ミリの厚みで家の外と中を分けている。それが100年、200年ともつ建築物になるわけです。僕ら左官職人は壁を手間ひまかけて作り、大工さんも木をねかせて何年もかけて作る。本当に技術のある腕の良い職人さんたちが全力を込めて想いを込めて作るのですから、ものとして長持ちします。
世の中のもので一番長持ちするのは想いです。コンクリートの建物は長持ちしますが、飽きたら壊されるし、特に日本はどんどんスクラップアンドビルドでものを作っては壊し捨てています。けれどもやはり人が想いをもって作ったものは、あの時あの人がこういう想いで作ったのだから大事にしようということになります。柔らかいものや繊細なものも、人が直しながら手間ひま入れながらずっと使い続ければ、それは残っていくものです。人が大事にするものが一番長持ちするものです。これは僕が死んでもその先に残っていくものだと思います。

(スライド)
こういうふうに作っていきます。同じように細かな作業をしていくのですが、何が難しいかと言うと、何時に光が射すので今日はこの壁を塗ろうとか、今日は天気が悪くて陽の光の具合がわからないからやめようとか、自分たちの寿命よりも長持ちさせるものなので、大変な気を使って、長持ちするように、より綺麗に見えるように、愛着を持ってもらえるように時間をかけて作っていきます。
お茶室の特別なところは、上が細くて下が太い、自然に生えている丸太を柱に使うことが多いので、僕ら左官職人がまっすぐに壁を塗ってしまうと、柱も歪んで見えるし壁も歪んで見えるというところです。人の目と感覚だけで壁を三次曲面に塗ってまっすぐになるよう作っていきます。壁を塗るときには、仕上げに光の射す方向から鏝で壁を撫でるのですが、僕らが道具を持って息を止めて集中して触ると、コンマ何ミリという、人が見ても普通わからない大きさがわかるのです。その感覚と自分に綺麗に見えるという感覚だけを信じて壁を平らに作っていきます。そういう神経を使って良いものを作るのですが、現代の建築はそうではなくて、何が良くて何がそうでないかという感覚もどんどん薄れてきて、わかりにくくなっています。今はこのように本物の仕事というか、ただ平らで綺麗なものは減ってきています。

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(スライド)
僕らの鏝は、壁に緊張感を与えたり優しく見せたりすることができます。これは仕上げているところです。横からうっすら光が射している時にこの壁が一番綺麗に見えるタイミングで仕上げています。

(スライド)
次は漆喰仕事です。蔵や土蔵を作ります。これは島根県の津和野で安野光雅さんがやっておられる美術館で、十数年前の仕事です。全国から職人が約30人集まって半年がかりで作りました。これはなまこ壁ですが、見えている白い部分は全部僕らが漆喰を塗って仕上げているのですが、下地があってその上にただ僕らが白い漆喰を塗っているのではなくて、フリーハンドで漆喰を塗っては押さえ、塗っては押さえを繰り返しています。何か形になった下地があるわけではなく、もともと瓦が張ってあるだけなので、その上にフリーハンドで盛り付けて押さえるとこういう形になっていきます。日本の伝統的な仕事は個人の技能が非常に高くないとできないものが多くて、特に僕ら左官がやっているのは、20年、30年とやってようやく一つのことが完成しますので、寿命がいくらあっても足りません。ですから子どものころから覚え始めないと良い仕事ができない、体に覚えこませることができません。僕が父親にスパルタ的修行をさせられたのはそのためだったと思います。

(スライド)
これはJR金沢駅の新幹線が着く場所の天井部分です。地下1階から地上1階に上がるエスカレーターの周りをドーナツ状に白い漆喰が塗ってあります。ただ白い壁で、ぱっと見るとペンキのようですが、塗りつける人、押さえる人と職人たちが流れを作って壁を塗っていきます。これも技術的には大変難しい仕事で、白い漆喰をぴかっと光らせています。鏝で押さえ込むと光るのです。北陸は左官屋さんが多くて、姫路城や大阪城など大きなお城は金沢の方から大人数で左官屋さんが来て漆喰仕事をしていますが、漆喰は少し特別で、そこでできないからといってもらった仕事です。仕上げるとこのようにぴかっと光って綺麗です。

(スライド)
これはインドネシア大使館です。文化財になると修理の仕方も丁寧なのですが、古くて良いものでも個人や企業が所有していると簡単に直そうという傾向があります。これも100年前の建物で非常に良い洋館ですが、雨漏りがして漆喰が一度はがれて、それを修理するのにペンキを塗ってクロスを張ってというのを5年に1回ぐらい続けて酷い状態になっていました。それをきっちり直したいということで僕らに依頼があったので、下地からやり直して装飾も修理して、元通りに直しました。きっちり直せばまた50年とか100年ともつのですが、早いから、安いから、直しやすいからというので安易に直してしまうと取り返しがつきません。神戸でもそういう物件をたくさん見てきました。文化財や世界遺産にしようと思っていなくても、作った人が丁寧に作ったので良いものになり長持ちして結果としてそうなるわけですが、後で使う人がわけがわからず手を加えると、一瞬にしてダメになって、建築物としても寿命が短くなります。これも僕らがちゃんと直していなければあと10年もつかどうかというところでした。

(スライド)
これは東京の国立博物館を復元したものです。こういう意匠が日本にあるのも不思議なのですが、80数年前に国の威信をかけた国家プロジェクトで作られた建物です。誰も気が付かずに通るような普通の部屋なのですが、これだけの装飾がしてあります。僕らがその一部分を復元したのですが、タイル1万3千個を全部手で割って形を作って張り付けて壁にしました。復元するので宮内庁へ行って文献を調べたのですが、細かい所は書いていないので、自分たちでいろいろ試験して研究しながら作っていって、最終的にこうなりました。手間ひまかけて素敵な壁なのですが、それがさりげなく目立たなくあるというのが、日本の美しさを感じるなと思いました。

(スライド)
これは京都の輪違屋さんというお茶屋さんです。芸者さんや大夫さんが寝泊まりして、お座敷もあります。文化財の建物で実際に商売をされているのはここだけです。他のところは重要文化財になると商売ができなくなって見学しかできません。
ここの「もみじの間」という一部屋を修復することになりました。輪違屋さんは350年前から続くお茶屋さんで、この壁が塗られたのは150年前です。150年前の壁が普通に残っているということが凄いことですが、どんどん傷んできて、修理に修理を重ねられていて、ここで芸者さんをあげて楽しい雰囲気になるというより、少しおどろおどろしい雰囲気になっていました。壁に紅葉の装飾をしているのですが、昔はこうしていたと説明するために、オーナーが屏風を置いて和ろうそくを焚いて見せてくれました。昔のことですから、電気はなくて光は和ろうそくだけです。襖をあけて人が入るとその風圧でろうそくがふわっと揺れます。人が動く気配がすべてろうそくを伝って壁に映ります。すると紅葉がふわふわと浮いているように見えるという不思議な体験をしました。昔の人はこういうことまで考えてこの壁を作って凄いなと思いました。古いものを直しに行くと、作られたものから当時の職人さんの技術を教わることができます。技術の伝統の継承は人から人もありますが、ものから教わることも多く、それを僕らが新しく次世代に繋いでいかないといけないわけですが、この時は本当に感心しました。紅葉が散ったイメージではなくて、ひらひら舞っているイメージで華やかさがありました。それから全部赤い紅葉だと紅葉シーズンにしか使えませんが、緑や赤やグラデーションがあって、いろんな時期に使えるように考えられています。

