神戸学校

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「私たちはどこから来て、どこへ行くのか?」



<第1部>

関野さん:
私は20代の時に初めてアマゾンへ行き、それから45年の間にいろいろなところに行ったのですが、最初の20年間は南米しか行きませんでした。最初の10年はひたすらアマゾンだけ、次の10年はアマゾンへ通いながら、アンデス、パタゴニア、ギアナ高地と、やはり南米から出ませんでした。南米ばかりだと南米に慣れてしまって、たとえば研究者やジャーナリストや写真家を案内すると、隣でものすごく感激したり驚いたりしてくれるのですが、それを見て「何でこんなに驚いてるの?」と思うようになってしまいました。日本へ帰ってきていろいろな人にいろいろなところで話す機会があるのですが、「いつも同じようなことを言うようになったね」と言われるようになって、他のところへ一度行った方が良いのではないかと思うようになりました。日本とアマゾンしか知らない、あるいは日本と南米しか知らない。隣の韓国や中国や台湾を知らないわけです。他の所へ行ってからまた南米を見たら、南米がクリアに別な見方で見られるんじゃないかとも思いました。

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南米先住民とよく似た私たち 

どこへ行こうかと考えたのですが、私はどうせやるなら何かしっかりしたことをやりたいと思ってしまう性格です。南米では、最初にアマゾン全流を下りたいと思って先住民のお世話になり、彼らと付き合うことが多くなりました。やはり一番面白いのは、人間なのですね。アマゾンやアンデスの先住民の人たちのところに通い始めて気が付いたのは、彼らが私たち、少なくとも私に似ているということでした。顔だけではなくて、背格好、しぐさ、シャイな性格まで似ています。なぜ似ているかはわかっていました。
人類がアフリカで生まれたことを否定する研究者はほとんどいません。暖かい熱帯、あるいは亜熱帯で生まれた人類は、寒いところが苦手なわけですが、それを克服してシベリアへ進出するという、サルにはできないことをやってしまいました。ユーラシア大陸の東の果てに行ったら今は海ですが、昔は陸続きでした。シベリアとアラスカがくっついていたわけですね。日本でもサハリンと北海道は陸続きでした。今から2万年前、地球の歴史では一番新しい時代ですが、その時は海面が非常に低かった。今は温暖化で水位が上がってきているのですが、寒い時は氷河が氷になっている状態が多いわけですから、水位が下がります。当時海面は120メートルも低く、ベーリング海峡で一番低い所は水深50メートルしかないですから、海が干上がっていたわけです。その時に、マンモスや野生のトナカイを追いかけていた人の中に、ベーリング海峡を渡ってしまった人たちがいるわけです。1万年以上前のことです。コロンブスがアメリカ大陸へ行く1万年以上前に、すでにシベリアから人が移動していました。それが最初のアメリカ人であり、アメリカの発見者であるわけです。で、そこに居残った人たちがいます。それがアラスカのエスキモーやカナダのイヌイットであったりするわけですが、さらに南下した人たちがアメリカ・インディアンになったり、マヤやアステカのインディオになって、アマゾンにも行き、南米最南端のパタゴニアまで行くわけです。ですから、アジア系の人が行ったのだから、私と似ているのは当たり前だと知識では知っていました。
けれども、知識で知っているのと、本当に出会って実感としてわかるのとは全然違うのです。実感としてわかると、「この人たちは、なぜ、どのようにしてやって来たのだろうか」ということを本当に知りたい、そういう旅をしたいと思いました。彼らと暮らしてみて、私から見て彼らが似ていると思うだけではなくて、彼らも私を似ていると思っていました。

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アマゾンでもシベリアでもアラスカでもアフリカでもそうですが、今ではその90%~99%は誰でも行けます。お年寄りでも赤ちゃんでもどんどん行けます。でも数%あるいは1%、わずかに残っているところがあって、そこには他の民族を見たことがないとか、もちろん外国人も見たことがない、その前に自分がその国の国民だと知らない人たちがいます。私が行くのはそういうところで電話も郵便局もないですから、いきなり行くしかありません。そしてさらにずうずうしいことに、「泊めてください」と言うのです。前もって言えないので、いきなり言うしかないのです。テントは持っているのですが、できたら彼らの家に泊めてもらいたい。もっとずうずうしく、「同じものを食べたいのですが」と言って、同じ屋根の下で同じものを食べながら暮らしているわけです。「そのかわり、何でもしますから」と言うのですが、実際森に入ったら、彼らにとって私たちは足手まといでほとんど役に立たちません。そういう人間がやってきたということなのです。
森の中に入るのは大変なことです。彼らは子どもでも裸足で入っていきます。石ころがごろごろして、蟻がうようよと列をなしています。そこへ人が踏み込むとわーっと上がってきて噛む。熱帯大蟻は3センチぐらいあって、木を歩いているところを少しでも触ってしまったら、ビリッときます。サソリよりも怖いかもしれない。リンパ腺も腫れて、手も本当に腫れてきます。24時間痛みが続くので、土地の人は「ベインテクアトロ」(スペイン語で「24」)と呼んでいます。私は村の中にいる時は裸足で歩きますが、危険がいっぱい潜んでいる森を裸足では歩けず靴を履きます。子どもの時から裸足で歩いていないと、砂利やごつごつした岩の上はやはり歩けないのです。
私が帰る時、彼らは弓矢とか太鼓とか、楽器とかいろいろなものをくれます。それを町に持って帰ってきて裸足で歩いていると、必ず呼び止められて「あんた、何族?」と聞かれます。マチゲンガという、40年間もつきあっている家族がいるのですが、その人たちの言葉で「マチゲンガ」と答えると、聞いた人は全く疑わずに「ああ、そうなの」と言って立ち去って行きます。要するに、土地の人にとっても、私と先住民の人は区別がつきません。町にはブヨがいませんが、森の中に住んでいるとブヨにしょっちゅうかまれて、皮膚にぶつぶつ赤い点々ができます。ですから町にいる人か森から出てきた人かはすぐ区別がつきます。私は森から出てきた人に見えるし、日に焼けているし、顔も似ているので先住民と間違われるのです。

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「グレートジャーニー」 

そのようなこともあって、ますます彼らがいつどのようにやってきたのかという旅をしたくなって始めたのが、「グレートジャーニー」です。人間の祖先はアフリカで生まれた後、原人の時に一度アフリカを出ます。180万年前のことです。アジアにもやって来て、ジャワ原人になったり、北京原人になったりするわけですが、その人たちは滅びてしまいます。ここにいる人たち全員、地球上にいる人たち全員は20万年前に生まれたホモ・サピエンスの子孫です。20万年前までたどると、みんなアフリカ生まれなのです。アフリカを出たのは6万年前です。北欧の肌の真っ白な人たちも、わたしたちも、中国、アメリカ大陸の人たちも、みな出発点は同じで、当時はみな浅黒かったのです。
肌の色は紫外線だけで決まります。紫外線を遮るためにメラミン色素を発達させるわけです。紫外線は基本的に体に悪く、白内障や皮膚がんの原因になったりしますが、全くないと困ります。というのは、私たちには微量ですがビタミンが必要で、ビタミンを取らないといろいろな病気になります。ビタミンAやBやCやEなど、ほとんどのビタミンは自分で作れないので食べ物で取ります。けれども、ビタミンDは皮膚が紫外線を浴びて自分で作ります。北では紫外線が弱いので、突然変異で白くなった人たちだけが生き残って、浅黒い人たちは滅びて行ったと考えられます。今問題になっているのはオーストラリアです。南の方は良いのですが、北の方は紫外線が強いです。もともと住んでいる先住民の人たちは良いのですが、後からいったイギリス人たちの子孫が困っているわけです。赤ちゃんたちは紫外線をガードするため大変です。大人も皮膚がんが増えていて大変です。メラニン色素は急にはつきません。私たちはアフリカの黒人ほどではないけれども、スキーへ行ったり海水浴へ行けば赤くなって、その後黒くなります。しかし、白人は赤くなるけれども黒くならないので直接紫外線の害にあってしまうのです。
このように、北の方に行った人で黒いままの人は滅んで、白くなった人たちが残ったわけですが、それは6万年前です。1世代を30年と計算して、2000世代です。1世代を20年と計算する人もいますが、1400年前に飛鳥寺を作った宮大工の子孫は今40代目ですから1世代は35年です。それから考えても、1世代を20年とするより30年とする方が妥当でしょう。皆さんの中にも家に家系図があって、10代前ぐらいは辿れる人がいると思います。10世代というと300年ぐらいですから、江戸時代の半ばより少し前です。けれども、百世代前を辿れる人はいますか? 3千年前の縄文時代ですから誰もいませんね。百世代前の祖先は必ずいるわけですが、辿ることはできません。天皇家は120何代かありますが、兄弟や夫婦で繋いでいるわけだからやはり辿れません。
6万年前、私たちの2千世代前の人たちがアフリカを出ました。自分の名前を1センチで書いていくと百世代なら1メートルですが、2千世代を書いていくと、ここからあそこまで20メートルです。2千世代前の出発点では、今真っ白な人も真っ黒な人も私たちもみな同じだったのです。肌の色は紫外線だけで決まるので、肌の色で優れているとか劣っているとか言うのがいかに馬鹿らしいかが良くわかります。

