神戸学校

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  • 寺尾 仁志さん(ミュージシャン・700人のシンガー human noteリーダー)
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「Give Happiness ~歌のある人生の充実~」



<第1部>

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寺尾さん:
みなさん、こんにちは。human note リーダーの寺尾仁志と申します。どうぞよろしくお願いします。human note は、下は7歳から上は82歳まで、年齢、性別、職業、環境を超えて歌でつながった700名のシンガーズです。僕たちの中には若いママもいれば、ベテランのママもいれば、大ベテランのママもいれば、ハンディキャップをもった子ども、そのお母さん、その子の明日を憂いながらハンディと戦っている親子、サラリーマンの人、歯医者さん、イルカの調教師とさまざまな人がいます。歌って、凄い力があるんですね。これだけ環境が異なっていても、みんなで一つの目標に向かって声を合わせ、同じ夢を見ることができます。僕は8年前、この歌の力、音楽を届けるスタイルの光を見まして、それがどれだけの力を秘めていて、どれだけのエネルギーがあるのかを探ってきました。そして年々日々とともに、僕のヴィジョンは間違っていなかったなと感じています。
メンバーのほとんどが他に仕事を持つ一般市民で構成されたこのhuman note 、僕がhuman note に見たヴィジョン、夢、それは Give Happiness という言葉の奥にあります。「誰だって誰かを励ますことができるんじゃないかな、そして励ます人こそ元気をもらえるんじゃないかな、励まされるんじゃないかな。それを誰もが表現できる歌というものでできたらどれだけハッピーなんだろう、どれだけ夢があるんだろう」と僕は8年前に思ってしまいました。そしてこの8年間突っ走っていたら、二つ良いことがあったんです。一つは日々夢に向かって歩き続けると毎日が充実するんだなあということ。そしてその夢が誰かのものであるなら、こんなに仲間ができるんだということです。今日はそんなことを僕のつたないお話と映像でお伝えできればと思います。

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少年時代 

まず僕自身、この寺尾仁志について少しお話をさせてください。僕は700人のリーダーをやっていて、歌で世界中をつなぎたいなと思っているので、この6年毎年ケニアへも行っています。距離的に20時間、1万キロの距離なのですが、全然遠くなくなってしまいました。「寺尾さん、エネルギッシュですね、熱い人なんですね」とよく言われますが、そう言われると非常に違和感があります。
幼稚園の時の僕、5歳の時の僕は、お弁当の時間が大嫌いでした。お弁当を食べるのがどれだけ頑張っても一番遅い子だったんです。女子からいつも「仁志君、がんばれ、仁志君、がんばれ」と励まされるのですが、そう言われて励まされる気持ちがわかりますか? そして小学生になり、中学生になり、声変わりであったりとか、身長も伸びて体が大人になっていくのも、僕は一番遅かったのです。みんなが太い声を出す中で、僕だけが高い声で喋っている。今も「僕って心も体も他人より10年遅いんだな」という感覚があります。コンプレックスばっかりで、勉強も全然できないし、ご飯を食べるのも遅いし、僕は弱っちい子どもでした。

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音楽に没頭

僕には姉が二人いるのですが、10歳の時、姉の部屋に忍び込んであるサウンドドラックのカセットを見つけました。『グリース』という映画をご存知ですか? ジョン・トラボルタとオリビア・ニュートンジョン主演の映画、1977年の映画です。その『グリース』のサウンドトラックを何気にかけたら、本当に電流と言うか衝動と言うか、ズキョーンという、「何じゃこら!」の世界でした。物凄い音楽にやられた瞬間だったのですが、とにかくこのカセットテープを聞いていたいと思いまして、お祖母ちゃんに頼みまして、阪急百貨店の8階で当時のウォークマンみたいなやつを買ってもらいまして、ずーっとずーっと一晩中聞いて、学校へも持って行って、本当に理屈抜きにテープがすり減るぐらい聞いていました。理屈抜きでこんなにも心踊る音楽、三度の飯より音楽があったら生きていけるな、そんな気持ちにさせられて僕は音楽に没頭していきました。
高校生になりまして、バンド活動を始めました。当時のパンクロック、ちょっと怒っている音楽ですね、ワーッという音楽を始めましたが、僕は非常にお行儀のよいパンクロッカーでした。「フライツ ナウ!!(べベン) ありがとうございま~す」と、基本的には弱たれな子ですからMCになると途端に行儀が良くなるけれども、ステージ上では強気になるという変わったパンクロッカー17歳でした。そこで僕はこう思ってしまいました:「俺、歌手になりたいな」。でも僕が14歳の時に父親が障がいを患いまして、家にはお金がありません。「高校を卒業したら仁志、お前は一人で生きていくんだよ」と家族全員から言われていました。歌手になりたいなと思っていても、今のような時代ではないので誰にも言えなかったのです。恥ずかしくておこがましくて。みんなが「卒業だ、就職だ」と向かって行く中で僕は悶々としていました。そんな高校卒業間近のある日、担任の先生、松林先生というのですが、その先生が授業が終わりまして放課後、「寺尾、あんたちょっとこっちへおいで」と言われました。僕はへたれながらもいきってまして、「何なん、先生?」という感じで先生の方へ歩いて行ったところ、「寺尾、あんた、歌手なったらええねん」と急に言ったのです。ちょっと訛って、「寺尾、あんた、歌手なったらええねん」。僕はその瞬間にドキッとして、「先生、アホちゃう?」と言って走って教室を出て行きました。けれどその時の僕の喜びと嬉しさ、伝わりますかね? もう嬉しくて、誰にも言っていなかったことを、大人が、そして先生が見ててくれて、なおかつ背中を押してくれているのですよ。その瞬間、「えーっ!」と思って、「俺、目指してええんや、歌手になってええんや」と思わせてもらったのです。その一言で今歌手になれた気がします。