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(スライド)
近くで見るとこんなふうになっています。葉脈まできっちり写っています。今から修理するのですが、これも復元工事なので本当に元の通り戻さないといけません。

(スライド)
まずはこういうふうにひとつひとつ絵を描いてスケッチしていきます。それから土の色合わせ、紅葉の中の色の合わせをします。紅葉もオオモミジとかいろいろ種類がありますので、品種も合わせていきます。紅葉は取る季節によっても写り方が違います。春先は脂がのっていてなかなか壁に写らないので、いろいろと工夫して壁にひとつひとつ紅葉を合わせて、ジップロックに入れて冷凍保存して、壁一枚ずつを塗り替える度にそれを出してきて保守していくわけです。

(スライド)
剥がしたあとの壁なのですが、剥がしてみて初めてわかることがあります。最初見た時には、紅葉を張り付けて剥がしてそこに色を付けただけの手法だと思い、結構簡単に修復できるなと思いました。デザインはすごいけれども、まあ簡単に直せると思ったのですが、いざ剥がしてみるとそうではなく、最初から紅葉を入れる位置が決まっていたというか、デザインしてあったのでしょうね、土に緑とか赤とかの色を先に付けて、そこに紅葉を張り込んで、上から土を塗って剥がすという手順でした。最初にした人はすごいなと思うことが今から出てきますが、僕らはそれを忠実に再現するので、X軸Y軸の寸法を出して全く同じように紅葉を入れます。

(スライド)
これは作業をしている風景で、普段はこんなふうにちゃんと壁を塗っています。赤い色を塗って紅葉を張り付けて、その上からもう一度仕上げを塗ります。この土も壁を剥がしてもう一度練り返して塗りなおします。

(スライド)
こうして紅葉を剥がして、角が綺麗じゃないなと思ったら鏝を入れます。この時に少しでも力が入って他のところに当たってしまうと、土の肌が変わってしまいます。本物の土は撫でる時に一回二回で色が変わってしまうし、乾く瞬間に少し時間がずれると色も肌もすべて変わってしまうので、少しでも作業に失敗したらもう一度一からやり直しということになります。ですから本当に慎重に息を止めて作業をしています。

(スライド)
完成するとこうなります。今は色が華やかというか派手に見えるかもしれませんが、当時はこのような景色なのだったと思います。それがまた50年、100年するうちに雰囲気が出てくるものだと思います。ここで敢えて古く見せると少しうさん臭くなるので、当時やったように復元してみました。電気もないし障子からの本当に綺麗な光だけが射しこむので、仕上がるとこういう雰囲気になります。

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新しい仕事

ここから新しいオブジェのようなものになります。僕が新しいものを作るようになったきっかけはこれです。

(スライド)
今から約16年前の27歳の時、当時堺のお花の家元のところに普通の和室の壁を塗りに行っていました。家元は僕らと年が近くて面白い人で、毎年桜の華展をやっていて、その年はお寺で「月と桜」という華展をやりたいので何か作ってくれと言われました。僕は直径2メートルの土の柿を作ることにして、このように淡路島の倉庫で作りました。竹を編んだ上に土を塗っているのですが、土は塗ると重くなるので、重さが400キロから500キロあります。作り始めた時はそれを全然考えていなくて、竹が編まれて綺麗だな、土を塗ってしまおうと塗ったのですが、出来上がったら大変重い。真ん中に穴があるのでそこに鉄パイプを差し込んでトラックに積んで何とかお寺に搬入しましたが、球が大きすぎて、柱と柱の間がなかなか通らない。なんとかかんとか中に入れて桜を切ってもらって完成しました。

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(スライド)
これだけ大きなものは焼き物ではできないので、「左官ってなんでもできるな」と左官になりたいと思った当時の気持ちを久しぶりに思い出しました。それまでは伝統的な仕事がほとんどで、淡路島でも一軒を建てるのに3年かけるような家をゆっくり何回も塗って仕上げをかけるという仕事をしていたので、何か急に新しく光が射したような気がして、いろいろやってみたいなと思いました。それからはオブジェや店舗や公共施設でいろいろな表現をするようになりました。

(スライド)
ここが家元のお家です。前の方に塗ってあるのがもともと僕が塗った土壁ですが、10年たった後に家元はこの中で桜の大きな個展をやっていて、僕が思ったものを好きなように作ってほしいと依頼されました。僕は普段制約があるといえばある中で仕事をしているのですが、この時は何も考えずに作りました。淡路島の出身なので、古事記の国生みの話、イザナミとイザナギが矛を回して落ちたしずくが淡路島になって日本ができるという神話を頭の中でイメージしました。この神話は子どもの頃からカルタなどで教わるのですが、本当はもっとおどろおどろしい話で、地球上に本当に雫が落ちるとこのような泥の柱や泥の渦ができるのではないかとイメージして作ったのがこれです。これは一ヵ月間の展示でしたが、家元が大変気に入って一年間ここに残ることになりました。その間お花の教室ができなかったようですが、それだけ喜んでもらえました。普段は鏝を使って作るのですが、これは手で作ったので、指の跡が残っています。家元もお花を活けたくなって、上に花を挿してこれで完成です。

(スライド)
その後、お煎茶の会をすることになって、このようにお膳を土で作って土の屏風も作りました。土を団子にして壁に張り付けて削った土の屏風です。土の良い所は、普通だとオブジェを作って壊したら産業廃棄物のようなものになって、イベントの後はゴミになりますが、この時は壊した土を近所の人が持って帰って古民家の土壁として塗られました。それもまた、今後100年ぐらいその壁が家を守って行くのだろうなあ、いいなあ、と思いました。

(スライド)
ほんの数か月前、竹中大工道具館という神戸の会社が東京の竹中工務店の本社で「左官展」を開きました。鏝をいろいろ並べたり歴史を説明したりしたのですが、目玉となる何かを作ってほしいと言われて作ったものです。これは土の版築といって、コンクリートを作るときのように、型枠を作って土を入れてつき固めることを繰り返して作ったオブジェです。日本では法隆寺の土塀とかお城の基礎などに構造体として作られているもので、世界中にある技術です。山に土を取りに行った時に土穴が見えて砂利が見えているところとか、想いがあって作ったものですが、見た目はこんな感じで、土の迫力とか土の良さを表面的ではなく本質に近い所で東京の人に見てほしいなと思って作ったものです。薄く何かを作ったのではなくて、たったこれだけするのに名古屋から10トントラックで土を持ってきて、それを職人たちと人力でつき固めてオブジェにしたものです。
この写真を撮っているときは土が生(なま)の状態で、光が当たると綺麗でした。僕は土の生に魅力を感じます。僕が作るもののほとんどは自然界から影響を受けたもので、たとえば僕はサーフィンをしているのですが、風が起こした波が岸に打ちつけられる時の波の形とか、風が水面を抜けた時の表情とか、海で見る一瞬で作られる綺麗なもの、山とか大地が雨や風で削られてとても綺麗なものがあります。僕はそれらを表現や意匠として見ています。それを真似するというよりは、綺麗だなと思ったものを自分なりに考えて作るのが好きなので、こういう制作をしています。