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以前、私たちはモンゴロイドと呼ばれていました。赤ちゃんのお尻が青いからモンゴロイドだと言うわけです。しかし最近、日本にもお尻が青くない赤ちゃんが多くなっています。栄養や環境で変わるわけです。ベーリング海峡に面して、ユーラシアの東の端にチュクチという人が住んでいます。北方の先住民族で、ロシアのコサック兵に最後まで抵抗した人たちです。その人たちの中に「なぜ赤ちゃんのお尻は青いか」という伝説があります。北方民族に特徴的でアイヌにもある考え方に、誰かが死んだら肉体は滅びるけれども魂は天に昇って、孫やひ孫、あるいは子孫に帰ってきて、生まれ変わるという考えがあります。チュクチでは、生まれる前に臨月のお母さんのお腹の中に精霊が降りてきます。安産の時は良いのですが、なかなか赤ちゃんが出てこない時は精霊が赤ちゃんのお尻をぺんぺんと叩くので青いというのです。つまり、お尻の青い子もいるけれども青くない子もいるということです。日本人もそうで、青くない子もいます。コーカソイドと呼ばれるヨーロッパ人には青いお尻の赤ちゃんはいないはずなのですが、ハンガリーなど東欧の人は、昔フン族や蒙古やいろいろな人が攻めて行ったので混血がいて、お尻の青い子もたくさんいます。それだけでなく、実はイタリアなど西欧の方でも2%~4%はお尻の青い子が生まれます。ですから赤ちゃんのお尻が青いかどうかでコーカソイドかモンゴロイドか分けられない。もちろん肌の色でも分けられない。たとえば、インドの支配的民族であるアーリア人はヨーロッパから来たコーカソイドだと言われていますが、私たちや朝鮮半島に住んでいる人たちと皮膚の色を比べると、私たちの方がよほど白いです。肌の色でも分けられないなら、遺伝子とか血液とかタンパク質とかで分けられるかと言えば、それも一切ありません。ですから、ユネスコは今、モンゴロイドとかコーカソイドとかいう呼称はもうやめよう、ヨーロッパ人、アフリカ人、アジア人、アメリカ人でいいじゃないか、となっています。研究者はそれが科学的名称ではないのはわかっているけれど、便利だから使っているという感じです。
最初私はモンゴロイドの起源をたどろうと思ったのですが、そのように分けることはできないと解ったので、人類の起源であるアフリカへ向かうことにしました。ルールは、自分の腕力と脚力で、でも馬、ラクダ、トナカイ、犬など昔から使っていた動物には、他人に乗っけてもらうのは良くないけれど、自分でトレーニングして括れるようになれば良い、ということにしました。勝手に決めたルールなので、破ったからと言って誰も文句は言わないのですが、最後まで守りました。足掛け10年かかったのですが、その旅を9分にまとめたダイジェストがありますので、それを見ていただきたいと思います。

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(映像)

ナレーション:
2002年2月10日午前9時29分、足掛け10年、5万3千キロにも及ぶ旅。探検家であり医師でもある関野吉晴の「グレートジャーニー」は、ついにゴールした。
そこは夢にまで見たアフリカ大陸。野生の王国だった。

関野さん:
良く来たなあ、という感じですね。今までの小さなゴールがたくさん集まってこの大きなゴールがあるのだけれど、本当に着いちゃった! ああ、嬉しいなあ!!

ナレーション:
これは、東アフリカのラエトリに残されたアファール猿人の足跡。二本の足で立っている。大きさからみて大人二人、子ども一人。世界最初の家族とも言える。およそ400万年前、人類の祖先は自らも進化しながら、気の遠くなる旅に出た。特にユーラシア大陸からベーリング海峡を経てアメリカ大陸を南下する旅は、5万キロにもおよぶ遥かなる旅となった。「グレートジャーニー」と呼ばれるその道を関野は逆方向から遡り、今年2月ゴールした。
旅は嵐の大地から始まった。近代的動力に頼らず、自らの脚力と腕力だけで突き進む。インディオたちに「悪魔の山」と呼ばれる秘境。ザイルだけを頼りに、垂直の壁を攀じ登った。

関野さん:
横断成功!

ナレーション:
こうして、雲の上の大地にも、「グレートジャーニー」の足跡を刻んだ。忘れられない人々がいた。「グレートジャーニー」は出会いを紡いでいく旅でもある。
1996年、二つ目の大陸、北米に入る。確実に時間が過ぎて行った。

関野さん:
「せきの ちえ。おとうさんにあいたいな。」 これは初めての手紙だ。日本を出る時は、とても字が書けなかった。返事を出さないといけないかな。

ナレーション:
勤めていた病院を辞め、2歳になったばかりの娘と妻を置いての旅立ち。それから3年。娘はいつの間にか字が書けるようになっていた。
夏のアラスカは躍動する命の季節。地球という星の凄さ。ザトウクジラの群れがニシンを追い詰めて一飲みにする瞬間。
1997年、ベーリング海峡横断。
1998年、冬の極東シベリア。氷点下40度の世界。夏のシベリアはさらに過酷な旅。永久凍土ツンドラが大湿地帯に変わり、行く手を阻んだ。
1999年、モンゴル。「グレートジャーニー」は遂にアジアに入った。世界で最も北に位置する仏教寺院。砂漠地帯はラクダで移動。

関野さん:
月の砂漠を~♪

ナレーション:
気難しい相棒。しかし砂漠でこれほど頼りになる奴はいない。想像を絶する砂嵐。まるで針のように突き刺さる。シルクロードを西に向かう。そこは灼熱地獄。

ナレーション:
手、すごいですね。

関野さん:
火傷。

ナレーション:
ヒマラヤの北と南を往復するキャラバンにも同行した。チベットで仕入れた塩をヒマラヤを越えて穀物と交換する。5千メートルの峠越え。家族一丸となって山を越える。10歳に満たない子どもたちがそれぞれの役目を果たしていた。
2001年2月、「グレートジャーニー」ファイナルの旅は、カザフスタンから始まった。関野はシルクロードをさらに西に向かう。キルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタンを通ってイランに向け、トルコからシリアに向かい、ここで進路を南に取ってアフリカを目指す。エジプト、スーダン、エチオピア、ケニアを経て、目的のタンザニア、ラエトリまで、およそ1万2千キロの旅である。
3月、すっかり春らしくなったイランの風に吹かれながら進む。ホメイニ師率いる革命から22年、厳格なイスラム社会だったイランも少しずつ変わり始めていた。そして人々は関野を受け入れてくれる。
4月、見えてきたのは、ご存知死海。ここは世界一塩分濃度が高い場所。