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高校卒業後

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高校を卒業しますと、ずっとずっとアルバイトしながら歌手を目指しました。19歳の時に父に言いました:「お父さん、俺、歌手なるわ」。父は僕が子どものころからずっと、「仁志、男は夢見なあかんぞ」と言っていたのですから、さぞかし喜んでくれるかなと勇気をもって言いました。父の返事は、「仁志、お前、いつまで夢みてんねん?」。「話が違うやん、大人!」と思いました。ショックでしたね。父はその時障がいもあったし多分余裕もなかったのでしょう、僕にまっとうな人生と言うか、ちゃんと働いてほしかったのでしょうね。当時の僕はアルバイトでも5人のシフトで回すところに僕が入ると6人態勢になるのです。「寺尾君おるから6人な」と言われていて、仕事もできないし、へたれだし、歌しかないので、歌という道を通じて自分を成長させていきたいなと思ったのですが、「お前、いつまで夢見てんねん?」と言われたのです。でも僕には歌しかありませんでした。

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歌の修行とはかないメジャーデビュー

親との距離はどんどん開いていくので一人暮らしを始め、ずっと歌の修行と言いますか、いろいろな諸先輩方から怒られ叩かれ叱られ、いろいろ言われながら歌の道を目指しました。当時Real Bloodというグループがありまして、バブルガム・ブラザーズのTomさんにローディーというかボーヤをさせてもらって、日本中のさまざまな実力派アーティスト、佐藤竹善さん、Skoop On Somebodyさんなどとステージをご一緒させてもらいました。僕はまあまあ歌は歌えると思っていたのですが、目から鱗の連続でした。「俺なんか全然歌が歌えてないんだ」と思う毎日でしたが、僕には歌しかないので頑張って行こうと思っていました。やがて30歳の時に在籍しましたゴスペルクワイアでメジャーデビューをやっと経験しました。当時『夜もヒッパレ』という番組があって、中山秀征さんと三宅裕司さんの番組に少し出ていました。『大江戸を駈ける!』という時代劇では、ズラをかぶりまして包丁研師の役をいただきまして、主題歌も歌わせてもらいました。2000年12月24日、ゴスペルグループとしては初めてのメジャーデビューで、僕はそのリードボーカリストで活動の中心的な存在でした。「これは行くぞ、我々は!」と思ったのですが、それから1年3ヵ月後、2001年3月21日にそのグループの契約が切れてしまいました。早いですね。それから半年後の9月、何か良いグループはないかなとTSUTAYAに入ると、大きな籠に安売りのCDが山積みで売っていました。ぱっと見ると自分のCDが100円で売っていました。たった半年ですよ!「そうか、音楽業界はそんなものかな」と思いました。

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シンガーソングライターとして

32歳の時にそのグループを離れまして、シンガーソングライターとしての活動を始めます。それまでは歌のスキルを、歌が上手くなることだけを考えてやってきた僕でしたが、自分で伝えたいと思うことを詩にして自分で曲を作って歌にしてそれを歌うことを始めました。ありがたかったことに、デビューしてすぐに滋賀のFM曲でパーソナリティをさせてもらう機会を得ました。そこで運命的な出会い、平義隆さんというシンガーソングライター、そして2004年の紅白歌合戦で「桜」という歌を歌った河口恭吾さんに出会いました。平君と河口君に最初会った時、僕は「俺の方が歌うまいな」と思いました。そして彼らとともにライブをしたのですが、曲を伝える圧倒的な能力と楽曲制作能力とシンガーソングライターとしての気迫を僕は目の当たりにします。自分が作ったCD、平君のCD、河口君のCDがそれぞれあったのですが、僕のCDはずっと山のまま、平君と河口君のCDはどんどん売れていきます。辛いですよね、ああいうのは。悔しい思いを何回も何回もしてきました。辛かったです、悔しかったです。でも同時に平君と河口君に対して「すごいな、羨ましいな」とジェラシーや尊敬の気持ち、いろいろな気持ちが混じる感情を持ちました。それまで僕は「歌は上手くなければいけない、上手いものが良いのだ」と思っていたのです。スキルだけを磨いた20代、30代前半だったのですが、彼らと出会って「歌って何だろう、伝えるってなんだろう」と思いました。そんな時に僕ら三人の番組のプロデューサーに言われたんです。「仁志ちゃんって歌めちゃめちゃ上手いねん。ただな、仁志ちゃんは最高のアマチュアやねん。河口君とか平君は全然売れてないなあ、あいつら歌もそんなに上手くない。けどな、あいつらは最低のプロやねん。最高のアマチュアと最低のプロ。そこには差があるで。それは見ときや」。ガーンときましたね。すごい衝撃でした。上手いだけではだめなのか、何だろうそれは。僕の中に初めて歌というものがしみわたって行った瞬間だったように思えます。僕はずっとシンガーソングライターをやって、自分の音楽が伝わればいいな、自分の書いたメロディが伝わればいいな、そんな気持ちと同時に、ちょっと有名になりたいな、売れてお金が欲しいな、もてたいな、とかよこしまな気持ちと純粋な気持ちが合わさっていました。きっとどのシンガーソングライターもどのアーティストもみんなそうなのでしょうが、「売れたい」という気持ちを持っていました。「俺をもっと見て、世の中みんな俺を愛して」。そんな「for me」という気持ちだけで音楽をして、自分のスキルを磨いていましたが、「この曲は誰が喜んでくれるだろう」とは考えていなかったような気がしました。周りのスタッフから「良い曲を作れ、もっと歌も上手く歌え、もっとパフォーマンスもしなければ」とずっと言われて、その葛藤の中で日々焦って、売れたい気持ちと自分のスキルのなさと周りのスタッフの煽りとがぐるぐる周り、焦りと苦悩の日々を過ごしましていた。そんな中、35歳を過ぎたあたりで「売れたいだけでやっている音楽、それは一体何なんだ」と思い始めました。