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その時に作った門です。これは土壁を塗っているところです。土をつき固めるのではなく、竹の上に塗る土とよく似ていて、土と藁を混ぜたものを塗りつけています。インスタレーションではないですが、客寄せパンダみたいなもので、作業をしているところを人が見ています。オープニングの日に作りました。

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個人邸でもいろいろな壁をやっているのですが、その度に壁土のサンプルを作ります。今、世の中には新建材が多くて、建築家もデザイナーもお客さんもサンプルから壁の色や表情を選んで決めるので、建築現場でも普通左官屋は「何とかの何番を塗ってください」と言われて仕事をします。僕らは昔からやっている仕事と新しく何かを作る仕事をしているので、流通しているものも使いますが、材料は山へ土を取りに行ったり、自然のものを集めたりしています。一から調合するところから創造しないと、なかなかものは作れないのです。ですので、こういうサンプルは毎回毎回作ります。今まで何千枚というサンプルを作りました。それが実際の壁になっていくわけです。

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これは2009年に新潟の美術館で開かれた「水と土の芸術祭」に出品したオブジェ「土の一瞬」です。これも竹を編んで土を塗っています。土は収縮してひび割れします。僕はひび割れに土の強い力を感じて好きなので、それを意匠にすることもあります。二ヵ月ぐらいの展示で撤去されたのですが、残念ながら写真が残っていません。

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ここからは商業施設です。自分の想いとお客さんの想い、建築家の想いがあって、一緒に何かを作っていく作業で、普段の仕事のほとんどです。
愛知県の中部国際空港の近くに、INAXライブミュージアム、今はLIXILと名前が変わっていますが、「土・どろんこ館」という土の博物館があります。もともとコンクリートの擁壁があって工場があったのですが、工場もどんどん中国へ流れて行って使わなくなったので、何か文化施設を作りたいということで、僕と建築家とランドスケープアーキテクトが呼ばれました。工事の2年前から地元の調査を行って、この辺の人はどういう仕事をしてどんな生活をしているのかを調べてから、作り始めました。この土はこの近くから持ってきたものです。外構も僕らが約400トンの土を持ってきて突き固めて雨が流れて仕上がるようにしました。建築の方も約300トンの土を使って作りました。本当は土の塊だけで建物を作りたかったのですが、今の日本の建築基準法でそれは叶わず、コンクリートの建物の前に意匠として作りました。意匠といっても、コンクリートは10センチぐらいなのに対して仕上げの厚みが50センチあるのではるかに仕上げの方が分厚いのです。ここの建築の壁はひび割れも入っているのですが、崩れなければそれでよいわけで、圧倒的な土の力を感じてほしかったのです。
これはちょうど10年前の仕事ですが、この後いろいろと好きなことをやれるようになりました。こうして自然に土が流れるのは建築現場ではダメなことで、たとえばひび割れは絶対ダメとか、作ったものがどんどん形が変わっていくのもダメなのですが、僕らがやりたいことをやって今から左官業界や建築業界を変えてほしいという館長さんの意向があって実現しました。400トンの土をつき固めたのですが、ちょうどゲリラ豪雨がニュースになり始めた頃で、実際大雨で一度崩れたことがありました。企業の財産なので、「どうしてくれるのだ」という話にもなりましたが、責任は全部取るからもう一回やり直させてほしいと言って一からやり直しました。改良するところは改良しましたが、一回ダメになってそのまま諦めてしまうと、そのものはこの世の中からなくなってしまうのではないかと思って、この時は何とか頑張りました。外の荒々しい土も建物の中に作ってあるものも、もとはと言えば同じ土で、それを細かく砕いて塗って作ったものがこの壁です。
奥にあるのは日干し煉瓦です。焼くわけではなくて、陽の光に晒されて乾いてできる煉瓦を住民参加のワークショップで作ったものです。プロが作ると均一なものになるのですが、小さい子どもやいろいろな人が関わって作ってくれたので、いびつで面白い形になったのを僕らプロが張り付けました。そうするとみなの想いが集まるので、ここも大事に使われています。

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東京移住後

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ここからは、8年前、東京に移るきっかけになったあたりです。7~8年前、僕が東京に行った頃、小学校も病院も老人ホームも白いクロスが張ってあって蛍光灯があって何となく味気なくて、ここで子どもが教育を受けても綺麗なものを感じるのだろうか、ものを大事にすることを覚えるのだろうかと大変不満に思い、また不安にも思っていました。何かそれを変えたいと思った時にもらった仕事です。大手設計事務所からも鼻で笑われるような感じだったのですが、ここが初めての物件で、僕らはここから変えることができるようになったと思っています。
東京都の公立小学校というのは安全にうるさくて、ざらざらした土壁に子どもがぶつかったらどうするのとか、固いものが触ると壊れるのではないかとか、いろいろクレームがあります。ここを作ったのは東京タワーなどを作っている日本でも有数の日建設計でしたが、そこが入ってもそういうクレームをクリアしていくのはなかなか難しいのです。僕らも教育委員会の方と話をさせてもらって、最初は反対されていたので、工事現場へ行ってメガホンを持って1時間ぐらい話をさせてもらいました。子どもがぶつかったら勿論ケガをしますし、固いものをぶつけたら痛みます。でもそれを子どもたちに教えていかないとと思います。今、世の中はクレーム重視で、壊れないとか壊れても直しやすいとか、それを基準にどんどん作っていってしまう傾向があります。固くて壊れない単なる物質でしかなくて、大事にしたいという想いとか、いいねとかいう感動がないものが作られる。僕は大事にしたいという想いや感動を子どもたちに知ってほしくて、ここに土壁を、それもざらざらした荒々しい土壁を作ろうと思いました。設計事務所も強く後押ししてくれました。

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高さ15メートルの土の大きな壁なのですが、土を何度も塗り重ねて削ってこういう形にしました。これができてから3年になりますが、一カ所も傷がついていなくて、結局は僕らの想いが通じました。校長先生や学校の先生が朝礼で子どもたちに「こういう人がこういう想いで作った、みんなで大事にしましょう」と言うと、傷つけるつけないという問題ではなくて、子どもたちが大事に思って使ってくれています。とても柔らかい素材で軽く手でひっかいただけで傷が入るものなのですが、それが傷一つなく、今も維持されています。もともと日本人はものを大切にするし、ものや人に対して思いやりもあるのに、直しやすいもの壊れにくいものがどんどん好まれるようになって、作っても壊してまた新しく建てればよいと言っています。美意識や考え方がどんどんそうなって行くと、この先どうなるのだろうなと思います。それを少しずつ変えて行けたらなあ、という第一作目です。こうして表面を荒く削って表情をつけています。