関野さん:
しょっぱ! ラッコだな。

ナレーション:
5月、シナイ半島を走るハイウェイ。熱帯に突入した。スエズ運河。その向こうは夢にまで見たアフリカ大陸。関野はゴールを目指す。立ちはだかるのは暑さ。
11月、スーダンに入った関野は、ラクダでヌビア砂漠を縦断。関野吉晴の足掛け10年にわたる壮大な旅。南米最南端から一歩一歩繋いできた一本の道が10年目にして迎えるゴール。

関野さん:
こんな真っ青な草原って、あまり見たことがない。こんなところを自転車で走れるなんて。夢みたいで、草の匂いを嗅ぎながら走っている感じ。こんなところで人間は生まれたんだ。

(映像終了)

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文化によって世界中に広がった人類 

関野さん:
アフリカを人類が出て、世界中に広がった。これは他の動物ができないことなのですね。たとえば熊の仲間は熱帯にも北極にもいます。ただ、種が変わっているわけで、熱帯ならマレーグマ、日本に来てツキノワグマになり、北海道より北に行くとヒグマになり、北極圏へ行くとホッキョクグマになります。彼らは種が変わって、自分が進化して、そこに適応するわけです。分厚い皮下脂肪と毛皮と毛並みや体汗腺とかが種によって全く違う。ところが人間はほとんど変わらないまま適応してしまいました。北のチュクチ、エスキモー、イヌイットと私たちがどれぐらい違うかと言うと、たとえばマイナス40度の中に裸で突き出されたら、私たちと彼らとはほとんど変わりません。両方とも1時間したら低体温症になります。心臓とか腎臓や肝臓は体温が30度になったら不整脈になって止まります。皮膚の温度は0度になっても大丈夫ですが、内臓の温度は30度で機能停止になります。ですから生物としては変わりません。では何で適応したかと言うと、文化です。特に着るもの、そして建物です。小さな発明で北に住めるようになったのです。私はトナカイ遊牧民、トナカイ飼育民と長い間暮らしたことがあるのですが、毛皮の服はとても暖かいのです。ズボンもインナーとアウターがあって、靴も二重です。上着も二重で、オオカミとかホッキョクグマとか毛足の長い毛皮のフードを付けていると風を避けられるわけです。それを着て旅をしたのですが、マイナス40度でもよほど風が強くなければ寒いと思ったことはありません。
服を着て、さらに4つのものを持っていれば、何ヵ月でも旅ができると彼らは言います。それはまず、ナイフ、マッチ、釣り道具です。釣り道具があればカワカマス、カワヒメマスとかが入れ食いで獲れます。もう一つは、北の方に進出するために必要な発明、針です。たとえば、ネアンデルタール人もヨーロッパや中東に行きました。でも思いっきり北の方に行けなかったのは、毛皮を羽織っていたからです。羽織るだけではマイナス40度では生きていけません。縫い合わせることによって、保温効果が上がるわけです。針の発明は大変大きい。では糸は何を使ったか? コットンもないしナイロンもない。その時代に使ったのは、動物の腱です。人間には悪いところもたくさんありますが、凄いところは、どこでも住むということです。仕事で行くのではなくて、住む。5千メートル近い高地でも砂漠でもサバンナでもツンドラでもありとあらゆるところに住みました。そんな動物はいません。サルは下北のニホンザルが北限です。旭川では動物園にいますが野生猿はいません。人間はそれほど適応力があって広がったわけです。

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弱い人々が突き出される 

でもなぜそんなに広がったのだろうか。これは謎です。普通は動きたくないですよね。そこに適応して食べられていたら、移る必要はないわけです。移るということは全く違う環境に出ていくことでおっくうですよね。なんで出て行ったのか。さっき、ベーリング海峡からアラスカへ行った人たちは動物を追いかけているうちに行ったと言いましたが、それも含めてもっと大きな要因は、あの山を越えた向こうには何があるのだろうかという好奇心、もっと良い木の実があるのではないか、もっと良いベリー類があるのではないか、もっと良い獲物がいるのではないかという、もっと良い生活をしたいという向上心、その向上心と好奇心が結びついて人が移動して行ったのではないかと、私はずっと思っていました。
ところが、だんだん考えが変わってきました。そうではない人がたくさんいたからです。まず、アフリカを出て遠くまで行った人たちがいます。それも狭い意味での「グレートジャーニー」ですが、その考えから行くと、一番遠くまで行った人たちが一番向上心と好奇心の強い人たち、進取の気象に富んだ人たちのはずです。ところが行って見たら逆でした。確かに、南米大陸の一番南までは、結構動物がいるのです。グアナコというラクダの仲間やアメリカダチョウがいるから狩りができます。ところが、マゼラン海峡を渡っていくとフエゴ島という大きな島があります。そこも動物がいて狩猟ができます。ところがビーグル水道を渡って、さらに一番南のナバリノ島まで行くと、山ばかりで動物がいません。でも、そこまで人が移動していました。そこの純血の人たちはヤーガンと呼ばれていて、自分たちのことはヤマナと言っています。ヤマナというのは、「人」の意味です。自分たちの民族の名称に「人間」という言葉を使っている民族は結構多くて、アイヌもそうです。「アイヌ」は「人」という意味ですから、「アイヌの人」という言い方はおかしいわけです。北極のイヌイットとかイヌピアック、ユーピックも全部「人」という意味です。自分の民族の名称を「人」とつける場合が多いわけですが、20年前にヤマナの人たちは2人しかいませんでした。今は1人しかいません。彼女だけが純粋なヤマナだと言われていて、ヤマナの言葉を知っています。彼女は80歳半ばでチリの人間国宝なのですが、彼女が亡くなればこの民族が滅んだということになります。

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もう一つ、カワスカルという民族がいます。僕が初めて行ったときは16人で、一番若い女の子が混血の人と子どもを作ってしまったので、その人たちもそのうち途絶えます。パタゴニアまで、一番遠くまで行った人たちは、狩猟のできないところまで行って、ムール貝に似た貝で無尽蔵にあるムラサキ貝やツブ貝、カサ貝、少し潜ってホタテと、海のものを採取して何とか食いつないぐという、結局弱い人だったのです。そういう例を他のところでも見ました。たとえば、インドシナの小さな国でラオスという国があって、ベトナム戦争中に酷い目にあっています。北ベトナムの解放戦線が南ベトナムでアメリカの傀儡政権と闘っているわけですが、北ベトナムから解放戦線に物資を送るのにラオスを通ります。アメリカはラオスに一人当たり1トンの爆弾を空爆したといわれています。その中でも山の上でコメ作りをしているモンという人々がいます。モンの由来は、コメの原産地である長江(揚子江)ですが、戦乱が嫌なので、山の上に逃げてコメ作りをしていました。悲劇の人たちで、中国ではミャオと呼んでいますが、ベトナム戦争の時に半分は北ベトナムに、半分はアメリカのCIAに引き寄せられ、同じ民族が真っ二つに分かれてしまったのですね。40年前に戦争が終わった後、北ベトナムを手伝った人は残れたけれども、CIAを手伝った人々は主にアメリカに行くしかなかったのです。この悲劇の民族は、やはり弱かったから移動してきた。
そういうことを見ていくと、確かな証拠はないのですが、移動するのは弱いからではないか。アフリカを出た時も人口圧があって、既得権のある強い人は居残れたけれども、弱い人は突き出されて出たのではないか。あるいは、海面が120メートルも低かったわけですから、ベーリング海峡と同じで、インドシナとインドネシアの西側はくっついていました。そこは今は熱帯ですが寒い時は人間にちょうど良い気候だったので、人が集まってきて人口が増えてしまった。でもそのうちまた暖かくなってどんどん氷が溶けてきて陸地が少なくなる。そうするとまた誰かが出て行かなければならなくなる。やはり強い人は出て行かないで、弱い人が突き出されていきます。突き出された人たちは、全く違う環境に行く、フロンティアに行くわけで、その時にパイオニアになって新しい文化を作った人たちがそこを「住めば都」にするのですが、適応できなくて滅んだ人もたくさんいるはずです。パイオニアになれた人たちが作った「住めば都」は住みやすいですから、また人口が増える。周りからも人が集まってくる。するとまた誰かが出て行かなければならない。その連続ではなかったか、と思うようになりました。
時代が新しくなればなるほどそれが強いのですね。日本の歴史を見てみればわかります。明治時代に土地が足りなくて移民政策を取ります。残る人は誰か。8割以上が農民でした。日本は長子相続ですから、残るのは長男です。次男以下は土地がないですから、兄の手伝いをするか、町へ出て行って働くか、海を渡って南米へ行くか、ハワイへ行くか、北米へ行くか、あるいは満州へ行くかしかないのです。でも行く人たちは強い人ではなくて、弱い人、土地がない人がいくのですね。戦後はどうかというと、ブラジルやアジアから日本にやってきます。大久保などに行くと聞こえてくるのがほとんど外国語なのでよくわかりますが、東京の新宿区では生まれてくる子どもの4人に1人はどちらかの親が外国人だと言われています。その人たちはそこに、日本に住んでいるのですが、強い人たちかというとそうではないのです。強い人たちは確かにやってきますが、爆買いしたり、骨董品を買ったり、水源を買ったり、森を買ったりして帰って行きます。