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for me の音楽からfor you の音楽へ

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当時僕はシンガーソングライターとともに、ゴスペル教室の先生を食べていくためにしていました。150人ぐらいの生徒さんがいて、大きなコンサートをやる機会がありました。時には叱咤し、時には励まし、一生懸命練習していると、150人の生徒さんたちの顔がどんどん変わっていきました。そしてその大きなコンサートは大成功しました。コンサートが終わってから、150人の中でお二人の方からメールが来ました。一人は男の人、一人は女の子でした。男の人のメールは、「先生、本当に今回、良かった。僕の生活の中に歌があって良かった、ゴスペル習っていてよかった。実は僕、パニック障害だったのです。でも歌があることでそのパニック障害から救われました。先生、本当にありがとう。」という内容でした。女の子は「先生、今回本当にありがとう。このコンサートで本当に救われました。私は鬱だったのです。でもゴスペル教室の中で、このコンサートに向かって行く中で、私は大変救われました。先生、本当にありがとう。」と、二人から同じようなメールをもらいました。僕の中でその瞬間にパーンと何かがはじけました。35歳を過ぎてから、僕の中にぽっかり開いていた穴の中にその言葉が入って来ました。それが38歳の時でした。シンガーソングライターとして全然売れなかったし、自分のスキルのなさとかいろいろなことを「ダメだな俺は」と思いながら、でも自分に何ができるかと、自分に与えられた能力で何ができるのかと35歳から悶々と考えていた僕の穴の中に、その二通のメールがパーンと入ったのです。
ゴスペル教室のみなさんは、僕よりも年配の方も女性も、最初教室に入ってくるときは、「大丈夫かな、どんな人がいるのかな」と心配そうな顔をしていますが、歌を歌って、歌が体の中に入ってくる、そしてステージをともにしていく中でどんどん顔が変わっていくのです。理屈抜きです。そういえばこのスタイル、大勢で歌うクアイアスタイルって本当に人の顔を変えていくよな、みんな綺麗になっていく、笑顔になっていくな、ひょっとしたらこの歌の力、このスタイルっていろいろな可能性を秘めているのではないかな。教室の中にハンディキャップを負った人もいたな、目の見えない人もいたな、でもみんな笑顔で歌ってくれるな、そうだ、みんなで歌うこの声で、本当に日本中に音楽を届けることができて、日本にもこんなアーティストグループがいるんだと世界中に歌いに行けるような、大人が夢を見れるような、誰だって誰かを励ますことができるような、そんなチームができるのではないかな、とパーンと思ったのです。その瞬間、ぱっと光が見えて、その光が自分が与えられたミッションなのかなと思いまして、この8年間その光に向かってずっとずっと歩いてきて、そんな毎日です。音楽に対する考え方がfor me からfor you へと変わった瞬間、その瞬間にひょっとしたら僕は最低のプロになれたかなと思っています。こんな想いがhuman noteの目指すべき姿、ヴィジョンを生み出しました。

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human note 結成とGive Happiness の理念

さあ、そしてこの human note が結成されるわけです。ヴィジョンが見つかった僕は、今まで溜め込んでいたエネルギーをぶつけ始めました。自分が生まれてきた意味はこれだ!と思って、一気に動き出しました。150人のメンバーを、仲間をもっと沢山増やしたい、多くの仲間とこの夢を共有したいと、「一緒にチームを作りましょうよ」と活動を始めました。
大阪24区の区民センターを回りまして、11の区の方々が面白いと協力してくれまして、一挙に11のチームができました。仲間は300人になりました。本当に歌の力はすごいんです。こうして大人たちが繋がっていきながら、音楽を作り、その音楽を届ける我々もハッピーになって、みんながわくわくする。大人がわくわくする。そんなチームを作っているんです、「僕たちと一緒にやりませんか」というのをずっとやっていたら、いつの間にか700人の仲間ができました。
大阪府の教育委員会で話をしてみようよと言う人がいて、府の教育委員会に連れて行ってもらいました。いつものように「すごいんです、歌って。誰だってつながることができて、誰でも誰かを励ますことができるんです」と言ったら、大阪府教育委員会のテーマソングを作ってくれと言われました。大阪中の子どもたちから「つながり」と言うテーマで言葉をもらい、それを紡ぎ曲をつけて、『みんなトモダチ』という曲を作りました。それがCDになって、大阪府の小中高1500校に配られました。
子どもたちが登下校時や給食の時間に聞いてくれている、ならば学校に行って直接子どもたちと一緒に歌いたいということで、2009年から学校巡りコンサートなるものを始めました。回っていると本当に楽しいですよ、子どもたちもキャッキャッ言って歌ってくれますし、年間70校ぐらい回っています。するとどこから話が行ったのか、アフリカのケニアの学校から「うちの国の学校にも歌いに来てくれる?」と声がかかりました。僕は迷わず「行きます!」と言って2009年11月にケニアへいきました。マキマという水も電気もない地域です。想像できますか? 朝起きるでしょう、1時間歩いてタンクを持って20リットルのお水を汲んでまた1時間歩いて帰る。そんな生活をしている地域があるのです。そんな地域の学校の子どもたちと歌いました。そして刑務所のコンサート、HIV感染している孤児たち、スラム街でのコンサート。僕たちは2009年から刑務所でもコンサートをしています。屈強な800人の黒人男子囚人たちがいて、看取からは「(囚人には)絶対に触れないように、握手もだめ」と止められました。最初は3人でとても緊張して行きました。「今日はみなさんと歌で繋がりに来ました。この曲で4分半みなさんとまずは繋がりたいのです」と言って『地球兄弟』という曲を歌いました。するとあれだけ緊張感のあった囚人たちが「ウワーッ」と凄い拍手をしてくれて、最後は囚人たちがぶわーっと寄ってきてくれて、あれだけ握手をするなと言われていたのですが、握手を交わしました。「日本人の歌、すごく良かったよ!来年も来いよ」と言うので、「いたらだめじゃないですか」と言ったりして、すごく感動的な時間でした。そして2010年にぜひまたあの刑務所へ行きたいと言ってまた行きました。「みなさん、覚えていますか? human note です」と言うと、「覚えてるよ!」と半分ぐらいが手を挙げました。もうその時は笑顔です。僕が「早く出な」というと、「それは言うな」とケニア人の囚人とボケと突っ込みができるぐらいでした。歌ってすごい力があるのです。ケニアの経験をしまして、これはもう世界中に歌いに行きたいなということで、バリ島、カンボジア、ハイチ、ニューヨーク、先々月はネパールに行ってきました。