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そこには幼稚園が併設されています。港区は東京の中でも一番お金のある地域だと思いますが、小学校や保育園もお金をかけて作っています。有名な作家さんが作った遊具などもあります。その下にある山みたいなものが、僕が作ったものです。これも古墳のような山を作ってくれと言う依頼があって作りました。普通は「もし子どもがケガをしたらどうするの?」というところから始まるのですが、この時は一度壁を作った後だったのでそれもありませんでした。これは表面がざらざらなので、子どもが登ってころんだら傷だらけになるだろうし、ケガもすると思いますが、それでも子どもたちはこの山に上がって遊んでいます。田舎に行くとケガや痛みはあたりまえなのですが、都市部ではそういうものがどんどん減っていますね。この周りはウッドチップが樹脂で固めてあって、子どもが高い所から落ちてもクッションになっていて絶対ケガをしないようになっています。木も面を取ってあって、至るところケガをしないような気づかいがあるのですが、そこに一つだけケガをするようなものを僕が作らせてもらいました。僕としては成功だった、良かったと思いました。この山は「築山」という題名で作ったのですが、子どもたちは「おっぱい山」と呼んで大事にしています。実は僕も作っているときそう思っていました。

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ホテルもいくつか物件としてやっています。これは静岡県の日本平にあって、ちょうど富士山が見えるホテルです。もともとあった古いホテルを新しく作り直した時に石を張る予定だったのですが、富士山が見えるのに横に石があっていいのかということになったようで、柔らかいものが見えた方がいいのではないかと僕らに話があって、土で壁を作りました。結構大きなもので、波打っています。普通、左官屋さんは糸を張って定規をあてて1ミリも狂わず作るのが得意なのですが、これは大変腕の良い職人さんを集めて、定規を一切使わずにフリーハンドで何とかまっすぐにしようと言ってやりました。壁はほとんど歪んでいないのですが、上から照明をさすとちょっとゆらゆらするんですよね。それがちょうど揺らぎみたいな感じで良いのではないかと敢えてフリーハンドで作りました。
このように土の色を変えています。「地層みたいに」と言われたのですが、地層を真似て人が作るとディズニーランドのように偽物になってしまうというか表面的になるので僕は好きではなくて、地層をイメージして、意匠としてあくまでも作為的に作ったものです。土というのは自分たちが思わない良さを出してくれるのですが、結局は人が作るもので、作為があってできているものだと思います。

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さっきのはロビー部分ですが、一階部分にもこういう土の壁があります。これも土をフリーハンドで塗って塗って押さえて作りました。これも土で作ったとは思えないのですが、こんなふうにもなります。

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東京都内には億ションといわれる、とても値段の高いマンションがあります。パンフレットができて売り出されるわけですが、そこに「作家さんが作ったこういうものがエントランスにありますよ」と載せるわけです。これは7~8年前だったと思いますが、奥に見えているのが千住博さんの絵で、前のが僕の土の壁です。この二つを売りにして売り出された六本木のミッドタウンのすぐ裏にあるマンションです。
これはエントランスです。今までマンションのエントランスは、アートを掛けるか石張りかという路線でした。知り合いの植木屋が言うように、石は張るものではなくて積んだり置いたりするもので、そもそも石を張っているのがそんなに高級かと僕らは思っていました。使っている人はそれで納得するかもしれませんが、本物を知らずに生活するのは良くないなと思っていました。これはただ土を積み上げているだけなのですが、薄い表面的なものではなくて、土の本質のようなものを見てもらえるのは良かったなと思います。一番お金をかける高級物件で土が使われる、左官が使われるのは画期的だと思いましたが、ここ数年、毎年のようにマンションのエントランスを土で作っているので、作ったものへの関心が少し高まってきたのかなと思います。といっても、たとえばひびが入らないようにしてほしい、角が欠けないようにしてほしいという依頼には応えないといけないので、それを守りながら、でも土の良さを分かってもらいたいと思ってこういうものを作りました。

(スライド)
これはつい最近、名古屋で作ったマンションの壁です。これも土を塗って削ってこういう意匠にしています。土を何回か塗って、半乾きのときに僕がさっと筋を入れて、それを削っていくとこうなります。横から見ると断面がこんな感じなっているのですが、土独特の柔らかさ、優しさ、藁が少し見えたりとか、僕はとても好きです。こういうものがどんどん広まって行けばいいかなと思います。

(スライド)
これはたまたま近い場所にあった、八事山興正寺というお寺です。ここも高齢化が進んできて、お墓参りも階段が上がれなくなる人が増えてエスカレーターをつけようとなったのですが、それを囲うように土の塊を僕らが作りました。前からはこのように見えるのですが、景観としてはあまり仰々しい所を見せないように工夫されたのだと思います。工事には基礎が要るので必ず地面を掘ります。掘った土を混ぜ合わせて色の層になっています。地層にしようと思ってやったのではなく、取ったときの色が毎回変わるので、それがああいうふうになるだけなのですが綺麗です。先ほどの版築の良い所です。

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これは土だけでなく、いろいろなことをやっている例です。お城などに白い漆喰が使われますが、それに炭を入れて押さえて磨いた黒い漆喰です。これも伝統的な仕事で難しい作業です。50年ぐらいの経験を持つ名人が一坪、つまり3平米塗れたら限界かなというものなのですが、今は近代建築で広い面積を塗ってほしいと言われます。この時も、塗れる職人がとても少ないので、全国からその県で一番のような人を集めて仕事をしました。左の方に見えるのが塗装で、前に見えるのが漆喰です。漆喰は手間ひまがかかっているので、全然ものが違うというか、人の跡がみえます。

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店舗を何軒か見ていただきます。これは焼肉屋さんのトラジさんという全国チェーンを展開されているお店で、東京駅のすぐ近くの丸ビル店です。ガラスに土が浮いているような意匠です。これもただ土を塗っただけでは土が全部壊れたり落ちたりするので、いろいろなノウハウを生かして実現したものです。不思議な感じがしますし、土の良さも出ています。