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こういうことを見てくると、「グレートジャーニー」は旅ではないと気が付きました。私がやったことは旅です。ですから「グレートジャーニー」ではありません。「プライベート・グレートジャーニー」というか、「マイ・グレートジャーニー」といったものです。「グレートジャーニー」とは移民なのです。ですから一旦故郷を出たら戻りません。そういう意味で言うと、「グレートジャーニー」は太古の時代にもあったかもしれないけれども、今も続いています。現在進行形で注目されている「グレートジャーニー」は難民です。シリアなどから出て行くのは弱い人たちです。近い例を見れば見るほど、弱い人たちが出ていくという例がクリアに見えてきます。最初のころは、向上心や好奇心、動物を追いかけて、ということもあったかもしれないけれども、時代が近くなればなるほど、そういう性格が強くなってくると思います。

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頭の中の地図 

いろいろ印象的な人と出会いましたが、一番付き合っているのは先住民の人たちです。もともとアマゾンの先住民と付き合っていたのですが、最も印象的なのは、40年付き合っている民族、マチゲンガという人たちです。最初に行ったときは、腰巻だけをつけていて、ペルーとブラジルの国境に住んでいるのですが、自分がペルー人だとかブラジル人だとかいう意識は全くなくて、ペルーという国の存在も知らないし、他の民族にも会ったことがなくて、私が初めての外国人でした。私が彼らに名前を聞いたり、年齢を聞いたり、どうやって狩りをするのかを聞いて一緒に狩りにいったりしていると、彼らの方が私に興味を持ってきました。町だと「あんた、何人なの? 韓国人? 日本人? 中国人?」と聞いてくるのですが、彼らはそういう概念がありません。たとえば彼らは海を知りません。海を見たことがないのではなくて、海の存在を知りません。彼らの頭の中の地図がどうなっているかというと、自分の川があって、小さな支流も枯れた沢もすべて名前がついています。どこの沢に登って行けばどんな動物がいるか、どんな鳥がいるか、どんな魚がいるか、土器を作る土がどこにあるか、薬草はどこにあるか、全部知っています。隣の川へは滅多に行きません。隣の隣の川へは行ったことがありません。頭の中にある地図は森と川でできていて、海も砂漠もツンドラもありません。私に「どこから来たの?」と聞く時は「どこの国から来たの?」と言うのではなく、「どこの川から来たの?」と言います。私が「多摩川」と言うと、彼らの興味は、「そこ、魚はたくさんいるの? 多摩川って聞いたことないな、でも動物いるんだよね?」と言うので、「狸ぐらいはいるけど、動物はあまりいないし、バードウォッチングしているから鳥はいるけれど、ここほどではないし、魚は鮎が上ってくるけれどこんな大きな魚はいないし」と言うと、「なんでそんなところに住んでいるの? どのぐらいかかるの?」と聞かれます。南米はアメリカ経由でないといけないのですが、東京からペルーの首都のリマへ行って、クスコというインカ帝国の首都だったところまで飛行機で行きます。それからトラックに何日か乗って、それから昔は竿で漕ぐカヌーに乗って、荷物を担いで歩いて1週間から10日かかるのです。ところが彼らの数の概念では、1、2、3の次は「たくさん」なので、「1週間」とか「10日」という表現ができません。彼らは1日を太陽の動きで、1月を月でみています。「新月の時から、満月まではかからないけれども、半月よりは少し大きいぐらい」と表現すると、「なんだ、隣の川と同じじゃないか。だったら、家族を連れてくればいいのに」と言うのです。で、私は「いつか連れてくるから」と言って帰ってくるわけです。
私たちは教育を受けていますから、ここにいる全員が多分同じ地図を持っています。アフリカに向かう旅を始めたときにシベリアではそういう人たちに出会うんじゃないか、デルス・ウザーラみたいな野生児のような人がいて、ツンドラと大河と森と川しか知らない人がいるのではないかと思ったら、ソ連時代を経ているので全くそんなことはありませんでした。社会主義は悪いところもたくさんありますが、教育と医療はすごいです。医療は無料だし、教育も、先住民であろうと誰であろうと、能力があれば、努力すれば、大学へ行けました。ですから少なくとも学校へは行かなければならなかったので、みな同じ地図を持ってしまっているのです。エチオピアの南部には私たちと違う地図を持っている人たちがいましたが、世界の99.9%は私たちと同じ地図を持っています。マチゲンガでも40年たった今では変わっています。1歳の子が40歳になっているわけですから。女性は15~16歳で赤ちゃんを産みますから、5世代の付き合いです。40年の間におばあちゃんからひ孫の孫まで見ていますが、今ハイティーンの人たちは町のハイスクールの寮に入っていて携帯を使っています。それほど変わってきたわけです。

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最も印象的だった人 

一番印象的だった人は、先住民ではなくて、シベリアで会った81歳のおじいちゃんです。シベリアはロシアなのに、彼はポーランド人でした。スターリン時代はひどい時代で、朝鮮人も中央アジアに送られました。外国人は怪しいから、スパイかもしれないから強制移住させられたのです。今ウズベキスタンや中央アジアに行くと焼き肉屋がたくさんあります。ポーランドも同じで、彼はポーランド人だというだけでスパイ罪で捕まって、シベリアへ送られました。妻や子どもや兄がいたのですが、強制労働をさせられるうちにみな病死して、彼は解放されたとき故郷に帰っても家族が誰もいないので、シベリアに残ってロシア人の女性と再婚して、今年金暮らしをしています。僕はまず、彼に会うのが怖かったのです。ひどい目に遭っている人だから、世の中をはすに見ていて怖い人ではないかと思っていたのです。けれども実際会ってみるといろいろな話をしてくれて、そのうち「自分はラッキーだった」と言うのです。「81歳まで生きて、悠々自適の年金生活ができる」と。「でも20代、30代、40代の大切な時期に好きなことができないで大変だったじゃない?」と言うと、「でも、ちゃんとここまで生きてこれた」。
話しているうちに僕は本当に彼がラッキーであり、ハッピーであるように見えてきました。なぜそう思ったのかわからなかったのですが、お爺ちゃんは20代、30代、40代のいろいろなことをやれる時期に、私たちにとって当たり前のこと一切ができなかったのです。家族と住める、好きなところに住める、好きなときに旅ができる、好きな職業が選べるという、私たちにとっては当たり前のことを、大切な時期に全部禁じられていたのです。逆に言うと、今はそれができるようになった。私たちにとっては当たり前で大切だとは思わないことが、実は大切だということが誰よりもわかっているわけです。それを噛みしめて味わって生きているから、ハッピーに見えたのではないかと思います。