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学校コンサートでは「大人ってめちゃ楽しそうだな」と子どもたちに伝えたい。言葉ではなく我々が歌っている姿、我々が見ている夢を子どもたちに伝えることで、「何だか大人って楽しそうだな、早く大人になりたいな」と、そんな大人たちでいたいなと思っています。そしてこのケニアへの訪問ですが、二つ大きなことをやっています。まず日本とケニアの子どもたちをつなぐこと。2009年度に初めて先ほどのマキマの子どもたちの学校へ歌いに行った時、みんなびりびりに破れたビニール袋で学校へ通っていました。それを見まして、「君たち、カバン要る?」と聞いたら、「めっちゃほしい」と言うので、「わかった、来年からカバンを持ってきます」と言ったものの、どうやってそのカバンを用意しようかなと思いました。「そうだ、僕らは学校を回っているから、学校の子どもたちにカバンを作ってもらって、それをケニアの子に渡す。そして渡すときに映像を撮って、『フェリシモ小学校1年1組のみんな、カバン持ってきてるよ。ジョン君に渡すよ。ありがとうって言って』と言って、ジョン君が『ありがとう』と言う、その映像をまたフェリシモ小学校の1年1組の子どもたちに返してあげたら『あ、自分たちが作ったカバンが本当にケニアの子どもたちに届いている』と思ってもらえる」と思いました。与える方も与えられるのではないかな、と思いました。ならば学校の子どもたちに作ってもらおう。時には病気と闘って病床にある子どもたち、ハンディキャップを持っている子、おじいちゃん、おばあちゃん、誰もが遠く離れている国の誰かを励ますことができて、そして自分が誰かの役に立っている、誰かを励ますことができるということを感じてもらえると思いました。この発想がなかなか喜んでもらえています。子どもたちにそのカバンの映像を見せたたところ、本当にすごく感動していました。「めっちゃ届いてるやん、ホンマに行ってるやん」。そして子どもたちが次に言った言葉は、「寺尾さん、会いたい」でした。「ケニアへ行くか?」と聞いたら、「いや、連れてきて」と言うのです。勝手ですね。そういうわけにはいかないので、考えて、ケニア、南三陸、東京、大阪をインターネットのスカイプでつなぐ同時中継コンサートを始めました。世界中へ歌いに行っているのですが、僕たちの活動の中でも絶対に外せないのが、2011年3月11日の東日本大震災以降の南三陸町での活動です。南三陸町と東京都と大阪をネットで繋いでしまって、一緒に喋ってしまおうということをやり始めました。
2011年、南三陸町で大きな地震がありました。あの時は日本中が本当に揺れた、心も揺れましたね。僕たちも本当に悩みました。何かがしたいけれど、歌なんか歌いに行っている場合ではないし、何ができるのかとメンバーの中からもいろんな声が上がりました。僕はとにかく何か奉仕がしたい、何かしたいという想いで、震災から2ヵ月弱の5月初めに被災地に入りました。最初はこの手足を使って何かがしたい、瓦礫の処理でもいい、流された写真の掃除でもいいと思って行きました。瓦礫の掃除と写真を洗う仕事をさせてもらっていたら、「寺尾さん、避難所の体育館にずっといて疲れ切っている人々がいるから、歌を歌ってほしい」と言われました。僕は「やった!歌が歌える、歌で励ますことができる」と喜び勇んで行きました。入谷小学校の体育館へ入ったのは昼の2時ごろで、そこにはもう一か月半疲れ切っている人々がいました。お風呂にも入れない、明日の希望も見出せない、不安もいっぱい、そんな人が。体育館で一ヵ月半生活するということを想像してみてください。どれだけの不安とストレスがあったんでしょうね。それをその場所で本当に感じました。そこで「寺尾さん、さあ歌ってください」と言われたのです。歌えるでしょうか? 怖気づきました。歌おうとしている俺はエゴではないのか、自己満足ではないのか、ひょっとしたら被災地に歌いに来ている俺、めっちゃかっこええと言うような自分がいるのではないのか、と。大阪に帰ったらご飯もあるしお風呂も入れるこの僕が、この人たちに一瞬の間歌って何を届けることができるのだろう、ひょっとして自分だけが気持ちのいいことにならないかと思って、怖気づきました。よし、ここで歌うならば、この町に通い続けよう、繋がり続けよう、そう決めて、誓って、『ごはんの唄』という曲を歌いました。すると、一人の女子高生が歩み寄ってきてくれて、「寺尾さん、今の歌は本当に心にしみました。地震は私の叔父さんと私のお家をさらって行きました。地震が本当に憎いです、悔しいです、腹立たしいです。けど地震が一つだけ教えてくれたことがあります。それはすべてが当たり前じゃなかったということです。今の歌をきいて、それが改めて自分の心にふつふつと湧いてきました。ありがとうございました。」と話しかけてくれました。僕は本当に救われました。歌ってよかったと、Give Happiness を体験させていただきました。そしてその町に僕たちはずっと通い続けているのですが、南三陸の人たちにも2011年9月にカバンを初めて作ってもらいました。最初は「南三陸の人たちがなぜカバンを作ってあげなければならないのか、南三陸の人たちにはカバンを渡すべきではないのか」と言われましたが、「いやいや、Give Happiness の定義なのですが、南三陸の人に誰かを励ましてもらったら南三陸の人々も元気になるのです」と言う理屈です。「大変な中、申し訳ございませんがケニアの人を一緒に励ましてもらいたいのです、そしてその映像を必ずみなさんに返しますから、一緒に励ましませんか」と話したら、みなさん快く引き受けてくださいました。今日は映像を持ってきましたので、少しご覧ください。

(映像)

(映像を指して)南三陸町の人たちが喋ってくれています。

(映像終了)