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三田にあるロールケーキのes koyamaさんのROZILLAです。僕がやった最近の物件の中でもずば抜けて頑張ったなと言える、好きな建築です。小山さんはロールケーキのほかにチョコレートも始めたのですが、パリのメゾン・ド・ショコラという多分世界最高峰のチョコレートのコンテストで何年も連続して最優秀賞を取っていて、チョコレートのお店を作るというので僕らが関わらせてもらいました。コンセプトは「大の大人が本気で作る秘密基地」です。普段いろいろな建築家やデザイナーと関わるのですが、ほとんどがお任せなのですね。仕様書にも図面にも「久住」と書いてあるだけで、勝手に僕が決めてやるのが多く、あるいは「これと同じものを作ってほしい」と言われることが多いのです。ここも一からデザインを考えさせてもらいましたが、良かったのは、オーナーがもの作りをする人なので、作ったものに対してああだこうだと言うことは一切ないのですが、ヒントになるようなことを言ってくれたことです。その人のもの作りに対する想い、本当にこの人はもの作りが好きなんだなあ、というのが伝わってきて、いろいろなイメージがどんどん湧いてきて作ることができました。
中へ入ると床も壁も天井も全部土で作ってあります。ここの壁は土を何回も何回も塗り重ねて削って作りました。「アメリカのアリゾナにあるアンテロープキャニオンが好きだ」という小山さんの一言で僕も「ああ」と思いました。でも自然は膨大な時間をかけてできたものです。僕ら人間一人ができることはたかが知れていて、自然界を真似しても良くはならないので、そのイメージを頭に浮かべて自分なりに「風で削られた時にあんなふうになったのだろうな」と思って、風で削られたようなイメージで壁を作ってみたり、「遺跡っぽく見えたらいいな」と思いながら、表面的に作ったのでは安っぽくなるので、3千個以上の土の団子や煉瓦を一個一個手作りで作って、それを張ったのではなくて積み上げて作ったりしています。
煉瓦や団子の中はこのようになっています。周りはざらっと荒い仕上げですが、中に入るとつるっとしています。ここは全体を作る中で、小山さんが立ってくれたらいいなと思って作った場所です。小山さんはお客さんに喜んでもらおうとどんどんお店を増やしていったと思うのですが、沢山になったお店を見て僕は最初、「もう少し計画的に作ったらいいのにな」とか「まとまってたらいいのにな」と思いました。けれども作業を3ヵ月していると、まとまりのなさが逆に年齢に関係なく人が集まる原因なのだなとわかりました。小山さんは世界一のパティシエでありショコラティエであると僕は感じたので、世界中から人が来た時に、こういうところに小山さんが立って喋ったり、作っているところを見てもらったりしたらとてもカッコいいなと思ってこの場所を作りました。
内装はこんな感じです。つるっと光っているテーブルも、僕ら左官屋が材料を塗りつけて、砥石で磨いて8人がかりで10日ほどずっと真っ黒になりながら作りました。この壁ももとから下地があったわけではなく、金網とか鉄筋とかで形を作った上に何回も何回も塗り重ねて三次曲面を作っていって仕上げたものです。行くと不思議な感じがすると思います。一つ一つ本当に手間をかけて作っています。
自分ひとりでは結局は何もできないので、この時も全国から職人に集まってもらって、15人ぐらいで3ヵ月ぐらいかけて作りました。この時も喜んでもらえたのですが、その後、小山さんがコンテストの前にチョコレートを食べさせてくれたことがあって、その時「この建物を有生さんが作ってくれたから、今回こんなの(チョコレート)が出来た」と言ってくれました。その言葉が嬉しくて、職人冥利に尽きると思って僕は泣きそうになりました。僕も影響を受けて建物を完成させることができたのですが、そう言ってもらえると、作った甲斐があったと思いました。後々も大事にされるはずなので、この建築は100年、200年と残るのだろうなと思うと、熱くなるものがありました。
一つ一つ説明するときりがないのですが、こういう絵も自分で書いて図案にさせてもらってこういう壁を作ったりしました。

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それから一年後、違うお店のオープンがやってきて、その時もまた声をかけてくださいました。今度は「未来製作所」を作ることになりました。先ほどのROZILLAが大成功で良かったので、それを邪魔しないように作ろうという雰囲気が最初あったのですが、僕は子どもが見た瞬間飛びついてほしいと思っていました。これは百均でお皿をたくさん買ってきて、それにセメントに色を混ぜたものを入れてパカッと抜いたものをマカロンのようなイメージで張り付けてあります。

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これは先ほどの建物の中です。ここは子どもしか入れない入り口があって、中に入った子どもが外で待っているお母さんやお父さんに「中はこうだったよ」と話をする良い場所です。

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最後は去年、シンガポールのマーケットストリートという高層ビルが林立するオフィス街でやった仕事です。そこの一番良い所にキャピタランドといって、シンガポールで一番大きなディベロッパーがオフィスビルを建てました。シンガポールではそういうビルを建てる時にはアーティストを何名か入れないといけない、費用の何パーセントをアーティストに振り分けなければならないというのがあります。僕も選ばれて、日本の伊藤豊雄さんという有名な建築家に依頼されて作った壁です。シンガポールは新しい街で、今まで土壁が塗られたことがなく、農業もないので藁がないという状況なので、2年ぐらい前から調査を始めて作りました。
高さ15メートル、長さ60メートルという大きな壁をシンガポールで作るという一大プロジェクトで、日本から優秀な職人さんに来てもらって、日本のスタッフ20人、現地のワーカー10人の合計30人で3ヵ月かかって作りました。出来上がってみると普通に影が落ちて普通の形になっていますが、下地は平らと言うか、でこぼこのコンクリートが打ってあります。

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これは最後の点検です。段が20段ぐらいあって、一段一段は大きなものなのですが、段の寸法が2ミリから3ミリの間で違います。それが変わると上から射す光が下まで抜けてしまってこの影がなくなってしまうのです。このようなものを端から端まで通すというのが地元では神業と言われて、建設大臣まで来て僕らを褒めてくださいました。

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工事中です。かなり綺麗にして撮影しているのですが、やはり足場があってごちゃごちゃものがあって、全体はほとんど見えません。作業中はこの画面いっぱいの壁は見えないので、水平も垂直もわかりません。レーザーで見ると水平・垂直はわかるのですが、それもできません。昔からやっているようにペットボトルに水を入れて糸を垂らしてまっすぐ見たり、水平かどうかも職人同士が糸を張って「まっすぐかな」と言いながら、2ミリ、3ミリの誤差がないようにあの大きな壁を作っていくわけです。
まあ、いろいろありまして、作業をしているときには足場があって、解体する前に地元のワーカーが名前を書いたりします。記念には残りますが大変なことで、それを修理しながら、いろんなことがありながら、何とかこの壁を完成しました。本当に日本は特別で、職人は勝手にどんどん打ち合わせをしてものを作ってきっちりしていますが、シンガポールの街で働く労働者はバングラデシュや中国などいろいろなところから来ていて、彼らは建築をやりたくてやっているわけではないので、仕事をせずにぷらぷらしているようなところもあります。現場自体もそういう雰囲気で、傷がつくのもやり変えるのも当たり前で、なかなか思うように進みませんでした。僕らのところに来ていたワーカーはバングラデシュの人たちで、最初はそういう感じでしたが最後はとても一生懸命頑張ってくれました。「なぜ日本人はそんなに働くのか」という感じで現場も緊張感が出てきて、結局は彼らとも大変仲良くなってコミュニケーションが取れるようになりました。最後はバングラデシュの人たちが、「日本人、お前らはよくやったからご飯を食べに連れて行ってやる」と言って招待されてカレーをみんなで食べて終わりました。これもとても良い経験でした。
左官はいろいろな可能性があるし、ものづくりはまだまだ良い所があるので、そういうことを今回少し知っていただければと思ってお話しさせていただきました。どうもありがとうございました。

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<第2部>

お客さまとのQ&A

お客さま:
職人さんの高い技術と情熱に心が震えました。最近ニュースで日本の職人不足や技術の低下を耳にしたりするのですが、これからどうなっていくと思われますか。また、職人以外の私たちは何をしていけばよいと思われますか。