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私たちは病気になったときに初めて健康のありがたみがわかります。山へ行って水筒の水が空になって、なかなか沢が見つからない、水が見つからなくて本当に水がほしい、そんなときに水と出会った嬉しさですね。水なんてあって当たり前なのだけれど、なくなって初めてそのありがたみがわかります。本当に大切なものはそういうものだと思います。水や大地、空気もそうです。きれいなのが当たり前だと思っているので、汚れて初めて大切さが分かる。本当に大切なものは本当にそれが大切であるということがなかなかわからない、そのありがたみがなかなか感じられないけれども、失ったときに初めて分かる。それがなくなったときには、自分たちで解決しなければならない。そういう風に僕は思って、彼がとても印象的だったわけです。

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もっと足元を見よう 

アフリカに着いて考えたのですが、こんなことは何十年も旅しなければわからないものでもないのですよね。旅してもこのぐらいのことしかわからない。アフリカに着いたときも、一番大切なことは当たり前のことなのだなと感じました。アフリカに着いた時に感じたのは、自分が自分の足元をあまりにも知らないということでした。「どこで生まれたの? それはどういうところなの?」と聞かれたときに、たとえば日本について聞かれたときに、人並みには答えられるけれども突っ込んで聞かれると答えられない。アフリカに着いたときに、もっと足元を見ようと思って、頬の粘膜をこすってミトコンドリアDNAを調べました。ミトコンドリアDNAは母親と私では同じですが、父親は違います。母方の祖父は違うけれども祖母は同じです。ですから女系をずっと辿っていけます。母方の先祖が誰かがわかります。すると私は日本の原住民、つまり縄文人だということが分かりました。昔は縄文人は南からやってきたと考えられていましたが、現在は北方系の縄文人がいることがわかっていて、私は北方の、北海道の礼文島とか有珠あたりに住んでいる縄文人ではないかということになりました。それで、アイヌと付き合ったり、東北で縄文的な生活をしているマタギや熊狩りをしている人たちや鷹匠と付き合ったりしました。また私は東京の下町生まれですので、そこの工場街で働かせてもらったりしました。

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自然素材からカヌーを作る 

足元を見ながら、なおかつ、日本列島にやってきたのはどんな人たちで、どうやって来たのだろうかを考えるようになりました。それで始めたのが、アフリカ発北方ルートですね、大陸、シベリア、サハリン、北海道からやってきた人たちの足跡を最初に歩いて、最後は宗谷海峡をカヤックで渡って終わりました。それから、ヒマラヤ山麓から一旦インドシナへ行って、北上して朝鮮半島から入ってきた。最後は朝鮮海峡をカヤックで渡って終わりました。最後のルートは、海上から来た人がいるから、インドネシアから舟で来ました。その時に昔の舟を見つけて再現しようと思ったのですが、熱帯ですから木や竹がみな腐ってしまうので、見つかりませんでした。アマゾンの人もそうですが、昔の人はどういう物作りをしていたかというと、自然の中から素材を自分で取ってきて自分で作っていました。私たちはそういうものをほとんど持っていません。みなさん、今持っているものの中で、自然から素材を自分で取ってきて作ったものがありますか?「このセーターは自分で編みました」と言う女性がよくいますが、「では、その毛糸はどうしたの? アルパカか羊の毛を刈って作ったの?」と言うと「糸は買ってきました」と言います。「これは自分で撃ったイノシシの牙で作ったペンダントです」という男性はいますが、自然から素材を自分で取って作ったものは持っていない場合が多いです。それほど私たちは自然から離れてしまったのですが、そのコンセプトでカヌーを作ろうと思いました。会場の外に飾ってあるのがその時に作った斧です。
日本刀は砂鉄から作った鋼(はがね)からでないと作れないので、日本ではたたら製鉄が残っていました。『もののけ姫』に出てくるたたらです。東京工大の先生が出雲でたたらをやっているのですが、東吉野村の刀鍛冶の河内國平さんという人に相談したところ、「東京工大の先生で、東京で教えてくれる人がいるよ。どれぐらいの工具を作りたいの?」と聞かれました。「5キロぐらいです」と言うと、「まず、集めてほしいものがある」とのことで、120キロの砂鉄と、300キロの炭を用意しました。東京の炭は杉や檜だから軽くてすぐ燃えてしまうからダメなので、岩手まで行って松の炭を120キロ焼いてきました。砂鉄は江ノ島や湘南はチタンなど不純物が多くてだめなので、九十九里でサーファーたちが格好良くサーフィンをしているところで、暗く砂鉄を集めました。こうやって工具を作り、木を切って、一切自然から作ったものだけで舟を作りました。航海もGPSやコンパスを使いませんでした。その時の映像を見てもらいます。舟造りの映像から始まります。

(映像)

自然から直接ものを取ってきて…
ひげが生えてる。
わっしょい、わっしょい……

天候によって停滞が多いです。近代ヨットなら真正面から風が来ても、タッキングと言ってジグザグに進んで行けますが、私たちのは昔の舟なので横風がせいぜいで、風で進めたのは全体の3分の1だけです。3分の1は漕いでいましたし、残りの3分の1は風が変わるのを待っていました。当初は舟造り1年、航海1年の予定でした。インドネシア人6人と日本人4人で、日本人のうち私ともう1人はベーリング海峡を渡ったときも一緒だった海のベテランなのですが、残りの2人は武蔵野美大の卒業生でした。2年間だけはほかに何もできないけれど、それでもよいのだったら一緒に行こうと言っていたのですが、結局4年かかってしまいました。大学と同じ年月ですが、彼らは後悔していないと口では言っています。
物作りですが、あの木の高さは54メートルあります。大木を見つけるのは大変でした。見つけても本当に切ってよいのだろうかと思いましたが、よく見ると回りが二次林なのです。バナナやカカオの畑があったりして、アブラヤシを植える予定であの木も切る予定だったのです。アブラヤシの石けんとかを使っていらっしゃる方もおられると思いますが、決してエコなものではないのですね。東南アジアの森がそのためにどんどん伐採されていって、ゾウやオランウータンなど野生動物が住処を失っています。エコだと言われている油の正体です。ボルネオ島はほとんどアブラヤシに変えられようとしています。
で、あの木を切ってよいということになったのですが、切るときに森の船大工という人がいて、それが木を切って舟の形までして、海に運んで海の船大工がもっと薄くして完成させます。森の船大工は木を切る前に祈ります。インドネシアはイスラム教徒ですから、バナナ、米、卵、ココナツ椰子の実を備えて「安全に舟ができますように、安全に航海できますように」とアラーに祈ります。その後、棟梁が木に手をついて、何かうにゃうにゃ言ってから切ります。「精霊がそこにいるので、ほかの木に移ってくださいと頼んだ」と言うので、「一神教のイスラム教徒でしょう? そういうことをしていいの?」と言うと「いいんだ」と言うのです。彼らには海の精霊もいます。海に漕ぎだして舵を入れるときも彼らはすごく慎重です。海の精霊を傷つけないようにあまり強く漕がない。薪で米を炊いて食べていたのですが、火がついたままの薪を海に投げると海の精霊が火傷するのでいけないとか、海の精霊に気を使っています。
イスラム教が広まったのはこういう自然信仰を許したからだと思います。民族的カトリシズムと呼ばれる南米のカトリックも、「他の神様がいてもいいよ」と許しながら布教したのですが、イスラム教も同じです。で、木を切って、帆は椰子の葉を織るのではなくて編んで軽くしています。塗装もペンキが使えないので、珊瑚を使っています。死んだ珊瑚でも津波が来たときに防波効果があるのでだめなので、隆起珊瑚で石灰を作り、アブラヤシと混ぜて練って漆喰を作り、それを塗りました。