こんな感じで毎年ケニアの子どもたちへカバンを届けています。先々月、10月3日から10日にはネパールへ行ってきました。ネパールの子どもたちもビニール袋で学校へ通っていると聞いていたので、南三陸の子どもたちにメッセージとカバンを作ってもらってそれをネパールの子どもたちに届けました。「4年半前の痛みを知っている君たちのメッセージだからこそ、きっと今のネパールの子どもたちに届くよ」と言って、トゥクネチャイナ(みんな一緒に頑張ろうよ)というメッセージを南三陸の子どもたちに叫んでもらいました。そのメッセージ映像を持ってネパールへ飛び、今回の地震で一番被害が大きかった山間部の子どもたち、カトマンズ市内の避難所のテントの中の学校の子どもたちに見せました。「トゥクネチャイナ(みんな一緒に頑張ろうよ)。日本の地震で大変だった子どもたちが君たちのことを励ましているよ」と言ったら、「日本語で『一緒に頑張ろう』って何て言うの?」と聞いてくれて、「一緒に頑張ろう!」と叫んでくれました。この映像を持ってまた1月24日に南三陸町へ参ります。Give Happiness の連鎖ができれば本当に楽しいな、でもやらせてもらっている僕ら、human note が一番ハッピーなのかなとも思います。
僕たちの活動はこれだけではありません。ハンディキャップを持つ方々と歌う、南三陸町やケニアの人々と歌う、そういうことを毎日のようにやっています。ぜひホームページをご覧ただけたらと思います。僕たちは一般市民たちが集まって音楽を届けるアーティスト集団でもあります。僕たちの活動にいろいろなアーティストが「面白い、一緒にやろうよ!」と言ってくれまして、谷村新司さん、馬場俊英さん、夏川りみさん、中西圭三さん、さまざまなアーティストが楽曲を提供してくれ、コンサートを行っています。フェスティバルホールの会場で谷村新司をゲストに一般市民のグループがともに歌うという、夢みたいなことが僕らの日常の中にはあるんです。歌のある人生の充実感が本当に溢れているのですが、とにかく Give Happiness 、与える方が与えられるということを、歌というツールを使って市民たちが届けています。歌のある充実というのがhuman note の理念です。僕たちの中には沢山夢があります。グループアーティストとして、年末のあの番組、日本中が注目するあの音楽番組に出ようぜ、と話しています。最初は「はー、リーダー、何言ってるの?」と言われて誰も相手にしなかったのですが、最近ちょっとそうなるかも、とメンバーが思い始めています。僕は出るなら白組だよと言っています。「えーっ、これだけ女子が多いのに?」「そう、リーダーが男だから白組だよ」と言っています。
日本とアフリカがつながる大きなコンサートをケニアでやろうと準備を着々と進めています。アマニ(平和)コンサートと言う名前で、ケニアの僕らの仲間と進めています。学校コンサートも中西圭三さんとの夢も、沢山の夢、歌という柱を通じて僕が17歳の時に見た夢が、こんなにも沢山の仲間が集まって実現していると感じる毎日です。我々メンバーはその夢を求めながら、メンバー同士時にはぶつかり、大人たちがときには悩み、時には泣きながら抱き合い繋がっていきます。一番大事なのは成長があることです。人間だれだって成長したい。僕らは歌というものを通じて日々悩み、あがき、喜び、感動し、成長していっているグループです。今日はそのメンバー、歌のある充実、夢、つながり、そして成長を体感しているメンバーに一人喋っていただきます。わがメンバー、桑原美香です。

桑原さん:
みなさんこんにちは。human note で歌を歌っています桑原美香と申します。よろしくお願いいたします。

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こんなところで喋るなんて少し緊張していますが、私が感じている human note をみなさんどうぞ聞いてください。私は大阪の鶴見区に住んでいるのですが、 human note に出会ったきっかけは、2007年の鶴見区民センターの企画のなかの human note の体験レッスンでした。3回のレッスンがあって、4回目に鶴見区民センターの小ホールでコンサートをして終了というイベントでした。7月に1回目の練習が始まりまして、講師としてhuman note のリーダーの寺尾さんが指導してくれました。私はその時35歳でずっと専業主婦をしていてお家から出ていなかったのです。でも自分自身では歌うことが大好きで、練習が3回、4回目で終了というのならやってみようかなと思って自分の中で少し踏み出してみました。1回目の練習に行くと、むちゃくちゃ楽しくて、大勢で声を合わせるのはこんなに楽しいのかと思いました。2回目、3回目の練習があって、「ああ、次はコンサートか。ワクワクドキドキするわ」と思いながら、でもその反面「コンサートが終わったらこの楽しかった時間も終わってしまうのかな」と少し寂しい気持ちになりました。4回目のコンサートの日を迎えました。ガチガチに緊張しながら歌わせてもらったんです。その時は40名から50名ほどが参加していました。私はすごく緊張しながら、でもとても楽しくて、今日で終わるのは寂しいなと思っていたら、寺尾仁志が言った言葉が私の中で動き出しました。「僕自身、お父さんとお母さんがいて、自分の人生の中で息子と言うチャンネルがあって、それからお姉ちゃんたちがいるから弟というチャンネルがあって、でも自分の中ではシンガーというチャンネルも持っています」。それを聞いた時に私の中で、ガビーンときまして、「私も娘であり、結婚もしていますので妻でもあり、息子もいますので母でもある人生の中でこの3つのチャンネルがあるのだけれども、もう一つシンガーというチャンネルを持つことができるのだと思ったのです。私はずっと専業主婦をやっていて、外で働くこともなく、どこかへ行って歌うこともありませんでした。私は普通に結婚して普通に生活を送っていてすごく幸せなので、自分の中に何も不満はなかったのですが、シンガーというチャンネルを持つことができるという言葉を聞いたときに、自分の今見ていた景色に何か一つ、一滴明るい色が一色加わったような気がしました。見ている世界がさーっと変わったような。私の中で何かが動いていました。私は毎日歌うことが楽しくて楽しくて、地元のhuman note のチームでいろいろなところで歌っていました。その楽しい姿を誰かに見てほしいと思って、地元の幼馴染の友達に、「私、今度センターで歌うからちょっと見に来てよ」と言いました。彼女は結婚して仕事を引退した直後だったのですが、私の歌を聞きに来てくれました。歌い終わってから、「ありがとうね」と彼女に行ったら、「美香ちゃん、すごく良かった。私は仕事を引退してもう自分はこれでいいかなと思って、やりたいことを諦めていたけど、美香ちゃんがキラキラステージで歌っている姿を見たら、私、できると思ったわ。私、そのやりたいことをやるわ」と言ってくれました。私は衝撃を受けました。私はただ楽しく歌っていて、私が楽しく歌っている姿を見に来てほしいな、と思って彼女を誘っただけなのに、私が歌っている姿を見て、そう思ってくれる人がいるのだというのが嬉しかったのです。私は妻でもあり、母でもある。だけれどももう一つ、自分が女性としてキラキラ輝けるチャンネルを持つことが素敵なことなんだな、ならこれを他の人にも伝えたいなと言う気持ちが湧いてきました。私がその気持ちを持ちながら歌う姿をきっとリーダーは見ていてくれて、「美香ちゃん、そんなに楽しく歌って、そんなに伝えたいのだったら、human note のなかで講師指導をやってみないか」と言われました。私は教えるという経験はなかったのですが、human noteの中でこの気持ちを伝えることはできると思って、やらせてくださいと言って今もやらせてもらっています。その中で頭を打って悩んだりすることもありますが、一つ一つクリアしていきながら成長していけているのかなあ、と感じることがあります。