久住さん:
左官業界では、一時期に比べると「やりたいな」と思う人が増えてきています。僕らの時はちょうどバブルがはじける前で、職人になりたいという人がとても少なくて、僕たちの父親世代から急激に減っていました。今、腕の良い職人は左官業界だとほとんど65歳以上です。僕らの世代も少ないです。でも最近、テレビなどの媒体で職人さんが取り上げられる機会が増えてきて、「職人さんっていいな」と言う人が増えてきました。僕も今まで何人か弟子を育てて職人にしてきましたが、昔は家が左官屋だから左官職人になるという子が多かったのに対して、今は全く関係なく、大学の建築学科を出て左官屋をしたいとか、美術大学を出てなりたいとか、いろいろな人が左官をやりたいといってやっています。
このように少し増えて来てはいますが、やはり全体で減っていることは確かなので、これから10年したらどうなるかを考えると、職人の取り合いになるのではないかと思います。良い仕事だけではなく、ものが建つのかどうかというレベルまで減っていると思います。たとえば65歳の人が75歳になったらどうなるのか、急に今の半分ぐらいに減るのではないかとちょっと怖いですね。今、工事現場に行っていると、職人がいないために工期が遅れることが結構あります。昔は「お前ら、言うことを聞かないのなら明日から来なくてよい、職人なんか替わりはいくらでもある」とゼネコンさんや工務店さんに言われましたが、今は反対に職人が怒って帰ってしまうと大変だから、というぐらいに職人がいません。だから職人を大事にする傾向はあるのですが、少なくはなると思います。
一般の方が、職人に対してというよりも、昔みたいに「良いもの、本物は早くできるはずはないので、時間をかけて良いものを作ってほしい」と解ってもらえると、職人たちは本当は良い仕事をしたいのでありがたいと思います。先ほどからお茶室など伝統的な建築物の話をしましたが、今はインスタントラーメンと同じで、お店で買ってきて水を入れて機械で練ったら1年目の子でも50年目の名人でも同じです。大した修行をしなくても、大した道具を持っていなくても、お金が稼げるのです。となると、わざわざ左官の道具を買うこともない。僕は八百種類を超える道具を持っていますが、そういうのを買っていると、お金がそちらにばかりかかって家も建てられない、何もできないということになります。毎日毎日訓練して、お金が入れば道具を買って、というようにしないと良い仕事はできないのですが、お金を払ってくれる人が安いものでもどちらでもよいとなると、わざわざ作る人はいなくなります。日本の伝統的な文化財と言っているけれども、それも危ないです。ちゃんと解ってもらえる人が増えると、職人たちは頑張ろうと思うし、昔のように少し復活するかもしれません。

お客さま:
久住さんのようにご自分でデザインして左官をされる方は少ないように思われます。これから可能性を広げるためにももっとこんな職人さんが増えるといいなと思いました。どうすれば増えると思われますか? 

久住さん:
デザインも大事なのですが、職人は実直にまじめに毎日毎日作るので、それがとても大事なことです。僕らもそれがあったから今自信を持ってものを作れるのです。
海外へ行って思うのは、プレゼンが上手というか、人にものを伝えるのがうまいのですね。僕も含めて職人さんは、そもそも修行したりものを作ったりしているときは誰かと会話することもないし、僕も人前で喋るのは苦手だったし、コミュニケーションも上手ではなかったと思います。昔は「あの家をあの人がやったのなら今度うちもやってもらおうか」と、名人だったら勝手に仕事が来たのですが、今はそうではなくて、説明しないとお客さんにわかってもらえません。ですからプレゼンを上手にできるようになるのが一つ大事なことです。いきなりデザインするものを欲しいかというとそうではなくて、職人さんは職人さんとしてプレゼン能力を持たなければならないし、お客さんは良いもの悪いものをきちんと見分けられるようになってもらわなければならないと思います。頼まれたものを作るというのは職人の一番大事な仕事なので、自分から自発的にデザインすることはとても少ないです。そういう機会を与えてもらうには、まず職人が努力してプレゼンをする、お客さんがそれに応えてくれるというのが一番大事です。

お客さま:
シンガポールのお話で日本の職人さんと現地のワーカーは違うというお話がありました。日本の職人さんは方向性が違ってまとめるのが大変だったりなどしないのでしょうか。職人さんをまとめる心得などをお教えください。

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久住さん:
日本の職人さんはみな真面目なので、勿論いろいろな人間が集まるので仲が悪くなったりと言うことはありますが、仕事は別なので、放っておいてもちゃんとやってくれます。職人さんって寡黙なイメージがありますが、みな仕事が好きで、休憩していても、「あれがどうだこれがどうだ」と自分のやっている仕事のことをずっと喋っています。
シンガポールの時は、入って一週間ぐらいで仕事がきつすぎて誰も一言もしゃべらなくなりました。気温も35度ぐらいありますし、埃もありますし、日本のように風通しを良くしているわけでもなく、働く時間も長くしないと仕事が終わらない。現場の状況が日本とかなり違うので、精神的にも体力的にもきつい現場でした。きつい仕事でも結果が見えると人は頑張れますが、僕らが仕事をやってもやっても地元の業者の人がどんどん壊してしまったりとかするのです。悪気はないのですが気を使わないので壊してしまうのです。僕らが昨日朝から夜まで休憩もなしにやった仕事が全部なくなったという状態が一週間ぐらい続きました。少し気持ちが折れそうになったりしましたが、僕の力でまとめるというわけではなく、みなが仕事好きで一緒に良いものを作ろうということで何とかなりました。

お客さま:
久住さんは仕事をしているときが一番楽しいですか? 

久住さん:
最高です。職人とアーティストの違いだと思うのですが、衝動的に作りたいという部分もあれば、頼まれたことを確実に作る、それ以上に作るというのが職人の大事なところです。自分だけでああだこうだと考えて作るよりは、お客さんがいてその中で違うヒントがあったりお互いが話し合ったり、特に個人の住宅の仕事はずっとサンプルのやり取りをします。僕らはプロで365日ずっと壁のことを考えていて、子どもの時からいれるとキャリアは40年になり、誰よりも知っているわけです。だから、結果は多分こうなるのだろうとか、お客さんは今はこう言っているけれども、後でこうなるだろうとかわかるのですが、それを押し付けると、これから作る家に住む人にとって何も良いことはないので、今一番いいなと思うことをまず実現してあげたいと思います。でも10年後絶対飽きてやり変えたいと思うだろうなと思えば、それを少しずつ出していって提案していってということはします。

お客さま:
大変興味深くお話を拝聴しました。左官という仕事は工務店から言われた内容を形にするという仕事だと思っていました。ただ壁を塗るという仕事をクリエイティブな仕事に変えていく、その変える力となったものは何なのでしょうか。どうやったら新しいものを生み出す力をつけることができるのでしょうか。