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自然はコントロールできない 

航海も磁石やGPSは使えないので、星と太陽と月と島影を頼りに旅をして、3年がかりで旅を終えることができました。感じたことは、「自然はコントロールできないな」ということです。ヒンズー教の神様や日本の神様みたいに、恵みを与えてくれるけれど、悪さをしたり意地悪をしたり懲らしめたりしてコントロールできないのが自然であって、それをコントロールしようとする方が間違っている。40何年自然と付き合っている人と一緒に同じ屋根の下で同じものを食べて暮らしていたときにも感じたことですが、私たちができることは、自然を知ることによって何とか前もって害を少なくするように努力することだと、海では特にそれを強く感じました。

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<第2部>

お客さまとのQ&A

お客さま:
もうダメかもしれないと諦めそうになったことはありますか? その時もうひとふんばりできた理由を教えてください。

関野さん:
諦めそうになったことはほとんどないのですが、インドネシアから日本へ来るときに危険を避けるため2回中断しています。危ないところはたくさんあって、マレーシアからフィリピンにかけては、アブ・サヤフというイスラム過激派がいて、誘拐ビジネスを資金源にしています。海賊も出ます。天候などいろいろなことで3年かかってしまったのですが、僕がやってきたことは、時間が解決してくれるのです。たとえば、南米のアマゾンの人と仲良くなるのは時間がかかります。逆に言うと時間さえかければ誰とでも仲良くなれる自信があります。ジャーナリストにしても研究者にしても、すぐに成果をあげようとして時間をかけないのですが、僕は成果は二の次で友達になれればよいですし、たっぷりと時間があります。
誤解されるかもしれませんが、私は大学生を14年間やっています。南米からアフリカまで最初は7~8年で行く予定でしたが、もしかしたら10年かかるかもしれない。30年かかってもよいと思っていました。時間はつくるものなのですね。14年も学生をやっているとよほど家が裕福でいくらでもお金があると思われがちですが、逆なのです。14年間も学生でいられたのは、親から勘当されても好きなことをやりたかったので、ほとんどない親の脛をかじるのをやめて、バイトと奨学金だけでやったからです。自分にとって一番大切だったのは時間だったので、就職しないで何になろうかと思ったときに、文科系の大学に8年いたのですが、医者になろうと思って医学部に入りなおしました。写真家、ジャーナリスト、研究者、いろいろ選択肢はありましたが、探検家になりたかったので。調査や取材ではなくて、気分として先住民の人たちと友達でいつづけたかったのです。「何でもしますから」と言っても、私はほとんど役に立たないので、医者になったら何か役に立つかもしれないし、自分の体や心にも興味があったので医学を勉強しました。医学部が6年なので、全部で14年になってしまいました。
時間をかければよいので、中断してももう一回やればよいわけです。辛くてやめたことがないのは、もっと辛い思いをしている人がたくさんいるのですね。さっき言ったように現在進行形の難民の人たちは、国籍も持てない、パスポートを持っていてもほとんど役に立たない。なおかつ、いつ沈むかわからない満載の船で地中海を渡り、陸に着いても国境をいつ越えられるかわからない、好きなところに住めない、家族と一緒にも住めない。こういう人たちに比べたら、僕が辛いということはない。
決定的なことは、自分がプランを立てて好きだからやっているのです。頼まれてやっていたらもうとっくに止めていたと思います。自分が好きでやりたくてやっていたのです。よく間違えられるのですが、テレビ局の企画でテレビ局が全部お金を出してやっているように思われるのですが、そんなことはなくて、少なくともどこへ行くか、スタッフとして誰を連れていくか、何を撮るか、一切僕が決めるということでなければやらないということで始めました。「グレートジャーニー」はバブルが終わっていましたし、最初全部借金で始めました。借金しては返し、借金しては返しをつなげながら行っていたのです。その中でも一番大事なのは時間なのです。
航海の場合は、8月までは南風が吹いていますが、一番良いのは5月、6月です。7月、8月は台風がいっぱい来ます。ルソン島と台湾の間に400キロのバシー海峡があります。8月は大きい台風が来るので、8月までに、できたらそ6月中にそこを越えろと言われましたが、1年目は半分も行きませんでした。120キロ行くのに10日かかりました。日速40キロで計算していたのですが、日速12キロ、歩いたほうが早いじゃないかと。でも頑張って半分まで行って、翌年は越えられると思ったのが、ルソン島に入ったのが6月20日になってしまって、国境警備隊の司令官から、「命令ではなくてアドバイスだけど、止めた方がいいよ」と言われました。「勝手に行ったらわれわれは知らないよ」という意味です。遭難したら二度とできないので、結局1年待って、3年かかりました。

フェリシモ:
昔の人もそういう具合だったのですね? 

関野さん:
いえ、違うのです。昔の人は日本にやって来たわけではなくて、たまたま日本に着いてしまったし、まして、1年や2年の航海で来たわけではなくて、何世代もかけてきたので、一人の人間は一つの島を越えるぐらいでよいのです。だから地図も必要ないし、たまたま渡って行ったら日本に着いただけなので、私とは全く違います。

お客さま:
関野さんの忍耐力がすごいです。その源はどこにあるのでしょうか。

関野さん:
忍耐力? 

フェリシモ:
はい、僕がすごいと思ったエピソードがあります。砂漠で風が吹いていて、5時間待ったというエピソードがありますが、5時間待ったら風が止むという保証はありませんよね? 

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関野さん:
はい。ただ、食糧がありますので、1週間でも待てます。

(会場:笑)

さっきの航海が、『縄文号とパクール号の航海』という2時間の映画になっています。1年目ダメで2年目ダメで3年目になるとき、先ほど言ったバシー海峡が最難関なのですね。黒潮が渦巻いている400キロの海峡なので。そこで、「じゃあ、しょうがないから来年のために島へ行こうか」という場面で、彼らがため息をついているのですね。2年の予定が3年目になり4年目になって、ため息をついているのですが、僕が「いいじゃん、大丈夫だよ。後退しているわけではなくて、前に進んでいるのだから」と言ったら、「そうですね」と言う場面があるのですが、時間の感覚が違うのだと思います。
もう一つは、失敗しても死ななければ挽回できる、そして失敗したら少しでも賢くなっているので成功率が上がるということです。失敗しても諦めない、何回もやれるというのは、忍耐力というか、体力的な忍耐力です。もともと僕は高校時代も短距離はあまり速くなかったですが、1万メートルのロードレースなどをやると、学年で一番速かったです。そういう意味で忍耐力は大丈夫です。
でも痛いのはダメです。ケガとかもありますし、南米で一番嫌いなのは、警官と酔っ払いと犬です。自転車で走っていると必ず番犬が出てきてこちらへ向かってきます。「ああ来たな」と思って、接近した時に全速で走るのです。南米では勝っていたのですが、パナマで負けてしまいました。刑事ものの映画で、パトカーが犯人を追いかけて行ってキュッと前に止まって犯人の車を止めますね。あれを犬が2匹でやるのです。僕は急ブレーキを引いたので地面に叩きつけられました。その時、鼠径ヘルニア、つまり脱腸で、腸が皮膚にくるまって飛び出ているので、立つと卵大のものが膨らむのです。手術しなければ治りません。歩きだと腹圧がかかって出たままになり、血液がいかなくて腐ってしまうのですが、自転車だと腹圧がかからないので、「ま、いいか」と思っていたのです。でも1ヵ月ぐらいたって、体中擦り傷だらけになって、擦り傷って濡れるのは嫌じゃないですか、痛いから。中米を旅していて40度ぐらいの暑さで大変だったのですが、沼や川があって飛び込みたいと思っても、包帯がぐるぐる巻きだし、処置するのはめんどうくさいし、痛いしで、なかなか水浴びもできないので、嫌になって手術しようと思いました。メキシコのアカプルコに着いたときに、前に勤めていた日本の病院に入院予約と手術予約をして、それから帰って手術しました。麻酔が醒めたときに痛くて。自分が医者なのでどれぐらいのケガかはわかるので、死ななければよいと思っていました。生き死にには神経質になっていますね。死にたくないと。ただ、指一本ぐらいはいいかなと。