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私はずっと専業主婦だったので、いきなりそうやって活発に動き出した奥さんに家族は戸惑うわけです。今までずっと家にいたのに、家を空けることが少し多くなって、夫婦げんかも増えますよね。でもこの human note の中でやっていく活動は自分の中で動き出してしまっていることなので、解ってほしいなと思ったのです。大きなコンサートがあって何百人と集まって合同練習をするのですが、その時はみんな仕事を終えた貴重な時間です。ご飯を急いで作って、「ごめん、今日も練習にいくわ」と言って家を空けて出てくるメンバーもいました。そんな人たちと、目指しているコンサートのために、「ああでもない、こうでもない、ここはこうかな」と言って、何回も何回も同じ歌を歌ってひとつずつ作り上げていきました。私はその姿を主人に見てほしいと思って、「後々のためになるから、みんなが練習している姿をビデオに撮ってほしい」と口実を付けて私たちの練習を見に来てもらいました。一つのコンサートに練習を十何回とするのです。それをずっと見てきてくれている中で、「あ、うちの奥さんはこういうことがやりたいのか」と主人も感じ取ってくれたようです。大人が集まって、ああでもない、こうでもない、ということを積み上げた結果を客席から見た時に、「ああ、あの練習がこのいまの瞬間に繋がっているんだ、みんながこんなにキラキラ輝くのだ」と主人も感じてくれて、このhuman note の意味を解ってくれたような気がします。私の息子も当時は幼稚園の年長さんでしたが、とてもシャイでとても内気で、人前や地下鉄などの人混みなどでは涙をぽろぽろ流して「早く帰りたい」という子でした。その子が最初は私の写真を撮ってくれていたのですが、だんだんお母さんではない、他のメンバーに目がいくようになりました。つい先日までは恥ずかしそうに歌っていたメンバーが、今度のコンサートではこんなにキラキラ輝いているということに幼心に衝撃を受けたようでした。小学校2年生の時からずっとメンバーを撮り続けてくれていて、今は中学2年になって、美術部で部活を始めました。私が「しんちゃん、クラブ入ったら土日のhuman note の活動になかなか来られないね」と言うと、息子は「お母さん、大丈夫。僕、顧問の先生に『僕は土日は活動があるから』と言っているので心配しないで」と言いました。家族の協力もあり、私はhuman note の中で歌わせていただいています。私には79歳と74歳の両親がいて、子どもたちは19歳と14歳です。human note の活動で夫婦で長期家を空けたりするときも、留守を両親にお願いしていきます。「お父さんとお母さんにこんなにたくさん愛情を受けて大事に大事に育ててもらったのに、私は自分のやりたいことをやらせてもらって、何にも親孝行できてないわ」と言うと、「何を言っているの。あんたは幸せな結婚をして、子どもにも恵まれて、それだけではなくて、human note で歌を歌うことで桑原美香という一人の女性のキラキラ輝くフィールドを持っているではないの。自分が育ててきた娘がそういう風にキラキラ輝くフィールドを持って人生を楽しくしてくれているということが何よりも親孝行よ」と言ってくれました。この気持ちを伝えたいと思ってやっていることが、そういう風に感じてくれている人がいて、私にこれからも頑張って歌って行こう、頑張って伝えていこうと思わせてくれる Give Happiness 、いろんな幸せの連鎖を体験させてもらっています。話を聞いていただいて、ありがとうございました。

寺尾さん:
桑原美香です。最近、毛も赤く染めました。
僕の父は僕が14歳の時にいわゆるハンディキャップを持ちまして、家が一挙に貧しくなりました。その中で僕は歌手になりたいと思い、今まで一切親孝行をせずに来ています。僕が与えられた人生のなかで選んだのは、human note を作ってみんながハッピーになってくれること、自分の人生を使って、歌というツールを使って、多くの方々とハッピーを共にしていくことです。これが僕にできる親孝行だと思っています。19歳のとき父が言いました:「お前、いつまで夢見てんねん」。僕は夢があるというばっかりで何もしてなかったなと、その意味が今わかります。僕の夢は38歳で見つかりました。human note という夢が見つかった瞬間に僕の人生が初めて動き出した気がします。本当の夢が見つかってそれに向かって歩むこと、もちろん躓くこと、頭を打つこと、痛いことありますが、こんなに毎日が充実するのだということ、何よりも仲間ができることを Give Happiness という言葉の中に知ることができました。これからも「歌のある人生の充実」という理念で沢山の方とつながり沢山の方に歌で伝えていきたい。去年、父が亡くなりました。僕に直接言わなかったのですが、姉に「誰よりも仁志を応援するし、お前なら必ずできる」と託したそうです。 大勢の方と繋がっていきたいと思います。すべては Give Happiness のために。僕が伝えたいことは以上です。ありがとうございました。

今日はhuman note の歌をぜひ聞いていただきたくてメンバーを呼んでいますので、出てきていただきます。

十数名のメンバーが奈良から滋賀から大阪から神戸から駆けつけてくれました。ステージのミニマムは4人ですが、数百名で歌うこともあります。歌声が想像できますか。音楽、曲を超えたものが生まれる瞬間があります。人と人との声が重なった瞬間の躍動感、衝動、衝撃。10歳の時に味わったサウンドトラックにも似た、それ以上の衝動、衝撃を感じることが本当にあります。

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まず一曲目、平義孝さんの「フミダシテ」という曲です。時には誰かが腕を引いてくれるような、時にはあなたの背中をポンと押してくれるような、優しくて力強い曲です。

(パフォーマンス)

(会場:拍手)

みなさん、上がってきてください。ありがとうございます。今日は31名のメンバーで来させていただきました。改めまして、human note と申します。どうぞよろしく! 