久住さん:
僕の場合は自分で自発的にそうなったというよりは、父親が新しいことをどんどん開拓して行く人で、それを見ていて、父親みたいになりたいと憧れて尊敬するところから始まりました。僕はラッキーだったのですが、ラッキーだったで終わったら次にそういう人が現れるどうかわかりませんね。日本中にいろいろな左官屋さんがいますが、どれだけの人数がデザインして創造してものを作っているかというと、指で数えられるぐらいだと思います。自分でこうと思っても、周りが同じように変わってくれないとなかなか難しいですね。
僕らの場合、左官屋さんだけが集まって技術を見せる講習会があります。名人と言われる年配の方が若い勉強熱心な職人さんに技術を見せます。普段の現場が結構切羽詰まっているのでなかなか行けませんが、僕もそういうところによく呼ばれるので、自分が影響を受けたように若い人にも影響を受けてもらいたいと思います。講習会に来る若い職人さんたちに「もう少しデザインも考えてやってみようよ」と呼びかけたり、学生相手の講演会でもそういうふうになってほしいなと心がけて話してみたり実演したりしています。

お客さま:
素敵なお仕事を拝見させていただきました。今後制約を考えないとして、どのような作品を企画されたいでしょうか。

久住さん:
制約といえば、海外で仕事をしなくても日本で何でもできると思っていたのですが、日本は時間が短すぎるという制約があります。たとえば、僕らが半年かけて作りたいものを都心だと一週間で作ってくれと言われるので、そこで同じようなものは何をどうやっても作れなかったりします。また日本の気候の条件は世界でも群を抜いて大変で、四季はありますし、地震、台風もあるので、法律基準もかなり高いと思います。それを考えると、ただ純粋の土の塊で家を作りたいなと思っても不可能です。また土はバクテリアとかいろいろあるので、輸出入ができません。
全く制約なしで、その土地にしかない土で、その土地の光とか空気とかに合うようなものを作りたいと日々思っています。日本もそうですが、制約だけ考えると海外に目が移ります。最近やりたいことを考えて海外でもやっていて、来年、再来年と海外で物件をやろうかなと思っています。

お客さま:
左官鏝はどこで購入されますか? どんな鏝を使われているのか見せていただきたいのですが可能でしょうか。

久住さん:
今は先ほどの話のように、インスタントラーメンのような材料を使って、塗る道具もホームセンターで売っている両面テープでくっつけたようなものを使って塗れるようになっています。プロがみなそれを使っていて本物の鏝が要らなくなっているのですが、良い仕事をしようと思ったら必ず良い鏝が要ります。日本の鏝鍛冶はもともと刀鍛冶が多いのですが、兵庫県の三木、刃物の三木ですね、あそこに腕の良い鍛冶屋さんが何人もいます。日本で本物の鏝を作れるのはそこだけとは言いませんが、鏝鍛冶は三木に集中していて鏝鍛冶の組合もあります。
新神戸駅近くの竹中大工道具館には、鏝を研究している学芸員の方が一人います。その方にどこで買ったらよいかを聞いてもらうのが一番間違いないかもしれません。ホームセンターのも良いのですが、やはりものを持ってみると全然違います。今日持ってきていないのでお見せできないのが残念ですが、es koyamaさんのところの洞窟の中にも大変良い鏝が置いてあります。本物の中の本物です。

お客さま:
淡路に住んでいるものとして、久住さんが世界で活躍されていることを大変うれしく誇りに思います。久住さんにとって故郷淡路島の未来をどうお考えでしょうか。

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久住さん:
淡路は最高ですよ。淡路島がなかったら今僕は何もできていないです。淡路に育って、つい最近まで淡路島からいろいろなところへ行っていました。淡路には海があって山があって食べるものも何でも美味しくて、自然が当たり前にあります。仕事に関しても、農家は良い家を建てて三代ぐらい続けてちゃんと残していく、ものを大事にします。淡路は土も良いです。何か足りないと裏山へ行って土を取れるし、砂がなければ海へ行って砂が取れるし、藁がなければ農家があるので切ったら使えて、材料がどこでも手に入ります。また格別絶景があるとかすごく良い所があるとかいうわけではないですが、その何もない感じが好きです。出て行っても、淡路が恋しくて恋しくて、年に何回かは淡路に帰りたいと思います。
淡路は島国で穏やかな印象があるかもしれませんが、結構みな気が短いです。同じテーブルを一年かけて作るのと一日で作るのを比べれば、一年かけた方が良いものができますね。でもゆっくりやったのでは乾いてしまうから、特に左官は短気でせっかちな方が仕事がうまい。そういう人が長く手間をかけてやるというのが一番理想です。

お客さま:
土壁や土のオブジェなど、土でできたものを長く使うために気を付けることがあれば教えてください。

久住さん:
お子さんがいたら、お子さんにしつけをするのが大事です。壁は勝手にぼろぼろ落ちることはありません。何か原因があって落ちるのです。僕は子どもの時から左官屋の息子で、別に裕福ではなかったのですが、父親が変わり者でお茶室で暮らしていました。借家なのですが、門を通って路地を通ってお茶室に帰るわけです。ですから父親に敷居はどうとか、柱はどうとかいつも言われましたし、壁など傷つけたら勿論家に入れてもらえない。障子の閉め方なども事細かに躾けられて、そのおかげで仕事を始めてからも他人がした仕事を傷つけたことは絶対にありません。今、このことを僕のところに弟子入りする職人たちにもまず教えています。入り口のドアの開け閉め、歩き方、ものを傷つけないこと。僕らも気を付けますが、傷をつけるのはお子さんが一番多いので、もしお子さんがおられたら良いものを大事に使うことを教えていただければものは長持ちします。
そして想いです。淡路島で実際あった話なのですが、古いお家があって、そこのお婆さんが亡くなる何年か前、家を壊して建て替えることになりました。お婆さんはあの一部屋、お婆さんの親がそれを作った職人さんを大変褒めていて、もし建て替えることがあってもこの部屋だけは残してくれと言っていた一部屋だけは、お金はかかるけれども残してくれと言ったので、その部屋は修理して残すことになりました。この部屋は次の代、そのまた次の代とつながっていくわけです。表面的に壁を傷めないというのではなくて、少し修理しながらでも使ってもらえるんですよね。想いを伝えてもらうというのが一番長持ちする方法です。

お客さま:
久住さんはプロデューサーとしても仕事をされ、また職人さんとして現場にも立っておられますが、どちらの方がより充実感を感じられますか。

久住さん:
嬉しい質問ですね。プロデューサーといっても、やはり僕はものを作る人間なので、誰かに現場を任せるということは絶対にないし、仕上げだけ行くということもなくて、一から十まで自分でやることを心がけています。初心に帰ると言っても、どんどん役割が出てきて普通、全部はやらなくなりますね。でも僕は職人と同じように朝一に現場へ行って、掃除も一緒にして、材料を練るところから壁を塗って最後の片付けと掃除まで全部一緒にやります。プロデューサーと言っても結局は職人で「作る人」なので、作るときが一番楽しいです。ものを作っているときにいつも何を考えているんですかとよく言われますが、何も考えてないんです。子どもの時の粘土細工と同じで、いまだに変わらずやっていて、その時が一番幸せです。子どもの時から父親や母親に褒められたことはなくて叱られてばかりですが、それだけは喜んでくれたり褒めてくれるので、やっててよかったなと思うのは作っているときです。デザインして出来上がって、というよりは、作業をしている時が一番楽しいです。