お客さま:
言語に興味があります。現地の方とどうやってコミュニケーションをとるのですか? たとえば、スペイン語の派生のようなものなのでしょうか、それともまったく独立したものなのでしょうか。

関野さん:
先住民の人たちは、ベーリング海峡を渡ってやって来た人たちです。1つの民族が3つのグループに分かれて1万年経っているわけです。そのような経過を辿ると全く言葉が通じなくなると言います。江戸時代の言葉もたった300年でわからないですし、平安時代はもっとわからないですね。千年でわからなくなるほど言葉は違ってくるわけです。南米には400以上の民族がいますが、全部違う言葉です。民族は文化で分けているのですが、その中で一番重要なのは言語です。似通っている言語もありますが、全く通じない言語もありますし、スペイン語などとは全然違う言語体系です。僕は先住民の言葉しかわからない所へ行くので、前もって教会や学校のあるところへ行きます。そこには必ず先住民の人がいます。文明に憧れて出てきて、片言のスペイン語を喋れる人。彼らと一緒に行くと、彼らが案内人で通訳で言葉の先生で、少しずつ覚えていきます。僕も先住民の言葉を積極的に覚えていきます。でないと結局コミュニケーションができません。一緒にいるだけならそれでも良いのですが、どうしてそういう風に考えるのかとか、会話をしたいですよね。ボディランゲージでは会話はできませんから、言葉を覚えたいのです。

お客さま:
昔の人は砂鉄を集める時に何を使っていたのでしょうか? 

関野さん:
磁石があるときは磁石を使っていたと思います。鉄ができたのは4千年前ですから、それほど昔ではありません。鉄が出てきたときは磁石があったと思います。
地球の重さの何%が鉄だと思いますか? 3分の1です。地球の真ん中の核は、ニッケルと鉄でできています。海岸へ行けば砂鉄だらけです。僕たちの体の中で、男は7~8グラムの鉄があります。たった7~8グラムですが、それがなかったら一日も体がもちません。ヘモグロビンが肺で酸素を受け取って体中に酸素を持って行って離して置いてくるから、筋肉が窒息しないでいられるわけです。鉄がなかったら体が窒息してしまいます。本当に微量でよいのですがなければいけない。
私たちがコンパスを使えるのは、地球の3分の1が鉄だからです。地球が鉄だから磁石になっていて北極と南極、正確には北磁極と南磁極があって、北と南を指しています。なおかつ磁場ができますね。宇宙線の微粒子が飛んできても地球の磁場が撥ね退けてくれます。オゾン層と同じような働きをして、私たちが健康に生きていられるのです。ですから、鉄は凄いのです。鉄がなかったら私たちは生きていけませんし、防御するものがないし、大変です。
私が砂鉄を集めるのに使ったのは磁石なので、最初からインチキをしているわけです。本当は隕鉄といって、鉄の隕石で磁力を持っているものを探さないといけないのですが、通販では売っていないし、ネットで世界中から募集したら集まるかもしれませんが、それには10年ぐらいかかりそうだったので、磁石を買ってしまいました。

お客さま:
冒険家としてではなく、家庭の中の関野さんはどのような感じなのでしょうか。家族の方は関野さんが旅に出られることについてどのようにお考えですか。

関野さん:
僕はヨーロッパに行ったことがないのですが、今週の始めにうちの奥さんに「今度の夏休みにはドイツに行きたい」と言ったら、彼女はニコニコしていました。「なんで行くの?」と聞かれたので、「トルコのシリア国境へ行って、シリア難民と一緒に地中海を渡って、ドイツまで歩いていきたいんだ」と言ったら、呆れて「バカじゃないの。あんたがやらなくても、若い人たちにやらせたら」と言われました。そういう感じです。「グレートジャーニー」を始める時も全く同じで、「バカだと思っていたけれども、そこまでバカだとは思っていなかった」という感じでした。結婚した時にそういうことをやるとはわかっていたのですが、40歳ぐらいで止めると思っていたようです。僕は「60歳ぐらいになったら、世の中のためになることをやろうかな」と言い訳をしていたのですが、まだやらない。
旅に出ているときは、大きな町に行って電話局へ行って電話をしていました。ただ、南米からアフリカへ向かうときは、一人でいる時で安全なところは家族を呼んでいました。娘はペルー、グアテマラ、メキシコ、アメリカ、アラスカ、ネパール、ケニアとか行っています。でも好きで行っているのではなくて、本当は友達と遊んでいたいけれど、母親が行くので仕方がないからくっついてくる感じでした。今は外国へ行くのは嫌だと言っています。

お客さま:
関野さんが旅に出て得た一番大きなものは何ですか? それは、旅に出ないと得られなかったものですか? 

関野さん:
多分、旅に行かなくても得られたものだと思いますね。ただ、気づきというか、自分が当たり前だと思っていることが当たり前ではないとわかる。たとえばお辞儀なども、テレビなどの情報で、外国へ行くと握手したりいろいろな挨拶があると知っているわけですが、あっかんべーをしたりおでこをぶつけあうのが挨拶だったりいっぱいあるわけです。日本人は西洋コンプレックスが結構あるので、握手をしていると特に何も思いませんが、あっかんべーをして挨拶していると「こいつら、何やってんだ。野蛮だな」と思います。西洋人がやっていることは高等なことで、肩をぶつけあったりして挨拶していると野蛮なことだと思ってしまいます。お辞儀をするというのはヨーロッパでは王様に対してしかしないことで、日本人の観光客同士でお辞儀をしていると、「あいつら、なんであんなにぺこぺこしているのだ」となるわけです。それが海外へ行くとわかるわけです。

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10年前、僕はシリアへ行きましたが、すごく平和でした。シリアはイスラム教徒ですから、泊めてもらうと一緒に食事します。炊き込みご飯などを手で食べるのですが、左手で食べると、イスラム教徒ですからみんな怒って、「こいつとはもう二度と飯を食わない」と立ち去っていきます。何故かと言うと、彼らは下の処理に紙を絶対に使いません。水と左手を使ってきれいにします。ですから、左手は不浄の手なのです。それでご飯を食べてはいけないので、必ず右手で食べます。それを知っているから私は左手で食べたりはしないのですが、少しいたずらをして、箸で食べてみました。するとみんなニコニコしていました。良かったと思ましたが、その後が大変で、「何それ? いつから使っているの? 日本人はみんなそれを使っているの?」と質問攻めです。箸を使うのは特殊なことで、日本や韓国や中国ではやっているけれども、他の所ではあまりやらない、決して普遍的な食べ方ではない。一番多いのは手づかみですね。外の文化を見ることでそういうことがわかるわけです。

お客さま:
関野さんが以前モンゴルに行かれたいたときに、プージェーという少女に会われて本を書かれました。関野さんご自身も大変感銘を受けたと言われています。その後、弟さん、お祖母さんなど家族の方々と交流がありますか? 

関野さん:
プージェーについて簡単に説明しますと、モンゴルでは、遊牧民がゲル(中国ではパオ)というテントで生活しています。そこに泊めてもらおうと思って、お祖父ちゃんお祖母ちゃんがいて、お父さんお母さんがいて、子どもが多い典型的な家族を探したのですが、なかなか見つからなかったときに、プージェーという6歳の、本当は7歳の少女が自分の10倍以上もある馬に乗って牛を追いかけている姿を見ました。とてもカッコよかったので写真を撮ったら、僕が牛の道をふさいでしまっていて、彼女に「あっちへ行って!」と怒鳴られました。それがたまらなくカッコよく見えて、彼女の家に泊めてもらうことになりました。最初彼女は学校の先生になりたいと言っていたのですが、途中から通訳になって日本に行きたいと言い出しました。ところがその後、交通事故で亡くなってしまいます。当時2歳の従弟がいたのですが、その家族と僕はいまだに付き合っています。2歳だった子が18才になって、今年度、ウランバートルの国立大学の経済学部に入って、モンゴルの経済発展のために尽くしたいと言って、逞しく成長しています。お祖母ちゃんも85歳になって、血圧は高いですが、元気で生きています。

お客さま:
教育に大変興味があります。良い教育と悪い教育があると思いますが、今の地球でどういった教育がどういった人たちに必要だと関野さんは思われますか? 