(一同「どうぞよろしく!」)

びっくりしていただけましたでしょうか? ありがとうございます。そのためだけに潜んでおりました。

次は先ほど話しました『ごはんの唄』です。ずっとずっとこれからも歌い続けていこうと思っている大事な優しい曲です。お一人お一人に届きますように、一生懸命歌います。

(パフォーマンス)

(会場:拍手)

『ごはんの唄』を聞いていただきました。この曲はケニアの女子刑務所でも歌いました。そこでは獄中出産して赤ちゃんを抱いている人が結構いました。この歌の意味を伝えて、「いただきます、ごちそうさまは感謝の言葉です。この曲でみなさんと繋がりたいな」と言って歌ったら、本当に涙をぼろぼろ流して聞いてくれました。

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みなさんとも歌でつながりたいなと思います。聞いているだけではなくて、どうぞ一緒にお声を出していただきたいと思います。誰もが知っている曲、『ふるさと』を歌いましょう。

(パフォーマンス)

(会場:拍手)

素晴らしい、ちゃんと声を出していただけました。今日、我々の思い、活動、伝わっていますでしょうか。伝わっていたら嬉しいなと思います。この先も僕たちはまだまだ活動を続けていきます。
最後に広沢タダシさんが作ってくださった素晴らしい曲です。「君が笑ってくれたら僕は嬉しい、君がそこにいてくれるだけで僕は嬉しい」、『You are my joy』です。

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(パフォーマンス)

(会場:拍手)

ありがとうございました。

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<第2部>

お客さまとのQ&A

お客さま:
なぜグループの名前が Give Happiness ではなくてhuman note なのでしょうか。

寺尾さん:
Give Happiness は活動理念です。human note というのは「人間の音」という意味です。ゴスペル教室などで大勢で歌っていると、これだけ沢山の人がいたら私一人ぐらい口パクで良いだろうという人が出てくる可能性があります。僕はそれが嫌なのです。何百人、何千人いようがその人の存在感、私はここで歌っている、ここから発信していると、人間の音、自分の音をその場所から表現してもらえる人、そういう人が何百人と集まるグループにしたいなと思いました。個を消してしまうのが一番嫌だな、怖いなと思いました。僕は、「とにかく自分を出してください」とメンバーにいつも言っています。合唱はえてして横と足並みをそろえることが大事にされますが、僕たちは個を出す。その方が難しかったりします。カッコいい大人たちを作ると言うか、成長してもらうには、human note という人間の音、自分の音を出していいのだと伝えていきたいという想いから名付けました。

お客さま:
人を歌わせる秘訣は何ですか? 多くの人が友達の前で一人で歌う楽しみはカラオケで知っていると思います。みんなで歌う楽しみを共有するにはどうすればよいでしょうか。
私は民謡を大勢で歌ってみたいと思っているのですが、日常的にそういう機会に恵まれません。飲み会の際などみんなで歌えたらとても楽しいと思います。

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寺尾さん:
一言、human note に入るべきだと思います。それ以外ないかなと思います。僕らの中には歌が苦手だ、音痴なので大丈夫だろうかと言う人がいますが、全然大丈夫ですよ。音痴な人ってそんなにいません。年齢が高いからと躊躇する人が多いのですが、僕は年上の女性を「年上プリンセス」とプリンセス扱いさせていただいております。ちょっと年上プリンセスから大分年上プリンセスまでおられますが、東京のメンバーで一人78歳でユーミンという仲間がいます。ユーミンは4曲のステージで最後の一曲だけ出ました。「リーダー、私の役目はおばあちゃんを励ますことですよね、だから私が歌っていてもいいんですよね」と言うので、「ユーミン、ありがとう。ユーミンの仕事はそれだからね」と言いました。彼女は「OK!」と言って、『ごはんの唄』をこのようにして歌っていました。誰だって誰かを励ますことができる。だから、歌が好きだなと思う方は、きっとあなたの町のお近くにhuman note があると思いますので、どうぞ遠慮なく本当にお気軽に来てください。1月17日に阪神淡路トリビュートコンサートを新長田の駅の近くの兵庫県立文化体育館で毎年やっています。来年も一般参加シンガーを募集します。『チューチュー・トレイン』という曲を作られた中西圭三さんとステージを共にします。年齢、職業、環境関係なく、共に声を合わせにいらしてください。お待ちしています。

お客さま:
私は歌を聴くことは大好きですが、歌うことは苦手です。寺尾さんは小さいころから歌が上手でしたか? 下手でも人に喜んでもらえるにはどうすればよいでしょうか。

寺尾さん:
僕は自分が上手く歌が歌えるとはあまり思っていませんでしたが、高校生の時、親友に演歌歌手の息子の歌の上手い人がいて、その彼と一緒にビートルズのコピーバンドをやっていました。僕が何の気なしにハーモニーをつけたら、「寺尾、歌うまいやん」と言われまして、「そうなの?」と思って歌い始めました。最初は先ほど言いましたように、お行儀のよいパンクロッカーになりました。歌っていると歌は入ってくると思いますし、歌は上手さだけではありません。伝えたいことがあって、何を伝えたいのかというところから滲み出る歌もあるので、そういう世界をともに味わいたいなと思います。

お客さま:
自分の好きなこと、やりたいことを仕事にすることと趣味にすることのそれぞれのメリット、デメリットはなんでしょうか?

寺尾さん:
特にデメリットは……歌は仕事でもあるのですが、僕のミッションだと思ってやっています。僕は弱っちい子で友達がいないんです。仲間は700人いますが。仕事もできない僕がhuman noteと出会えることで、このために生まれてきたのかなとさえ思います。僕はこの道で、この人生で、誰かを励ますことが親孝行だと思っているし、僕が生まれてきた意味なのかなと思います。そういう意味で趣味も遊びも仕事も全部一緒になっています。だからこそ真剣にメンバーと向き合います。仲間で揉めることもありますし、メンバーとのやり取りで悩むこともありますが、デメリットはあまりないかもしれません。

お客さま:
男性の割合が少ないようですが、なぜでしょう?

寺尾さん:
そうですね、97%はプリンセスです。男性は入ってくれても仕事が忙しくて抜けていくことが多いですね。男性はいつも募集しておりますので、もちろん女性もですが、会場のみなさん、お待ちしております。

お客さま:
資金はどうしているのですか? ケニアは遠いですよね?