お客さま:
サグラダファミリアを見て職人になるきっかけになるというお話がありましたが、感銘を受けた建物の話をお聞きしたいと思います。また久住さんがこれから何を目指されているのでしょうか。

久住さん:
感銘を受けたものは山のようにあります。古いものは何を見ても感動しますし、凄いなと思います。日本だと東本願寺は屋根の葺き替え工事をしましたね。日建設計が監修していて見せてもらったのですが、普通に屋根の瓦がついていると思っていたのに、一枚の瓦の大きさが普通ではなくて、ばかでっかいものが大量に葺いてあって、中の柱も凄いのです。梁もこんなにでっかくて、機械がないのにこんなに大きくて複雑なものが良く組めたな、瓦もよく葺けたなと思います。棟に大八車が通れたというので、相当大きなものです。今だとキャドで図面を書いて、レーザーで水平垂直を出せますが、当時は全部人の目と手です。昔の棟梁が筆で図面を書いていますが、あの巨大建物に、単位もコンマ何ミリとは言わないまでも大変細かいところまで書いています。それにも震えました。今は機械があるので考えられますが、奈良や京都の日本の古い建物は人間業ではないですね。
海外もどれを選んでよいかわからないぐらいです。コルビュジエという有名な建築家がいて、見るまではそんなに凄いかなと思っていたのですが、20代後半の時にラ・トゥーレット修道院を見ました。外から見た時に、「変な建物だな、僕はコンクリートが嫌いだし、安普請だし」と思いましたが、中に入るとびっくりしました。人が視線を向ける方向だとか、ペンキを塗ってある壁が、ペンキなのに、すごく綺麗に見えるように光の入れ方を考えてあったり、天才だと思いました。建築家の偉大さを知ったのはこの時でした。
イタリアのカステルヴェッキオ美術館改修のスカルパもいますね。イタリアの文化財なので、修復している職人は国で一番の職人です。その左官屋と僕は友達なのですが、すごい仕事だな、と思います。建築は今分業が進んでいて、みなばらばらに仕事をしています。スカルパを見ると、職人以上に知っているなと思うのです。図面をさらっと書いて、ディティールを詰めただけでできるものではないのです。その他、挙げるときりがないのでやめます。

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これからどういうものを作りたいかということですが、本当は日本でもう一歩先に行きたいです。今、ようやく公共の施設を作れるようになり、たとえば土壁はぼろぼろするのではないかと言われながらも銀座に土壁を作ったりしました。いろいろなところに柔らかいものを持って行くことが日本でようやく叶い始めたところです。40歳までにやりたかったことなので、ひとつクリアできてよかったなと思います。次は海外に行くというのもありますが、壊れてもいいものをもう少し日本で作りたいと思います。ものはどんどん風化もするのですが、「出来た時が最高」という考えがいまだに根強くあります。古いものを見るとみな「いいな」と言いますが、新しく建てられたものが古くなるとダメと言われます。これも改善されたらいいなと思います。具体的にこういうものを作りたいというよりは、割れてもいいものがもっとあって良い。本当に崩壊してケガをすると大問題ですが、単純に一つ一つの組み合わせで物質に囲まれたところにいると想像力も生まれにくいだろうと僕は思います。壊れ易いもの、古いものがもう少し当たり前になってきたら、人への思いやり、優しさも少し変わってくるのかなと思います。

お客さま:
御所など古い建物の修復の時の土はどこから持ってくるのですか。

久住さん:
90%ぐらいは壁を剥がした土をそのまま練り返して使っています。剥がしただけだと弱くなるので、少し土を足します。御所だと京都の聚楽土を使います。京都では文化財修復用の良い土を売っていますので、それを譲っていただいて少し混ぜて塗るようにしています。

お客さま:
左官の方は土フェチだと伺っていますが、歩いていたり車に乗ったりしていて綺麗な土を発見されたら、そこへ行って掘り返したりされるのですか? 

久住さん:
言っていいのかどうかわからないですが、行きますね。やはり気になるので。勝手に持って行ってはダメなので、綺麗な土だなと思ったら行って「この山は誰が持っているのですか」と聞いてわかったら掘らせてもらいます。いろいろ興味はありますが、僕は土フェチと言うほどではないかもしれません。吟味するというのも職人ですが、どんなものでも形にできるというところが職人の凄い所だと思っているので、この土でないと仕上げられないというよりは、その土地へ行ってそこの土で仕上げる方が僕にとっては意味があります。絶対良いのがわかっていて、それをいろいろなところへ持って行くのはあまり好きではありません。家を建てる前にそこを掘って基礎を作りますね。掘って出てきた土で壁が塗れたら重い土を運ぶ必要もないし、土もしあわせだろうなと思うのでそれが一番です。先ほどから100年、200年と言っていますが、土は1センチできるのが100年かかるそうで、数億年かかって層ができるわけです。僕らは左官職人でその一部を借りてものを作っているけれども、土はそのまま帰ってしまうので僕らはその間をうめているだけです。できれば土がヒュッと盛り上がってまたヒュッとなくなっていくのが一番綺麗だなと思います。日本の廃墟はいろいろなものが混じって綺麗ではないですが、チュニジアなどアフリカの廃墟は土の塊だけが雨に流れて残っていて、あとには何もないですね。ものがないから。ああいうのを見ていると、土というのはその場にあるべきだし、普遍的で僕にとっては綺麗なもの、愛しいものです。あれこれ集めたいというよりは、そこにある土が好きです。

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Profile

久住 有生(くすみ なおき)さん<左官職人>

久住 有生(くすみ なおき)さん
<左官職人>
*プロフィールは、ご講演当時のものです。
1972年、兵庫県淡路島生まれ。祖父の代から続く左官の家に生まれ、3歳で初めて鏝(こて)を握る。高校3年生の夏に、「世界を観てこい」という父の勧めで渡欧したスペインにて、アントニ・ガウディの建築を目の当たりにし、その存在感に圧倒され開眼、左官職人を目指す。日本に戻り、左官技術を学ぶべく18歳からさまざまな親方の許で、本格的な修行を始める。
1995年、23歳の時に独立し「久住有生左官」を設立。
重要文化財などの歴史的価値の高い建築物の修復ができる左官職人として、国内だけにとどまらず、海外からのオファーも多く、経験を積んできた。伝統建築物の修復・復元作業だけではなく、商業施設や教育関連施設、個人邸の内装や外装を手がけることも多い。
現場では企画段階から参加することが多く、デザイン提案なども積極的に行っており、伝統的な左官技術とオリジナリティ溢れるアイデアが、国内外での大きな評価につながっている。また、どの現場でもその土地の暮らしや自然を意識しながら、土や材料を選び、ときには地元の暮らしの調査をしてから工事に入るなど、それぞれの風土も大切にしている。
通常の仕事の他にも、日本の左官技術を広く伝えるべく、ワークショップや講演会を積極的に国内外で開催している。

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その他のゲスト

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