関野さん:
文化によって違うと思います。日本では計算ぐらいできないといけないし、漢字も含めて読み書きができないといけないですね。小中学校は無理矢理でも教え込まないといけないと思います。問題なのは高等教育ですね。高校までは正解があります。教科書や学校の先生が言っているのが正解で、それ以外は間違い。大学受験には正解があって、それに合わせないといけないわけです。でも大学に入ったら、自分で問いを作って、自分で解答していくのが求められます。私は美大にいるのですが、美大は特殊な大学かもしれませんが、美大の学生もそれができません。自分の学科の課題で大変で、僕は文化人類学という、就職に全く役に立たない教科を教えているので、それに時間がかけられないということもありますが、大学院になってそれができるかというと、できないのですね。今の子は与えられたことはそつなくやるけれども、自分で問題を作って答えるのは苦手です、答えはいくつもあるはずです。アプローチもいくつかあるので、それをやっていかなければならないと思います。航海したけれども後悔しなかったあの2人は、そういう力を養ったのです。何が起こるかわからない時に自分で判断しなければならない場面が多いのです。そういう力を養うのが一番大切だと思います。
もう一つはものを学ぶ時に二つの考え方があります。自分のスキル、知識を豊富にするために勉強するのもありますが、教育したらこの人は社会の役に立つのではないかと国が税金を使って教育をするわけです。僕が医学部に入りなおしたのも、そういう負い目があったからです。旅ばっかりして遊んでるだけじゃないかと。早く卒業して就職しろよ、とかいろいろな人に言われて、医者になったらもしかしたら役に立つかもしれないと思いました。病院のないところで医者になったら役に立つのではないかと思って医者になり、病院勤めもしましたが、世の中の役に立っているかどうかわかりません。学生たちが求めているのは、自分が社会のために役に立つ人材になろうというよりは、良いところに就職したいという人が多くて、それが少し間違っているのではないかと思います。

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答えがあって、それをそつなくこなすというのではなくて、答えはいくつもあるという認識がこれから特に重要です。これからどうなるかわからない。特に今、格差が広がっています。持てる人たちはよいですが、持てない人たちはどうすればよいか。持てる人たちの言うことを素直に聞く必要はないと思うのですね。格差は是正するべきだし、そのためにどうしたらよいかということです。僕がさっき、当たり前のことが大切だと言ったのは、そういうことです。たくさん持てる人は、たくさんものを抱え込んで、空気なんか汚れてもよい、大気なんか汚れてもよい、水が汚れてもよい、経済優先だと思っています。早く結論を出したいから、好きなことを言わせない社会を作ろうとします。でもそれを防ぐのは私たちです。その能力を養っていくのが教育の役目だと思います。

フェリシモ:
大学で教鞭をとられていますが、変わった授業内容だと聞きました。豚の丸焼きを…

関野さん:
それは授業ではないのです。授業では文化人類学と人類史と演習をやっていますが、そのほかに課外講座や課外ゼミをやっています。課外ゼミではいろいろなところに行っています。アイヌの所に連れて行って、民具を縦、横、正面から寸法を測って、実測図を作ります。これは絵が描けなくてもできます。デッサンだと、素材がわかっても百年後に再現できないのですが、実測図だと素材があれば同じものが再現できるのです。
鷹匠やマタギのところに連れて行くこともあります。芝浦と場に連れて行ったりもします。普通、肉はスーパーのトレイの上に乗っているものしかわからないのですが、どうやって人が動物を屠っているのか、その人たちがどのように見られているのかをわかってもらいたいからです。
以前、たたら製鉄を学内でやったのですが、その後の学生はそれを経験したことがありません。「たたらをやってください」と言われるのですが、舟を作るわけでもないのにたたらだけをやっても仕方がないので、去年と一昨年はカレーライスを一から作るというのをやりました。皿を土器で作って、米や野菜やスパイスを栽培して、ビーフカレーを作りたかったら仔牛から飼えと言ったのですが、それは学内で無理なのでダチョウを飼い始めました。3匹飼ったのですが、3匹とも一ヵ月で死んでしまったので、ホロホロチョウを飼いました。塩も海へ行って作って、今年はホロホロチョウカレーを作りました。自分で工夫して一からやるという、食べているものを作るところまで遡ってみるとやはり大変な思いをして作っているのだとわかります。5割を超えているという残飯率も、4割に落ちている自給率も、食べ物を作る大変さをわかるとかなり防げると思います。
文化人類学などは実は教室で教えるものではないので、ときどき中継授業をやります。フィリピンや台湾で中継をしたときは良かったのですが、ギアナ高地ではギアナ高地の最高峰を登ろうと思って、世界一深い谷を入って行ったので、衛星が拾えなくて、声も聞こえなくて授業が大変でした。

お客さま:
先生が各地の先住民の方に医療を施しておられますね。医療をされた後、先住民の方々が心を開くのが早くなるということはありますか? 

関野さん:
それはあります。ところが文化を壊すなどいろいろな問題もあります。アマゾンだとシャーマンがいるのですが、シャーマンよりも薬の方が効いたら、シャーマンの権威が失墜するわけです。良かったのは、最初に来たのがシャーマンだったのです。幻覚剤を吸いすぎて頭が痛いと言ってきました。それで仲良くなれましたが、ライバル視されると困るのです。チベット医もそうでした。チベットでは坊さんが医者をしているので、対立するかと思いましたが、やはりチベット医が来るのですね。患者の方も、お腹が痛いと言って来るのですが、僕が診た後、僕の目の前で同じ症状をチベット医に訴えているのです。彼らにとって、チベット医か西洋人か、どちらでもよいのです。二重に、二人に診てもらった方が良く効くのではないかと。日本人も同じですよね。腰が痛いので整形外科へ行ったら効かないから、鍼灸へ行ったり整体へ行ったり、カイロプラクティックへ行って、ダメだったら拝んでもらうとか、効けば何でも良いのです。でもやっぱり距離は近づきます。

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Profile

関野 吉晴(せきの よしはる)さん<探検家・医師>

関野 吉晴(せきの よしはる)さん
<探検家・医師>
*プロフィールは、ご講演当時のものです。
1949年東京都墨田区生まれ。一橋大学在学中に同大探検部を創設し、'71年アマゾン全域踏査隊長としてアマゾン川全域を下る。その後25年間に32回、通算10年間以上にわたって、アマゾン川源流や中央アンデス、パタゴニア、アタカマ高地、ギアナ高地など、南米への旅を重ねる。その間、現地での医療の必要性を感じて、横浜市大医学部に入学。医師(外科)となって、武蔵野赤十字病院、多摩川総合病院などに勤務。その間も南米通いを続けた。'93年からは、アフリカに誕生した人類がユーラシア大陸を通ってアメリカ大陸にまで拡散していった約5万3千キロの行程を、自らの脚力と腕力だけをたよりに遡行する旅「グレートジャーニー」を始める。南米最南端ナバリーノ島をカヤックで出発して以来、足かけ10年の歳月をかけて、2002年2月10日タンザニア・ラエトリにゴールした。'04年7月からは「新グレートジャーニー 日本列島にやって来た人々」をスタート。シベリアを経由して稚内までの「北方ルート」、ヒマラヤからインドシナを経由して朝鮮半島から対馬までの「南方ルート」を終え、インドネシア・スラウェシ島から石垣島まで手作りの丸木舟による4700キロの航海「海のルート」を'11年6月13日に終了した。現在、武蔵野美術大学教授(文化人類学)。

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