寺尾さん:
なかなかリアルなお話ですね。東京の仲間が僕のことを「世界一のバカ」と呼んでいて、僕は褒め言葉だと思っていますが、実は全部手弁当なのです。チャリティーコンサートで作ったお金とか実費を使ってケニアへ行っています。想いだけでケニアに6年も行っているのでお金のことはよく聞かれます。今まで突っ走ってきたのですが、気付けば仲間が700人もいて海外に行ったりとかになりました。2012年11月4日、ニューヨークのアポロシアターで、日本人のグループとして初めての単独公演をやって成功しました。その時は外務省の協力を得て行きました。このように時には国の協力も得てやってきましたが、僕らはどこの団体にも事務所にも入っていません。受け皿を作らないとということで、2012年に一般社団法人を立ち上げまして、大きなお金が入ってくるわけではないのですが、チャリティーコンサートなどで収入があるとこの社団法人へ入れて活動資金にしています。

お客さま:
human noteの皆さんは、普段どのように練習されていますか?

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寺尾さん:
大阪、神戸、兵庫、滋賀、奈良、東京に50チームあるのでhuman noteはあなたの街の近くにもあります。チームでの練習もあれば、地域ごとの練習もあります。1.17など大きなコンサートはみんなでやるので、大きな会場でともに練習します。日常いろいろなところでコンサートをしています。1月17日もそうですが、1月31日にはhuman noteに入らなくても参加できるレコーディングを行います。関西では僕だけ南三陸町の復興応援大使になったのですが、それにともなって、復興応援の曲を作ってくれないかと言われました。それで、未来へ感謝というテーマで南三陸町の子どもたちに言葉をもらって、もらったインスピレーションで詩を書いて、曲をつけて、『未来へ』という曲を作りました。これを完成させるには、全国のみなさんの声が欲しいと思います。テーマは「震災を忘れない」。被災地のみなさんがみなおっしゃるのが、「忘れられるのが怖い」ということです。南三陸町は防災庁舎で最後までアナウンスを続けられた方も亡くなりました。今そこと同じぐらいの高台が沢山作られています。けれども震災前の人口が1万7千人だったのに対して、今は1万人を切っています。震災以降、頑張ろうと言っていた人たちも、やっぱり出て行ってしまっています。商店も高台に移るのですが、出ていく人もいます。その中で頑張っている人はどんな気持ちでしょうか。お金が欲しいとか、来てくれというのは難しくても、忘れないことはできます。「忘れないでおこうよ」ということをみなさんから発信するというレコーディングにしたいと思っています。この日はhuman noteと一緒にハーモニーを作っている合唱グループ、ゴスペルグループ、アカペラグループでコンサートをして、最後に演者も客席もみんなでこの『未来へ』をレコーディングします。レクチャーは僕がします。シンプルな曲なので、ぜひこの日共に歌ってもらいたいと思います。レコーディング風景は撮影して、一人一人のお顔を映して、プロモーションビデオにします。そしてみなさんが3月11日以降、5年目を迎えた後にツイッターやFacebookで拡散する。レコーディングは南三陸町、東京、神戸で行います。ぜひご参加くださって、歌の力を体感していただきたいと思います。

フェリシモ:
本日寺尾さんのご講演や、human noteさんのパフォーマンスを聞き、私も会場にいらっしゃるみなさまも、毎日の生活をより良くしていこうというきっかけをいただいたと思います。寺尾さんから会場のみなさまに今一度エールやメッセージをいただけますでしょうか。

寺尾さん:
さっきも歌って思ったのですが、みなさんがあたたかい笑顔でこちらを向いてくれることで、今日も僕らの方が元気をもらえたなと思います。まずそれに対してみなさんに感謝の気持ちを述べさせていただきたいと思います。本当にありがとうございました。
僕が思うことは、僕らの中には本当にさまざまな環境の人がいて、たとえば車椅子に乗っている子とその子のお母さんがいます。その子はがんと闘っていました。今も闘っていると思います。その子は「同じ環境の子を励ましたい」と言って歌っています。同じ環境の子が「あの子もあれだけ頑張っている、輝いている」と誰かを励ますことができると思います。さきほどのユーミンもそうです。78歳ですから歌を覚えるのも大変ですが、笑顔で一生懸命歌っています。サラリーマン、歯医者さんなどいろいろな環境の人がいますが、みんなが一生懸命歌う姿、もっと言えば一生懸命生きる姿が、仕事もそうですが、誰だって一生懸命何かをやろうとする姿こそが誰かを励ますことができると思います。僕らはこれからもそれを表現していきますし、生意気ですが、誰でも誰かを励ますことができるし、励ますとハッピーが返ってくるというのが僕がお伝えしたいことです。ありがとうございました。

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Profile

寺尾 仁志(てらお ひとし)さん<ミュージシャン・700人のシンガー human noteリーダー>

寺尾 仁志(てらお ひとし)さん
<ミュージシャン・700人のシンガー human noteリーダー>
*プロフィールは、ご講演当時のものです。
1990年代初頭シンガーとして活動スタート。2002年それまでのアカペラ、ゴスペルグループでの経験を経てシンガーソングライターとして活動を始め現在までに4枚のアルバムをリリース。河口恭吾、平義隆、鈴木聖美などとの共演でキャリアを積む。1998年からはラジオパーソナリティーとしても活動を始め、ラジオ関西、FM滋賀、FM大阪で自身の番組を担当する。2007年human noteを結成。歌を通して人とつながり、歌の持つ力を持って、日本中・世界中を歌でつなげることをミッションとして、日々歌い続けている。

human noteについて
2007年結成。関西を中心に活動するシンガーソングライター寺尾仁志がディレクションする700名のsingers。楽曲は河口恭吾、平義隆、中西圭三、広沢タダシ、光永亮太などの日本のトップアーティストと制作を行い、ゴスペルをベースとしたクワイア(聖歌隊)スタイルで年齢、性別、職業を越えたメンバーと共に世界中に「ウタのタネ」をまいている。
2012年9月1stアルバム「よろこびのうた」をリリース。同年11月NYアポロシアターでの単独公演を開催。2013年音舞台に出演。2014年10月「You are my Joy」を、11月には「Singer's Song」をリリース。今までに共演をしたアーティストは谷村新司、中西圭三、夏川りみ、馬場俊英他多数。活動は国内にとどまらず、海外にまで広がりをみせ、2009年11月にはケニアへ、その後、インドネシア・バリ島、ハイチ、カンボジア、ニューヨークへも訪問する。また、病気とたたかっている方と作る病院でのコンサートや院内学級の子どもたちとの交流や、宮城県南三陸町を中心とした東日本への支援活動にも力を入れている。

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